第3話

 翌日。

 住宅街の中心にある地下鉄緑が丘駅。ひとつしかない改札の正面の壁に伝言板が貼られている。今では素通りばかりしている伝言板の前を、舞台のことが気になって立ち止まってみると──あたしは目を疑った。

 伝言板にメッセージがあった。うれしい気持ちはあるけれど戸惑いも強い。これはどういう意味なのだろう。

 誰かに向けた伝言ではないのはあきらかだった。昔のあたしのような独り言? ただの日記? それとも隠れた意図があるのだろうか。

『昨日友達とバーに行きました。お酒は苦手なのでノンアルコールのカクテルばかり頼んでましたけど。なかでも名前がかわいいシンデレラがお気に入りです。こっそりマスターからレシピも教えてもらいました。

 材料はオレンジとレモンとパイナップルのジュースを二○mlずつ。シェーカーに氷と材料を入れてシェイクして、グラスに注いでできあがり。酸味が強いときにはレモンジュースを少なくするといいそうですよ』

 このタイミングでこの内容は雪乃さんかな。

 雪乃さんは伝言板は月の歌みたいなものといっていた。舞台のネタ作りのためか、それとも月の歌で誰かを振り向かせようとしているのか。意図はわからないけど、せっかくなので返事を書くことにした。五年前に戻ったような、なんとなく不思議な感覚になる。

『シンデレラはあたしも好きでたまに飲みます。自分で作ると酸味が強くなるんですけど、分量を調整すればよかったんですね。今度やってみます』

 書き終えてから携帯電話で雪乃さんに連絡をしてみる。数秒のコール音の後、彼女がでた。

「あれ、雪乃さんでしょう?」

「あれって?」

「伝言板のシンデレラ」

「ごめん。なんのこと?」

 寝起きなのか低い声で少し不機嫌そうな返事。口調からとぼけているようではなさそうだった。簡単に事情を話して伝言板をそのまま読みあげると、

「それ、わたしじゃない。シンデレラのレシピなんて知らないし。お酒が苦手って嘘つく必要もないしさ」

 雪乃さんが料理苦手なのはあたしも知っている。昔、酷い目にも遭った。レシピがわからないといわれればそれまでだし、分量の調整は確かに雪乃さんらしくない。彼女でないとしたら、いったい誰が書いたのだろう。

「でも面白いね。ネタになりそうだし。誰がしてるか謎だけど。またなにかあったら教えてよ」

「うん。絶対雪乃さんだと思ったのになあ」

「ないない。そういうことするなら昨日のうちに話すって」

「それもそっか」


 次の日も伝言板にメッセージがあった。

『昨日は返事があって驚きました。反応があったので今日も書いてしまいます。

 調べてみたらカクテルの定義はミクスト・ドリンクで、複数の飲み物をまぜたものみたいです。ノンアルコールカクテルの欄にレモンスカッシュやミルクセーキも載っていてびっくりしました。普段気にせず飲んでいるものもカクテルだったりするんですね。

 さて、今日はプッシーキャットのご紹介。

 材料はオレンジ、パイナップルジュースが三○ml。グレープフルーツジュースが一○ml。グレナデン・シロップがティースプーンで一。スライスしたオレンジとグレープフルーツが一枚ずつ。シェーカーに材料と氷を入れてシェイク。グラスに注いで、スライスしたオレンジとグレープフルーツを飾って完成。午後のひとときにお菓子と一緒に飲むのもオシャレでいいのかも』

 はじめて聞く名前だった。材料はシンデレラに近いので細山田さんに頼めば作ってくれるだろうけど、『ムーンストーン』のメニューには存在しないもの。伝言板に書いているひとが雪乃さんではないのは間違いなさそうだった。

 相手が誰なのか見当もつかないけれど、あたしも返事を書くことにした。

『レモンスカッシュもカクテルなんですね。シンデレラも実はミックスジュースですし、知らないだけで身近にカクテルはいっぱいあるんですね。あしたも楽しみにしてます!』


『楽しみにされてしまいました(笑)。こんな返事を書かれたら続けるしかないですね。今日はホットドリンクをご紹介。名前がなんとも独特なゴゴリッ・モゴリッ。ベラルーシの飲み物です。

 材料は牛乳一五○cc。レモンジュース五○cc。蜂蜜大さじ一。卵黄一個分。バター適量。

 まずは小鍋で牛乳をあたためます。その間に卵黄と蜂蜜を溶いておきます。牛乳が沸騰する前にレモンジュースを入れて、溶いた卵黄と蜂蜜も加えます。お好みでバターをうかべてできあがりです』

 今回は伝言板にクリーム色のドリンクの写真も貼られていた。たぶんゴゴリッ・モゴリッの完成品。

『これは一種のミルクセーキですよね。ミルクセーキもカクテルの一種だと昨日書いてあったのを思いだしました。名前が面白いので今度作ってみます』


 こうして伝言板での交流がはじまった。

 最初がそうだったからなのか、伝言板には必ずなにかしらのレシピが書いてあった。完成品の写真が貼られていることもある。

 ジンジャーアイスミルクティー。苺のラッシー。ショコラミルク。ほうれん草のスポンジケーキ。キャベツのバウムクーヘン。かぼちゃのチーズタルト。などなど。紹介されるドリンクやお菓子はいつも一風変わってて、ちょっと不思議な世界にあたしをつれていってくれる。

 その日はチョコバナナココアというドリンクが紹介されていた。

 作り方はアイスココア一五〇mlとバナナシロップ二〇mlを混ぜ合わせて氷を入れる。八分立てにホイップした生クリームをのせて、チョコレートクリームで模様を描いてできあがり。

 返事を書こうとチョークを手にし、ふと映画『タイヨウのうた』を思いだした。鎌倉を舞台にしたせつなくて悲しい物語の冒頭に主人公の有名な科白がある。

「好きなバナナは食べ物です」

 無意識のうちに声にでてしまい、すぐ後ろで笑い声がした。誰かに聞かれるとは思っていなくて、顔が真っ赤になったのが自分でもわかる。

 振りかえると知っているひとがいた。笹澤美琴さん。二十代半ばの綺麗な女性で、あたしの数少ない友達のひとり。恥ずかしいところを目撃されてしまった。

「なあにそれ。嫌いな、というより食べ物以外のバナナってある?」

「……吉本ばななさんとか」

「そっか。吉本隆明の娘さんもばななだったね。でもつぐみちゃん、そのばななは好きでしょう?」

「はい」

 返す言葉がみつからなかった。

 吉本ばななさんは好きな作家のひとり。本が好きなひとであれば、誰でも運命の一冊や恋に落ちた作品はあるはず。吉本ばななさんの『哀しい予感』はあたしにとってそういう作品だった、と普段なら美琴さんに語るところなのだけど、今はそれどころではなかった。恥ずかしくて、すぐに立ち去りたい──。

「ね、つぐみちゃん。こういうの毎日書いてあるの?」

 伝言板を指さして美琴さんが訊ねる。あたしは黙ってうなずいた。

「書いてるのは誰。つぐみちゃん?」

「ちがいます」と首を振る。「誰が書いてるかはわからなくて」

「そうなんだ」

 美琴さんは伝言板に視線を向けたまま、しばらく黙ってドリンクのレシピをみつめていた。絶滅危惧種の駅の伝言板になにか思うところがあるのかもしれない。

「月には、」と静かに美琴さんがいった。「月には守られなかった約束や無駄にされた才能がしまわれてるって話は知ってるかな?」

「月にですか?」

 月という言葉を聞くと反射的にどきりとしてしまう。雪乃さんの「月の歌」の話があったから余計に。

「そ、こないだ読んだ小説の話だけど。月は地上で打ち棄てられたすべてのものが行き着く場所なんだって」

 心臓を素手で掴まれたような気がした。美琴さんがいいたいことは、なんとなくわかる。この伝言板のことだ。今でこそメッセージがあるものの普段は見向きもされていない。ここに残された言葉や想い、約束の多くが月に棄てられてしまう。

 地上からの廃棄物で埋め尽くされた月面。誰にもなにも伝わらないとわかりながら、ほとんど真空の世界でひとり歌い続ける。その姿を想像すると胸が圧し潰されるくらいに痛くなる。

 あたしは一度目を伏せた。今までは確かに誰にも見向きもされずに、ひとの想いは月に棄てられていたかもしれない。

「でも、今はあたしが伝言板をみてます。メッセージが月に棄てられることも少ないはずです」

「そだね。今はつぐみちゃんがいてくれるね」

 美琴さんは優しく微笑した。

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