第九話 犯人と私と……、事件解決。
いつものバス停で降りると、辺りは薄暗くなっていた。
気温もすっかり下がっていて寒かったけれど、急がなくちゃと走った。
妹の家に行くには、あの「お化け道」を通るしかない。
今の時間帯では幽霊が出そうだけれど、迷いはなかった。
並木道は薄暗く、人の気配はない。
こんなに静かになるんだと、辺りを見回しながら走っていると、曲がり角の一つから人が飛び出してきた。
思いきりぶつかって、お互い地面に倒れ込む。
先に起き上がった私は、倒れたままの相手が心配になって近づいた。
「大丈夫ですか。怪我はないですか」
相手は帽子をかぶった男性で、気の弱そうな人に見えた。
頭を打ったのか、後頭部に手を当てながらうめいていて、怪我をさせてしまったのだろうかと慌てた。
「起き上がれますか。頭を打ったんですか」
こんな時、どうすればいいんだろう。
わからず、ただ質問だけを繰り返していると、男性の足が何かを蹴った。
最初は布だ、と思ったけれど、蹴った瞬間に硬い金属の音がしたので、何か入っているのかと、拾い上げてみる。
しばらくすると、男性は痛みが引いたようで、謝りながら立ち上がった。
母のことが心配だったけれど、男性に救急車を呼びますかと聞くと、彼は心配ないと言って断った。
「あの、これを落としましたよ」
拾った物を渡すと、彼の表情が、一瞬、固まった気がした。
大事なものだったのかな、と思って謝ると、彼は気にしなくていいと、笑って許してくれた。
「それにしても、学生さんがこんな時間にどうしたの。この道を通るってことは、これから帰るとこ、なのかな」
「いえ、これから行かなければならない所があるんです。この道を通らないと行けないので、急いでいたところなんですよ」
「そうだったんだ。大変だね」
まさか人とぶつかるとは思っていなかったので、これからどうすればいいのか見当もつかない。
このまま彼を置いていくわけにもいかず、どうしようかと悩んでいると、男性は笑顔で顔を近づけてきた。
「……君は、一貫校の女子生徒だね。いいねえ、花の女子高生。きっと毎日が楽しいんだろうなあ」
「そんなこと、ないですよ。勉強もありますし、テストだって苦労しますし、人間関係だって……」
うつむいていた顔を上げて微笑もうとしたけれど、彼と目が合った瞬間に肩が跳ねた。
「でもさあ、学生が遅くまで出歩いてちゃダメだよ。不良になっちゃうからね」
彼の手が布の中に入り、ゆっくりと引き出される。
木の棒を握っている、と思った瞬間、一気に引き出された部分が、私に向かって振り下ろされた。
「
ニヤリと笑う顔に、最初の気弱さはない。
出刃包丁を手に、ゆっくりと近づいてくる男性は、私を見ながら唇を舐めた。
どうして、私が一貫校の生徒だとわかったの。
彼に合わせて、一歩一歩後ろに下がる。
視線だけで周りを確認していると、自分の服装に気がついた。
そういえば、父の一件で一人になりたくなくて、着替えていなかったんだ。
名越警部の言っっていたことが本当なら、もしかすると彼も、ボタンの模様でわかったのかもしれない。
近づいてくる男は、月明かりにきらめく刃を私に向けて、嫌な笑みを浮かべている。
「ラッキーだなあ。地元で有名な学校の女子生徒が、僕の前に現れてくれるなんて。学生になんて近づけなかったから、本当にラッキーだよ」
男は知っているのだ。
私がどこに通っているのかを。
恐怖を覚え、逃げようと走り出したけれど、足がもつれて転んでしまった。
立ち上がろうにも、足が言うことを聞かず、這うように逃げようとしてみる。
けれど、すぐに追いつかれてしまい、背中を踏まれて小さくうめいた。
「僕はね、君みたいな不良が大嫌いなんだよ。若いから何でも許される? 子供は犯罪者に出来ない? そんなわけないだろ! そんなだから傷つく人がいるんじゃないか! だからね、僕が他の奴らに変わって罰を与えようと思ったんだ。君で二人目なんだけど、今度はうまく出来るかなあ」
二人目。
震える体とは逆に、冷静に回る頭で、その単語を繰り返した時、彼が一昨日の惨殺事件の犯人だと確信した。
なんて運が悪いんだ、と思う。
けれど、今さら後悔しても遅かった。
男は、自分のしていることがどれだけ素晴らしいかを、大げさな身振り手振りで話し出した。
けれど、命の危機にある私が、大人しく聞いていられるわけがない。
踏まれた背中を動かして抜け出そうとしてみるけれど、すぐに気づかれて、さらに強く踏みつけられた。
あまりの痛さに悲鳴を上げても男は喜ぶだけで、これは罰なんだと、かかとを押し付けながら左右に動かされた。
あまりの痛みに涙が出てきて、どうにか逃げ出そうともがく。
逃げたいのに逃げられないもどかしさで、声を張り上げて叫びたくなった。
どうして私ばかり、こんな目に遭うの。
お父さんからは、駄目な奴だと言われてた、とか。
妹の方が可愛い、だとか。
なんであの子の口から聞かされなくちゃいけないのよ。
家を飛び出す前に聞いた妹の言葉が、今になって胸に突き刺さる。
涙が出てきた。
父が、私のことも母のことも好きじゃないってことは、ずっと前から知っていた。
なのに、それを妹に言っていたことが、悲しくて、腹立たしくて、どうしようもないくらい悔しいのだ。
父にとって、可愛いのは妹で、大切なのは再婚相手。
再婚相手は私達を他人扱いして、祖母は私を可愛がっていたくせに、自分の立場を優先して私達を馬鹿にしていた。
妹は私達をずっと見下していて、優越感に
その事実を突き付けられてなお、私は、知らない人からも悪い子だと
いや、
抵抗する気力がなくなり動かなくなると、男は嬉しそうに私を蹴ってきた。
蹴りながら、「君は僕が罰してあげるよ。嬉しいだろう」と、わけのわからないことを言い続け、興奮したように笑っている。
これが私の最後か……。
せめて、痛くないように死なせてほしいと考えていると、蹴るのを止めた男が、包丁を振り上げた。
「さあ、これが罰だ!」
包丁が、私めがけて落ちてくる。
背中から切られるんだな、と冷静に考え、痛いんだろうな、と他人事のような感想を持つ。
死ぬ間際というのは、こんなに冷静になれるものなのか。
そう思った瞬間、それまで静かだった並木道に、一陣の風が吹き荒れた。
「な、何だ!」
驚いた男がよろめくと、待っていたかのように、男めがけて、さらに強い風が吹く。
男は突然のことに対応できず、転がって
「や、止めてくれ……止めてくれっ!」
もがいて風から逃げようとするけれど、逃げられない。
凶器を落として、暴れるように体を動かす。
それでも容赦ない風が、彼に襲いかかるのを見ながら、私は痛む体を動かして、道の端に避難した。
風は、男に向かってのみ吹いている。
イチョウの枝も、桜の枝も、ほとんど動いていない。
まるで、彼だけを狙うためだけに吹いているようで、殺されそうになった恐怖と相まって、得体の知れない震えに襲われた。
やはり、ここは「お化け道」だったんだ。
じゃなきゃ、こんなおかしい風が吹くわけない。
逃げたいのに体が動かず、暴れる男は落ちた凶器を拾い上げると、がむしゃらに振り回し始めた。
「止めろ、止めろ、止めてくれ。僕が何をしたっていうんだよ。あの子を罰しようとしただけじゃないか。悪い子は罰してあげなくちゃ駄目なんだ。僕じゃなくて、あの子に襲いかかればいいじゃないか」
風に刃物が効くわけない。
なおも吹き続ける風に、男はどんどん追いつめられていく。
このまま私から離れてくれれば、逃げ切れるかもしれないと思った時、目が合った男が怒りを見せた。
ぎらぎらと燃え立つ目が私をとらえ、なぜお前だけが無事なんだと、その目が語っているようだった。
吹き荒れる風に抵抗しながら、男は私の方を向いて立ち上がると、私めがけて包丁を投げた。
危険を感じて逃げようとしたけれど、怒りが
逃げようにも逃げられない状態で、とっさに頭をかばう。
少しでも助かるようにと、姿勢を低くすると、刃物が落ちる音が聞こえた。
恐る恐る目を開ける。
包丁は、私がいる場所より数メートル手前で落ちている。
木にでも当たったのかと安心しかけた時、包丁の表面に、
あれは何だろう、と視線を上げていくと、包丁の側には男性が立っていた。
男性は私に背を向けて、震える男を見ているようだ。
男性は袴を
後ろで髪を一つにまとめていて、何かの伝統舞踊のような格好をしていた。
半透明の体で私の前に立つ彼は、背筋を伸ばした姿で、男を睨みつけているようだ。
「――やれやれ、このような場所で、二度も血を見させるほど愚かではないぞ。罰を受けると言うならば、禁忌を犯したお前の方だ」
男性が片手を上げ、手首を使って手の平を前に倒すと、さっきとは比べ物にならないほどの強風が吹き、男は遠くへ飛ばされた。
道を転がり落ちていった彼は、気を失ったようで、風が止んでも動かなかった。
「おい小娘。
振り返った半透明の男性は、それだけ言うと、そのまま消えてしまった。
男性が言った通り、すぐに人が来た。
名越さんが、警官を数人連れて駆けつけたのだけれど、私の姿を見て驚いていた。
なぜ出歩いていたのか、怪我は大丈夫かと心配され、大丈夫だと答えて立たせてもらった。
「それにしても、どうしてここに来たんですか?」
簡単な手当てを受けながら、名越さんに尋ねると、彼は迷ったように頭をかいた。
何度か
「君が一昨日会った男を覚えているか? 惟任というんだが、そいつが電話してきたんだよ。並木道に不審者がいるから、逃げる前に捕まえてくれってな。イタズラかと思ったんだが、それからすぐに、並木道近くの路上で、知らない男に切りつけられたっていう男から通報があって、念の為に警官を連れて来てみたんだよ。まさか、君がいるとはね」
「そうだったんですか……」
姿を見ていない惟任さんは、どうして不審者がいるとわかったんだろうか。
それに、被害者だという男性は誰なのだろうか。
次々と増える疑問にうつむくと、考え込む私に警部は尋ねた。
「ところで、君はどうしたんだ? こんな時間にこんな場所にいるなんて。あれほどこの道を嫌がっていたのに」
「……あっ」
そうだった!
そこで、ようやく母のことを思い出した。
死を覚悟した時までは覚えていたけれど、不思議な風と、半透明の男性が現れたことによって、すっかり忘れていたのだ。
慌てる私に、母が危ないという言葉を信じてくれた名越さんは、一緒に来てくれることになった。
いつの間にか足をくじいていて、走れないのがもどかしかったけれど、出来る限り急いで父達の住む家に向かう。
途中で、母はどこに行ったのかと名越警部に聞かれたので、「離婚した父のところです」と答えると、盛大に顔をしかめられた。
気が高ぶっていたのか、それとも恐怖が続いているのか。
話す気はなかったのに、父の浮気と再婚相手のこと、そして妹との関係まで話していた。
「君も不思議だけど、お母さんも不思議だね。普通なら弁護士を立てて、裁判くらいしそうなのに」
はじめは、母も考えていたらしい。
だけど会社に知られたくなかったと言って、そのまま離婚してしまったのだ。
「そんな事をする余裕がなかったんですよ。母は最初から慰謝料を貰うより、顔を見せるなって言ってたらしいですから。私も両親が離婚してから今まで、父と会った事はありませんでしたから」
これも何かの縁だと、父との間にあった様々なことを話すと、名越さんの眉間に
これから私は、血の繋がった娘を叩くような父と会うのだ。
心配そうな警部の視線を無視して、前に妹が教えてきた道順を思い出しながら、慣れない場所を歩いて行った。
父に会うのは怖いけれど、母を傷つけられる方が、ずっと怖い。
早歩きで、父の家がある通りに出た時、名越さんの携帯が鳴った。
「はい。ええ、一緒にいますけど……わかりました、これから戻ります」
電話の相手にそう伝えた彼は、私に「戻るぞ」と言って、道を戻ろうとする。
母のことはどうするんですか、と尋ねると、彼は「お前の母親なら家に帰ってる」と言った。
あれほど覚悟を決めてここまで来たのに、母は私が家を飛び出した後で、時間をおかずに帰ってきていたのだ。
母は祖父から話を聞いて、まだ残っていた妹を怒ると、慌てて近所を探し回った。
しかし私は見つからず、もしかしたらと警察に電話を入れたところ、惨殺事件の犯人に襲われた少女が私に似ていると聞いて、急いで確認してもらったらしい。
そうしたら、それが私だったと知って、父の家に向かっていると聞くとすぐに、連れ戻してほしいと頼んだという。
妹は家に帰されていて、並木道に来ていた母は、私を見るなり泣き出してしまった。
「あなたって子は、本当に馬鹿なんだから。お母さんのために、あんな人の家に乗り込もうだなんて。本当にもう、馬鹿よ」
抱きしめられながら怒られたけれど、母が言った馬鹿という言葉は、どこか温かかった。
けれど、ボロボロになった私を抱きしめてくれた母は、汗にまみれて、とても冷たかった。
祖父は、心配して残ってくれていた香苗と一緒に来てくれて、やはり二人からも怒られた。
その後で、無事で良かったと泣かれた。
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