第194話 案内ロボット re
建物の周囲には背の高い雑草がびっしりと生い茂り、
その扉の上には、かすれてほとんど読めなくなった黒い塗料で〈指定避難所・横浜第五十二核防護施設〉と日本語で書かれていた。何度もペンキで塗り重ねられたのか、文字の輪郭からはみ出した塗料がぼんやりと
日本語で書かれていた文字は、旧文明期の施設で見かける妙に角張ったフォントではなく、〈旧文明期以前〉から使われている普通の文字だった。とめ、はね、はらいが綺麗な文字から視線を離すと、イーサンのあとを追って建物の敷地に入っていく。
薄暗い建物に入った瞬間、環境が
さっと視線を動かして建物内の様子を確認する。視覚情報を補完してくれるマスクのおかげで、暗い屋内でも視界は確保されている。建物内は外から見て感じた印象よりもずっと広く、どこか奇妙な違和感を覚える。まるでウェンディゴの〈空間拡張〉されたコンテナ内にいるような、そんな不思議な気分がした。
建物の内部は用途不明のガラクタで乱雑としていたが、少し注意して見れば、意図的にその状況を作り出すためにガラクタが配置されていることが分かった。それは多くの廃墟を探索してきたからこそ分かることだった。生活感を作り出そうとした痕跡は建物の壁にも残されている。
窓ひとつない壁と天井は白い塗料で塗られていたが、くすんだ黄色や黒、その他の訳の分からない色の染みや水垢が壁の至るところにこびりついていた。旧文明期の技術で建てられた建築物がこれほど汚れているのは
建物に入るための扉が施錠されていないにも
小さな子どもにも理解できるように、可愛らしいキャラクターの絵で施設の説明が描かれている。避難所における生活環境の変化について記載されたポスターを眺めていると、カグヤの声が内耳に聞こえる。
『どうやらこの施設は、政府関係者や企業に勤める重役たちの家族を収容するための施設だったみたいだね』
「〈データベース〉に関する高い権限を持った人間が入る施設だったのか?」
『そうだね。人々を多く収容する目的で建てられた〈砂漠地帯〉の鳥籠〈
ポスターから視線を外すと、薄暗い建物の奥に目を向ける。
「カグヤ、建物内の索敵マップを表示してくれるか」
『できない』
「どうして?」
『ワヒーラの索敵能力を使っても屋内の情報は得られない。ウェンディゴのコンテナ内から外の状況が確認できないのと同じ状態だね』
「
私はそうつぶやくと、建物入り口の大扉に目を向ける。
すると戦闘用機械人形を操作するウミが、ワヒーラを連れて建物内に入ってくるのが見えた。
『やっぱりダメだね』とカグヤは言う。
『建物の内部から索敵を試みたけど、内部の空間に干渉できないようになってる。だからここではレーダーは役に立たない』
「でもカグヤの声も聞こえるし、遠隔操作で動くドローンも普通に動いている」
『施設の〈データベース〉を介して、直接通信が行えるようになってるみたい』
施設の本来の目的を考えてみれば、それは当然のことに思えた。
「なら、施設が生きているのは本当なんだな」
『けど施設から私たちに対してのリアクションは今のところ何もない』
『レイ』と、イーサンの声が内耳に聞こえる。
『こっちに来てくれ』
「すぐに行く」
そう答えると、ひっそりと静まり返った建物の奥に向かった。
ガラクタの間を歩いて石材が
イーサンとエレノアは薬局の大きな看板の近くに立っていた。
「何か見つけたのか?」
「情報が正しければ、この辺りに地下に続くエレベーターがあるはずだ」
彼はそう言うと、手に持った端末を操作した。するとタクティカルゴーグルのレンズに何かの情報が投射されて、暗闇の中にイーサンの顔の輪郭が浮かび上がる。
「エレベーター……」
ひとりつぶやきながら鉄屑の間を歩く。
「ウミも探すのを手伝ってくれないか」
『ワヒーラはどうしますか?』
ゴミとガラクタで
「どこか物陰にでも隠して待機させてくれないか? 迷彩を起動していれば、何かあっても敵に見つかる心配はないと思う」
『承知しました』
〈環境追従型迷彩〉を起動したワヒーラを上階に待機させると、ウミはゆっくり階段を下りてきた。
『この場所は物資を運ぶためのエレベーターとして使われていたのですね』と彼女は言う。
「物資を?」と私は首をかしげる。それからハッとして室内を見渡す。
「もしかして、この部屋全体がエレベーターなのか?」
『そのようですね。施設に多くの人間を同時に収容する必要があったのですから、エレベーターもこのように多くの人間を乗せるように作られる必要があったのでしょう』
ウミは機械人形のつま先で軽く床を叩く。すると簡単に削れた石材の下に金属製の床が見えた。どうやら床も
『それなら』と、カグヤが言う。『エレベーターを起動するためのスイッチを探そう』
「接触接続で起動できないのか?」
タクティカルグローブに手をかけながら
『無理だと思うけど、やってみよう』
その場にしゃがみ込むと、ウミが削った石材の破片を払って、ひんやりした旧文明期特有の鋼材に触れた。
『待ってね』カグヤはそう言うと、接続を試みる。
『……うん、ダメだね。侵入のための取っ
「やっぱりダメか」
立ち上がるとガラクタの間を歩いて壁の近くに向かう。
『怪我をしないように注意してください』と、邪魔なガラクタを
「ありがとう、ウミ」
彼女と協力してヴィードルのフレームや、先が
のっぺりとした壁は汚れていたが、配線や照明の
「レイ」と、イーサンの声が聞こえる。
ガラクタやゴミを
「この機体を見てくれ」イーサンが小型の機械人形を
「こいつだけ妙に状態がいいと思わないか?」
『本当だ』と、カグヤが反応する。
『えっと……自律式走行案内ロボットだね。多言語対話型の優秀なソフトウェアを搭載しているみたいだから、言語を翻訳するチップの質が悪くても丁寧に接待してくれた』
「言語を翻訳?」
『言葉を同時通訳してくれるインプラントのことだよ』
腰にも届かないずんぐりとした小さな案内ロボットは、白を基調とした青色のラインが入った外装で保護されていた。頭部には案内図を表示して、ロボットに親しみを持ってもらうために表情を表示するディスプレイが取り付けられていた。その案内ロボットはイーサンが言うように、周囲に積まれたガラクタと異なり傷ひとつない綺麗な状態で放置されていた。
「カグヤ、この機械人形に接続できるか?」
『うん。やってみる』
一瞬の間のあと、案内ロボットの頭部ディスプレイにアニメ調にデフォルメされた猫の頭部が表示される。
■
『やぁ』と、その猫は言う。
『久しぶりだね、レイ』
猫の声が聞こえた瞬間、私は驚いて
『気をつけて、ここはひどく散らかっています』
「……ありがとう」
私は素直に感謝して、それから周囲に視線を向けてその状況に驚く。
まるで時が止まったかのように誰も動かなかった。イーサンもエレノアも動きを止め、ウミの機械人形もまったく動こうとしなかった。
「どうなっているんだ?」と、困惑して声が出る。
『時間に対する感覚にちょっとした細工をしました。つまり体感速度を変化させました。さすがに私でも時間を止めることはできませんからね』
「感覚に細工……」
『あれ? 意外と冷静なんですね。もっと
案内ロボットはそう言うと、両手を上げて驚いたフリをした。
「キティなんだろ?」と私は
『そうです。よく分かりましたね』ディスプレイに表示されている猫が可愛らしく笑う。
「俺の知り合いでこんなことが簡単にできるのは、キティくらいだからな」
『それもそうですね』と彼女はクスクスと笑う。
それは異界の図書館で耳にした無邪気で機嫌のいい笑い声だった。
「それで」と、
「キティはここで何をしているんだ?」
キティが操る案内ロボットは、蛇腹形状のゴムチューブに保護された腕を動かして、太い胴体に手をあててみせる。
『レイに警告しに来ました』
「何か危険が迫っているのか?」
嫌な気配を感じて振り返ると、石材の階段に視線を向ける。
『いいえ、ここにはまだ何も。ですがレイは
「地下に何かあるのか?」
『はい』そう言って案内ロボットは脚の代りについていた車輪でくるくると回った。
『核防護施設の地下深くに、異界の領域につながる〈空間の
「もしかして施設全体が〈混沌の領域〉に侵食されたのか?」
『全体ではありません。地下の限られた場所だけです。いいですか、それは地上で暮らす鳥籠の元住人すら知らない場所で起きていることなのです』
「どうしてキティはそれを知っているんだ?」と、私は落ち着きのないキティの操るロボットを捕まえながら言う。
『この施設を最初に利用した人間たちの中に、私の知り合いがいましたから、です!』
「旧文明の人間……それは不死の人々だな」
『そうです』と、腕の中のキティが言う。
『面白い女性がいました。彼女は独学で私たちの〈図書館〉について学びました。そしてあるとき、ついに私をこの地に召喚して見せたのです! あぁ、彼女はとてもすばらしい知識の持ち主でした」
「でした? キティを召喚した女性はどうなったんだ?」
『そうですね……。あなたたちの言葉で言えば、魂を失ってしまいました』
「魂を……? もしかして召喚の代償に?」
『まさか!』とキティは愛らしく笑う。
『私は召喚に代償を望むような悪魔ではないのです! それに、そんなことが起きるのは物語のなかだけのことですよ。なにかを得るために代償を支払う必要は、そもそもないのですから』
「そうだったな……」
『私の出現と同時に開いてしまった〈混沌の領域〉に、彼女は魂を捕らわれてしまいました』
「残念だ」
『死んでしまったことが残念? 肉体のことですか? 彼女の
キティはクスクスと笑うと、私の腕を払い除けてウミの近くにいく。
「旧文明の人間は混沌の侵食に対処したのか?」
『ええ、しましたよ。ですから領域は施設全体ではなく、施設の一部だけに止まっているのです!』
「その危険な区画に近づかなければ、厄介な状況にならないんだな?」
『しかしあなたは危険に飛び込むことになります。そう言ったじゃないですか』
「その区画に俺たちの求めているモノがあるのか?」
『彼が所有している施設の警備システムを騙すために使用するマルウェアは、施設の中枢にある端末だけで機能します。そしてそこにたどり着くには、問題の区画を通ることになります』
「困ったな……」と、思わず他人事のように言う。
『そうですね』とキティは残念そうに言う。
『人間というモノは問題に直面しなければ、ことの重大さに気づきません』
「その場所を迂回することはできないのか?」
『残念ながら他に道はありません。ですか、あなたたちが施設の奥深くに行かなくても問題を解決できるための手助けをすることはできます』
「その為にキティは会いに来てくれたのか?」と彼女に
『もちろんです! 私はレイのことが大好きですからね』
「大好き……?」
『あっ! 勘違いしないでください、もちろんプラトニックな愛情ですよ。そもそも私には生殖を行うための器官はありませんからね。レイの欲望を満たす行為はできないのですよ』
「はい?」と私は困惑する。
『けどそうですね、一度人間になって性交渉を経験してもいいのかもしれません。知識としては何をするのかは知っていますよ。でも実際に経験するのとでは大違いですからね。レイはどのような女性が好みですか? 肉体生成のさいに参考にしましょう。やっぱりエレノアのように美しい女性が好みでしょうか?』
「待ってくれ」と私は頭を振る。
「今は、施設について教えてもらえないか?」
『そうでしたね。今は施設の問題が優先です。それで、何が知りたいのですか?』
「キティが俺たちにしてくれる手助けについて
『施設の端末に接続するさいに必要になる高い権限を与えます。この施設だけで通用する権限ですが、これで地下深く、〈混沌の領域〉に近づく必要はなくなります。でも、もちろんある程度の深度まで潜る覚悟はしていてくださいね、この施設は広大ですから』
「その権限は――」
『私を召喚した〝例の〟女性が保有していた権限でした』
「そうか……ありがとう。俺もキティに何かしてあげたいんだけど、この状況じゃ何も思いつかない」
『気にしないでください、私が好きでやっていることですから』
キティは幼い子どものように、落ち着きなく私の周りをくるくると走行すると、最初にいた場所に戻った。
『それとこの端末を受け取ってください』と、キティは
私は見覚えのあるキューブ状の情報端末を受け取る。
「どこでこれを?」
『〈砂漠地帯〉でレイが見つけた端末です。ペパーミントの作業場から
「ペパーミントも大変だな」と私は苦笑する。
「それで、この端末は何に使うんだ?」
『その時がきたら、
キティは威厳のある口調で言う。
「そうか……でもこんな偶然もあるんだな」
手の中で形状を変化させた端末を見ながら言う。
『偶然?』
ディスプレイに表示された猫が
「砂漠地帯で拾ったモノが、こんな風に活用できるとは思っていなかったから」
『偶然ではありません。すべての物事が
「それが起きたのはキティのおかげなのか?」
『違います』とキティは笑う。
『しかし――』
そこまで言うとキティは黙り込む。
「どうしたんだ?」
『邪悪なモノたちが私たちの存在に気がついたみたいです』
「邪悪なモノ? 混沌の化け物のことか?」
『もっと
不意に足下から熱を感じた。視線を向けると、床を透かして巨大な肉塊が地の底に横たわっているのが見えた。気色悪い無数の
『安心してください。私がいる限り、レイに手出しさせません』
「あれは……?」
『地底の深い闇のなかで眠りながら、〈混沌の領域〉からやってくる憎しみや怒りを
「あれが俺たちの存在を感じ取っているのか?」
機械人形のディスプレイが
『あれは腹を
足下から
『それでは、私はそろそろ失礼します。次に会うのをとても楽しみに待っています』
「また会えるのか?」
『もちろん。私たちが望みさえすれば、世界はその姿を変えるのですから』と、キティは笑顔を見せた。
『また会うその日まで、しばしの消失を……』
■
『レイ?』とカグヤの声が聞こえる。
「うん?」
『ぼうっとしてたけど、大丈夫?』
顔を上げると、不思議そうな表情で私を見つめるイーサンとエレノアを視界に入れた。二人とも普通に呼吸して
「大丈夫だ」と、私は手の中の端末を握る。
「それより、案内ロボットに接続できたのか?」
『うん。案内ロボットを介してエレベーターの電源も入れられた』
カグヤの言葉のあと、エレベーターが静かに動き出した。
私は地の底から感じていた気配に注意を向けるが、そこにはすでに何もなかった。
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