第七話 父と私


 家の中は静かで、母が出かけていることはすぐにわかった。

 もし母が家にいれば、あちらこちらを歩き回っては、仕事の事を考えているので、廊下を何度も往復する音が聞こえるからだ。

 畑仕事を終えた祖父は、近所の将棋仲間の家に行ってくると出かけてしまったので、一人で留守番をすることになってしまった。

 

 宿題でもしようと机に座ると、ノートを広げて問題を解いていく。

 わからないところを飛ばしながら、半分ほど解いたところで、鞄に入れたままのスマホが着信を知らせた。

 

「紗衣、大丈夫だった? 今日は休んでごめんね」

「気にしなくていいよ。それより、ネットで事件の記事を見たんだけど、本当に殺人事件だったんだね。しかも若い人で、町内に住んでたって書かれてて驚いたよ」

「そうなのよ。お父さんの知っている人だったらしくて、朝から家中が大騒ぎ。お母さんなんて真っ青な顔で私を見るし、もうパニック状態だったんだから。それよりさ。同じクラスの子から聞いたんだけど、紗衣ってばお父さんと暮らすんだって? 妹から何か言われてない?」

「うん、それがね――」

 

 話すかどうか迷っていたけれど、嘘をつくより正直になろうと全てを話した。

 彼女は黙って聞いてくれて、父が私を引き取りたいと言っていることを話すと、「そっか……」とだけ言った。

 

 話し終えて一息つけば、彼女は怒った声で「信じられない」と言い出した。

 

「紗衣のお父さんもそうだけど、あの子もあの子だよ。離婚した相手と、自分の子供の気持ち、全然わかってないじゃん。よくそんな事が言えるよね」

「私もそう思った。でも、直接話を聞いたのは母だけだし、再婚相手が嫌だって言ってるなら、まず無理だと思う。私もお母さん達と離れて暮らしたくないし、それに、あの人達と一緒に暮らすなんて……」

 

 話しながら想像して、背筋が寒くなった。

 妹と一緒に暮らすのも無理なのに、お父さんや義理のお母さんとも暮らすなんて、絶対に出来るわけがない。

 そんな事になったら今度こそ、認めたくないことを認めることになってしまう。

 

「ねえ紗衣。嫌なら嫌って言いなよ。相手のことばかり考えちゃうのは、紗衣の良いところだけど、嫌なことまで受け入れてたら、苦しいのは紗衣なんだよ。明日は私も学校に行くから、その時また考えよう」

「うん、ありがとうね」

 

 友人の言葉が嬉しくて、涙が出そうになる。

 お母さんにも、お祖父ちゃんにも、これ以上心配をかけたくはないけれど、お父さんのことになると、どうしても関わらなければならないのはわかっていた。

 二人とも私を気遣って対応しているけれど、妹のことであれば、二人は口を出しにくいだろう。

 

 また明日、と電話を切って、ノートに視線を落としたら、帰り際の妹とのやり取りを思い出してしまった。

 

「お父さん、か――」

 

 小さく口にした言葉が、なぜかとても軽い。


 幼い頃から、父というものがよくわからなかった私にとって、無邪気に甘えられる相手がいて羨ましいと思うことはあっても、妹のようになりたいと考えたことはなかった。

 

 成長した今だからこそわかる。

 母親が違う妹がいるということは、私が思っていたよりもずっと重く、私の胸の奥で小さな塊をいくつも作ってきた。

 それなのに、当たり前のように受け入れてもらえると甘えてくる彼女を、私はずっと、知らず知らずのうちに嫌悪けんおしていたのだ。

 

 祖父が怒るのも、母が怖い顔をするのも、私が父という存在を知らないのも、全部父親のしたことが原因だ。

 それなのに父は悪びれもせず、自分の可愛い娘のために、ずっと昔に捨てた娘を引き取ろうとしているのだ。

 

 それを簡単に受け入れるとでも思っているのだろうか。

 もしそうならば、なんてふざけた話なんだろう。


 同じ年の姉妹がいて、母親が違う。

 それはつまり、父が結婚する前から浮気をしていたという事だ。

 しかも、籍を入れた母との子供ではなく、浮気相手の子供を選んだというのだから、母方の親戚達は憤慨したという。

 

 それもそうだろう。

 きちんと両親に挨拶をしに来て、親戚達にも幸せにすると言っていたくせに、その裏で浮気をしながら母を笑っていたのだから。

 

 それなのに、父は母に子供ができると手のひらを返し、それからは私がよく知る生活を送るようになったという。

 身重の母を家に置き去りにして、同じ時期に妊娠した浮気相手を大事に大事にしていたというのだから、親戚達が怒るのも無理はない。

 私だって自分の父でなければ、きっと怒っていただろうから。


 それなのに父方の親戚達の間では、私の母に原因があるだとか、浮気相手が美人だからしょうがないだとか、好き勝手に言っているのを聞いたことがある。

 たしかに、相手も妹も美人と言えるだろうけど、中身は最悪だ。

 

 また泣きたくなって天井を見上げると、薄い染みが見えた。

 この家もかなりの年数が経っていて、いつ雨漏りしてもおかしくないかもしれない。

 こんな家で、祖父母は二人きりで暮らしていたのかと思うと、涙がゆっくりと浮かび上がってきた。

 

 香苗が言うように、きちんと断った方が良いのかもしれない。


 年老いた祖父を置いてはいけないし、何より、母に心労をかけたくはない。

 そう決めて前を向けば、さっきまでの暗い気持ちが消えた気がした。

 

 

 

 次の日は曇りだった。

 晴れの日が続いていたけれど、雲で覆われた空は新鮮で、薄暗い色に親近感が湧く。

 遠回りして学校に来ると、香苗が昇降口で待っていてくれた。


 今日は起きてからずっと、「やっぱり止めようかな。いや、きちんと断った方がいいかもしれない」と悩んでいて、家を出るのが遅くなってしまった。

 バスに乗り遅れかけて、バスを降りてからもゆっくりと登校してきたのに、それでも待っていてくれた彼女の笑顔を見たら、安心して笑みがこぼれてきた。

 

「あの子、もう来てるけど、どうする? なんなら私が隣にいようか?」

「ううん。それは嬉しいけれど、やっぱり私の問題だし、あの子と二人で話してみたいんだ。だから、放課後にどこかで話し合おうと思ってるんだけど、どこがいいかな?」

 

 朝に話すか、昼休みにするか。

 いつどこで話し合おうか、二人きりがいいのか、それとも第三者をまじえた方がいいのだろうか、と悩んだけれど、放課後にゆっくりと、二人で話し合おうと決めた。

 

 これは私達の問題だし、他の人に聞かれたら、お互いに困る話でもあるからだ。

 家庭の事情で目立ちたくないと言うと、彼女は笑顔で「がんばって」と言ってくれて、おすすめの店を紹介してくれた。

 

 教室に行こうと階段に足をかけたところで、先生に声をかけられた。

 お客様が待っていると言われて来賓室らいひんしつに向かうと、顔色が悪い担任が私に気づいて駆け寄ってきた。

 

「清音さん。あのね、落ち着いて聞いてね。実は今、あなたのお父様がいらしてるの」

「父が、ですか?」

「ええ。一応、お母様に連絡を入れたんだけど、繋がらなくて。また日を改めてほしいと頼んだのだけど、聞き入れてもらえなかったのよ。お父様がいらっしゃるって聞いていたかしら? もし聞いていないなら、先生の方から説明して帰っていただくけれど」

 

 父が来ている。


 扉の向こうにいるというその人は、離婚してから今まで、一度も会ったことがなかった。

 事情を知っている担任は、気を利かせて手を尽くしてくれたらしいけれど、あの父が人の話を聞くとは思えなかった。

 

「いいえ、私が会ってみます。母には後で話しておきますので、もし連絡が来たら、家で待っているように伝えてください」

「わかったわ。でも、何かあったらすぐに呼んでね」

 心配そうな担任に微笑んで、来賓室の扉を開ける。

 音を立てて開いた扉の向こうには父が居て、不機嫌な顔で私を見た。


 父に会うのは数年ぶりだ。

 最後にあったのは離婚した日だから、対面してみると懐かしく思えるけれど、複雑な気持ちは変わらない。

 

「……お久しぶりです。何か用ですか」

 そう尋ねると、父は私を睨みつけた。

「母親に似て愛想がないな。うちの娘とは大違いだ。だが、お前もすぐにうちの子供になるのだから、礼儀くらいは学んでおけ。みっともない」

「母も祖父も断ったはずですけど。私もあなたの子供に戻る気はありませんから」

 

 昨日といい一昨日といい、どうしてこうも嫌なことが重なるのだろう。

 特に今日は最悪の日になってしまった。


 まさか、父が自ら来るとは思っていなかったし、学校まで押しかけて来るとは考えもしなかった。

 担任がいたからこそ大事にならなかったけれど、いったいどういう神経をしているのだろう。

 

「あの子が望んでいるんだ。お前は黙ってうなずけ。あの女には俺から言っておく」

「ですから、断ると言っているんです。今は母の実家で楽しく暮らしていますし、今さらあなたの子供になる気はありません」

 

 相変わらずだった。

 昔から父は高圧的な人で、人の言うことは聞かないのに、自分の話は無理にでも通そうとするのだ。

 義理の父である祖父相手にも同じことをしていたらしいので、だからこそ祖父は、父のことを好きになれなかったのだろう。

 

 あれほど簡単に私達を捨てたのに。

 この人は、離婚したという意味をわかっているのだろうか。

 

 睨み合いが続き、授業開始のチャイムが鳴ってからも、父は何も言わない。

 私も何も言わないで、このまま教室に行こうかと思ったけれど、母がこのことを知る前に、少しでも話をつけたかった。

 

「妹からも聞きましたが、再婚した女性が反対しているそうですね。それなのに私を引き取ろうなんて、勝手すぎませんか。私も母も、祖父だって断っているのですから、もう一度あの子と話し合ってみてください」

 

 瞬間、私の顔が横を向いた。

 何が起こったのかと、呆気にとられる間もなく、頬に痛みを感じ、遅れて、熱さを感じた。


 手の平で、熱く痛む頬を覆いながら父を見ると、私を叩いたことが一目でわかる格好で立っていたのだ。


 父に叩かれた。


 そう理解した瞬間、さらに頬が痛んだ。

 自然と溢れてくる涙で父の姿が歪むが、私の態度が気に食わなかったのか、彼は急に怒り出したのだ。

 

「お前は私を何だと思っているんだ。私はお前の父親だぞ。私がこうすると言えば黙って従え。私が決めたのならすぐに受け入れろ。本当にお前は母親そっくりだな」

 

 父がもう一度私を叩く。

 今度は反対側の頬を叩かれて痛みが増えた。

 先生を呼ぼうにも、痛くて口が開けられず、怒鳴り始めた父の言葉を黙って聞いているしかなかった。


 ほとんどが母に対する悪口だったけれど、どれも理不尽としか言いようがない話ばかりで、なぜ私が怒られなければならないのかと、痛みを我慢しながら考えてしまう。

 責めるような悪口が続いたことで、扉の外にいた先生達も気がついたのか、慌てて教頭先生が部屋に入ってきた。


 泣く私と怒る父を見て察してくれたようで、父をなだめるように、私達の間に入ってくれた。

「まあまあ、お父さん。せっかく娘さんに会いに来たんですから、そんなに興奮しないでください。彼女はこれから授業がありますし、日を改めて、またお話されてはいかがですか? 彼女のお母様とも連絡がつきましたので、これからいらっしゃるそうですし」

「いいや、帰る。とにかくお前は引っ越す準備をしておけ。いいな」

 

 父は教頭先生に謝りもせず、さっさと帰っていった。

 残された私は、教頭先生に支えられながら保健室に行き、赤くなった頬を冷やしてもらった。

 二度目の平手で口の端を切ってしまったようで、保健の先生が驚いた顔で「喧嘩でもしたの?」と聞いてきたけれど、遅れて保健室に来た担任が説明してくれて、それからは黙って治療してくれた。

 

「教頭先生に相談してみたんだけど、お母様が学校に向かっているところだから、そのままお母様と帰って、今日のことを話し合った方がいいということになったの。病欠にしておくから、今日は帰って、ゆっくり休んでね」

「……ありがとうございます」

 

 頬の痛みが引いてきたところで、急病という形で早退を許された。

 母を待たないのかと保険の先生に聞かれたけれど、この顔を見られたら、話し合いどころではなくなるため断った。

 

 鞄は香苗が運んでくれたので教室にあった。

 それを担任が保健室まで持ってきてくれたので、保健室から直接帰ることが出来た。

 

 まだ授業中の校内は静かで、正門までの間に誰とも会わなかった。

 いつもは誰かしらがいる時間帯に登下校をしているので、とても新鮮な気分だ。

 けれどなぜか、寂しい気持ちになってしまった。

 

 今日はどうしよう。

 このまま家に帰れば祖父が居るし、学校には戻れない。

 かといって、こんな時間に町の中を歩き回るわけにもいかない。


 父に会ったことだけでも、祖父は怒りそうなのに、叩かれたと知れば、父の家に乗り込むかもしれない。

 近くで見れば腫れているとわかる顔で町の中を歩けば、すぐに噂になるかもしれない。

 母を待って一緒に帰ったとしても、やはり父に会ったことを怒られて、祖父にも知られて大事おおごとになるだろう。

 

 今頃になって事の重大さがわかったけれど、もう遅い。

 近くの壁に手をついて、胸を押さえながら母の顔を思い出すと、涙が溢れてきた。

 

 どうしてあそこまで言うのだろうか。

 父にとって母は、好きな人ではなかったのだろうか。

 

 叩かれながら聞いていた母への悪口を思い出すと、涙が止まらなくなる。

 結婚までした相手に、あそこまで言えるものなのだろうか。

 自分の血を分けた娘まで、口汚くののしれるものなのだろうか。

 

 怒りよりも、悔しさよりも、悲しみが強かった。

 

 ふらふらした足取りで、バス停への道を歩いていく。

 いつもの癖で、また、未舗装道路まで来てしまった。

 通行止めの看板があるため、当然のことながら通ることは出来ない。

 仕方なく遠回りしようと道を戻っていると、一昨日会った男性が道の途中に立っていた。

 

「今日は学校がある日じゃないのか」

 

 平日の昼間に出歩く私に驚きはしなかったけれど、私は、彼がこんな場所にいることに驚いてしまった。

 

「そちらこそ、何でここにいるんですか。この道の先は並木道ですよ」

 確信はなかったけれど、もし彼が、私が歩いてきた道に向かって進んでいたならば、この先は「お化け道」しかない。

 まさかと思いつつ確認してみると、悪びれもなく「この先だったのか」と笑った。

 

「この町に詳しいわけではないから、駅前の地図を確認してここまで来たんだが、なかなか着かなくてね。君のおかげで助かったよ」

「それは、良かったですね。でも、駅前の地図は大雑把で古いので、当てになりませんよ。この次からはネットで調べるか、地元の人に聞いてみてください」

「駅で出会った人に聞いてみたよ。しかし、「お化け道」の話をすると逃げられてしまってね。しかたなく地図に頼ることにしたんだ」

 

 言われてみれば、一理ある。

 地元の人に聞いてみても、あの道について話したがらない人が多いので、私が考えるよりずっと苦労したのかもしれない。

 余計なことを言ってしまったか、と口をつぐむが、彼は気にせず、「行こうか」と言った。

 

「……もしかして、私も行くんですか?」

 

「当然だろう。道案内をしてくれる人が必要だったところだし、君も時間はあるだろう。家に帰りたくないのなら、付き合ってくれ」

 

 驚いて彼の背中を見る。

 歩き出した彼は振り返らず進むだけで、どうするべきか悩みたかったけれど、足が自然に後を追っていた。


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