第88話 消失 re


 予期していなかった混沌の化け物による襲撃のあと、我々は太い触手を動かして本棚の間をスルスル進んでいくキティのあとに黙ってついていった。天井を透かして見えていた雲間から光が差すと、図書館にいくつもの光芒こうぼうができるのが見えた。それは幻想的で奇妙な風景だった。そんな風景のなかに、キティは違和感なく溶け込んでいた。


 不思議なことに、キティの残酷な一面を見たあとも、私がキティにいだく印象は当初抱いていたものとそれほど変わらなかった。キティの可愛らしい容姿がそうさせているのか、それともこの世界に存在する何かが精神に作用している所為せいなのかは分からなかった。


 そもそも可愛らしい猫の頭部に、無数の触手を持つキティの異様な姿が愛らしいと思っている時点で、すでに精神がおかしくなっているのかもしれない。


 網膜に映し出されるインターフェースは、相変わらずまともに機能していなかった。ノイズや文字化けが目立ち、表示がおかしかった。だから私はキティが北に向かっているのか、それとも南に向かっているのかも分からなかった。とにかく我々は、長机が並ぶ区画を右手に見ながら本棚が並ぶ通路を進んでいた。


 通路の途中で左に曲がり、水銀の川が流れる広間を離れ本棚の間に入ると、右に曲がり同じような光景が視線の先に延々と続く通路に出た。それから同じようなことが何度か繰り返されて、私はもはや自分が立っている場所すら分からなくなっていた。


 けれど自分自身の居場所や、迷子になっているのかもしれないといったことは考えるだけ無駄なのかもしれない。なぜなら、この奇妙な図書館に入ってきたときに使った扉さえ、すでに見失ってしまっていたのだから。


 子猫特有の可愛らしい後頭部から、ちょこんと伸びるキティの耳を眺めていると、時々、本棚が並ぶ通路に何かの影がふと見えた。ある大きな影は、本棚の間をのっそりと歩いていて、また樹木じゅもくのように細長い影は、枝にも似た細い腕を使って、脇目も振らずに本を読んでいた。


 それはうっすらと半透明で、その存在さえ疑わしかった。あるいは迷路のように続く図書館が見せた幻なのかもしれない。


 そんなことをつらつらと考えながら歩いていると、私の前方を歩いていたキティが、太い触手で器用に口元を隠しながらクスクスと笑う。


『それは幻じゃないですよ』

 キティの言葉に私は疑問を抱いた。

「彼らもこの領域に存在する何か魔法のような存在なのですか?」

『いいえ、彼らもあなたたちと同じ訪問者ですよ。その存在を完全な形で認識できないのは、その必要がないからなのです』


「認識する必要がない……ですか?」と、私は首をかしげた。

『この領域にやって来るモノたちの望みは知識を得ることです』

「ここでは、それ以外の要素が排除される?」

『そうです』と、キティはうなずいた。『たとえばこうしましょう』


 キティが太い触手で床を叩く。

 鈍い打撃音が聞こえた途端とたん、周囲から雑音が聞こえるようになった。それは咳払いや、くしゃみ、獣が発するささやき声やうなり声、果ては見知らぬ言語で怒鳴り散らす騒がしい声まで聞こえた。


 それから本の背で机を叩く音や、イスの足で床をこする際に立てる不快な音、そういったありとあらゆる雑音が図書館の至るところからいっせいに聞こえるようになった。

「認識していなかっただけで、図書館には俺たち以外の誰かがずっといたのですか」

 私は事実に気がついて驚愕する。


 そのとき、ちょうど我々が歩いていた通りに不思議な生物がいることに気がついた。それは小人のように小柄で、人間のように二本の足で直立歩行していた。小人はその小柄な体格に不釣り合いな大きくて奇形の黒い頭部を持ち、身体からだ全体が黒い突起物に覆われていて、どこかモグラを思わせる姿をしていた。


 その奇妙な生物は、本棚の上をトコトコと移動していた白蜘蛛のハクを見て、しばらく身体からだを強張らせていたかと思うと、くぐもった声で悲鳴をあげ、どこかに走って行ってしまった。


『つまり、こういうことだったのです』と、キティは可愛らしい顔で言った。

 我々の会話を黙って聞いていた青年が言った。

「知識を得るために邪魔になるような要素は、図書館の意思によって認識から排除される。だから他種族との予期せぬ遭遇そうぐうもなくなるのか」


『そういうことです。他にもあなたたち人間が必要とする睡眠や排泄、果ては代謝までもがこの空間では、ある程度ですか、制限されます』

「……本当にそんなことが実現できるのか?」


『お腹は空いていますか? 水分はどうでしょうか、図書館に来てから水を飲みましたか?』

 キティはそう言うと青年に顔を近づけた。

『あなたたちがこの領域に入ってから、どれほどの時が経ったのか分かりますか? 数日間、本棚の間を彷徨さまよっていたことには気がついていましたか?』


 キティの言葉に私はゾッとして頭を振った。

「生理現象がない所為せいで、時間の感覚すら麻痺していたのか……?」

『原因は他にもあるのでしょう。しかし時間の感覚が麻痺していたのは事実です』

 それだけじゃない。〈混沌の追跡者〉たちの死体が消えたことも、この領域の特性が関係しているのかもしれない。


「知識を得る際の妨げになるものは排除される……」と、青年はキティに言った。「それなら、なんで俺たちは化け物の襲撃にったんだ?」

『あれは必要な襲撃だったのでしょう。その証拠に図書館は新たな知識を収蔵しゅうぞうすることができました』

「すべてに意味があるって言うのか……」

『ええ。この領域では偶然なんてモノは存在しません』


「化け物どもの死体はどうなったんだ?」と、青年は気になっていたことをいた。「もしかして、この領域が存続するための燃料にでもされたのか」

「領域が存在し続けるために、代価が必要なのですか?」と、私も疑問を口にした。

「等価交換は世の原則だろ」と青年はぶっきらぼうに言う。


『いいえ、そのようなモノは存在しません。それはあなたたちの世界の決まりごとです。ここでは違います。この領域では望みさえすれば、いくらでも知識を得られます。あなたたちは何も差し出さなくてもいいのです。図書館は知識を得るための時間すらも与えてくれます』


「そんなことが、本当にありえるのですか?」

『どうして何かを得るために、何かを差し出さなければいけないのでしょうか?』

「なぜ?」

『そうです。なぜですか?』

「……分からない」と、私は正直に言う。


「なら死体はどうなったんだ」と青年がたずねる。

『図書館に必要のないモノは消失します』

 キティの言葉に私はただ頭を振った。理解することが困難だった。

 この領域は私の知る常識がいっさい通用しない場所なのだ。


 キティが太い触手しょくしゅでもう一度床を叩くと、先ほどまで騒がしかった図書館に静寂が戻った。私は周囲を見渡して、何者かの気配を感じ取ろうとしたけれど、もう何も感じられなくなっていた。


『さて』と、キティは言う。『〈セラエノの書物〉はこの棚に収められています』

 本棚に目を向けた。そこにあるのは周囲の本棚と同じモノで、特別なことはいっさい感じられなかった。けれど本棚に収まっている本は、すべて同じ背表紙を持つ真っ白な本だった。


「これ全部が〈セラエノの書物〉なのか?」と、青年は言う。

『そうです。あなたが求める知識を思い浮かべて、その中から必要な書物を探してみてください。きっとほしいものがすぐに見つかるはずです』

「ほしいものね……」


 青年は腕を組むと、本棚に並ぶ無数の本をじっと睨んだ。その間、彼のマントは意識を持っているかのように、ふわふわと宙を漂っていた。少しの間があって青年の瞳が発光すると、もやのようなモノが彼の瞳から漏れるのが見えた。

「こいつだ」

 青年は手を伸ばすと、一冊の本を本棚から引き抜いた。


 彼が手にしたのは、何の変哲もない普通の本だった。けれど青年がぺーじをめくると、文字が宙に浮き上がり、彼の周りで激しいうずを巻いた。それはやがて青年の額に流れ込んでいった。彼はそのことに気がついていないのか、あるいは素直に受け入れているのか、じっと立ち尽くしたまま開いた本を見つめていた。


 しばらくして青年が本を閉じると私はたずねた。

「終わったのか?」

「ああ、知りたかった情報はすべて得られた」

「ずいぶんと呆気なかったな」

「そうだな」青年は神妙な顔で言うと、本を棚に戻した。


「そいつはもう必要ないのか?」

「ほしかったものは頭の中にある」

 何かとても重要な情報が手に入ったのだろう。青年がまとっていた雰囲気に、わずかな変化が生まれたことに私は気がついた。そこには苛立ちや焦りといったものは存在しない。


「これからどうなるのでしょうか?」と、私はキティに質問した。

『心配せずとも、あなたたちは望んだ世界に帰れますよ』

「よかった。ずっと本棚の間を彷徨さまようことになるんじゃないかって心配していたんです」

 彼女は私の軽口にクスクス笑う。

『案内します。こちらへ』


 キティは我々を先導するべく通路に出た。しばらく進むと通路の先に扉が見えてきた。今まで存在していなかった扉だ。そもそも通路の先に壁が存在していることが驚きだった。もちろん壁があるのは当然のことなのだろう。

 しかし壁など存在しないと、そう錯覚さっかくさせるほどに図書館は広かったのだ。目の前に出現した扉を見ていると、なんだか急に図書館が狭くなったように感じられた。


 キティの触手しょくしゅの先が盛り上がり、手のような器官が形成されるとキティはそれを使って扉を開いた。扉の先には廊下が見えた。それは大理石調のタイルが床に敷かれた美しい廊下だ。我々はキティの横を通り過ぎて廊下に出た。

 振り向くと、何か例えようのない違和感を持った。


『忘れものですか?』と、キティが私に言う。

「いえ……」

 扉の先の空間が、音を立てて変化しているように感じられた。もちろん音なんてしない、そこは静かな図書館のままだった。しかし私には分かるのだ。それは何キロも遠くから聞こえる波の音のように、誰にも気づかれることなく、ひっそりと音を鳴らし続けている。


『図書館は変わり続けながらも、この領域に存在し続けます。ただあなたの居場所がなくなっただけのことなのです』と、キティは言う。

「居場所がなくなった……俺はもう図書館に入れないのでしょうか?」

『いいえ、あなたが必要としたときに扉はまた開かれるでしょう。ですが、それまでこの図書館は、あなたが認識できる世界から消失することになるでしょう』


「世界から消える?」

『そうです。認識できないのなら、存在しないのと同じなのですから』

 キティの背後に見えていた図書館に歪みが生じたような気がした。天井が床にあって、本棚が天井からぶら下がっていた。そして本棚の間を奇妙な粘液状の生物が徘徊しているのが見えた。


 私は頭を振るとキティに意識を向けた。

「ありがとう、キティ。あなたの助けがなければ、こんなに早く目的の本は見つけられなかったと思います」と、私は素直に感謝しながら言った。

『どういたしまして』


 深紅しんくの瞳を持つ青年も胸に手をあて、優雅にお辞儀をしてみせるとキティに感謝の気持ちを伝えた。キティは愛らしい顔でうなずくと、太い触手を振って別れの挨拶をした。そのキティの動きに驚いてハクは後退あとずさる。それを見ていたキティは思い出したように言った。


『あなたに贈り物を用意しました』

 キティは懐から一冊の本を取り出した。私はその本を受け取るとキティにたずねた。

「贈り物ですか?」

『代価でもあります。ほら、あなたたちにはそういう習慣があるのでしょ?』

 キティは揶揄からかうように笑ってみせた。


「そいつはなんの代価なんだ?」と、青年がく。

『あなたたちがこの領域に連れてきた〈混沌の追跡者〉から、私は新たな言語を知ることができた。その贈り物は図書館からの御礼でもあります』


「……ありがとう、キティ」と、私は感謝を口にしたあと本を開いた。

「これはなんの本なのでしょうか?」

『すぐにわかりますよ』


 小豆あずき色の革で丁寧に装丁された本のぺーじをめくると、日本語で書かれた文字が並んでいるのが見えた。それは小難しい心理学について書かれた学術書だったと思う。


 適当に本のぺーじをパラパラとめくっていると、ぺーじの隙間から文字が宙に散らばっていくのが見えた。それはゆらゆらと漂うと地面に落ちることなく、私の瞳に向かって飛んできた。目の奥に激しい痛みと熱を感じて私はまぶたを強く閉じた。


『面白い』と、キティは顔を私に寄せた。

『脳にではなく、ナノレイヤーに覆われた眼球に新たな能力が付与されたみたいですね』

「どうしてそのことを知っているのですか」と、私は驚きに声をあげた。

「いや、それより何が起きたんですか?」

 私の手元にあったはずの本は、もうどこにも存在していなかった。


『〈司書ししょ〉はたいていのことを知っているのですよ』と、キティはクスクスと笑う。

『いいですか? これからあなたは、瞳で捉えた相手の感情にすごく敏感になります』

「瞳に……ですか?」

『そうです。相手があなたに対して抱いている感情を、たとえば悪意や敵意などを視覚情報として認識できるようになったのです』


「どうしてそんなことが?」

『あなたがあまりにも周囲の状況を警戒していたので、図書館が気を利かせて特別な贈り物を用意してくれたのかもしれませんね。図書館の気紛きまぐれだと思ってください。その瞳がどのように機能するのかは、非常に興味がありますが、それはまたの機会にしましょう』


「また?」

 キティはこくりとうなずいて、それから言葉を続ける。

『それともうひとつ知りたいことがありましたよね?』


 キティは私に向かって触手を伸ばすと、関節の多い六本指で腰のベルトポケットを器用に探る。そしてその中から銀のチェーンネックレスを取り出した。チェーンの先には、小さな細長い筒がぶら下がっていた。


「それは――」

 そのアクセサリーは以前、廃墟の街で出会った〈不死の導き手〉の信者に手渡されたモノだった。

『これについて、知りたかったのでしょ?』


 キティの手には蜜柑色の筒がぶら下がっていた。彼女はもう一本の触手を懐に入れると、一冊の本を取り出した。

『ええと、〈第五紀〉の……中期あたりですね。……ええ、ありましたよ』

 キティはぺーじをめくっていた手を止めると、もう一本の触手に持っていた細長い筒を可愛らしい顔に近づけて眺めた。


『記憶装置部分には、あなたたちが旧文明期と呼んでいる時代の、重要な施設の場所が記録されています。あなたがいつでもその情報を確認できるように、セキュリティは解除しておきました。そしてこの端末は高い管理権限を有しています。あなたがその権限を自由に使用できるように設定を変更しておきます。これによって、あなたができることはずっと増えるはずです』


 キティから細長い筒を受け取ると、手のひらにのっていた装置を黙って眺めた。

「ありがとう、キティ」

『どういたしまして。ちなみに記憶端末は、拠点の警備室でも使用できますよ』

「どうしてそれが分かるのですか?」

『さっきも言いましたが、〈司書ししょ〉はたいていのことを知っているのですよ』

 キティはそう言うとクスクス笑った。


『では、また会うその日まで、しばしの消失しょうしつを』

 キティの姿が一瞬ブレたかと思うと、次の瞬間、私は完全な暗闇の中に立っていた。


 その空間は文字通り完全な暗闇に支配されていて、装置を握っていた自分自身の手さえ見えなかった。ハクを呼ぼうとして声が出せないことに気がつく。私は恐怖に身体からだを強張らせ、混乱したまま闇の中に立ち尽くしていた。やがて草原に吹く風の音が聞こえてくると、私は草原の只中ただなかに立っていることに気がついた。

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