第93話 大蛇 re
不気味な荒野のずっと先で砂煙が立ち昇るのが見えた。ガスマスクの機能を使って、フェイスシールドに表示されていた映像を拡大表示した。すると砂煙の向こうに、巨人としか表現のしようがない二十メートルほどの体高を持つ生物の姿が見えた。
それは
視線を動かすと、青白い月の光に照らされた墨色の石像に注目した。
それは巨大なワーム型生物が、地中から出現した際の様子を
それはいつか見た怪獣じみたハクの母親である〈深淵の母〉に酷似していて、腹部にある斑模様も忠実に再現されていた。
ガスマスクの機能を使って、それらの石像の姿を画像ファイルにして保存していった。どうしてそんなことをしているのかは分からなかったが、無性に記録に残したくなった。それに石像のモデルになった生物について、拠点にいる〈ハカセ〉なら何か知っている可能性がある。
ハカセは〈ノイル・ノ・エスミ〉と呼ばれる〈無限階段〉を通って、〈混沌の領域〉を探索したことがあるのだ。ハカセから何か情報が得られることを期待しながら、私は黙々と石像の姿を保存していった。
それから周辺一帯で最も大きくて、奇妙な石像に視線を向けた。
頭部の中央からは、複数の触手が空に向かって伸びていた。背中にはコウモリの翼にも似た巨大な器官がついていて、その翼を広げている瞬間を
石像の全体を細かく保存できるように、ガスマスクの操作を行う。石像の表面を拡大表示したときだった。石像に
その生物は基本的にケムシに似ていた。毒々しい青紫色の
生物には口のようなものが複数存在していて、背中から伸びる長い黒髪にも見える体毛を使って石像の表面を移動していた。それは三メートルほどの体長があり、目に映る範囲だけでも数百体ほど確認できた。
異様な光景に
そして奇妙な化け物が、嵐のような通り雨と共にやってきた。
稲妻が周囲を
そして雨が通り過ぎるのとほぼ同時に、羽音を立てていたモノが、私とハクのすぐ側に着地した。
それはハエに似た化け物だった。頭部のほとんどを占める巨大な複眼、見る角度によって色が変わる構造色の外骨格に覆われていて、広げた
前傾姿勢だった化け物の膨れた腹部には、鋭い体毛がビッシリと生えていて、ギザギザの突起物がツノのように突き出しているのが見えた。
しかしそれは厳密に言えばハエの変異体ではなかった。
その生物は軽自動車ほどの体長があり、バッタの後脚にも似た湾曲した二本の脚で立っていたが、胸部からも短い脚が数本伸びていて、それらには人間の指にも似た黒い器官が十数本生えているモノもあれば、甲殻類のハサミのようなモノがついた脚も存在した。
口元にはスズメハチのような強靭な大顎を持っていて、その奥に鋭い牙が生えているのが確認できた。
ハエに似た
なにか見てはいけないものを目にしているような、そんな不思議な感覚に頭が支配される。この旅で多くの混沌の化け物を見てきた。しかしこのハエに似た化け物は、まるで恐怖そのものを背負って我々の前にあらわれたような、そんな気分にさせるほど恐ろしい存在だった。
化け物は私とハクをしばし見つめると、複数ある脚のなかで、最も太く強靭な漆黒色の湾曲した脚を使ってゆっくり
『きけん』
ハクはそう言うと、
しばらくの静寂のあと、白蜘蛛のハクが言う。
『すこし、やりすぎ』
「……そうだな」と、私は自分自身の心臓の鼓動を聞きながら言った。
ハエの化け物は死んでいたが、それでも恐怖の残り香が辺りに漂っているような気がした。
込み上げてくる吐き気にうんざりしながら、月の光に染まる青白い空に視線を向けた。
『たくさん、くる』
ハクはそう言いながら、長い脚で空を
遠雷で瞬く空の向こうに不吉な影が見えた。
私は足元に転がる化け物の死骸に視線を向けて、すぐにハクに視線を戻した。
「これ以上この場所にはいられない。すぐに移動しよう」
『いっしょ、いく』
ハクは幼い声でそう言うと、長い脚を伸ばして私を抱きかかえる。
「ありがとう、ハク」
ゴワゴワした体毛に覆われたハクの脚にしっかり腕を回すと、怪我していない手でハンドガンを握る。
『じゅんび、いい?』
「ああ、行こう」
ハクは勢いをつけるために
地面に向かって落下しながら、嫌な羽音が聞こえてくる方角に視線を向ける。するとこちらに真直ぐ向かってくるハエの化け物の黒い
化け物は石像の上に残された仲間の死骸に
穴の底では今も〈混沌の追跡者〉たちと、彼らが〈秩序の守護者〉と呼ぶ美しい女性が激しい戦闘を続けているはずだった。
風の音を聞きながら落下して、あっという間に洞窟内に到達すると、ハクは壁に向かって糸を吐き出して
ハクから解放されると天井の穴を仰ぎ見た。化け物の
『混沌を引き連れて戻って来たか、深淵の使い手!』
女性はそう言うと、ハエの化け物の
しかし、ハエの化け物の
「戻ったか、人間!」
〈混沌の追跡者〉のひとりが薄闇の中からあらわれた。彼は恐らく追跡者たちの
目を細めて〈混沌の追跡者〉を見つめた。しかし彼からは敵意を示す赤紫色の
「まだ生きていたのか、もう誰も残っていないと思っていたよ」
私の軽口に彼は鼻を鳴らした。
「ずいぶんとやられたよ。我らの部族もこれでお
「部族か……」
追跡者の背後に視線を向けた。そこには闇の中にひっそりと
「守護者を石に変えた魔法はもう使えないのか?」
追跡者の言葉に私は頭を振った。
「あれは魔法じゃない。それに、彼女にあの攻撃はもう通用しないだろうな」
「為す術がないのか……」
「もう諦めるのか? こんなところまで俺とハクを追いかけてきた連中が言うことじゃないな」
「それは――」と、追跡者の長は反論しようとしたがすぐに口を閉じた。少しの沈黙があって、それからハエの化け物が殺されていく様子を見ながら彼は言った。
「それは、混沌の意思が影響していたからだろう。我らが己の意思で考えて、行動を選択できたのなら、世界の果てまでやってくることはなかっただろう」
「今なら混沌に影響されずに、自分たちの意思でしっかりと考えて動くことはできるのか?」
「ああ。何か策があるのか?」
「試したいことがある。協力する気はあるか?」
追跡者の長は背後を振り返ると、〈秩序の守護者〉との激しい戦闘で傷つき疲れ果てた部族の生き残りを見つめた。
「生き残る算段があるのだな?」
族長の言葉に私はうなずく。
「ある。諦めない限り、希望は見つけられるはずだ」
「親父。俺たちはやるべきだ」
追跡者の一体が闇の中からヌッと踏み出して、そう言った。
族長はじっと黙っていたが、やがて息を吐いた。
「どうすればいい、人間よ」
気落ちしていた族長は覚悟を決めたのか、彼の声に力強さが戻っていた。
「時間を稼いでくれるか? あのハエの化け物はもう持たないだろう」
「分かった。それで部族が助かるのなら――」
「嘘だ!」と、追跡者の集団の中から声がした。老人のように声がしわがれていたが、恐らく女性の声だった。
「〈深淵の使い手〉は我々を使い潰すつもりだ。見ろ! あのハエの化け物を! 我々も簡単に皆殺しにされる」
「オンミ・ノ・ソオ、黙れ! 親父の言葉に逆らうのか!」
別の追跡者が反論したが、彼女は言葉を続けた。
「逆らうつもりはない! しかし私は死にたくはない!」
「死なないように
「何だと!」と、追跡者は私に
薄汚い布で顔のほとんどが隠れていて表情は見えなかったが、激しい憎悪に顔が歪んでいたことだろう。
「俺たちの間には不幸な行き違いがあったけど、今は生き残るために協力しないか?」
「〈深淵の使い手〉が裏切らないと、どうやって信じろと言うんだ」
「俺にはどうすることもできない。ただ成すべきことをするだけだ」
私はそう言うと、追跡者たちに背中を見せながら歩き出した。彼らが協力しても、しなくても、状況は変わらないだろう。でもとにかく何かをしなければ、その先に待っているのは死だけだ。そして俺はこんな場所で死ぬ気はなかった。だから
「人間! 時間は俺たちが稼ぐ」
私は振り向くことなく手をあげて族長に答えると、ハクの側に向かった。
「ハク、ついてきてくれ」
『ん』
白蜘蛛はトコトコとついて来る。
「ハクは最後の砦だ。俺の
『ハク、とりで、ちがう。ハクだよ』
「そうだな。ハクはハクだ」
ハクを撫でると、大蛇の死骸が横たわっている場所に向かった。
〈秩序の守護者〉に視線を向けると、人間ほどの身長になっていた美しい女性が、自分自身の背丈と変わらないほど巨大な剣を軽々と使いこなし、
彼女の
それは目の前に横たわる巨大なヘビの牙だった。牙による一撃に効果がなかったと考えていたが、牙は石像に突き刺さったまま残され、我々と敵対するそのときまで石像の動きを完全に止めていた。
敵対するものを排除したから動きを止めていたと考えていたが、おそらくそれだけが理由ではなかったのだろう。
〈混沌の追跡者〉たちは〈秩序の守護者〉が眠っていると言っていた。ならば巨大なヘビの牙には、石像の動きを封じ込められるような、あるいは眠らせることのできる〝毒〟があったと考えてもおかしくない。
それは私の願望なのかもしれない。しかしそれ以外に守護者を止められるモノは存在しない。
〈反重力弾〉を撃ち込んだときに地面につくられた窪みに視線を向ける。石像に突き刺さっていた牙は、彼女を圧殺しようと試みたときに、一緒に潰されてなくなっていた。しかし牙は毒を注入するために存在しているだけだ。
巨大なヘビの死骸に視線を向けた。大蛇の死骸は半ば白骨化していたが、毒腺や内臓の
大蛇に近づくと、
しかしそれは予想通りだった。私はハンドガンをホルスターに収めると、腰に差した長剣を引き抜いた。刀身は月の光を受けて輝いていた。それは不思議な剣だった。今まで何度も化け物の
刀身を見つめていると、〈混沌の追跡者〉と〈秩序の守護者〉の間で激しい戦闘が始まる。
追跡者の生き残りは精鋭だったが、守護者の攻撃を防ぐことしかできていなかった。けれどそれも時間の問題だろう。彼女が疲れを
私は手のひらで刀身を撫でる。その姿形は何の変哲もないロングソードだ。
しかし私はこの剣が、ただの剣ではないことを知っている。
我々が旅した〈混沌の領域〉は、人の欲望を叶える世界だった。
私は青年の装備を
この長剣を見つけたのは、彼の装備について
私の考えはこじつけなのかもしれない。しかし
願い続けろと、俺たちの出会いには意味があったのだと。それならば、あの領域で起きたすべての出来事には意味があるはずだ。そしてこの剣が私の願いを具現化したモノならば、それは私の目の前に立ちはだかる困難を乗り越えるために、私だけに与えられた力そのものなのだ。
息を吐き出すと、骨折した腕の痛みを我慢しながら、その剣を両手で握った。
「お前の真価を俺に示してくれ」
私はそう言うと、大蛇の骨に剣を突き刺した。
まるで熱した鉄棒を降り積もった雪に差し込むかのように、
月の光に剣が瞬くと、骨に突き刺さっていた刀身に向かって巨大なヘビの亡骸が吸い込まれるようにして取り込まれていくのが見えた。やがて月光さえも取り込んだかのように刀身が輝き出すと、その輝きは
『――を検出しました。――所属、レイラ――の――に〈九〇パーセント〉の――を確認、治癒、及び修復を――ます』
内耳に響く合成音声は、いつか旧文明期の柱から鋼材を体内に取り込んだときに聞こえた警告メッセージに似ていた。インターフェースの表示がおかしくなっている
大蛇の死骸を取り込んでいると、自分でもよく分からない全能感に支配されていくのを感じた。その全能感と共に
そして大蛇の骨や肉、そして内臓や
記憶だ。私は大蛇の記憶を垣間見たのだ。
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