6
たとえば昼間の退屈な授業中、窓際の座席から何となしに空を見たとき。
たとえば下校する間、街中で買い物をする人やそれに寄り添うディアと擦れ違ったとき。
たとえば自宅に帰ってから、照明の落ちたリビングでコップに透明な水を注いだとき。
不意に、あの展望台の光景が脳裏を掠める。記憶から、俺を呼ぶあの人の声が甦る。そのたびに俺は、不思議な感覚に襲われるのだ。好奇心。親しみ。羨望。そのどれとも違う、何かわからない、けれどとても強い感情。俺の心を大きく占める、上手く名前をあてがうことのできない想い。赤い陽の下で、白い月の下で、優しく俺へと微笑みかけるアイリスさんへの――
ただ、そこで俺は思い出す。ああ、そういえば、アイリスってのは偽名だったんだっけ。
なぜなら、あの人は、ディアなのだから。あの人はあの世界樹の端末装置(ターミナル)であり、世界で最初の、ディアという名のディアなのだから。
そのことを俺は、後々になって改めて認識した。
彼女は世界樹。現代社会の礎だ。つまり彼女は、世界を手中に握る存在。けれど一方で、その身体のメンテナンスを行えるのはガラテイアだけだ。いくら技術の粋を集めて生体を模した身体でも、何十年何百年と稼働すれば、調整を要するタイミングが必ずやってくる。
彼女とガラテイア。お互いが、お互いの命綱に手をかけている。断てば相手はすぐにでも事切れるだろう。しかしそれは、寸刻先の自身の姿でもあるかもしれない。一蓮托生。呉越同舟。手に手を取り合って美しくともに……そういう風には、どうも、いかないようである。
ならば仲違いは必然の結末か。そういうわけにも、またいかず……結局の落としどころは、両者ともに相手を牽制し合い、付かず離れずの絶妙な距離のまま、最低限の接点だけを保って生きてゆくこと。これまでのあの人と翠のやりとりは、まさにそんな感じだった。
だから時の凍結のことを調べている翠は、世界樹を直接調べることはせず、佐倉先生の事件のような、周囲の出来事から情報を得ようとしたのかもしれない。
考えてみれば当然だ。仮に、何かしらの設備が原因不明で停止したとして、普通ならクラッキングなんて思わない。素直に故障を疑うはずだ。時の凍結は、一時的な世界樹の停止。その原因を探るとき、まず目を向けるべきは外部からのアクセスではなく、世界樹そのもの。
すなわち彼女に他ならないのだ。
まあ、実際にクラッキングという可能性がゼロであったわけではないし、さらに言えば、調査の手足に使った俺と彼女の接近が、翠の計算か誤算かはわからないが……。
ともあれ、翠の思惑など俺は知らぬし、気にもならない。
やはり気にかかるのは、あの人のことばかり。
そんな調子で、最後に彼女と空の上で踊ってから数日が経った。学校では、夏休み前独特の浮ついた空気が流れている。肌にまとわりつく蒸し暑さが本格化し、昼も夜も、思考を鈍らせる熱が収まることはない。ともすれば夢現すら曖昧になりそうなほどの日も、いくらか過ぎて。
うだるような気温の朝、学校へと歩いていた俺の鞄で、独りでにシータが立ち上がった。次いで聞こえた着信音がメッセージではなく、音声通話を知らせるものだとすぐに気づく。相手は翠。予想通りだ。先日の別れ際の発言から、そのうちくるだろうとは思っていた。
が、しかし。
「那城さんですね。今、何処におられますか!?」
「何だよ。いきなりどうした?」
「何処にいるのかと聞いているんです!」
それは予想していた連絡にしては、随分と慌て、また、取り乱したものであった。
「急で申し訳ありませんが、とにかく……とにかく今すぐ来てください!」
○
翠が俺を呼びつけた先は、都心駅から徒歩五分程度のところにあるグランドホテルだった。知名度、立地ともに、言わずと知れた高級ホテルだ。平日の昼間から学生服を着て入るには、少々気の引ける場所でもある。それでも俺は、鞄を持つ手に少しだけ力を込め、意を決して正面の自動扉からロビーへと足を踏み入れた。
中は二階や三階までが吹き抜けの開けた造りで、大きな花木やシャンデリアに彩られていた。フロアには真っ赤なカーペットが敷かれ、洒落た椅子やテーブル、さらにはグランドピアノなんかも見受けられる。空調は適温。そして落ち着いた暖色系の照明。そういったもの一つ一つの組み合わせが、嫌味のない瀟洒な雰囲気を作り出している。
俺はその空間に圧倒され、思わず立ち尽くしてしまっていた。しばらくの間そうしていると、やがてカウンターから一人のホテルマンがやってくる。
「那城蓮様ですね。こちらへどうぞ」
俺は驚きつつ、訳も分からないまま奥のエレベータへと導かれた。見ると、そのエレベータの行き先は一つしかなく、七十五階、ロイヤルスイートルームとある。ホテルマンは素早く操作だけを行い、同乗せずに閉まる扉の外で深々と頭を下げる。
直後、わずかな振動に合わせて身体が少しだけ重くなる。到着を知らせる電子音に次いで再び扉が開くと、そこは直通でリビングスペースとなっていた。広々とした部屋の中、数あるソファにやや前傾姿勢で腰かけているのは翠だ。翠は、俺の姿を認めるとすぐに立ち上がった。
「突然呼びつけてすみません」
まったくだ、と心の中で呟きながら、俺は適当に文句を連ねる。
「俺の貴重な出席日数が一日失われたぞ。いったい何事だ」
「……こちらへ」
いつもの翠なら、俺の軽口に対して二、三返答があってもよいところだ。しかしどうやら、今回はそれを飲み込んだようだった。表情が冴えない。それほどに余裕のない事態ということだろうか。
俺は翠のあとについて、リビングルーム、続いてダイニングルームを通り抜ける。長く仰々しいテーブルの上には燭台を模した照明具があり、さらには小さな装花のようなものまで設えられている。見れば見るほど豪勢で、また気遣いの行き届いた部屋だとわかった。
そうしてたどり着いた一番奥のベッドルームには、当然だが大きなベッドが据えられていた。俺は生まれて初めて、天蓋のついたベッドというものを見た。クッションや枕が三つも四つも乗っているのに、それでも人の寝るスペースは十分過ぎるほど確保されている。
そのベッドの上を、翠は視線で指し示す。何かが置かれていた。親指大の、白い、長方形……いやに古い型のメモリカード。近くで見ると、それにはマジックで小さく『アイリス』と書かれていた。――アイリス?
「宛名はありませんが……これは、あなたに残されたものでしょう。アレがそう名乗っていた相手は、おそらくはあなただけですから」
翠は努めて冷静な声音で俺に告げた。その過分に落ち着き払った話し方は、翠の内心を投影したわけでは、きっとない。
「これをあの人が? だとしても、なぜ、こんな場所に」
「ここは、アレのために用意した部屋なのです。アレはずっと、ここで生活をしていました。そのカードは今朝になって見つけられたもの。そしてアレの姿が、今朝から何処にも確認できません」
聞いて、俺は自分でも意外なほどに、この心臓が跳ねるのを自覚した。それを、すんでのところで表情に出ないよう噛み殺す。
「……なるほど。つまり、いなくなった、ってことか」
それで翠は、大慌てで俺を呼びつけたのだ。
にしても、まさかあの人がこんなところに住んでいたとは。いやまあ、彼女の境遇やガラテイアとの関係を思えば、もちろんあり得る話ではあるが。
高級ホテルのロイヤルスイートルームでの生活。約束された安寧、最上級の待遇。ただしそれと引き換えに、外出はしっかり管理されるわけだ。自由とはいささか縁遠い。
「なぜ探さない?」
「探しています。ですが、位置情報の発信が途絶しているのです。以前と同じように」
後半を明らかに強調し、翠は鋭く俺を睨んだ。そこで俺を睨まれても困るんだが……。
「そのメモリカード、おそらくはあなたにしか開けません。現行のディアでは対応していない型式です」
少しして、俺からの返答がないと分かると、翠は早々と話を進めた。
「おそらく? とか言ってお前、その顔はもう、散々試したって顔じゃないのか」
「ええ。様々なアダプタを使っても、やはりディアでは読み込めない。旧型のデスクトップパソコンでも試しましたが、それだと今度は、パソコンの方が中身のデータに対応していなくて……要するに結局、開けないのですよ」
俺宛だとわかっていながら堂々と調べるその姿勢。まったく恐れ入る。こういうとき、翠は手段を選ばないし、それに一つの負い目もない。わかっている。これはそういう女なのだ。
「不自然に古いカードの中に、不自然に新しいデータが入っている、か」
「そういうことです。その点あなたなら、あなたのそのノートパソコンなら……どうにかなるかと」
確かに俺のシータは、型式だけ見ればかなり時代遅れの骨董品。けれど日常で使うため、最新のデータやソフトまで扱えるよう弄ってある。パズルのピースとしては、上手く噛み合う。
「……わかったよ。少し待ってくれ」
俺は手元でシータを立ち上げた。傍にある丸テーブルの椅子に腰掛け、カードを読み込む。中身の容量はさほど大きくなく、おそらくは何らかのプログラムを実行するファイルだと思われた。本当は得体の知れないファイルを自分のデバイスで起動したくなんてないのだが……隣で翠が見張っている。やるしかないか。渋々ファイルを起動させると、しかしその小さな容量からは想像できないほどに処理が重く、一瞬だけ処理がカタつく。直後、CPUの負荷が跳ね上がり、しばらく手がつけられない状態になってしまった。
「……こんなに大量の処理を要求するファイルだったのですね」
翠が小さな声で呟く。
「とんでもないな。俺が言うのもなんだが、こりゃあそこらのロースペックデバイスでやってたら、何ヵ月経っても終わらないところだったぞ」
「そうですね。あなたのパソコンが無駄に高性能で助かりましたよ」
「おい止めるぞこれ」
無駄とは何だ無駄とは。
まあ……それはともかく。ファイルの容量がさほど大きくなかったのは、実行する処理命令が極めて効率化されたコードで書かれていたからだろう。だが実際に行う処理そのものは随分と多く、また複雑なものであった。様々なアプリケーションを起用して縦横無尽にデータを受け渡し、変換、入出力を繰り返している。それはまるで、一つ一つの小さなパーツをかき集めて加工し、組み上げて何かを作っているようにも見えた。
しばらく、のち。そうして形成されたのは、こなした処理量にはあまりに不釣り合いなほど簡素な、一つのテキストファイルだった。そのテキストが、述べることには。
『人類の答(こたえ)を聴きましょう』
瞬間、横から見ていた翠の息遣いが、わずかに停止するのが感じ取れた。どうやら翠は、この短い文から何かを得心したようだった。片や俺は、いまいち意図が汲み取れない。おかしい。これは俺宛のメッセージではなかったのだろうか?
「なぜ探さないのか……さきほどあなたは、そう訊きましたね」
音のない部屋の中、ディスプレイを見つめたまま翠がゆっくりと口を開く。
「もちろんのこと、ガラテイアの総力を挙げて探しています。ですから、実のところ、見当は既についているんです」
「見当? 居場所のか?」
「はい」
「なんだ。思ったより話は簡単じゃないか。なら、さっさとそこへ向かえばいい」
対する翠は、しかし重い口調のまま先を続けた。
「場所は……世界樹です」
そのとき、俺の両眼は大きく見開かれた。世界樹。それはまさしく、日常と非日常の両極端にある言葉だ。日々いつも自然と目に映る、そこにあるのが当たり前の存在。でも、だからといって、実際に自分が行くなどということを、ほとんどの人が考えたことはないだろう。それは、たとえるならば、空に浮かぶ月と同じで。
翠はまさに、その世界樹ことを言っているのだ。
「現在、世界樹に対するガラテイアからのアクセスは、例外なく全てブロックされています」
「……何だって?」
「これまで世界樹は、端末装置(ターミナル)である原型第一機(ファーストプロトタイプ)や我々ガラテイアの他、一部の国の特殊な機器からアクセスができるようになっていて、それらの共同制御下にありました。しかし今、世界樹にアクセスできるのは原型第一機(ファーストプロトタイプ)、ただ一つ。完全な独立状態です。一般ディアへのエネルギー供与や演算補助、インフラのサポート等々は平常通り行われているため、まだ顕在化はしていませんが……既に我々の手を、いえ、人間の手を離れている。これは未曾有の事態です」
……待ってくれ。思考が会話についていかない。アクセスブロック……人間の手を離れ……未曾有の事態……いやいや、いやいや……は?
目前の光景が唐突に眩んだような錯覚に、俺は陥る。ディスプレイが、豪奢なベッドが、ベランダに設けられた小さな庭が、遠く遥か彼方に飛び去ってゆく。血流の増加に反比例して神経伝達が停滞する。いったいこいつは、何を言っている?
やがて俺が、やっとの想いで声を絞り出そうとした、その間際。翠はまるで、先回りでもするように俺にこう告げた。
「結論を言いましょう。私はこれから世界樹へ向かいます。あなたも、同行してください」
○
あれから翠は、俺の承諾を待とうともせずに、自身の腕にはめたブレスレットデバイスで迎えを呼んだ。ロビーまで降りてロータリーへ出ると、既に見覚えのある車が停まっていて、さらにその傍らには、同じく見覚えのあるやつが見覚えのない格好で立っていた。
「やあ、蓮。お迎えに上がったよ」
珀だ。俺のよく知る学友、珀が、制服ではなくダークスーツを着た姿で、幼い顔立ちに爽やかな笑みを浮かべ一礼する。
「お前、何やってんだよ」
「何って、珍しく翠姉さんのお呼びがかかったものだから飛んできたのさ。風のようにね」
冗談混じりに片目を瞑り、ウィンクなどして彼は答える。
俺が静かに困惑していると、そんなやり取りをまるで歯牙にもかけない翠が、早足で後部座席に乗り込み言った。
「空港まで急いで」
すると珀はいやに真面目な顔つきになり「承知致しました、姉様」と会釈をして運転席に乗り込む。その際、俺のためだろう、助手席のドアを開けておくことも忘れない。
……って、え? お前が運転すんの?
俺が助手席にてごくごく庶民的な疑問を抱いているうちに、驚くほど鮮やかなハンドル捌きで車は空港に到着した。珀曰く
「僕もう十八だからねー。別に免許持ってても変じゃないでしょ」
とのことだ。いや、年齢的には免許は取り立てのはずで、にもかかわらずこれだけ大きい黒塗り高級車を手足のように操るスキルを持っていることには納得しかねるものがあるが……何だろう、やはりガラテイアの御曹司ともなると色々と違うのだろうか。
ロータリーに入って停車したところで、翠はすぐに飛び出して建物へと入っていく。
「先に行って手続きしてる。珀は車を置いてから、那城さんを連れてきて。あと十五分で出るわ」
「はい、姉様」
珀はすぐに車を走らせ、慣れた様子で近くの駐車場に向かった。平日の空港だというのに、周囲にはほとんど人がいない。やがて車が停められて、珀と俺は歩いて翠のところへ向かう。
「十五分だってさ。相変わらずタイトなスケジュール組むねえ」
笑みを溢しながら珀が言う。
「なあ珀」
「ん? 何?」
彼の返答は、至っていつも通りの声色だった。
「さっぱり状況が掴めんのだが」
「ああ、まあそうだろうねえ。けど、僕もそんなに詳しくないよ。世界樹に行くってことだけ聞いてる。行くんだよね?」
「行くっつったって……本当に行けるのか? だって、世界樹だぞ」
「そりゃあ行けるんじゃない? 車で空港まで来て、飛行機で近くの島まで行って、あとは……ヘリコプター? 異次元の彼方の別世界って訳でもないんだし」
「……そうかもしれんが」
だとしても、簡単に実感なんて湧きやしない。
「僕も実際に行くのは初めてだけど、とにかく、翠姉さんが行くって言ったんなら行くんでしょ。きっと今頃は、三人分の出国手続きでもしてるさ」
手続きか。当然、そういう行為もついてまわるはずだ。国外に出るのなら、たとえばビザとかパスポートとか……今更だが俺はそんなもの持ってないぞ。
「つか、三人分ってことはお前も行くのか」
「あ、ひどいなあ。いつもそうやって僕を除け者にして。知ってるんだからね。最近、翠姉さんと二人で何かしてたの」
「いや、別に除け者って訳じゃ……」
何気ない感想を漏らしたつもりだったが、珀は少しだけ唇を尖らせる。
「何であいつが、わざわざお前を呼んだのかと思っただけさ」
俺が続けると、珀はそこで立ち止まった。そうして一呼吸置くと、俺の方へと振り返る。
「そりゃあ、君に気を使ったんだよ。ディアが苦手な君にね」
「俺に?」
「うん。ま、突然連れ出したみたいだし、短い旅でもないからさ。少しでも気心知れた僕を、みたいな?」
軽い口調は変わっていないが、珍しく冗談を言っている様子はなかった。
「あいつがそんなことする女かよ」
「する女だよ。仕事でいつも連れてる自分のディアをおいてきて、わざわざ僕にもつれてこないように言ったんだ。あれで実は、君には一目置いてるのさ」
俺を映す珀の瞳は穏やかであり、そして同時に、真摯でもある。生じた数秒の沈黙ののち、珀は覗き込むようにしてこちらを見、やがて。
「そういうとこわかると、君ももっと、翠姉さんと仲良くなれるんじゃないのかなあ?」
ニッと笑った。対して、俺は。
「……是非、遠慮する」
すると珀はやれやれと肩をすくめて前を向き、そのまま元通り歩き出した。相も変わらず、嘘か本当かわからないような与太話を広げながら。
搭乗ゲートまで辿り着いて、ようやく俺は、周囲にひとけがないことの理由を知った。広い空港の中で、ここらはプライベートジェット専用の区画だったのだ。乗り込んだ機体の中には洒落た照明やカーテン付きの窓が複数設けられており、座席以外にも横長のソファやテーブルがある。その他、どうやら簡易な仕切りで三つの部屋に別れているらしく、キッチンやベッドまであるそうだ。造りとしては、随分と居住性に配慮した印象を受ける。
「ちょっと珀、旅行に行くんじゃあないのよ。なるべく速く飛ぶ機体を用意するよう、私は言ったはずだけど」
乗り込むなり、翠が怪訝な顔でそう言い放つ。
対して珀は、パイロットに手早く何かを伝えたあと、最後に搭乗してさらりと答えた。
「旅客タイプの中では最速クラスの機体です。整備状況なども鑑みて、これが一番早く目的地に到着できます」
「本当なのかしら。こんな、内装にばかりお金をかけたような機体で」
「はい。誓って姉様に嘘など申しません。幸い今回はゲストもおりますので、相応の選択かと」
珀が恭しくそう進言すると、翠は少しだけ考える様子を見せたが、やがて黙ったまま奥へと歩いていく。珀はそれに付き従い、同時に目配せで俺を呼んだ。その一連の光景は、学校での二人を知っている俺からすればあまりに意外なほど、嫌味のない自然なものに見えた。おそらくはこれが、二人の間に培われた偽りのないもう一つの関係性なのだろう。
一旦座席に座るよう促され、機体は離陸。数分を経て安定飛行に移ると、すぐに翠はテーブルの方に座り直した。ほとんど同時に、珀が三つのコーヒーを携えてくる。翠は喉を湿らせる程度にそれを含み、こちらを向いて話し始める。
「現在、七月十五日の午前十時四十六分です。世界樹近傍の島まで、フライト時間は約六時間。時差を含めて、現地時間で十四日の午後十時前には到着する予定です。そこからは船かヘリコプターですが、おそらくヘリが用意できます。移動時間は一時間ほどです」
とすると、世界樹に着くのは現地で午後十一時頃。ほとんど深夜だ。
「ですが、これはあくまで“全てが順調にいけば”の話です。我々の探している原型第一機(ファーストプロトタイプ)――アレの影響で世界樹がアクセス不能状態にあることは既に話しました。これに対し、ガラテイアの研究員が現在もセキュリティのハッキングに取り組んでいます。それが成功しないことには、たとえ我々が世界樹に辿り着いたとしても、中に入ることができません」
翠は両手をテーブルの上に重ね置いたまま、俺を見たまま動かない。
「世界樹は、もう何百年も前に作られたものですが……そこに込められた技術力は、未だ我々にとっては驚異です。加えて、アレが端末装置(ターミナル)としてリアルタイムで人類のネットワークを見てきていますから、その分だけ進化もしているでしょう。予定通りに事が運ぶ可能性は五分。しかし逆に言えば、このハードルの高さこそ、アレが世界樹の中にいるという傍証でもあります」
……なるほど。翠の説明は理解した。俺は何も言わずに座席からテーブルへ移る。
翠はそれを視線で追った。何か喋れと、その目が言っているみたいだった。
「……二つ、ある」
「どうぞ」
俺は翠を正視する。
「世界樹のセキュリティを突破しようとしていると言ったな。それはハッキングじゃないだろう。以前あったガラテイアのサーバーへのクラッキングと、今お前らがやってる世界樹のセキュリティ突破。どちらも本質は変わらない」
正しい意味として、ハッキングとは本来、ハードウェアやソフトウェアのエンジニアリング――つまりは技術の行使を広範に意味する用語だ。必要に応じた解析やプログラムの改変も、ときにはこれに含まれる。一方で、クラッキングこそ、悪意を伴う危害性のある行為を指す用語。二つは一般に混同されがちな用語だが、俺個人としては、正しく分けられるべきだと思っている。なぜなら、その行為に伴う悪意の有無という観点で、決定的に違うからだ。
ゆえに今、翠が――ガラテイアが、自分たちの行為をハッキングと称しているのは、大変な欺瞞を孕んでいる。こいつらは暗に、その行いの正統性、正義を主張していることになるのだ。
けれども、翠は毅然と答えた。
「受け取り方はあなたに委ねます。クラッキングと呼んで頂いても構いません。ただ、私たちには確固たる自負がございます。私たちは、私たちのために、必要なことをしているのです。今、人類が世界樹を手放すわけには、いきませんから」
きっと翠の言うことに間違いはないのだろう。事実、世界樹は今の人類にとって欠かせないものだ。合理的に考えるならば、俺がガラテイアの行いに否定的になる理由はないはずだった。
なのに……何だろう。この言いようのない、不快感は。その違和感を、不満を……俺は残ったもう一つの方へと乗せて言う。
「二つ目だ。前にも言ったが……あの人をアレ呼ばわりするのはやめてくれ」
すると、これまで無表情に整っていた翠の顔が、わずかに形を崩して歪んだ。わざとそうしたというよりは、たまらず内心が表に出たという感じだった。
「解せませんね。私には、あなたがそう考える理由も、まして他人にまでそれを求める理由もわかりません。もしやとは思いますが……あなたはアレに、恋情でも抱いているのですか?」
……恋情?
翠の言葉に、俺はこの身が怯むのを自覚する。恋情とはつまり、好き、ということだろうか。好き……俺があの人に抱いている、このどうしようもない気持ちは……好意、なのだろうか。
でも……と、そこで俺は思う。相手はディアだ。ディアは人間ではない。そう唱える理性のような存在も、俺の中には確かにある。目の前のエメラルドの瞳も、同じことを言っている気がする。
翠の問いに、俺はたっぷり一分間黙したあと、ようやく静かに口を開いた。
「……わかっている。頭ではわかっているさ。けれど……俺にはどうしても、あの人が人間に見えてしまうんだ」
それを聞いた翠は、少なからず驚いたようであった。
一方で俺は、そのときになって初めて、自分で放った言葉に気づかされる。そうだ。俺は、自分の中にあるこの想いに『恋』と名付けることを、拒まなかったのだと。
やがて、翠は大きな溜息をついた。次いで渋々考える仕草を見せ。
「わかりました。そうですね……では、今後は私も『アイリス』と呼称しましょう」
「……それは偽名だ。本当のあの人の名は、アイリスじゃない」
「いいえ。そんなことは関係ありません」
落ち着いた声で首を振る。
「本名になど、私は興味ありません。私が見る世界の“本当”は私が 決めます。それがたとえ真実と違ったとしても、関係ありません。私にとって、あの端末装置(ターミナル)はあくまでディアで、人間ではない。呼び方を変えたところで私の根本的な認識は変わりませんが、それでも、あなたの意には沿うはずです」
「お前……」
俺は次なる言葉を失った。それはとても力強い矜持だった。ディアと人間がわからなくなって迷い悩む俺にとっては、清々しいほどに割り切った意見だ。ディアとは何か。人間とは何か。こいつはそれを、自分の中で“決めている”のだ。
「そういえば、あのアイリスはよく、ディアと人間について論じていました。あなたも一緒にいたのなら、お聞きになったのではないですか?」
「あ、ああ……」
あの人が考えていたこと。それは人間とディアを分かつ根拠。外見や能力の違いは、その根拠にはなり得ないということ。特徴はあくまで特徴であり、両者の帰納的解釈を助けるだけなのだということ。実のところ、俺たち人類は、もう何百年も前から人間の定義を失いかけているのかもしれなくて……いや、ともすれば初めからそんなもの持っていなかったのかもしれなくて……漠然とした認識の上、曖昧な境界だけを間に置いて存在している人間と、そしてディア。
ならば人間とは、ディアとは、いったい何なのか――
「初めて聞いたとき、私はあの話を、人を煙に巻くような代物だと思いました。今では、もはや私がその論を理解する必要はないと判断しています。私は、アイリスの問いに答えませんし、答えられません。あちらとて、私からそれを聞こうとは思っていないでしょう。アイリスは、あなたに求めているのです。答を」
答――言われて、そういうことかと、俺は今更になって得心した。あのメモリカードに残されていたメッセージ……。
「俺を呼んだのはそのためか」
「ええ。アイリスはあなたを呼んでいます」
そして俺は、不意に、あの人の言葉を思い出す。いつだったか、夕陽に染まるあの場所で、彼女は言ったのだ。連れていってあげましょうか、と。
ああ……翠の言う通り、彼女は俺を待っているのかもしれない。その考えは驚くほど、俺の中にストンと上手くはまりこんだ。次の瞬間、俺は知らず知らずのうちにこの口を開いていた。
「翠。今、世界樹に敷かれているセキュリティの突破。俺にも、一枚噛ませてくれないか」
すると翠は、右手を口元に寄せ考える仕草を見せたが、しばらくして立ち上がった。
「そのような申し出を頂けるとは、願ってもなかった僥倖です。無論、あなたの技術ならば、大きな力になると思われます」
翠は早足でその場を立ち去る。足音がいくらか遠くまで離れていくと、俺に向けられたもう一つの視線があることに、すぐに気づいた。
「……あいつのためじゃあないからな」
「わかっているよ」
まるで言葉を用意していたかのごとく珀は答えた。若干の含み笑いに関しては、無視をするよう自身に言い聞かせる。
「気になるんだね。その、アイリスさんって人のこと」
「……直球だな」
「あはは。まあそれでも、翠姉さんの助けになるのも確かな事実だ。感謝するよ」
珀は、おそらくはまったく他意のない無邪気な笑顔を見せる。やがてその笑顔を丁寧にしまい込むと、次には真剣な顔つきになって言った。
「僕もね。翠姉さんから、少しだけ聞いたことがあるんだ」
「何を」
「ディアと人間の話……いや、どちらかと言えば、僕ら人間側の話、かな」
手元のコーヒーを一度に全て飲み切って、珀はすっと居住まいを正す。
「人間の定義ってのは、時代によって変わるもの。そう考えたことはないかい? たとえば昔々、人間ってのは、つまりは貴族のことだった。貴族として生まれることだけが唯一、人間として生きる術であり、同時に証でもあった。そしてまた別の時代には、地球が回っていると唱えた人や、魔術を使うとされた人が、非人間として弾圧されたなんて話もある」
果たして珀は、何を言おうとしているのだろう。俺はその真意が見えずに怪訝な顔を向ける。
「悪いが、史学は俺の専門外だ」
茶化したつもりはなかったが、珀はどうやら、俺の返しを冗談と受け取ったらしかった。まるで相槌のように二、三微笑み、そして続ける。
「一つの例として、人間の親から生まれた子供は間違いなく人間だ。少なくとも、今の僕たちの時代ではね。でもさ、そんな中で、人工受精なんてものを研究している人たちもいるよね」
「まあ、いるな。それで、だから何が言いたい?」
「ディアは、僕たち人間の身体の構造をほとんど模していると言っていい。今はまだ無理でも、近い未来、ディアと人間の間で子孫が残せるようになるかもしれない。そうなったらいよいよ、何が僕らを、僕らたらしめるだろう。人の精神が身体のどこに宿るのかすら知らない僕らは……」
その珀らしからぬ真面目な物言いに、俺は少しだけ息を飲む。
「つまり僕が言いたいのはね。答なんて、一概に定まるものじゃないってことさ。そのアイリスさんって人に、たぶん君は試されているんだ。でも、事はそれだけに留まらない。君が想い描く答は、もしかしたら君が想うよりも重大な結末を招くかもしれない。僕はそう思うよ」
「……ここに来て怖えこと言うな、お前」
俺が眉を寄せて苦々しく言うと、対照的に珀は、にこりと爽やかな笑顔を浮かべた。悪戯に述べた一言のようで、それはきっと、珀の本心だったのだろう。
やがて珀は、去った翠のあとを追っていった。
○
さて、まあ、しかしだ。答云々、試されている云々はさておいたとして、それでもあの人に会えないことには始まらない。世界樹に入れないことには、何一つ始まらないのだ。
数分を経て、翠は何やら、手のひら大の箱のようなものを持って戻ってきた。その後ろでは珀が、小型のディスプレイを抱えている。
「これはキューブ型コンポジットです。このジェット専用のサーバー、かつグローバルネットワークへの接続ゲートとして機能させています。また、ガラテイアの本社サーバーへも直接接続できますので、それを経由して世界樹へのコンタクトも可能なはずです」
「ほう、また面白いものが現れたな」
立方体のそれはまるで黒一色に統一されたルービックキューブのようであり、各々の面に端子の差込口やインジケータライトらしき点滅が見受けられる。メタリックな外装はいかにも重厚な印象を抱かせるが、どうやらさほど重くはないようだ。中身には、大いに興味をそそられる。
「分解しちゃダメだからね、蓮」
しかし珀が、すかさず冷やかしを飛ばしてくる。そんな珀を、隣の翠が軽く睨んで黙らせた。場を茶化すなということだろう。翠はすぐに俺へと視線を戻す。
「有線接続を行えば、あなたのノートパソコンでも初期認証は必要ないでしょう。このキューブは演算補助も行えます。必要であれば利用してください。それから」
翠は言いながらきびすを返し、俺の正面にある、白く広い壁を指し示す。
「あちらの壁がスクリーンとして機能します。それでも足りなければ、こちらのソリッドディスプレイもお使いください」
その指示で、珀の持っていたディスプレイが俺のシータの横に据えられた。
「至れり尽くせりだな」
「相応の成果を求めます」
俺の感想に、翠は淡々と、しかしいくらかの切実さの混ざった声でそう答えた。
「善処する」
俺はシータを起動させ、備えられたコードで目の前のキューブに接続する。まずはグローバルネット、続いてガラテイアの本社サーバーから世界樹にコンタクト。回線は良好、問題ない。
処理の途中、俺は冷めたコーヒーを手に取りつつも、モニターを注視する。こういったプロセスでどのくらい時間を費やすのか、何を読み込まれているのかということも、相手方の動きを想像するヒントになるのだ。手元でキーを叩く心地よい音が響く。この音は実体を伴うソリッドキーボードならではのもの。それを耳に、俺は思考に集中する。
けれどもそのとき、ふと隣に気配を感じた。左の肩に熱の感触。見ればそこには、不自然なほど近くに座る翠の姿がある。
「……悪い。邪魔なんだが」
「お気になさらず」
いや気になるっつの。
と言いかけたが、翠は貫かんばかりに目の前のモニターを凝視していた。セキュリティの解析に興味があるのか、はたまたガラテイアのサーバーに繋いでいる俺の動きを監視しているのか。どちらにせよ、このままでは地味に作業もしにくいので、俺は仕方なく右へずれる。
するとどうしたことか、反対側の肩も何かに触れた。何か――いや、珀の左肩だ。
「……邪魔なんだが」
「いやあ。思いがけず君の仕事を間近で見られるなんて、これはとても良い機会だよね」
こ、この姉弟……表面的な性格は違えど、やはり根っこは似た者同士か。俺の経験上、これは抗議をするだけ時間と労力の無駄である。無難に妥協案を提示するのがもっとも効率的だ。
「……わかったよ。画面はスクリーンに映すようにする。頼むからもう少し離れてくれ」
両側の肩を押し退けるようにして言うと、二人は渋々ながらも距離を空けた。
「そうだな……まずはさしあたり、普通にアクセスを試みているところだが」
俺がそう口にし始めたところで、画面はちょうど良くもブロックのサインを表示する。
すると隣の翠が、スクリーンから視線を離して口を開く。
「既に私が受けている報告と一致しますね。うちの研究員が調べている限り、基本的には全てのアクセスを弾くようです」
「そのようだ。今、いくつか簡単なアプローチプログラムを組んで突っついてる。ところで翠。“基本的には”ってことは、一部例外があるという見解でいいんだな?」
尋ねると翠は、ほとんど無表情を崩さないまま、しかし一瞬だけ驚きの色をその顔に呈した。
「……はい。基本的には全てのアクセスをブロック。けれど、セキュリティに対してこちらから認証を求めるようなコマンドについてのみ、プロセスが進みます」
よし、と俺は頷く。元来、セキュリティとは城を守る塀や堀のようなものである。しかし、一つの入口も設けずにただ城全周を囲うようでは、あまりにお粗末というものだ。城主は城から出られず、仮に客人がいても、誰一人中に入れない。そんなものはセキュリティとは呼べない。ゆえに、どんなに厳重なセキュリティでも、それがセキュリティである以上、必ず入口があるものなのだ。一般的なセキュリティの場合――たとえば銀行口座やサイトのマイページへのログインなんかでは、親切に向こうから暗証番号やパスワードを尋ねてくれることが多いが、つまり今の世界樹のセキュリティには、それがないというだけに過ぎない。であるならば、どうするか。こちらから入口を探し、認証を要求するようにプログラムを組めば良い。地道に城の周りを歩いて入口を探し、寡黙な門番に自ら話しかけるというわけだ。
「……さすがですね。我々ガラテイアがこのセキュリティの解析に取り組み始めたとき、少なくともそこまで辿り着くだけでも、二日はかかったはずなのに」
「まあ慣れの問題だろ。ガラテイアが作るような商用のセキュリティは、強固ではあってもユーザーに対して親切でなければならないからな。さながらテーマパークのゲートのように『出入口はこっちですよ』と案内しながら、その上で『通すべきは通す、拒むべきは拒む』を貫くものだ。あくまで客が不快に思うようではいけないという前提がある」
「それは……そうですが」
「対して今回のは、裏路地の雑居ビルの中にある、儲ける必要のない喫茶店みたいなもんだ。そもそも入口すら何処かわからないから、侵入しようと思っても上手くいかない」
「な、なるほど。なかなか、ええ……独特の比喩ですね」
「君のその、シータ、だっけ? それのセキュリティも後者の形態。つまりは発想が似ていたというわけだね」
「今はギリシャ文字の話はしていないぞ」
「またまたあ。心の中では呼んでるくせにー」
珀の言う通り、このセキュリティは俺のシータのものとよく似ている。だが、その表現は正確でない気がした。似ていると言うより、これはむしろ……。
瞬間、俺は頭の中に一つの可能性が思い浮かぶ。同時に引き続き解析を進めた。
機内にはいくらか無言の時間が流れた。自分でも非常に集中できているとわかる。飛行中とは信じられないほどの居住性と通信環境。おそらくは三時間、いや、もう少しくらいは作業に没頭していただろうか。一区切りついたところで、淀みなく動いていたこの手が止まる。
結論。このセキュリティシステムは、俺のシータのものに似ているのではない。寸分違わず同じなのだ。俺の組んだ、オリジナルセキュリティシステム。自分の生い立ちや経験、思想をあらかじめインプットしておき、それを確かめる質問によって、自分であるかどうかを判断する。質問に対する回答だけでなく、答え方そのものも情報として参照し、その癖や趣向を判断するもの。得意な分野、好きな分野の質問ならば答えは早く長くなるが、さほど興味のない質問には迷うし、そっけない答えを返す。さらに、ときには答えないことすら答えになる。そういった傾向を複合的に分析するアルゴリズムだ。おそらくは、それをあの人に適応させて作られたのが、今の世界樹を守っているセキュリティなのだろう。彼女は以前、俺のシータのセキュリティを破ったことがあると言っていた。だからこのシステムを知っていても不思議はない。
そしてその考えに至ったとき、俺の中に生まれていた可能性は、より確かな形を帯びた。
つまりはこれは彼女なりの余興――いや、もとい挑戦状。
悪戯な笑みを浮かべた彼女の姿が、俺の脳裏を鮮明によぎる。
「翠、先に断っておくが」
俺の声に、翠は少し遅れて反応を見せた。
「何でしょう」
「ガラテイアのサーバー内にある、あの人に関する情報を見させてもらう」
翠は止めこそしないが、あまり好意的な様子でもなかった。
「既にあなたもご存じでしょうが、アイリスとガラテイアは、非常に根幹的な部分で深く関係しています。アイリスに関すること全てが、我々にとっての最重要機密です」
「わかっている。けれどそれが必要なんだ」
俺は再びキーボードを叩きながら、解析したセキュリティの仕様について翠に話した。
「……わかりました。ダメと言ったところで、どうせあなたはやるのでしょう」
その通りだ。もうやっている。
「とにかく、このセキュリティを突破するには純粋に情報量が必要だ。あまり時間も多くない。もちろん自分でも調べるが、ガラテイアの歴史なんかの部分は、分かる範囲で補足を頼みたい」
「構いませんよ。その代わり、あなたもその画面でやっていることを、定期的に説明してください。テキストばかりで、私にはよくわかりません」
少し面倒な要求だとは思ったが、いつの間にか席を立っていた珀が戻りながら「僕も同感だね」と言うのに負けて、俺は了承の意を示す。
手元には、再び湯気の立つコーヒーが現れた。
「彼女は、自分が生まれて八百年になると言った。確かに俺の知る限り、ディアが発明されてからはそれくらいになるはずだ。ということは、ガラテイアも創立八百年になるわけだよな?」
「ええ。しかしより正確には、アイリスが生まれてからは既に八百年が経過していますが、ガラテイアの創立からはまだ経過していません。ガラテイアは今年で、創立七百九十八年です」
「微妙に時期がすれているのか。とすると、ここには創業より以前のデータもあるようだが」
「ガラテイアは元々、二人の学生が取り組んでいた研究――人間を模した機械生命体の研究に端を発する企業なのです」
「二人の学生?」
「はい」
俺が気に留めたのは、特に“二人”の部分だった。一般的に知られている事実として、ガラテイア創業の功労者は一人だけだ。けれど、俺にはその二人目に心当たりがあった。
「二人のうち、一人は私の血縁である遠山剛。そしてもう一人は……」
「彼女を作った人、か」
そう。俺はその人物の存在を知っていた。
翠は無言でこくりと頷く。
「彼は若くして、現在のディアの前身であるアイリスを作り出すほどの鬼才。一方で遠山剛は、工学を学びつつ経営学にも興味を持ち、のちに二人はガラテイアを創業しました」
「その、彼ってのは……名前は?」
「名前は、残っていないのです」
翠曰く、その人物に関する記録は一つとして残っていないらしい。理由については不明だが、とにかく、ガラテイア創業に関して真実を知る術は、もはや先代からの口伝しかないのだとか。翠は、現代表取締役である父親からこの話を継いでいる。ガラテイア内でも、知っているのは数人程度とのことだ。俺が調べる限り、サーバーの中にもそれらしい資料はないようだった。
「公的には、ディアの発明はガラテイア創業から一年後です。実際、アイリスも誕生当初からあれほどのスペックを持っていたわけではありませんでした」
「そう、なのか?」
不思議なのは、彼女を作った人物については影も形も見当たらないのに、彼女自身の記録は残っていることだ。いくつか情報を拾い上げる。彼女の異様に人間らしい独特の所作や振舞いは世界樹、もっと言えば、その中にあるココロプログラムによるものだ。ただ、今の世界樹が建造されたのは、彼女が生まれたときよりも、あとなのである。
「ガラテイア創業初期の功績は、大きく二つ。一つがディアの発明、もう一つが世界樹の建造です。世界樹は、建造開始から現在の姿に至るまでに三回の移設、増設を経ています。当然、初めは世界樹などと呼ばれることもなく、国内だけを視野に入れた遠隔演算補助装置として、ある山奥に建てられました」
「それが段々と需要も増えて、海の真ん中に移されて、今の世界樹になったわけだな」
「はい。その数十年の間に起きた社会の進歩は、まさにパラダイムシフト。世界は大きく変わりました。しかし、それに伴いガラテイアの創業者二人の間にある目的の違いも、無視できないものとなっていました」
目的の違い……調べると確かに、ある時期を境にガラテイアと彼女の関係は明確な対立へと変化している。
「一人はディアを人間に近づけるため。一人はディアで人間の生活を助けるため。究極的には、ディアを生命と見るか道具と見るか。その差が二人の行く道を別ったのです」
「じゃあ、彼女は自分を作った主と一緒に、ガラテイアを離れたのか」
「そう聞いています。当時、ガラテイアの経営面は遠山剛が担っていました。アイリスの主は世界樹の開発と建造を一手に仕切っていましたが、そのさなかでの別離でした」
本来は二人いたはずの指導者が一人になる。これはガラテイアにとって大きな事件と考えられるが、記録の上ではそれが巧妙に隠されていた。事実を知った俺から見ても、この記録の裏に何かを見出だすことは難しいだろう。そしてこの時点で、名実ともにガラテイアの牽引役は遠山剛、一人となった。結局、世界樹は残された計画に従ってそのまま建造されたそうだ。
「それから百年近くが経過し、ガラテイアの経営者も何世代か跨いだのち、再びアイリスは我々のもとに現れたのです。その頃にはもう世界樹は、人類社会で無二の礎となっていました」
「……もしかしたら、そうなるのを待っていたのかもしれないな。そこで彼女はガラテイアに、自分が世界樹に対して優越権限を持っていることを告知した、と」
「突飛な話ではありますが、アイリスも世界樹も、作った人間が同じなのです。筋は通る話でした。我々ガラテイアは、そのときになってようやく、世界樹の持つスペックの全てが、一般のディアやインフラの演算補助に費やされているわけではないということを知ったのです。いいえ……全てどころか、そのために動いている世界樹の領域はほんの少しで……最初から世界樹は、アイリスのために機能することを想定して作られたものでした」
「そして八百年経った今でも、それは変わらない……」
「変わらないどころか、アイリスのために動く世界樹の領域は、徐々に増え続けています」
ガラテイアは、常に世界樹の稼働状況を監視している。過去のデータも十分に蓄えられているはずだ。俺はキーボードを操作し、ここ数年で得られたデータを閲覧する。それによれば、世界樹が彼女に費やす領域は、全体に対して約九十九パーセント。
「き、九十九パーセント!?」
あまりに極端な数値で、俺は思わず声を上げた。
「信じられない! じゃあ、今、地球上で動くディアやインフラの補助として動いている領域は、たったの一パーセントだってことか!?」
「我々が使っているのは、世界樹のごくごく一部にすぎないというわけです」
一部っていうか、文字通り一分……いや、洒落になってない!
考え方によっては、たった一パーセントの稼働域で人類社会全体を支えている世界樹の能力が、いかに凄まじいかを物語る事実。しかしながら、人類の世界の中心、ゆえに世界樹と呼ばれていたあの塔は、実のところ、ほとんど彼女のためだけに動いている。世界樹は彼女を支えるためだけにあり、したがって世界樹は彼女そのもの。ああ、ここはまさしく、彼女の世界――
「……頭痛くなってきたな」
俺は指先でこめかみを押さえながらそう零す。離陸前、珀が言っていた。事態は確かに、俺が思っていたよりも遥かに深刻だ。彼女とガラテイアの間にある溝は、両者が生まれてから今に至るまでの八百年、その年月の分だけ深い。そこに横たわる深淵は、ともすればこのディアによる社会全てを飲み込みかねない。
「翠。到着まで、あとどれだけかかる?」
「現在地から世界観近傍の島まで約三時間。そこから世界観まで約一時間の、計四時間です」
俺は「そうか」とだけ呟く。焦る気持ちは当然ある。時間が差し迫っているのもわかっている。けれども、ここから先は乱れた思考で取り組める作業ではないと思った。何しろこれは、俺にとって極めて大きな秘密だった彼女の、その八百年を知る行為なのだから。
俺は立ち上がってテーブルから離れ、近くの窓を覆うカーテンに手をかけた。それを少しだけめくると、既に暗くなり始めている外界が見える。おそらく海の上を飛んでいるのだろう、眼下にはほとんど光源がない。太陽に対して地球の裏側へ回り込むような飛行。それはまるで、夜の底へ潜っていくようにも感じられた。
この闇の先で、彼女は一人、俺を待っている。
いつかと同じように優しく、そして美しい微笑みを浮かべながら。
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