ひらひらと、鳥のように宙を踊る真紅の傘。不規則に舞い、徐々に徐々に近づいて大きくなる。降りしきる雨の中、それはやがてアスファルトに当たり――

 ガッと鈍い音がしたかと思ったら、その拍子に目が覚めた。自室のベッドから窓を通して見る空は、灰の絵の具を力任せに塗りつけたかのような色をしている。夢と繋がった雨模様の空から重力に引かれた大粒の雨が、まばらに視界を横切っていく。

 先日の事故以来、俺は見えない何かに囚われながら、ぼやけた日常を送っていた。

 佐倉先生はまだ学校に復帰していない。一身上の都合で休暇中ということになっている。翠はほとんど学校に来なくなった。おそらくは結婚式の準備だろう。珀が相も変わらずよく麻雀の誘いに来るが、少しだけ断ることが増えた。

 今日は、確か休日のはずだった。時計の短針は九をわずかに過ぎている。少し寝過ごした。身体を起こし、何となしに薄暗い室内を眺める。けれどもそれは霞むように後頭部から抜けていく。渦巻く思考が、俺に疑問を投げ掛け続ける。

 人間とは何か――

 ディアとは何か――

 そのとき、不意にインターフォンの音が耳をついた。今、この家には他に誰もいないので、俺が出迎える必要がある。渋々ながら一階へと降りて玄関を開ける。

 するとそこには、彼女が立っていた。

「こんにちは。お久しぶりね」

 淑やかに可愛らしく首をかしげ、にこやかな笑顔の横で右手をひらりと振る彼女――アイリスさんが立っていた。

「……え?」

 いつも通りの黒いドレスに、鮮やかな夕陽のごとく晴れた笑顔で。

「今日はデートに誘いに来たの。蓮君ったら、最近全然会いに来てくれないんだもの」

 明らかに手ぶらで、傘すら持っていないのにまったく雨に濡れた様子がない。いったいどうやってここまで来たのか。そもそもどうしてうちの住所を知っているのか。などなど、抱いた疑問はいくつかあったが、しかしこのときの俺は意外にも動揺しており、どうでもいいことばかりを先に口にした。

「あ、ああ、えっと……最近はずっと雨でしたからね。アイリスさんの方こそ、今は晴れていないし夕方でもないですけど……来てよかったんですか?」

 先日の展望台で、翠がこの人に向かって言っていたことを、俺は頭の片隅で記憶していた。一人での外出は晴れた日の夕方だけ。確か、そんな内容だったはずだが。

「大丈夫よ。あんなの所詮は建前だもの」

 そうだろうか。翠はおそらく人より多くの建前を使って生きているが、少なくともあれだけは本音だったに違いない。

「それに、デートなら一人じゃないものね」

 ……なるほど。だがその場合、翠に小言を言われるのは、きっと俺だ。

 とはいえ、ここまで来てしまったアイリスさんを今更追い返すわけにもいかず、結局俺は、なし崩し的に彼女と出かけることとなった。

 足先は、自然と都心駅の方へと向いた。雨の雫に淡くきらめく景色の中を、俺とアイリスさんは並んで歩く。傘は一本、大きめのビニール傘を俺が持つ。けれどもそれは、二人で入るには少々きつく、どちらも外側の肩がはみ出てしまう。俺は時折、横目で彼女をうかがっては、意識的に彼女の側へと傘をずらす。

 対する彼女は「大丈夫よ、気にしないで」と花のような微笑みを俺に向けた。

 その姿を見て、俺は思う。ああ、彼女はどうして……灰の世界の中で黒一色を纏う彼女はどうして、こんなにも色づいて見えるのか。

 そして知る。人間とディアの溢れるこの往来の中で、彼女の存在は、極めて強いのだということを。それはまるで、世界のスポットライトをその身一つに集めるかのように、道行く人の大半が、すれ違いざまに彼女の方を振り返っている。たぶん彼女は、ディアとか人間とか、そういう区分なんて関係なく、絶対的に美しいのだろう。俺は、ふと抱いたそんな感想に足を止められそうになりながらも、なんとか彼女のあとを追った。

 すると、今度は彼女の方が立ち止まり、唐突に、胸の前で手を合わせて言うのだった。

「ねえ蓮君。私、服がほしいの。服を買いに行きましょう!」



 俺は普段から、駅に併設された百貨店の展望台を訪れる。しかし一方で、百貨店そのものにはまったくと言っていいほど詳しくない。全体として高級志向の食品や服飾を取り扱う傾向にあるので、一介の高校生である俺には縁がないのだ。

 よって、先を歩くアイリスさんに手を引かれたまま、見慣れてはいるものの一度もくぐったことのないゲートから店内に入り、エスカレータで一階ずつ上を目指す。そのまま六階にたどり着くと、彼女はフロアガイドのホログラフを背にして振り返った。

「さてさて、ここからが婦人服飾のフロアよ」

 彼女の言う通り、ガイド上の六階から十一階までの五フロアは、一貫して婦人物の服飾を取り扱う店舗で占められている。この百貨店の規模は非常に大きいものであるが、ただでさえ面積のあるそのフロアを五つも使って婦人物だけを売るという構成に、俺は素直に面食らった。百貨店側の力の入れようはもっともだが、それだけ商品の種類があるという事実にもだ。

 トップス、ボトムス、アウター、インナー、下着に帽子にバッグに靴にアクセサリー。周りをざっと見渡して、俺が理解できる文字列はせいぜい二割が関の山。苦難の末の解読によると今夏の流行はワンピースだそうだが、他にもオフショルダー、スキッパー、スカンツ、フレアキャミソールチュニックガウチョミュール……いかん頭が処理落ちしそうだ。これは大人しくしていた方が良さそうだな……。俺は早々に理解を諦めてアイリスさんのあとに続こうとした。

 が、しかし。次の瞬間、彼女はあらぬ発言をする。

「じゃあせっかくだし、今日買う服は、蓮君に選んでもらおうかしらね」

「え?」

 ……え?

「ん?」

 アイリスさんが、何かおかしなこと言った? みたいな顔を向けてくる。

「え? 俺が選ぶんですか?」

「せっかくだし、いいでしょう? お人形さんの着せ替え遊びとでも思って頂戴」

「いやいや、何ですかそのたとえ。俺、人形遊びなんてしたことないですし」

「大丈夫よ。ちゃんと自分で着るし」

「そういうことじゃなくて、いや、そりゃ自分で着てもらわないと困りますけど……違います。俺はレディースファッションのことなんて何もわかりませんよ。絶対無理ですって」

「大丈夫大丈夫。服選ぶだけだもの」

「だけって言いますけどね……」

 見事に世間ずれしている彼女は知らないのかもしれないが、その“だけ”の行為は、実は職業として成り立つほどの至難の業なのだ。しかし、彼女は引き下がる様子を見せず

「ほら、こういうのって料理と同じよ? 食べる相手のことを考えて作るのが大事なの。着る相手のことを考えて選ぶのが大事なのよ。要するに、鍵は愛情ってことね。私たちがお互いを知るのに、とてもいい機会だと思わない?」

 などともっともらしいことを言う。彼女の話し方には独特の雰囲気があって、たまに真面目なことを言うと、それが非常に絵になるのだ。

「幸い、モデルが良いから選ぶ側も楽だと思うわ」

 だからこれも、無駄に絵になる。まあ、おそらくは万人が認める事実だけれども……。

 再三確認したところによると、どうやらアイリスさんは、今日一日で全身のコーディネートを俺に任せるつもりらしい。幸か不幸か、ここの店舗にはそれを可能にするだけの品揃えがある。あと必要なのは、俺のやる気と根気と体力くらいか。

「……どうなっても知りませんからね」

 アイリスさんは相変わらずの華やかな笑みで、ウィンクなんかして見せる。

 さて。許可は出たものの、ぶっちゃけ何もわからないので、展示されているマネキンの服装を参考にしつつ、棚から服をいくつか拝借。流行りらしきワンピースを軸に据えた組み合わせ、それを、フロア中心にある試着室の前で意気揚々と待ち構えるアイリスさんに手渡した。

「とりあえず、これでどうです?」

 彼女は一通り目を通し、そして言う。

「んー。なーんか、違うのよねー」

 しかし第一波は敢えなく突き返された。仕方なく俺はまた別の棚を見ながらラインナップを変更し、彼女に届ける。次もワンピース。色は彼女の好きそうな黒だ。結果は……。

「えー。いつもと同じ色は嫌よー」

 ………………。

 その後も何度か選び直して提案をした。けれど、どうも彼女のお眼鏡には適わないようで、なかなか試着に踏み切ってくれない。ちなみに、以降提案したものを順々に挙げていくと……。

 シャキッとしたブラウスにタイトスカート。

「もう少しラフなのがいいわね。着易さ重視ってことで」

 ブラウンのオフショルダーにワイドデニム。

「肩がスースーするー。あと、ズボンよりスカートのがいいかなー」

 ピンクのフリルとリボンがついたチュニック。

「ちょっと、子供じゃないんだから。それにサイズも小さすぎるわよ」

 ……この人意外とわがままだな。自分のこと着せ替え人形にたとえた割りに文句が多い。

「アイリスさん……せっかく選ぶんですから、せめて持ってきた服は着てください」

 俺が泣く泣く抗議をしたら、途中からはちゃんと試着してくれるようになったけれど……ただ、なったらなったで問題もあった。

「蓮君ー。この服、ファスナーいっぱいあってわかんないわよー」

「わっ! ちょっとアイリスさん! そんな格好で出てこないでくださいよ!」

 やっと試着室に引っ込んだかと思いきや、今度は服の着方がわからないと言い、目のやり場に困るひどい姿で扉を開けてくる。

「さっきは自分で着るって言ったじゃないですか」

「だってぇー」

 この人、絶対人形向いてない!

「あの、お客様。よろしければお手伝い致しますよ」

 挙げ句の果てには、困っている俺たちを見かねたのか、周囲の女性店員が苦笑いで二人も駆けつけてくれる始末。一人はアイリスさんの試着のアシストとして試着室に入り、もう一人は、どうやら俺の方に対応してくれるらしい。

「お連れ様のものをお選びですね」

「えっと、まあ」

 俺がアイリスさんの方に視線を向けると、店員も同じようにしてそちらを見た。その先には試着室の閉じた扉があって、何やらガタガタと音がする。

「……すみません。うるさくて」

「いえ、どうかお気になさらず」

 店員が軽く両手を振る。その出で立ちや仕草には、ほどよい親しみを思わせる雰囲気がある。

「彼女さんですか?」

 尋ねられたのは何気ないことだったが、俺の心臓は少しばかり跳ねた。

「い、いえ、そういうわけでは……。そんな風に、見えましたか?」

「ええ。あるいは、仲の良いお姉さんとか」

 答えると、店員は穏やかに目尻を下げる。

 彼女。姉。周囲から見て、アイリスさんはそんな風に見えているのか。ならば逆に俺の方は……彼氏。弟。

 つまり、俺たち二人は恋人か、それか姉弟のように見えているということだ。考えてみれば、それは当たり前のことかもしれない。容姿から想像できる俺とアイリスさんの年齢は近しく、しかし彼女の方が若干大人びた印象を与える。休日のこんな時間に二人で服なんて買いに来れば、そりゃあ、然るべき関係に見えるだろう。

 ただ、実際にはこの店員の読みは外れている。アイリスさんは、俺の彼女でも姉でもない。アイリスさんが本当はいったい何者なのか、俺も知らない。一つだけ俺にわかったことは、俺以外の人から見ても、やはりアイリスさんは人間に見えるということだ。

 そう――ディアではなく、人間に見えるということだ。

 俺はそのことを、間接的にだが、今、実感した。

「選んで差し上げるんですよね、服」

 黙していた俺を気遣ったのか、店員は話の方向を戻しながらこちらに問いかける。

「はい。一応、そういうことになってます」

「喜んでもらいましょうね、是非」

 そうして俺は、途方もない数の服が並んだ商品棚と、再び睨み合うこととなった。



 あろうことか、時刻はなんと午後八時過ぎだ。この百貨店を訪れたのが午前十一時くらいだったから、計算すると差し引き約九時間、俺はずっとアイリスさんの服を選んでいた。その長い戦いの末に揃えたのは、襟と袖のある白いフレアワンピース。爪先に小さなコサージュをあしらったヒールの高めなミュールサンダル。羽根がモチーフの銀のヘアピン。ハートのネックレス。やたらと装飾の入ったフリル付きスリップ……我ながら言葉の意味は半分もわかっていないけれど、要するに上下の服に加えて、靴、髪と胸元のアクセサリー、そして下着まで選んだわけだ。これについては、アイリスさんが元々黒い下着を着用しており、試着時に

「上を白にするなら、下もそれに合わせなきゃ。このままじゃ、ほら、黒が透け透けよ」

 などと偉そうにわけのわからない主張をしてきたものだから、仕方なく選ぶことになったもの。事情を知る店員と一緒でなかったら、恥ずかしさも相まって絶対にできない所業だった。

 そんな苦労の対価というべきか、全てを身に付けた彼女の姿には、思わず目を見張るものがあった。選んだ本人が言ってしまえば自画自賛だが……うん、でも言わずにはいられない。

「悪くないと思いますよ」

 その言葉にアイリスさんは、少しだけ口を尖らせる。

「あら、違うでしょう? こういうときは、可愛いとおっしゃい」

「そう、ですね。可愛いです。とても」

「ふふっ、ありがとう」

 まあ、真に素直な感想としては、可愛いよりも綺麗と言った方が、より適切だろう。

 よほど気に入ったのか、彼女はそれらを試着からそのまま購入した。現在、俺の隣では真っ白の彼女が歩いている。適度に肌を露出した夏らしい装い。普段の黒いドレスではその白い肌がよく映えていたものだが、今は反対に、しなやかで長い黒髪が際立っている。どちらも同様に美しくはあるが、それでも抱く印象は随分と違う。女の人って、着るもの次第でこんなにも変わるものなのだと、心底感心させられる。

「ところで」

 歩きながら、俺は何気なく彼女に尋ねる。閉店間際ゆえ、進む足はやや急ぎ気味だ。

「アイリスさんの注文がうるさくて、途中からタグ見てませんでしたけど……値段、結構いってましたよね?」

「あらご挨拶ね。大丈夫よ、これくらい。……あ」

 しかしそんな中で、なぜか彼女は立ち止まった。その視線の先には、きらびやかに光る宝飾類の並ぶショーケースがあった。

「ねえ。見て、蓮君。指輪よ 」

「指輪? ちょっとアイリスさん。アクセサリーはもう十分買ったでしょうに」

「そうじゃなくて、ほら」

 言われて、渋々ながら彼女の指の先に視線を向けると、確かにそこにはいくつもの指輪が並んでいた。どうやらここは宝飾店らしい。指輪だけでなくネックレスや腕輪などもある。様々な種類の装飾品が、どれもその中心に綺麗な石を湛えて輝いている。色や形が対になったペア仕様のものもあり、凝ったデザインが自然と目を惹く。

 俺はふと、その並びの中に既視感のある品を見つけた。

「あ、この指輪……」

 思わずそう零す。アイリスさんも、同じものを見ていたようだ。

「ディアデバイスね。最新の指輪型。こうして見ると、あまり違和感ないものよね」

 そうか。既視感の理由は、過去に二度、珀と佐倉先生のものを見ているからだ。

 本来、ディアデバイスは電子機器の分類である。けれど昔と違って今は、かなりデザイン性に富んだものが産み出されている。その背景には装飾品メーカーとガラテイアの事業提携もあったりして、立派にアクセサリーとしての一面を併せ持つようにもなったのだ。ゆえにこういった店舗でも、ディアデバイスが商品として陳列されることがある。

「蓮君、これ、ほしいんじゃない?」

「ああ……まあ、ほしいですけど。結構値が張りますしね」

「じゃあ私が買ってあげるわ」

「は!?」

 まったく想定外の発言に、思わず声が上ずってしまった。いきなり何を言い出すんだこの人。

「ふふ、大丈夫よ。私、この百貨店では無敵だから」

「いや、それ前も言ってましたけど、わけわかんないですって」

「遠慮しなくていいのに」

「遠慮じゃないです。それに、そもそも俺にはリンクするディアもいないですし……買ったらバラしたいんですけど、人に買ってもらったものをバラすのも、ちょっとどうかと思うんで。やめておきます」

「えー、そう? とか言って、本当はほしいくせに」

 アイリスさんは、肘で俺をつついてニヤニヤ笑う。

 そりゃほしいけど……あー、もう。ここにいたらそのうち誘惑に負けそうだ。店舗の片付けをしている店員を視界の端に捉え、俺はアイリスさんの手を取った。

「ほら、行きますよ。ここ、もう閉まるんですから」

 さきほどよりもさらに早足で歩みを進め、けれどもアイリスさんが高めのヒールを履いていることを思い出して少し緩める。握った手から、遅れて彼女の体温が伝わってくる。

「アイリスさん、いつも暗くなる前には帰ってますよね。もう結構遅いですし、急ぎましょう」

 俺が前を向いたままでそう告げると、しかしそこで、彼女は思いがけない答えを返した。

「あら、蓮君。帰るつもり? ダメよ」

 咄嗟に俺は振り返る。

「だって、今日はこれからが本番なんだから」


     ○


 悪戯に微笑んだ彼女が俺に代わって主導権を握り、その足が向いた先は、やはりというか、俺のよく知る場所だった。俺の、俺たちのよく知る場所。

「あなたの知りたがっていたことを、これから教えてあげましょう」

 そんな言葉とともに彼女は俺を連れ、六階からエレベータをいくつも乗り継いで上へ。あの独特の浮遊感とともに夜の街を見渡しながら、雲を突き抜けて上っていく。目指すは彼方、空の世界。

「あの、アイリスさん。確かこの展望台の営業って、午後八時までのはずじゃ」

 俺が言うと、しかしアイリスさんは一本立てた人差し指を、そっと自身の口元に当てた。その仕草に俺は一瞬だけ固まったが、やがて理解し、仕方なく口を噤む。

 そうしていくらかの沈黙が過ぎると、目の前の重厚な扉が開いた。誰もいない、暗く広い吹き抜けの空間。光源は星と、地上よりも低く見える真っ白い月だけ。彼女はそこへゆっくりと踏み出し、フロアの中心で大仰に振り返った。紫の瞳がまっすぐに俺を捉え、次いで、艶やかに右足を後方内側に引き、左の膝を軽く曲げる。背筋はすっと伸ばしたまま、上目遣いでワンピースの裾を軽くたくし上げる。いわゆるカーテシーというやつだ。そして最後に右手を差し出した。

 まるで誘うように。

 まるで招くように。

「……ダンス、ですか?」

 彼女は頷く。

「俺は踊れませんよ」

「大丈夫よ。さあ、こちらへ」

 俺は言われるがままに彼女の方へと歩みを進め、水平に伸ばされたその手をとった。

 そのとき、世界が唐突に変化した。

 目に映っていたガラス壁や天井が消え、一面に漆黒の夜空が浮かび上がったのだ。所々に小さな星が輝いていて、フロアの端、外周のさらに先には地表が見えた。雲はなく、夜の底で光る人工の明かりが、星と混ざりあって地平と空の境を曖昧にする。空気の流れる音が耳に届く。俺たちがいたはずの展望台という空間は、いつしか天空に浮かぶただの円盤に変わっていた。

 やがて彼女が俺の手を引く。身体の重心がすっと動いて、自然と左足が前に出る。彼女が合わせて右足を引く。続けて反対。ステップ。ステップ。まるで本当に踊っているみたいだ。

 彼女がそっと視線で指示をする。それに従い、俺は右手を彼女の背に回す。またステップ。ターン。寄せる。彼女はにこりと満足げに笑む。

 ダンスに関して、俺は正真正銘、未経験だ。しかしながら、今は彼女がわずかな力加減や動作によって、俺の動きを制御している。彼女が俺を踊らせて、そのリードで、彼女も踊る。

 円く広い、何もないこの円盤の上は、思えば絶好のダンスホールだ。次第にあちらこちらへ動き回り、その過程で俺は気づいた。周囲が明るくなってきている。星が消え、知らぬうちに月が太陽に置き換わっている。吸い込まれそうなほどの蒼がそこにある。眼下の景色は全て白い雲。他には何も視界に映らず、まるで空の真ん中を泳いでいるかのようだ。

「あの、アイリスさん。これはいったい」

「ほら、ダメよ。今はダンスに集中なさい」

 何か不思議なことが起こっている。俺にわかるのはそれだけだった。

 アイリスさんは俺の手を頭上にして優雅に舞う。寄って、離れて、また寄って。一度手を離し、回って再びこの手をとる。彼女のヒールが小気味良いリズムを刻み続ける。

「さて、そろそろ次ね」

 言うが早いか、彼女は大きめのステップを踏み出した。すると、弾むヒールが床を突くたび、そこを起点に球状の波が生まれ始めた。波はゆっくりと広がって、青空をより色の濃い青に――紺碧の海に塗り替えていく。

 彼女は踊る。踊り続ける。それと戯れるようにして、極彩色の魚たちが現れては消える。ステップの間際、俺は地面に凹凸の感触を覚えた。ダンスを乱さないよう足元を見ると、俺たちは珊瑚の群れる岩の上で踊っている。彼女は素早い動きの中で、わずかだけある岩の平らな部分に、的確にヒールを乗せていた。それだけでわかる。何という、精密で計算し尽くされた完璧な挙動。目線はずっと俺の瞳。彼女は一切、よそ見をしない。

 どうやったらそんなことができるのだろうか。俺は彼女の踊りについていくだけで、こうもいっぱいいっぱいだというのに。

 そして今更気づいたが、呼吸はできている。でもさきほどの空の気流と同じように、海水の存在を肌に感じる。視界の両側では、俺たちを導くように群生している海藻が、ゆらゆらと心地良さそうにたゆたっていた。その奥の方へと進みながら、アイリスさんは一瞬だけ右手を離し、周囲に翳すような合図をした。

 さっと景色が、また変わる。海藻は天へまっすぐ伸びきった新緑の木々に、珊瑚は輝く芝になった。そのまま並木道を抜けていくと、今度は開けた花畑。赤、黄、青、白。他にも鮮やかな色に光る小花が俺たちを出迎える。彼女はその中心まで俺を導くと、やがてくるりと回って距離をとり、最初と同じように辞儀をした。音もなく淑やかに、ワンピースの裾を持ち上げて。

 次の瞬きで俺が目蓋を上げると、そこはもう、しんとした夜の展望台だった。

「ふふっ。どうかしら? 粋な演出だったでしょう?」

 相も変わらず俺が驚いた表情をしていると、それを見て彼女は笑みを深くする。

「……今のは?」

「今のは、何だと思う?」

 率直に問われ、しかし俺は答えに窮した。的確な答えが返せるほど、現実に理解が追い付いていないのだ。……そうか。ならばこれは、現実ではなく。

「……幻?」

「ざーんねん。ハズレ」

 アイリスさんは回れ右をして俺に背を向けた。

「これは、光と音の可干渉性を利用した立体映像(ホロイメージ)と立体音響(ホロサウンド)。実物を元に得られた景色や音の情報を、現実の空間座標を参照して投影したものよ。さっきのを例にとれば、空や海、森の情報を、この展望台を中心として仮想的に展開したってこと」

「そ、そんなこと――」

 できるはずがない。確かに、この展望台に導入されている設備やシステムは、そこらの施設のものと比べれば飛び抜けて良い方だ。たとえばここのカフェに備えられたディスプレイやカメラなどが定期的に最新のものへと更新されていることも、よく訪れる俺は知っている。けれど、だからといってそれで納得ができるほど、さきほどの“粋な演出”とやらは甘くない。

 立体映像(ホロイメージ)や立体音響(ホロサウンド)という技術自体はさして珍しいものでもない。しかしあの演出に関してはもはや別格だ。どこまでも緻密で美しい本物のような再現性。素早い転換を行う出力速度。些細な違和感すら抱かせない完璧な微調整。そして、それらに付随する膨大なまでの情報量。

「あり得ない。あんな投影、並大抵の処理能力じゃ不可能だ」

「そうね、よくわかっているじゃない。驚き呆けていたようだけれど、そういうところは、やっぱりちゃんと見てるのね」

 彼女の声は、素直に感心したようであった。でも、あんなの少し見ただけですぐにわかる。はっきり言って規格外なのだ。視覚や聴覚の情報から、まるで本当にその場にいるかのようなリアルタイムな感触まで想起した。感覚が理屈を飛び越していた。それほどのことができるスペックを保有した計算機なんて、俺はまったく聞いたことがなかった。現存するどんなスーパーコンピュータでも、とても可能とは思えない。もしも仮にあるとしたら、それは……。

「世界樹」

 そう。世界樹くらいのものである――え?

 俺が胸中に抱いた言葉を実際の音にしたのは、他でもない、目の前に立つ彼女だった。黙す俺に、彼女は落ち着いた声音で告げる。

 それは突飛な戯れのように。

 それは厳正な真理のように。

「あのね、蓮君。私が、世界樹よ」



 闇夜の果て、天から降ろされた細糸のような世界樹の光を、俺は強く意識する。

 彼女が教えてくれるというのは、どうやら、彼女自身の正体についてのようだった。

「知りたがっていたのでしょう?」

 そう問われてしまえば、もちろん肯定せざるを得ない。だって俺は、彼女がいったい何者なのか、ずっと気にしていたのだから。

「でも、アイリスさんが世界樹って……あの、よく意味が」

「そのままの意味よ。私は世界樹。世界樹は私。世界樹は私の処理装置(プロセッサ)であり記憶装置(データストレージ)。そして私は世界樹の端末装置(ターミナル)。要するに、あそこに建ってる塔もこの身体も、ひっくるめて私」

 述べられた用語たちは、俺にはいくらか慣れ親しんだはずのものだった。けれど、それでも、彼女の言っていることがよく頭に入ってこない。

「ちなみに、一般的なディアやインフラがあれとリンクして、演算補助や情報授受をしていることはご存知ね。でも、私の場合はそういう、親機に子機がぶら下がっているような関係とは違うの。あれは私そのものだから」

「アイリスさん、そのもの……?」

「そう。私、そのもの」

 彼女は答えた。遠く聳える世界樹を、彼女の言うところの彼女自身を、ただ見つめて。

「さっきの演出は、あれを使って実行したわ。あなたの想像通り、結構重たい計算をした。あとは、システムの構成上、リンクしている機器には私から自由にアクセスすることができるの」

「自由にって……でも、セキュリティとか」

「そんなのあってもなくてもおんなじよ」

 少なくとも私にとってはね。彼女はそう、軽々と付け加える。

 あってもなくてもって……んな馬鹿な。リンクした相手に問答無用で入り込める? ネットワークを礎とし、ゆえに情報の保護を何よりも重要と考える今の社会で、いくら世界樹でもそんなことできるわけ……。

 しかし俺は、そこではたと気づく。できるわけないとは、言い切れないのだ。

 ネットワークを礎にするということは、つまりは世界樹を礎にすることに他ならない。世界樹についての情報は、現代ではもっとも厳重に保護――あるいは秘匿される部類の情報だ。今の俺が持っている知識の中に、アイリスさんの言葉を否定できるものはない。

「ほら、この間、とある事故があったわね。あのとき、一時的に周りの機器を止めたのは私」

 事故……佐倉先生とタカヤ先生の件。そして、そこで起こった局所凍結(ローカルフリーズ)。

「ちょっと乱暴だったけれど、あれはあれでよかったでしょう? あのディアが停止寸前だったことはとっくにわかっていたのだし、あなたが余計な面倒に巻き込まれて、私のところへ来る時間がなくなると嫌だものね」

「そんな理由で、あれだけのことをしたんですか」

「あ、それからついでに謝っておくと、いつだったかあなたのノートパソコンも少し覗いたわ。シータちゃん、だっけ?」

「え」

 突然の告白に思考が飛ぶ。けど、そうか。どんな機器にでも入り込めるのなら、もちろん『俺の』だって例外ではないのだ。

「ただ、安心して。見たのは例の探偵ごっこについてのデータがほとんどだから」

「……ほとんどってことは、他のも少しは見たんですね?」

 沈黙が一拍。やがて、のち。「ほんの少しね」とまったく悪びれる様子のない口調で彼女は言った。

「お買い物のときディアの代わりに支払いをするアプリケーションとか、色んなデバイスにディアなしで接続するためのソフトウェアとか。他にも自作のプログラムがいっぱいあって……ふふっ、ついつい中身を見たくなっちゃったの。ねえ、あなたの書くソースコードって、とってもセクシーなのね」

 うーん。これは少しどころか、結構がっつり覗いてるな……。しかも、その感想は仮に褒めているのだとしても、微塵も意図がわからない。改めて思うが彼女の感性は独特だ。

「中でも特に面白かったのは、全体を保護していたセキュリティかしら。機械的な防衛アルゴリズムもさることながら、自身の癖や趣向を考慮して、正しく自分だけがアクセスできるようなオリジナルのセキュリティシステムは秀逸の極みよ」

「……と言いつつ、あなたは易々と破ったわけですね」

「ええ、とっても秀逸な、美味しいスパゲッティコードだったわ」

 ……スパゲッティとは心外な。あのコードはわざと複雑に、わかりにくくしてあるのだ。

「ま、そんなわけだから、この地球上でネットワークに繋がっているものは全て、私の目、耳、手足同様。例外はないわ。私はそういう、特別なディア」

 彼女は凛とした声音で明言する。その様子は既に、さきほどまでの冗談混じりなものから、ミステリアスな雰囲気を思わせる嫣然なものに変わっていた。

 ディア。特別な……ディア。俺は心の中で何度も呟く。

「アイリスさんがディア……本当に……?」

「ええ、私はディアよ。自己紹介では、初めからそう伝えてあったはずだけれど?」

 記憶には、ある。だけど……。

「信じ、られない」

 外を向いていて表情の見えない彼女が、しかし薄く微笑んだのが、俺にはわかる。白く冷たい月の逆光を背に、やがて彼女は振り返った。

「なら……見せてあげましょう」

 それは、ぞっと背筋が凍るほどに美しい声で。

「いいえ。あなたには……是非見てほしい」

 俺は身じろぎ一つできなかった。

 その間に、彼女の手が、身に付けているワンピースのボタンに触れる。上から順に外されてゆき、その下から、背後の月と同じくらい白い肌が露わになる。衣擦れの音とともにワンピースは床へと落ち、下着までもが取り払われる。瞬く間に彼女の身体を包むものはなくなる。

 そうなってから俺は、ほとんど条件反射で目を瞑り、反対を向こうとした。

「ち、ちょっとアイリスさん!」

「ふふっ。確か、前にもこんなことあったわね」

 ――向こうとした、直前だった。瞼を下ろしきる前のほんの一瞬。視界に映った光景の破片が神経を伝い、少しだけ遅れて脳で処理される。そこに映ったものが何なのか理解する。

「でも、今日はあのときのようにはいかない。しっかりとあなたに見てもらうわ」

 見えたのは、彼女の胸に浮かぶ刻印――

 Dear-01

 そしてもう、俺はこの目を見開いていた。彼女に向き直っていた。羞恥心とか罪悪感とか、そういった想いはとっくに吹き飛んでいて、まるで絡めとられたかのように目の前の彼女に強く強く目を奪われる。一糸纏わぬ彼女の肢体が、淡い光を気高く跳ね返している。

「もう一度言うわ。私はディア。現代の人類(あなたたち)がディアと呼ぶものの、その《原型第一機(ファーストプロトタイプ)》。なおかつ、それと同じ呼び名のOSを搭載している。今から八百年前――より正確には、今から八百三年六ヶ月九日と三時間二十四分前、私はこの世界に産み出された」

「なっ……!」

 八百年前。彼女は確かにそう言った。それは歴史的に、世界で初めてディアが作られた時だとされている。目の前の彼女が本当にその原型第一機(ファーストプロトタイプ)とやらであれば、これまで八百余年の時を永らえてきたことになるが……仮にそうだとしてもまったく不思議ではないくらい、彼女という存在は超越的だ。ここまで彼女が語った話は果てしなく突飛なものであるけれども、しかしそれでも事実に矛盾する点は一つとしてなく、また、俺の知識や推測とも重なる部分がいくらかある。そのことがどうにも、俺に、彼女の言葉を疑わせない。

「じゃあ、俺たちがいつも口にしている、ディアってのは……」

「元々は私のことよ」

 遥か昔、彼女だけに与えられた、その名前。八百年という気の遠くなるような長い時間が、その“ディア”という言葉を一般化させたのだ。

「まあ、最初のうちこそ少し変な気分だったけれど、でも別に、もう気にならないわ。本当の意味で私をディアと呼ぶ人は、とっくの昔にいなくなってしまったからね」

 本当の意味――単なる一般呼称ではなく、アイデンティティを持った個としての、ディアという名前。八百年前、彼女の隣でそれを口にしていた人。

「それは……あなたを作った人、ですか?」

 尋ねると、彼女は優しく顔を綻ばせた。

「ええ。彼はとても変わり者でね。私を本物の人間のように扱ったわ。そして同時に、人間として生きることを私に求め、ここに――」

 述べながら、彼女は左手をそっと自身の胸に重ね。

「ココロプログラムを埋め込んだ」

 しんとした空間に彼女の透明な声が満ちては消える。周囲には一つとして他の音はなく、純乎たる沈黙がそっと降りる。彼女の背後では世界樹が、脈動のように放つ光を明滅させている。

「あら、今度は驚かないのね」

 彼女は少し意外そうな顔をして言った。

「驚いていないってわけでは、ないですよ。ただ……」

 ただやはり、俺は彼女を疑えないというだけで。異様なほどに人間然としたその言動を説明するには、ココロプログラムくらい都市伝説めいたものを出さなければ釣り合わないと、そんな風に思っただけで。いつかの彼女の話では、ココロプログラムは極めて膨大な記憶容量と複雑な演算を要求する。そういうことを鑑みると、納得できてしまうのだ。

「そのための、世界樹なのかなって」

 すると彼女は「ふふっ」と笑った。

「察しが良いわね。やはりあなたは優秀だわ」

「優秀、ですか」

 俺の口から零れたのは、呟くような、あるいは自虐的ですらあるかのような冷めた声だった。

「買い被り過ぎですよ。だって俺は、あなたが人間かディアかも、わからなかったんですから」

 わからなかった。本当にわからなかった。これまで俺は、いち早く人間とディアの差を認識し、それを正しく判断してきたつもりだった。

 なぜならディアは、そうしなければならないほどに、俺にとってはひどく曖昧な存在だったから。ひどく人間に見える存在だったから。

 それでもふとしたときに、やはりディアはディアらしくもあり……不明瞭で、拭いきれない謎と違和感に満ちている。

 ゆえに、これまで、俺は自身の認識によってのみ、俺の見る世界を辛うじて秩序立ててきたのだろう。

「少しは自信があったんです。でも、わからなくなりました。あの事故のときからです。俺の先生のディアが止まって、先生はそのディアのこと、本当の人間みたいに大切にしていて……」

 あの日から、病院で佐倉先生と話したときから、俺の潜在意識に巣食っている感情がある。

「人間とディアって、俺が考えていたよりも簡単じゃないのかもしれないって……そう、思いました。あなたは、以前、俺に言いましたよね。シリアルナンバーやメモリの有無は、ディアと人間の間にある単なる違いの一つに過ぎず、分かつ根拠にはなり得ないって」

 初めて聞いたときはわからなかった。でも今では何となく、それがわかるような気がするのだ。

 彼女はまっすぐ俺を見つめながら、静かに首を縦に振る。

「シリアルナンバーやメモリ。ネットワークやデバイスに接続する機構。演算装置。そういったものの有無は、ディアと人間の特徴を並べ立てた帰納的な理解でしかなく、その特徴が直接的にディア、あるいは人間であることを証明するわけじゃあない」

 その通りだ。人間とは何か。ディアとは何か。本質的なものはきっと、もっと他のところにある。そんな気がする。なぜなら俺は、この期に及んでまだ、この人がディアだって信じられないのだ。目の前の彼女は本当にディアなのか。解答を見たはずの今でさえ、そんな疑問がいつまでも頭の中をぐるぐると回っている。

 彼女の身体はさきほどから直立しているだけに見えて、常に呼吸や無意識の重心移動による微妙な揺らぎを孕んでいる。背景にある生命活動だけでなく、その思考すら思わせるような佇まい、外見、話し方。彼女に付随するそれら全てが、彼女を生きた存在として俺に認識させる。ともすれば人間よりも人間らしい彼女。その彼女が人間でないのなら、この世界の誰も……誰も人間たりえない。そんな風にさえ、思う。

「この世界に生きる人のほとんどは、おそらくは気にしたことすらないでしょう。けれど実のところ、人間とディアの定義は驚くほどに曖昧よ。科学技術の進化に対して、人類の倫理観や社会学はとうの昔からまったく追随できていない。かつて、人間は様々に定義付けられていた。知能を持つもの。言葉を話すもの。文化を持つもの。思考をするもの。道具を使うもの――でもそれは、今となってはディア(わたしたち)にだって当てはまること」

 そうやって、考えれば考えるほどに、ディアと人間の違いはわからない。彼女と俺の境界はわからなくなる。たとえば、もし、ある日。俺の代わりに、俺を模したディアが現れて、誰もそれに気づかなかったとしたら、どうなるのだろう? ディア本人も、自分がディアであることを知らなかったら? その身体は作られたもので、心も本当はプログラムで、けれど自分が人間だと思い込むように作れただけだとしたら?

 いや、もしかしたら……実はもう、とっくにそうなっているのかもしれない。俺はこれまで、自分を人間だと思っていた。至極当たり前に、一度も疑うことなどなく。でも、本当は……。

 ――ディア?

 俺はディアなのか?

 ふとそんな疑問が思考の片隅に浮かんだとき、見える世界が、一瞬にして揺らいだ気がした。自分が今まで人間だと、そう思って見てきた世界は、実は偽物で、機械的に処理された情報でしかなくて。もしそうだとしたら、俺は……。

 唐突に目の前が暗転し、明転し、そしてまた暗転する。明転、暗転、明るく、暗く、白く、黒く、繰り返されて脳がチカチカする。まるで出会ったことのない不安が、恐怖が、戦慄が、この身体に染み込んでくる。本当は、俺は。

 俺は。

 俺は、俺は、俺は俺は俺は俺は――――――

「大丈夫よ」

 そのとき聞こえたのは彼女の声だ。彼女の凛々しくも穏やかな一言が、俺を混乱という津波から引き戻した。

「蓮くん、大丈夫。心配しなくても、あなたはちゃんと人間よ」

 彼女はあたかも、俺の思考を読み取ったかのように話す。

「十七年前、あなたは母親の体内からこの世界に生まれた。その心と身体は、人工的に作られたものじゃない。そういう記録が、確かに世界樹の中にある。そしてこの世界は私の世界。世界樹(わたし)が支える世界なのだから、この世界で、あなたはちゃんと人間だわ。私が保証してあげる」

 まるで諭すかのような彼女の瞳。その果てのない紫色は、俺を吸い込まんばかりに深い。

「ええ。いつかあの世界樹が枯れてしまう、そのときまではね……」

 俺はただ、唖然とするばかりだった。頭の中では何も、何も考えることができない。

 やがて、彼女は何かに気づいたように眉を上げ、唐突に言った。

「あら、ようやくお出ましかしら」

 意味もわからず、俺は恐る恐る彼女に尋ねる。

「……な、何が……ですか?」

「エレベータの上がってくる音がするでしょう?」

 ……エレベータ、だって?

「もしかして……人が上がってきているんですか?」

「ええ、うるさい連中。きっとあの会社の人たちね」

 それを聞いて、俺は咄嗟に夢から覚めたような気分になる。

「は、早く服を着てください!」

 改めて見てみると、この状況は極めて異常だ。終業した展望台。月明かりの下の、裸体の彼女。そして俺……色々と説明も言い訳もつかない有り様なのは間違いない。

「どうしてこんな時間に!? つっても、そりゃあ俺らが営業時間外に勝手に入ってるんだしわからなくもないけど、でも何で今更? あの会社って、ガラテイアのことですよね?」

「そうよ。たぶん、私を探していたんでしょう。何しろ私はあの世界樹なのだから、それを知る彼らにとって、放っておくには手に余る存在。好きに行動させたくないのよ」

 彼女は相も変わらず、一つの動揺もなく語る。

「一方で、私の身体をメンテナンスする機器や資材は彼らにしかないから、私としても、あまり無下にはできなくてね。ま、持ちつ持たれつ、相互脅迫関係ってとこよ。どのみちここに逃げ場はないし、大人しく彼らが上がってくるのを待ちましょう」

「そんなっ! いや、だったらせめて服をですね!」

 結局、俺が一人であたふたしている間に、背後でエレベータの到着の音が響いた。現れたのは三人だ。白衣の女。スーツにサングラスの男。そして翠。

「那城さん! やはりあなたでしたか」

 ツカツカと、現れるなり足早に鳴る翠のハイヒールの音は怒っていた。

「す、翠。何でお前!?」

「それはこちらの台詞です! 私は、アレの管理を任されている立場にあるのです。最近、アレの行動にイレギュラーがあるときは、全てあなた絡みですよ。今日だってこんな時間にこんな場所で、しかも、揃って位置情報の発信まで遮断して!」

 位置情報遮断……? いや、それは俺も初耳だ。

 ディアの位置情報の隠蔽は違法行為ですよ、と翠が詰め寄ってくるけれども、知らないものには答えられない。まあ……やったのが誰かは想像に難くないが。俺が言い返さないで曖昧に黙っていると、そのうちに翠は大きな溜息をつき、こちらに背を向けて告げた。

「とにかく……今日はもう、帰ってください。下にステラを待たせてあります」

 それと同時に、スーツの男が俺の横に立った。どうやら有無を言わさず連れていくつもりらしい。なるほど、こいつもディア、おそらくは警護に特化したタイプのディアだ。

 俺が仕方なくその先導に従おうとしたところで、翠が再び口を開く。

「それから、先日の佐倉先生との話も含め、彼女にガラテイアへのクラッキングから例の事故までの聴取を、改めて行いました。しかし、彼女からは時の凍結についての話が一切出てきませんでした。クラッキングと重なったのは、まったくの偶然だと」

 聞いて、俺の胸に特段の驚きは湧いてこなかった。きっと、それは嘘ではないのだろう。佐倉先生は、時の凍結とは関係がない。俺は素直に、そう思えた。

「営業時間外のここへの侵入、今回は不問にします。代わりに後日、あなたの持っている情報を提供してください。我々の知らないことを、今のあなたは知っているのでしょうから」

 俺はそれを聞き、黙ったままエレベータへと乗り込んだ。

 翠の背中は、まるで俺を睨んでいるように見えた。あるいは、さらに向こう側から俺へと届く一つの視線を遮ろうとするようでもあった。

 もちろん、翠の提案を拒否するという選択肢は、俺にはない。けれど俺は、今日自分が知ったことを翠に話す前に、それについてよく考える必要があると思った。

 そう、きっと俺は、もっともっとたくさんのことを、考えなければならないはずだ。

 願はくは、人間として。考えなければならないはずなのだ。

 空の世界から戻り、煌々と輝いていた月の光が、深夜の微弱な街灯りに溶ける。地上まで下りると、遠く聳える彼方の世界樹がいっそう遠くなったように、俺は感じた。

 遠い。ただ遠い。ただ、ひたすらに。そうして俺は、遠い昔、初めてあの塔に抱いた憧れと同じくらい強い気持ちを、再び今、この胸に想起する。

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