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あれから数日、翠は放課後になると風のように颯爽と消えた。どうやら珀に至ってはしばらく顔を合わせてすらいないようで、俺が先日、資料を押しつけられた話をすると
「あ、よかった。生きてたんだ。心配だなあ。元気そうだった?」
などと尋ねてくる始末。いや、お前ら姉弟だろ。家で会わねーのかよ。と突っ込みたくもなったものだが、二人の境遇を考えると、それも冗談ではないのだろう。
そんな調子で、一人で漠然と頼まれた調査のことを考えながら週末を迎える。翠が紙面で調査内容をまとめてきたので、俺もそれに合わせようとレポートソフトで文章を練った。
とはいえ、こちらから提供できるネタのストックはもう既に尽き気味で……ゆえに俺は、ここまで得られた情報をまとめがてら、多少の憶測を含めつつ取り留めもなく書き連ねていくことにする。
午後になってしばらく経ち、集中力の枯渇を感じた俺は、両親とそのディアが外出してしまって誰もいないリビングに下り、随分と遅めの昼食をとった。俺の両親はともにディアについての研究を仕事としており、大抵は休日でも出勤する。一人の家はもうすっかり慣れたもの。
食べ終わった食事を片づけていると、突然シータに着信が入った。短いメッセージだった。
『シエスタ代わりにお茶でもいかが?』
数個の文字だけが並ぶ簡易なそれ。発信元は不明。しかし、誰からのものかは直感で分かった。おそらくは雲の上のあの場所にいる、彼女――あれ? 連絡先なんて教えたっけ?
わずかな疑問が一瞬だけ脳裏をよぎったが、しかしすぐに注意は別のところへ向く。俺は、自然と唇の片端が引き上がるのを自覚した。ちょうどいい。このまま翠に伝えるのはどうかと思っていた、憶測混じり見解を聞いてもらおう。
俺は手早く外出の準備を済ませ、通い慣れた目的地を目指した。
地下鉄で都心駅を訪れる。その周辺は、いつかと同じく、百貨店を中心として人でごった返していた。だが今回、それは既にわかっていたことだ。何しろ今日は、新型リングデバイスの受け渡し日なのだ。この百貨店で予約をした人たちが、与えられた整理番号にしたがって時間別の受け取りに訪れている。梅雨の大雨の中、わざわざご苦労なことである。
聞けばどうやら、あのデバイスは非常に前評判が良く、人によっては数ヶ月待ちの状況なのだとか。まあ、俺もどちらかといえば欲しいのだが……ちょうどいいから今回の調査の報酬に、珀か翠にでもせびろうかと密かに考えている。
俺は人混みをかいくぐりながら、百貨店の上にあるタワーの展望台を目指した。天高く聳えるその場所へと直接繋がるエレベータは、百貨店の正面入り口とは別の、少し脇の方にある。大層な予算がつぎ込まれたと見える、非常に瀟洒な様相のそれ。定員百人を上回る凄まじい積載力。高級感ある大理石のような床。全面ガラス張りの広大な空間。そういった立派なものに、しかし今となっては自分しか乗る気配がないというのは、まさしく栄枯盛衰の象徴のようではないか。
俺が目指す最上階のボタンを押して扉を閉めると、いよいよ箱状の空間が揺れて浮き上がる。それと同時に、この心もふわりと踊る。いざ、地上を離れて空の旅へ。そう意気込みながら、眼下に広がる傘の花々をぼんやりと眺め――しかし不意に。
その光景が目に飛び込んできたのは、まさしく偶然だったろう。
大きめで無地の赤い傘。見覚えのある男性が持つ一本のそれに、さらに見覚えのある女性が一緒に入っている。記憶と格好が違うので一瞬だけ気づくのが遅れたが、間違いない。
――タカヤ先生と佐倉先生。
落ち着いた色合いのカジュアルジャケットに細めのパンツ。タカヤ先生は長身なので、そういった格好がよく似合う。対して佐倉先生は、薄手のカーディガンにフレアタイプのロングスカートという清楚な出立ち。私服の二人、プライベートの二人を見るのは初めてだった。
既に空の世界へ向きつつあった俺の意識が、驚きを伴って一手に地上へと引き戻される。俯瞰の際、ちらりと見えた二人の様子。互いにしかと手を繋ぎ、一つの傘の下で寄り添って行列に並び、慈しむような笑顔で目を細めて見つめ合う、その様子。どこからどう見てもまるで恋人同士にしか見えないそれは、遠く離れた場所にいる俺の胸に、強烈な齟齬を抱かせたのだ。
一瞬だ。一瞬しか見えなかった。でも、感じた。
あの二人の振る舞いは、明らかにディアと人間のものではない。ディアに対する、人間に対するものではない。違う。そうではなくて、もっと別の……それを越えた、似て非なるもの。
では、それはいったい、何なのだろう? タカヤ先生が佐倉先生に触れる手に、込められたものは何だろう? 佐倉先生がタカヤ先生を見つめる眼差しに、込められたものは何だろう?
おそらくそれは、導き出すに困難なものではないだろう。きっと俺は、それを知るのに必要なものを、もう既に持っているのだ。
考えるうちにいつの間にか、視界は雲に包まれていた。透明な壁に打ち付ける雨粒。けれどそれも、徐々に量が減っている。この雲の層を突き抜ければ、上は赤々と輝く常晴れの世界。
そして知らぬうちに、さきほど抱いた齟齬という感情が、俺の中である種の確信へと変わっていることに気づいた。これから向かう先で、彼女に聞いてもらう憶測の、その、根拠のない確信へと。
エレベータが停止し、展望台への到着が告げられる。俺は静かに扉が開くのを待った。しかし、意外なことにそれよりも早く、扉を挟んだ向こう側から声が聞こえた。
「どうして、あなたが今ここにいるんですか!?」
何だろう。いつも静かなこの場所にしては意外である。いや……違うな。真に意外なのは、その声に聞き覚えがあることだ。語尾を強め、少し苛立っているような印象を受けるそれは、普段俺が学校で、快活で晴れやかなものとして聞いている声。遠山翠の声と似ていた。
「一人での外出は、晴れた日の夕方だけという約束では?」
「あら、今はちゃんと夕方だし、ちゃんと晴れているじゃない?」
対して、こちらは明らかにアイリスさん。咎めるような相手の語調を、まるで意に介さぬ飄々とした返事だ。
「ここは雲の上ですよ。晴れているのは当たり前です! 今、下は大雨、約束が違います!」
「まあまあ、いいじゃない」
「いいわけありません! あんなに揉めて、やっと決めたルールですよ!」
そこまでを聞いて、俺は咄嗟に扉の脇へと姿を隠し、次いでエレベータの『閉』のボタンに指を乗せた。扉の陰で耳をそばだて、フロア内の会話に注意を向ける。
本来ならば、ここは壁越しに盗み聞きができるような狭いフロアではない。しかし、今は彼女たち以外に誰もいないらしく、辛うじて聞き取ることができた。険悪かつ張りつめた間が流れて、のち、呆れた溜息混じりの追及が続く。
「では質問を変えます。なぜ私を呼んだのですか。あなたと違って、私は忙しいのですよ」
「あら、今日は学校、お休みなんでしょう?」
「学校が休みだからこそ、私は仕事をしています」
「仕事、ね。ああ、今は結婚式の準備だっけ。おめでとう」
「ありがとうございます。ですが、その言葉を頂くのはこれで五回目です」
何とも冷めた祝辞に、これまた引けを取らない冷めた謝辞。互いの抱く嫌悪が見え隠れする――いや、これでは到底、隠れているとは言い難い。
「ねえ、その結婚式、私は招待してくれないの?」
「ご冗談を。あなたが私の結婚に興味があるとは思えませんが」
「そう? 自分を庇護する会社の、後を継ぐ人の結婚式よ? ちゃんと気にしているわよ」
「庇護だなんて、おかしな表現をしないでください。双方の立場的に、あなたを式へ呼ぶことは致しかねます」
「あ、そう。ま、別に構わないけれどね」
そしてまた、とげとげしい沈黙。両者、口にするべき次なる言葉を考えているのか、途中挟まれた「座ったら?」「いえ、結構です」というやりとりは、社交辞令のこれ以上にないお手本のようでもあった。
しばらくして、今度はアイリスさんの方から口を開く。
「そういえば、最近、何か調べてるのね?」
その言葉に、相手は少しの驚きを示したようだった。空いてしまった妙な間を誤魔化しきれず、それでも平静を装うようにゆっくりと答える。
「……あなたは、本当に何でもご存知なんですね」
「ふふっ、そうね。この世界の人間がディアと、そしてあの塔に頼って生きている限りね」
あの塔とは、紛れもなく世界樹のことだろう。確かにあれは、今の人類の世界全てを支えている。けれど、それとアイリスさんが物知りであることと、何か関係があるのだろうか。
考えていると、そこで突然、景色が変わった。エレベータの扉が独りでに開いたのだと俺が理解したのは、やや遅れてのことだった。目の前に開けたフロアの奥から、よりいっそうクリアになった、悪戯に弾む声がする。
「と、言いたいところだけど、今回は別よ。彼に聞いたの。そうよね? 」
その問いは、明らかに俺に向けられたものであった。動揺を抑えつつ見やれば、アイリスさんの視線が離れたこちらのエレベータ、俺の方へと向けられていた。真横からの夕陽に照らされた、俺の知るいつもの笑顔――穏やかで優しく、そして美しい表情で、ニコリ。
……バレてたか。
隠れる術をなくした俺は、仕方なくその場をあとにして歩き出す。行く先にいるのは、テーブルに座るアイリスさんと、すぐ隣に姿勢良く立つ女性――やはり翠。
アイリスさんと違って翠は、俺の姿を見ていくらか驚いた表情をしていた。今日の翠は、俺のよく知る制服ではなくスーツ姿だ。皺一つない黒のジャケットにスラックスという装いは、出来る仕事人を思わせる。
俺が二人に近づくと、やがて翠が、アイリスさんに向けて言った。
「……彼は?」
「あら、二人はお知り合いでしょう?」
「そうではありません。彼とあなたは、どういうご関係ですか」
アイリスさんは首を傾げ、わかりやすい思考中のポーズを示したのち、しれっと答える。
「彼は私のお茶飲み友達よ」
お茶飲み友達などと言われて、俺の方は少し不思議な感覚を覚えてしまう。だが、なるほど確かに、それは彼女と俺の間柄の形容として、過不足なく正しい言葉のように思えた。俺と彼女はここでしか会わず、俺は、ここ以外での彼女の一切を知らないのだから。
けれどそんな説明に納得するはずもない翠が、その端正な顔に目一杯の怪訝を浮かべる。
「那城さん。私からの依頼の件、この方に口外されたんですか?」
……那城さん? これはまた、なんと距離を置いた呼び方か。学校とは大違いだ。
制服を脱いでスーツを纏った翠は、ガラテイアの後継者としての翠ということか。
「いや、確かに、雑談程度に話しはしたが……お前やガラテイアの名前はもちろん、何かを特定できるようなことは、一切話してないぞ」
当然俺にだって、そのくらいの節度はあるつもりだった。俺がアイリスさんに言ったことなど、頼まれた調査の内容全体からすれば、非常に些細なことでしかない。しかしこの場でそれを簡単に信じるほど、翠は呑気な性格ではなかろう。視線には疑いの念が多分に含まれている。
「本当よ。彼はあなたが困るようなこと、何一つ口には出さなかった。でもほら、私って、何でもご存知だからさ」
それは、窮した俺へのフォローだろうか。呟くようにアイリスさんは言い、そして笑った。彼女が俺へ向ける笑みと、翠へ向ける笑みは、同じ笑顔であっても大きく違う。前者は柔らかい悪戯なそれ。後者は鋭い挑戦的なそれ。翠を相手にするときのアイリスさんの笑顔は、まるで腹の探り合いに興じているかのようである。
「だって、ねえ? 他でもないこの私が、彼の話とあなたの挙動、その他諸々を組み合わせて考えれば、いとも簡単にわかることではなくて?」
「……そう、ですね」
俺ではなくアイリスさんの方からからもたらされた疑念への返答に、翠は渋々の納得を示した。短い間に、わずかながら幾度も動いた翠の表情からは、そこへ至るまでの思索がいかに複雑であったかを物語る。ただ、翠が実際に何を納得したのか、俺にはよくわからなかった。
「それで、成果は出たかしら? 探偵さん」
翠の追及に片が付いたと判断したのか、やがてアイリスさんは、俺にそんな質問をした。あえて何についての成果かは口に出さないが、言うまでもない。翠と俺が調べているガラテイアへのクラッキング、ひいては違法OS諸々の件であることは明らかだった。俺としても、ちょうどその話を聞いてもらおうと思っていた。まるで俺の心を読んだかのような先回りの質問だ。
「えっと、成果と言えるほどのものかはわかりませんが……一応は」
するとアイリスさんは、引き上げた口元を閉じ無言で、俺へそっと目配せをする。続きをどうぞ、と。隣の翠の表情は未だ少し険しいままだが、同じく沈黙しているあたり、話しても問題はないということだろう。
海のように広がる雲の上にぽっかり浮かぶ朱色の太陽は、依然その全身を隠すことなく保っている。どうやら宵は、もう少し先。俺は二人を前にして話し始めた。
「そうですね、お互い、どこまで事情が共有できているのかわかりませんけど……じゃあまずは、ざっくりとした経緯から」
そう前置いて俺は、ちょうど今朝にまとめた内容を話し出す。
過去の二回に渡るガラテイアへのクラッキング。そのうち一度目は、元研究員のアカウント情報を利用されてサーバー内に入り込まれたこと。また、くしくもそれと重なるようにして時の凍結が起こり、アクセス元がセラタイプのディアであるという情報以外にログを失ったこと。そして二度目は、同じくセラタイプのディアからの犯行でログも残っており、俺たちの高校に今年から赴任してきた佐倉先生が疑わしいこと。これが事の発端だ。
さらに佐倉先生の元婚約者である鶴舞鷹弥氏は、クラッキングに利用されたアカウントの持ち主で、既に事故で亡くなっている。その上、鶴舞氏の事故死のショックで休職した佐倉先生の静養期間は、二度のクラッキングの時期とまるきり重なっているのである。
語る俺の言葉を、二人は黙って静かに聞いた。翠は直立のまま、気難しい表情を湛えながら。アイリスさんは両手の頬杖に顎を乗せ、微笑んでこちらを見つめながら。
「実際、間接証拠の数は多い。とはいえ、ここまでの情報では佐倉先生がクラッカー本人なのか、あるいは第三者に意図せず利用されたのかを断定することはできません。ですが」
俺はそこまでを一通り説明して言葉を切る。少しだけ大きく息を吸い、先を続けた。
「俺の見解では、佐倉先生とそのディアは、やはり怪しい。彼女がクラッキングを行った張本人だと考えます。理由は、動機です」
「……動機?」
二人のうち、先に口を開いたのは翠だった。ここへ訪れてから初めて、翠が俺を正視する。その目はやはり、俺の知るいつもの翠のものとは違う。
「そう。佐倉先生には動機があった、と俺は思う。鶴舞鷹弥氏を取り戻すという動機が」
「取り戻すって……そんなことができるわけ」
「できる。ディアと、オリジナルの人格プログラムを……いや、ココロプログラムを使えば」
俺が言うと、翠はあからさまに「わけがわからない」というような顔をした。至極妥当な反応だろう。おそらく誰だってそんな顔をする。俺の今の発言はそれくらいに奇怪な、世迷言だ。
ただアイリスさんは、いっこうに眉一つ動かさない。
「二人とも耳にしたことくらいはあると思いますが、ディアにまつわる噂話には、ココロプログラムなんてものがありますね。ディアに人の心を与えるというプログラムです。実際のところ、ココロプログラムそのものは架空の存在だとされていますが、それを目指して作られたものは世にいくらか出回っている。あまりメジャーではないけれど、偉人や空想人物を再現しようと試みたプロジェクトなんかも、過去にはあったりしたみたいです」
きっと他にも、そんなプログラムはピンからキリまであることだろう。プロが作ったもの、アマチュアが作ったもの。発想も違えば、使われた技術も違う。探し始めたら際限なく様々だ。
「鶴舞氏はガラテイアにおいて、非常に優秀な人格プログラムの研究者だったそうですね。その婚約者である佐倉先生なら、こういったものを使用するという発想に至ったとしても、おかしくはない。そして、佐倉先生のディアは現に違法改造が施されていて、セラではなくヴェイナーというOSを搭載しています。これは正規OSであるアヴェニールの改造OS。アヴェニールの、負荷を一切省みずに指示を処理するバグを利用した改造OSです」
アヴェニールの名前を出すと、翠ははっとして目を見開いた。
「……それは、我が社の過去の製品ですね。もう何百年も前のものだというのに……那城さん、そんなものをよくご存知で」
そう零す翠の声は、非常に苦々しいものだった。
「アヴェニールは、私たちガラテイアでは代々語り継がれる身内の恥。私自身は直接見たことはありませんが、捨て身のOSなんて揶揄が本当にしっくりくるようなものだったと聞いています。リミッターやセーフティという概念が欠落していて、特定の状況下では、一度指示を出すと壊れるまでそれを実行し続けるような……」
形の良い顎に右手を添え、翠は思案し、そして呟く。
「捨て身のOS……なるほど。それを利用することで、本来は実行できないような負荷の大きい人格プログラムを実行する……?」
やがて導き出したらしい結論は、今、俺の胸にあるものにかなり近しい。俺は静かに頷く。
「ガラテイアはクラッキングの被害に遭いはしたが、実質的な被害ほぼなかった。そこには、盗めば悪用できるデータなんていくらでもあったのに、です。けれど、佐倉先生の探していたものが怪しげな人格プログラムであったなら、辻褄は合う。さすがのガラテイアにも、ディアの機能を害するほどに人間を模すような人格プログラムはないでしょうから。だから先生は、ただ退いた。そしてその後、何らかの方法で自分の眼鏡に適うプログラムを手に入れ、ディアのOSがセラからヴェイナーに、後天的に書き換えられたんです」
翠はおそらく、混乱している。俺の語る憶測の真偽を、上手く判断できないでいるのだ。
俺は再び翠を見る。
「佐倉先生のディア、調べたが、中にはほとんど何も入っていない。インフラとの接続アプリとか、ディアデバイスのドライバーとか、アンチウィルスソフトすら入ってなかった」
「……そんな状態では、ディアとしての機能は、ほとんどまともに使えませんね」
「まずグローバルネットワークには繋げられない。でも、佐倉先生にとってはそれでよかったんだ。おそらく先生は、ディアに、ディアとしての役目を求めている訳じゃあないから」
「ディアにディアとしての役目を求めていない……ならば、先生がディアに求めた役目は……」
――人間として。
ひとたびそういう考えを持つと、佐倉先生とディアの様子は違って見える。話し方、触れ合い方。そういったものに、違った側面が浮かんでくる。
「佐倉先生は、現在所有しているディアのことを『タカヤ』と、呼んでいる。しかも、その容姿には亡くなった鶴舞氏の面影が、非常に多くある」
たとえば、そう。失った最愛の人にそっくりなディアに、同じ名前で呼びかける。すると記憶の中にある彼の声で、そして仕草で、応えてくれる。ふとしたときに、ディアは彼の癖を真似る。彼と同じように笑い、彼と同じように泣き、彼と同じものを好み、彼と同じ息遣いをする。そんな存在が隣にいたら……それはもうきっと、彼そのもの。初めはディアだと感じていても、接するたびに、日を追うごとにその認識は変化してゆくことだろう。そしていつか疑うことなく思うのだ。今、自分の隣には、かつてのように愛する人がいるのだと。
「学校での先生は極めて明るく、朗らかな先生と評判だ。俺も実際に接してみて、その印象に間違いはなかった。でも同時に、過去、最愛の人を亡くし、最近まで周囲と隔絶状態にあった人には、とても見えなかった。思うにあれは、愛する婚約者を亡くした悲しみを、克服した明るさじゃない。愛する婚約者を、取り戻した明るさだ」
その言葉を最後に、しばらく辺りは沈黙に包まれた。強い西日が、この場にいる三人を真横から照らし、目が眩むほどに陰陽の激しい世界を作り出す。
やがて翠が、夕陽の色に染まったその唇を鈍く動かし、胸中の困惑を露わにして言う。
「……失った婚約者を、ディアで代替……? そんなことを、本気で……?」
疑う気持ちを、拭い切れないのは無理のないことだ。震えるその声は翠の葛藤の現れでもあった。
あり得ない。でも否定はできない。可能なわけない。けれど、絶対にとは言い切れない。
俺は無言のまま、視線をゆっくりと翠の隣へ移動させた。その先ではアイリスさんが、最初とまったく同じ笑顔で、こちらを見つめて座っている。やがて彼女が「へえ」と小さく零し、瞳を閉じるまでには三十秒ほどの空白があった。
「探偵ごっこも案外、様になっているのね。 依頼主兼被害者としてはどうかしら?」
アイリスさんはほとんど体勢を動かすことなく、瞳だけを横に動かして翠に問う。
「どうと言われましても、あまりに飛躍的過ぎます。ですが……安易な否定で覆すことのできない話だというのは……わかりました」
「あら、随分と回りくどい評価だこと。でも、そうね。悪くない推測だと、私も思うわ。少なくとも私の知っている事実と照らし合わせて、矛盾も不可解な点もない。まさかあれだけの少ない情報から、今の話を組み立てるなんて。聡明な洞察、突飛な発想。ええ、とても面白いわ」
返ってきたのは、おそらくは賞賛の言葉だった。俺はそれらを耳にして、二人が自分の憶測にいくらかの同意を示してくれたのだと、かなり遅れて理解した。
ただ、それでも喜びという感情をこの胸に抱かないのは、その憶測が『現実であったら嬉しい内容』ではないからだろう。この筋書きの行き着く果ては、決して明るいものではないのだ。
「じゃあ、お返しに私は、遅ればせながら最初の質問にお答えするわ。私がなぜ、あなたたちを今日、ここへ呼んだのか」
言うと、アイリスさんは立ち上がった。そのままフロア外周へと歩いてゆき、ガラス張りの窓に手を添え下を見る。
「実はその、佐倉先生とお連れのディア。今、この下に来ているわ。そしておそらく、もうじきタイムリミットを迎えることになる」
「……タイムリミット?」
「そう、タイムリミット」
尋ねた翠に、アイリスさんは振り向くことなく、同じ言葉を返して答えとした。もちろんのこと、翠は不可解な表情を呈す。
けれど一方で、このときの俺には、 その言葉の意味が極めて的確に感じ取れてしまった。それはともすれば、一種のテレパシーのようにすら思えるものであり――俺は無意識に息を飲む。
アイリスさんは、肩越しにこちらを振り返って不適な笑みを見せる。
「ねえ、歴史は繰り返すもの、らしいわよ? 」
○
俺は走り出していた。そうせざるを得ないほどに、嫌な未来を想像した。夢中でエレベータに乗り込み扉を閉める。
「那城さん! 私も行きます!」
だが、すんでのところで翠が扉に手をかけ割り込んできた。
「翠、お前」
「良くないことが起ころうとしているのは、私にもわかります」
そう言って翠は、早々とエレベータを動かした。たちまち身体がふわりと浮き上がり、俺たちは空の世界を降下してゆく。
しばらくして眼下の雲、おそらくはそのさらに下の地上を見つめる翠が、また口を開く。
「一応、訊かせて頂きたいのですが、さきほどの件、あなたには理解できたのですね?」
「理解? ……ああ、いや、俺も何となくだけど……でも、ここを上ってくる途中で、確かに佐倉先生たちを見たんだ。たぶんだけど、新型リングデバイスの受け取りに来ていた」
「そうですか。では、急ぐ必要がありますね。もうじき今日の受け取り時間が終わります」
翠は右手首の内側、そこにある腕時計の文字盤に目を落として言う。
気付くと既に、空の夕陽はかなり雲に沈んでいた。下は雨だ。ただでさえ混雑しているだろうに、夜になれば、到底人など探せない。しかし、焦ったところでエレベータの速度は寸分の狂いなく等速で、頻繁に搭乗する俺はもう、この速度を身体で覚えている。雲を抜けて地上が見えるようになるまであと五分。到着までには、その倍ほどかかるだろう。
音の消えた室内で、翠はただ黙し、難しい顔をするばかり。
俺はその横に少し距離を空けて立ち、実はずっと気になっていたことを恐る恐る尋ねた。
「……なあ。お前、翠なんだよな?」
「何を今更」
「いや、だって……喋り方が」
冷めた端的な答えが用意されているあたり、訊かれることを、予想してはいたのだろう。
「今の私は、学生としての私ではありませんので。どうかお気になさらず」
とは言うが……いや、こちらとしては気になって仕方がない。
「でも、相手が俺だけなら、普通に喋ればいいだろう?」
「致しかねます。私にとっての普通は、こちらの私の方ですから」
……そーかよ。今の翠は、ガラテイアの後継としての遠山翠。それが普段の、本当の遠山翠。では、これまで学生として俺と接していたのは、演技、のようなものだったのだろうか。雰囲気がまるで違うから、正直やりにくいことこの上ない。共通点は我が強いところくらいのものだ。
「でも、俺は……いつも通りにしか、振る舞えないぞ」
「構いませんよ。それより、那城さん。私からも、一つ質問が」
複雑な感覚をもごもごしながら飲み込んでいると、間髪入れずに翠が続けた。訊かれることは、こちらもだいたい予想できていた。
「アイリスさんのことか? 俺は本当に大したことは喋ってないし、あの人とはここで会ってただけだぞ」
「……アイリス? アレのこと、そんな風に呼んでいるのですか」
瞬間、眉根を寄せて述べられた翠の言葉が、俺にはよくわからなかった。……アレって、もしかして、アイリスさんのことか?
戸惑いながら導き出したその結論に、俺はざらついた不快を感じて抗議をする。
「おいおい、アレ呼ばわりは失礼だろ。ちゃんと名前で呼べよ」
すると翠は、歪めた細い眉をさらに崩し、やや長めの思考を挟んだのち、淡白に断じた。
「……なるほど。あなたは本当に、単なるお茶飲み友達のようですね。いいですか、那城さん。アレに名前などないのです。悪いことは言いません。アレと関わるのは、これっきりにしておいた方がよろしいかと」
その言葉に、そして声音に、俺は、翠のアイリスさんに対する嫌悪、ともすれば忌避とさえ言える感情を垣間見る。単に馬が合わない相手というだけでなく、何か絶対的に相容れない想いに根ざした敬遠、あるいは――畏怖、とすら呼ぶべきものを。
俺はそれ以上、尋ねるのをやめた。今必要のないことを、翠がここで話すとは思えないし、何よりアイリスさんから聞いていない彼女自身のことを、翠から聞こうとは思わなかった。
ちょうどそこで、エレベータが雲を抜け、耳をつんざくような雨音が周囲を包む。
「さて、ようやく地上が見えましたね」
「ああ。とりあえず、目印は真っ赤な傘だ。それから……」
俺はざっくりと、展望台へ上るときに見た佐倉先生とタカヤ先生の外見を説明した。
「わかりました。では、私は東側を探しますので、那城さんは西側を探してください」
都心駅は、南北に延びる路線を境に、東のオフィス街と西の歓楽街に分かれている。それなりに複雑な構造で、この高さからでも視認できる場所は決して多くない。当然、二人が地下や百貨店などの屋内施設に居れば見つけることはできないし、今も駅周辺にいるかどうかすらわからない。そう思えば、見つけられる確率は高くはないだろう。いやそもそも、アイリスさんの話も俺の想像も、杞憂であるに越したことはないものだ。だとしたらこのまま見つけられなくても一向に構わなくて、むしろその方が実は望ましいのかも――
「あっ!」
そのとき、俺は思わず声を上げた。
二転三転する視界の中、百貨店から延びるペデストリアンデッキの上に、赤い大きな傘を見つけたのだ。並んで歩く二人。顔は見えないが、傘から覗く衣服の特徴は、俺が記憶する二人のものと合致する。雨の中、二人は大通りの方へ向かって歩いていくようだ。
「見つけましたか」
翠が尋ねてくる。ああ、見つけてしまった。何という偶然だ。
いや……違う。ひょっとしたらこれは、偶然ではないのかもしれない。このエレベータで上るとき二人を見かけた俺が、アイリスさんの助言を受けて降りてきた今、また見つける。その稀有な偶然は、単なる偶然を、必然たらしめるに足るのかもしれない。
身体の内側から、ギリッという音が聞こえる。俺は無意識に、奥歯を強く噛み締めている。
地上に着くよりも少し早く、3Fのボタンでエレベータを止めた俺たちは、百貨店内を抜けてペデストリアンデッキへと出た。雨に濡れることを気にする余裕はなかった。ついさきほど見た、赤い傘の二人を探してただ走る。
「那城さん! あそこ!」
欄干に身を乗り出した翠が、階下の通りを指差して叫んだ。煙る白雨の向こうに見えるのは、間違いなく佐倉先生とタカヤ先生だ。二人で一つの傘の柄に手を重ねていて、その指には、雨の雫に紛れるような細い光の輪がはまっている。
俺は近くの階段を下り、二人めがけて駆けていった。近づくたびに心臓が跳ねる。ひっきりなしに湧き上がってくる不安と衝動が、意味も分からず俺を焦らせる。
「先生! 佐倉先生っ!」
声は雨音に遮られて届かない。
二人はやがて横断歩道を渡ろうと、車幅の広い道路へと踏み出してゆく。折悪しくも、歩行者信号が点滅し始めたのは二人が渡り始めてすぐの頃だった。
このまま走っても足止めされるだけ。そう考えた俺は、無意識に足の回転を緩めようとした。けれども直後、脳は即座にその命令を書き換えた。
二人の渡る交差点を通過した一台のトラックが、その真ん中で輸送中の荷物を落としたのだ。すると後続する車両は、咄嗟の回避のために進路をずらす。
そこからの光景は、まるでコマ送りのように俺の目に流れ込んだ。
車線を違えた対向車を避け、さらに車線を変える車。それを避けるために曲がる車。急停止する車。直進、左折、右折が相まって、にわかに交差点は飽和状態に陥る。自動車同士の接触音、クラクション、怒声に悲鳴――雨に混じり、暴発したように様々な音が生まれ拡散する。
そして、ついにそこから溢れた一台が、速度を落としきれずに横断歩道へと鼻先を向けた。その延長線上には、俺の追いかける二人がいる。
事故に気づいた佐倉先生が、タカヤ先生の手を引いて走り出そうとするのが見えた。けれども、まるで引き戻されるように佐倉先生は立ち止まり、次いで青ざめた顔でタカヤ先生を振り返る。同時に俺も、明確な焦りを覚えた。タカヤ先生はぴくりとも動こうとしなかったのだ。
「何やってるんだ!」
俺は思わず、また叫ぶ。既に二人は目の前だ。だというのに、どうするべきかを考えることができない。結局、頭の中は真っ白のまま、夢中で横断歩道へと出ていって、突き飛ばすように佐倉先生をタカヤ先生から引き離した。同体のまま地面へ伏す。腕には人一人分の重さ。アスファルトで擦りむいたのだろう、肩と膝に鋭利な痛みが走る。
そして突如、耳に突き刺さる周囲の悲鳴は、よりいっそう大きなものにすり替わった。俺はゆっくりと目を開く。映るのは自分と、佐倉先生の白い肢体。それらが毒々しいほどの鮮血に覆われて、泥や雨水に混ざりながら震えている光景だった。
どうにか身体を起こして振り返ると、ちょうど空から、まるで舞い散る花弁のように真紅の傘が降ってくる。開いたまま地に落ちたその陰から、河のような鮮血が流れ出ている。
何が起こったのかわからなかった。いや、想像することは十分にできた。けれども脳はそれを頑なに拒んだ。拒まなければ、気を失ってしまいそうだった。荒い呼吸を整えようとしても上手くいかず、瞳はただ、眼前の光景をテレビ画面の向こう側の出来事のように映すばかり。
――ドン!
次の瞬間、俺の呼吸は停止した。騒がしい悲鳴を押し潰すような、幾重にも重なった鈍い機械の停止音が、辺り一帯を覆ったのだ。俺はまったく動けない。眼球一つ動かすことがかなわない。
でも気づけば、周りに溢れていた車は全て止まっている。家電量販店の街頭ビジョンも真っ黒で、雨ゆえに点いていた街灯も一つ残らず消え、信号までもが動いていない。人々もあまりの出来事に立ち尽くしている。そんな光景を見て、俺は空っぽの頭で、ふと思う。
そうか……今は、時が止まっているのだと。
○
世界はまるで凍っていた。凍りついたように、音も動きもなく固まっていた。それは時間にして約数十秒。けれどもやがて、混乱が弾けたように暴走する。狂気にも似た瞳で、慌てふためいているのが人間。ガラス玉の目で、沈黙を貫いているのがディア。大衆ははっきり二つに割れ、今ならば誰であっても人間とディアを区別するのは容易だろう。
ああ、俺はこの光景を知っている。過去に一度、見たことがある。
そう、これは、時の凍結――
インフラは全て例外なく停止してしまって、凄惨な事故の現場に手が付けられることは一切ない。赤い海の真ん中に沈む俺たちを中心に、混沌にも等しい惨状が広がってゆく。
事を収束させる術など、俺にわかるはずはなかった。
しかし、結論から言えば、俺たちはすぐにその場を離れることになった。遅れて走ってきた翠が、佐倉先生を抱えて道路脇に移動するよう俺に促し、しばらくして訪れた何台かの車の一つに乗り込ませた。さらに翠は、その集団に属する大人とやりとりを交わし、救急車ばりの担架まで用いて、タカヤ先生も連れて迅速な移動を完了させたのだ。聞けば、一行はガラテイアからやって来て、どうやらどこかへ向かっているらしかったが、それに関しては、ひとまず俺にはどうでもよかった。あの場から離れられるならば、今は何でもよかったのだと思う。
車内において、俺と翠は運転手から、現状についての大雑把な説明を受けた。
突然、あの事故現場を中心に半径一キロメートル弱の範囲で時の凍結と同類の現象が起こったこと。予兆もなく原因も不明で、俺たちがあの場を離れて数分後には、潮が引くように止まった機器の回復が始まったらしいということ。この迎えは翠の指示ではなく、ガラテイア上層部からの直接の指示であるということ。実際には何の役にも立たないことかもしれないが、少なくとも現状に関して情報が増えたことで、俺と翠の不安はいくらか和らいだ。
そうして、俺たちは駅三つ分ほど離れた場所にある施設へ搬送される運びとなった。
真っ白の壁が包み込む部屋。気を失っていた佐倉先生が、ベッドの上で目を覚ます。
「……ここは……?」
「病院です」
隣に座る俺が答える。より正確には、ここは『中央総合メディカルア&メンテナンスセンター』。当然といえば当然だが、俺たちの搬送された先は、事故後の処置を受けるための施設であった。特にここは、人間とディアに対しての処置がどちらも十分に行える設備を備えた、ガラテイアの出資で運営される医療機関だ。
到着してから、俺は傷の手当てを受け、着替えを済ませた。先生については、看護師の人が対応してくれて、すぐに病室があてがわれた。
「あれ……那城、君。どうして……」
未だ半覚醒なのか、どこか意識の抜けたような、ぼんやりとした声で先生は問う。
「先生は今日、駅の百貨店へ買い物に来てましたよね。その帰りに、事故に遭ったんです」
俺が先ほど起こったことを話すと、瞬間、先生ははっとして目を見開き、身を起こして俺の肩へと両手を伸ばした。
「あ、あのっ! タカヤさんは!?」
「落ち着いてください。今は別の場所で処置を受けています。まだ、しばらくかかります」
先生は再び脱力して、腕をだらりと下に落とす。
「そう、ですか……」
呟くような返答の最後は、空気に溶けてしまいそうなくらい弱々しかった。
短いやりとりが終わると、部屋はしんと静まり返った。ここは一般病棟からは離れた場所で、元々、周囲からの物音もほとんどない。窓には、すっかり暗くなった外の景色が映っている。知らないうちに雨は止んでいて、街灯の白い光に浮かぶ併設の市営公園が広く見渡せる。
先生は緩やかに首をもたげてそちらを眺めると、まるで独り言のように朧気に零した。
「……那城君は、どうしてあそこに?」
その唐突な、質問とも言えないような語調の質問に俺は戸惑う。けれども、少しだけ悩んだあとで、結局、正直に話すことにした。
「あの、実は俺……先生のこと、ちょっと前から調べてて……」
自分でも思うが、随分と物騒な切り出しだ。俺はそのまま、現在に至るまでの経緯と憶測を、まるで犯してしまった悪戯を吐露するようにぽつぽつと語った
その間、先生は一度もこちらを向くことはなく、身じろぎ一つしなかった。そして最後まで聞き終えると、絹糸のようにか細い声でこう言った。
「……すごい。まるで探偵さんみたいね」
誉められたわけでは、ないのだろう。けれど、そう答えたということは、俺の憶測がいくらか事実に近いということでもあった。
「ええ、本当に……まるでその目で見てきたかのようだわ」
決して当たっていてほしくなどなかった。できることなら否定してほしかった。そんな想いを飲み込みながら、俺は俯く。
もう二年以上も前になるのね。先生はそう、小さく零す。
「あれは、雪の降るとても寒い日のことでした。おそらくはその年一番の冷え込みで、そんな中、あの人は今日の私と同じように買い物に出かけて……そして、事故に遭いました」
先生の言う『あの人』とは、おそらく鶴舞氏のことなのだろう。
「当時あの人が連れていた、まるで友人のように仲の良い男性のディアと、私の連れていた女性のディア……その二人と一緒に、三人で出かけていったんです。珍しいことだとは思いましたけど、理由は簡単でした。その日は、高校時代から付き合っていた私たちが、交際を始めた記念日だったんです。サプライズのつもりだったんでしょうけれど、わざわざ私のディアまで連れていって、だから私にはバレバレで……そういう、ちょっと抜けてて優しいところが、あの人の良いところでした。でもまさか、帰りにあんなことになるなんて……」
あんなこと――まるで今日の事故と重なるかのような、交差点での凄惨な出来事。俺が読んだ新聞記事には、たくさんの荷物が散らばった現場写真が載っていた。あれらはきっと、二人の記念日を祝うための……そのための準備の品だったのだ。
先生の語り口は、俺の記憶にある普段の佐倉先生からは想像もつかないほど抑揚に乏しく、淡々と、ただ淡々と進められる。
「事故のこと、調べたと言っていましたね。亡くなったのは、あの人と、それを庇った私のディアです。混乱する事故現場であの人は、幸いにも軽傷ですんだ自分のディアに短い音声メッセージを残して、その管理権限を全て私に譲渡しました」
「音声、メッセージ……」
「ええ。『記念日祝えなくて、ごめん』って。それがあの人の最後の言葉で……残ったのは、私とあの人のディア、二人です。その日を境に、私の生活は変わりました。慰謝料とか補償とか保険とか、目まぐるしいほど色んな手続きが降ってきて、いくらかのお金が入って、ディアを無償で新調できるという話も頂きました。けれど、あのときの私には、そんなことを考える余裕はなくて……」
自分の婚約者とディアを一度に失う。その哀しみは、いったいいかほどのものなのだろう。あまりに唐突な不幸に打たれ、それでも外の世界は当たり前に回っていく。そうやって自分だけを振り落とし、なおも進み続ける変わらない日常は、残酷なほどに悲劇的だ。
「空気の薄い霧の中をさまよっているような気持ち、ただそれだけを覚えています。断れるものは全て断って、私は結局、あの人の残したディアを、そのまま自分のディアとして登録することにしました」
ディアの所有は例外なく公的機関への登録が必要となる。つまり佐倉先生は、事故で失った自身のディアの新調を断り、鶴舞氏がそれまで所有していたディアを引き継いだということだ。
先生は不意にこちら向く。光の抜けたその瞳に、俺の姿が小さく映る。
「那城君。人間って、とても脆くて、儚いものなんです。死んでしまえばもう会えない。話すことはできない。笑いかけてくれない。抱きしめてもくれない。そんなことは、誰もが知っている当たり前のことですね」
もちろん、そうだ。知識としては、俺も知っている。
「けれど、私が本当の意味でそのことを理解したのは、あの人が――鷹弥さんが亡くなったあの日でした。みんな、いつか必ず訪れる大切な人との別れの日は、今日ではない、明日ではないと思っている。でも本当は、そんな保証なんてどこにもない。いつも傍にいて、傍にいればいるほど、その存在は当たり前のように感じてしまうけれど……ある日突然、いなくなったりする。昨日隣にいた人が、今、そして明日も同じように隣にいること。それは、涙が出るほどに幸せなことなのだと、私は思います」
私は、その幸せを失いました。先生は微かに呟きながら、自分の手元へと視線を戻した。
先生はそれから、鶴舞氏のあとを追うことばかり考えるようになったと言った。寝ても覚めても死に方を探している自分に気付き、自らの命を絶つ瞬間を、何度も頭の中で描いたのだと。
「私はすっかり家から出なくなって、誰とも顔を合わせなくなって……そんな、生きているのか死んでいるのかもわからない生活の中で、傍にいた鷹弥さんのディア――そう、彼だけが静かに、ただ静かに私を支えてくれました。やがて事故から数ヶ月が経ったあるとき、彼が私に言ったんです。『自分が代わりになる』と」
虚空を見つめるその瞳を、先生はゆっくりと瞼の裏にしまいこんだ。自身の語る過去の情景を、思い出すかのようにして。
「それがきっかけでした。初めは、いなくなった鷹弥さんの代わりに、彼が私の隣にいてくれる。そういう意味だと思ったんですけど、彼の意図はもっと率直で具体的でした。彼は、自分の容姿を、できる限りあの人に近づけることを、私に提案したんです」
ディアは外装――つまりボディをとりかえることで、ある程度は容姿を選ぶことができる。とはいえ、全てを変更するとなるとかなりの金額が必要になるのだが……幸か不幸か、このときの佐倉先生は、金銭について執着も逼迫もなかっただろう。
「やがて私は、あの人が生前に取り組んでいた研究のことを思い出して……人格プログラムを使って鷹弥さんを再現するという思惑にたどり着くのに、そう長くはかかりませんでした」
「……ココロプログラム、ですね」
先生は「ええ」と頷き、再び目を開く。
「やはり、有名な話なんですね。あの人は、それを作ることが自分の夢なのだと言って、熱心に研究に取り組んでいました。私は元々、そういった分野は不得手でしたけど……ディアに人の心を宿すプログラム、それがとても難しいものだということは、何となくわかっていました。そういう話をするときの鷹弥さんは、心底楽しそうで、まるで無邪気な子供みたいで……そんなあの人の隣にいるのが、私の、何よりの幸せでした」
一定のリズムで、まるで静謐な音楽のように紡がれる先生の言葉に、そこで初めて、わずかな悲壮が表れる。「もう一度」と落ちる声音が、滲むように辺りに響く。
「もう一度、あの人と一緒に生きられたら……。そう願わずにはいられませんでした。それから私は、ディアの人格プログラムについて調べました。雨戸を閉め切った暗い家の中、昼も夜もなく、ただひたすらに。家にあったあの人の書籍を読んで、ディアを通して慣れないネットもたくさん使って……そしてあるとき、思ったんです。鷹弥さんの勤めていた先、ディアのメーカーであるガラテイアになら、私の求めているものがあるんじゃないかって。あの人はよく、こっそり仕事を家に持ち帰っていて、そのために、家からもガラテイアへアクセスできるようにしていました。私は記憶を頼りに、見よう見まねでそれをやろうとして、でもやっぱりできなくて……その、アクセス制限? みたいなものでしょうか。そういう表示が出て」
まあ、いきなりガラテイアのサーバーに入ろうとしたところで、普通はそうなるだろう。
「ただ、鷹弥さんはアクセスできていたわけですし……えっと、さーばー? の内部に、あかうんと、か何かの情報が残っていれば、やりようによっては何とかなることもあるらしくて……結局、色々調べているうちに、アクセスすることができたんです」
「でき、ちゃったんですね」
「はい。でも残念なことに、私の探しているものは、あの会社にはありませんでした。ガラテイアにないとすれば、もう残るは、可能性のありそうなプログラムをとにかく試してみるしかない。そう思った私は、ココロプログラムを謳ったデータを手当たり次第に入手して……えっと、いんすとーるを繰り返しました。けれど……知っていましたか? 那城君。ディアって、とても厳しい審査を乗り越えた公認のプログラムしか、使うことができないみたいなんです」
「え……あ、はい。まあ、一応」
一応? いや違う。そんなことは常識の中の常識だ。それは一種のセキュリティである。
ディアに適応したアプリケーションやソフトウェアについては、一般の人が開発することも認められている。ただ、実際にインストールするにはガラテイアの認可が必要となるシステムなのだ。そうでもしなければ、作り込みの甘いものや悪意のあるものがディアに危害を及ぼしかねない。そして、ココロプログラムを謳った非正規のプログラムなんてものは、十中八九、認可など受けていない怪しげなプログラムだ。
そんなことも知らずにいながら、家に閉じこもって独学でのクラッキング……そう思ったとき、俺の中に一つの可能性が浮かんだ気がした。それは、自分の推測に紛れて未だに答えの出ていなかった、些細な疑問への答えである。ああ、まさかとは思うが、もしかしてこの人……。
「ディアって、よくよく調べてみると、色んな制限があるんですね。私は、今度はそれをどうにかするために、またガラテイアへのアクセスを試みました。けれど、このときはなぜか、全然、上手くいかなくて」
つまり、これが二度目のサーバーへのアクセス……時期は確か、去年の十二月だったか。
ここにきてさえ口にするのはためらわれるが、しかし俺は、数秒の間を空けて小さく呟いた。
「……俺の方から尋ねておいて、今更こんなことを言うのもおかしな話ですけど……じゃあ本当に先生が、クラッキングを……」
「くらっきんぐ、っていうんですか。それは、ちょっと複雑なアクセスみたいなものですか?」
対して先生は、何の悪意も虚偽もなく、俺の使った単語を繰り返した。あたかも知らない意味の言葉に、初めて出会った子供のように。
その様子を目の当たりにして、俺の予想は確信へと変わる。
「いや、そりゃまあ確かに複雑ですけど……違います。クラッキングは、セキュリティを無理矢理乗り越えてシステムに侵入することです。つまり、明らかな不正行為なんですよ」
そのとき、先生の両眼が少しだけ、けれども強く見開かれる。無言で淑やかで、それでいて十分に大きな衝撃が、先生の顔に浮かび上がった。
「……そう、なんですか。それは、大変申し訳ないことを。そっか、それで那城君は、私を調べていたのですね……」
思えば先生に初めて会ったとき、あまりにすんなりとディアの中を見せてもらえたことに、俺はかなりの違和感を抱いた。クラッキングをするような人が、そんなセキュリティ意識の欠片もないことをするわけがないと。けれど、今なら納得することができる。だってこの人は、正真正銘、ディアやネットワークの一般知識を持たないのだ。
婚約相手がそういった方面に詳しかったのが、要因の一つとしてあるだろう。だから知らずとも不便はなかった。なおかつ、会話の中で変に専門的な知識だけを身につけてしまった可能性もある。何しろ相手は最前線の研究者だったのだ。日本語を話せない外国人が妙に難しい漢字だけ知っている、みたいな状況が出来上がっていてもおかしくはない。そしてそれが、求めるものを探すあまりに無自覚なクラッキングをしかけるという結果に繋がった。
「けど、クラッキングは大きく分けて二回だったと聞いています。先生はそれ以降、ガラテイアには手を出していないんですよね?」
「そうですね。あれっきりだと思います。打つ手のなくなった私は、最後にはもう、途方に暮れるしかありませんでした。ちょうどその頃、親元から戻ってくるように話があって……」
申し訳なさと、情けなさと、哀しみと憔悴と……そんな様々な感情が幾重にも重なり、先生は複雑で曖昧な表情を見せた。泣き出しそうな、それでいて苦笑いでもするような、けれどもやはりほとんどは無表情で……それらはぼやけた水彩のように判然としない。
「いい加減に心配だって言われました。復職するなら宛があるし、療養するにしても、一人よりは戻った方がいいって。その通りなんですけど、ぐずぐずと先延ばしにしていました。鷹弥さんと暮らしていた場所を、離れたくなかったんだと思います。当時住んでいたマンションの一室には、あの人との思い出がたくさん詰まっていて、私が変わらずあの部屋で生きていれば、いつかひょっこり帰ってくるんじゃないか。そんなことも、頭の片隅で考えていたのかもしれません。仕事帰りの夜遅くに『遅くなってごめん』って。『早く君に会いたかった』って。そんな声が聞きたくて、私は鷹弥さんの書斎も荷物も、何も……何も片づけられませんでした」
遺品の整理をするということ。それは、大切な人の死を受け入れる行為に他ならない。失意のただ中にいた先生には、何より辛い行為だったはずだ。
「でもやっぱり、そんなことがあるはずはなくて……今年を迎えて、少しばかりした頃のことです。もうほとんど諦めながら、部屋を引き払うための準備をしていました。そして私は、見つけたんです。あの人の書斎の、戸棚の奥。そこにあった『Program of heart dev』と書かれた一枚のディスクを」
先生は再び、ゆっくりとこちらを向いた。続く声には、一筋の強さが表れ始める。
「最後の希望だと思いました。あの人が私にくれた、最後の希望。きっと会社での研究の傍ら、自分一人で作っていたんだと思います。私は、迷わずそれを使いました。あの人の残したディアに、あの人の作ったプログラムを――当然の行為だと思ったんです。上手くプログラムが認証されたときは、やっと全てが報われた気がして……その日から私はまた、あの人の名を呼ぶことができるようになりました。タカヤさん、と」
目の前の二つの瞳からは、不安と確信という、背反する二つの色が感じ取れた。自分のした行為、選んだ選択肢への、疑いと希望。愛する人の名をもう一度呼ぶために、自分は間違ってなどいなかった。そう思いたい。思うべきだという、そんな意思の滲む瞳。
「あの人との思い出を夜通し聞かせて、ふとしたときにあの人の癖や趣向を教えて……そうするうちに、タカヤさんはみるみるあの人に近づいてゆきました。心を、手に入れたんだと思いました。私はようやく幸せだった頃の、あの時間を取り戻すことができて……」
そうしてたどり着いたのが、今日。今、この時……。
「お願い、タカヤさん……もう一度、私のことを呼んで。由梨絵さんって、呼んでください……」
先生は、絞り出すような切れ切れの声でそう言った。それは静かで、けれども凄絶なほどの真剣さで、縋るような印象さえ抱く。
俺は何も言うことができない。ほとんど無意識に下を向き、次いで部屋の隅へと視線を移す。
そのとき、ちょうど視界に入った扉が、横へと開いた。
「失礼致します」
白一色の無機質な壁が、その凛とした声をよく跳ね返す。
「ガラテイア社次期後継の、遠山翠と申します。佐倉由梨絵さん、でいらっしゃいますね」
「……ええ……そう、ですけど」
身体の前で両手を重ね、恭しく辞儀をする翠に対し、戸惑いつつも先生は応じる。
その二人のやりとりを見て、俺は思う。そうだ。この二人、同じ学校に通ってはいるが、実際に顔を合わせるのは初めてなのだ。翠は普段、あまり学校には来ないから。
「那城さんから、事の次第はお聞きになりましたか?」
翠が尋ねると、佐倉先生はゆっくりと頷いて見せた。
「では、まずはこれを」
翠は先生の横たわるベッドへ近づきながら、スーツのポケットから何かを取り出した。それは白い布で包まれた、華奢なデザインの指輪だった。形に見覚えがある。ちょうど今日から売り出されている、ディアのリングデバイスだ。
瞬間、佐倉先生の表情が凍りついた。口元に添えられた手には、同じデザインの指輪がはまっている。渡された指輪は、おそらくはタカヤ先生のものだった。
「あの……タカヤさんは……?」
「Sera-003-3085KS207Aは、依然、機能停止状態です。事故により大きな外傷を受けておりますが、実のところ、内部システムの方は事故の直前に、また別の要因で停止したようです」
翠が、極めて事務的にタカヤ先生の現状を報告する。
「システム停止の原因は、過剰負荷と思われます。 調べたところSera-003-3085KS207Aはここ数ヶ月間、非常に多くの情報処理をこなす環境にあり、その負荷は絶大でした。通常では常時行われるはずの世界樹との通信も、今年の一月から一切なされておらず、そのためバックアップからの復元も不可能という状況です」
短い報告を終えると、翠は再びその場で腰を折り、一言ずつ丁寧に述べる。
「このたびは、弊社の製品が多大なご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありませんでした。責任の所在は、全て私どもに」
「あの」
しかし、それを佐倉先生は、小さく呟くような声で遮る。
「あの……やめて、ください」
「いえ、そういうわけには参りません。これは、我々ガラテイアとしての正式な謝罪です。つきましてはこちらで費用を全額負担し、製品の新調を」
「やめてください!」
そして、なおも話を続けようとする翠に対し、今度はやや強い語気での制止が飛んだ。
「お願いですから……やめてください。タカヤさんを、そんな風に呼ぶのは、やめてください」
声の主、佐倉先生の方を見やると、その顔はほんの少しだけ歪んでいた。努めて押し殺していた悲痛が漏れ出たような、感情の亀裂から覗く苦々しい表情だった。
「タカヤさんは、製品ではありません。タカヤさんは……人間です」
――人間。佐倉先生は今にも消え入りそうな声で、けれども確かにそう告げた。
やがて訪れた沈黙の中、翠はゆっくりと顔を上げ、口を開く。
「いいえ、佐倉さん。あれはディアです。我々の作っている製品です。したがって、人間ではありません。我々は、人間を作っているわけではありません」
はっきりとした声だった。大きくはないが、その断定的な発言と声音は、反論を許す意図がないことを物語っている。もちろん、客観的に正しいのは翠だ。タカヤ先生が人間でなくディアであることは、俺自身も初対面のときに確認した事実である。
……でも。このときなぜか、俺の胸にはそんな呟きが浮かんだ気がした。
「……それでも」
やがて耳に届いたその言葉が、まるで自分のものかのように、俺には思える。
実際には、それは佐倉先生の唇から出たものだった。青ざめて震えながら、呪文のように先生が零す。
「それでも、タカヤさんは、タカヤさんだけは……」
そのとき、先生の握るシーツにいくつもの淡い染みが落ちているのを、俺は知る。今もぽつりぽつりと、不規則なリズムでそれは増え続けている。先生の瞳から音もなく滲んでは落ちる、色のない哀しみの光。先生はどうやら、自分が泣いていることに気づいていないみたいだった。
「佐倉さん。私が申し上げるには、大変差し出がましいことですが……鶴舞鷹弥氏は、もうこの世におりません。そして、ディアが人間を完璧に模すことはできません。人間とともにあるディアは、よくよく人間らしくあるべきですが、それでも、決して人間にはなり得ないのです」
「おい、翠!」
冷然と告げる翠を止めようと、俺は咄嗟に立ち上がった。ああ、確かに正しい。翠の言うことは全て正しい。でもそれは、正しいだけだ。人は必ずしも、正しさにのみ従って生きるわけではない。こいつだって、そんなことくらい、わかっているはずなのに。
俺の隣では、佐倉先生がようやく自分の涙を自覚したようで、はらはらと落ちるそれらを拭っている。けれども雫は止めどなく溢れ、やがてこらえきれずに俯いてすすり泣く。
俺は翠を睨み、翠はそれを知っていながら、俺とは視線を合わせずに先生を見ていた。
夜が更けてきて、部屋の空気がひやりと冷たく肌を撫でる。切れ切れの嗚咽が耳に届く中、窓の外では公園を照らす街灯が一つ、はたりと消えた。
「わかって、います。ええ……わかっていました」
しばらくして、口を開いたのは佐倉先生だった。緩慢な動作でその首を持ち上げる。
「タカヤさんは、本当は、私の言った通りに動いていただけ。その言葉も所作も、プロクラムの指示によるもので、あの胸の中に、本当は心なんてなくて……。周りから見たら、タカヤさんは単なるディア。人間じゃあない。あの人じゃあない。わかっていたんです」
佐倉先生にとってタカヤ先生は、いったいどれほど大切な存在だったのだろう。時折しゃくりあげながら吐き出すのは、佐倉先生の心の悲鳴に違いなかった。
苦悩。悲哀。慟哭。そんな身を切るほどの感情を、俺はまだ抱いたことがない。ディアを持ったことのない俺は……いや、愛する人に出会ったことのない俺は……。
「それでも私は、私にとっては……自分と同じ、人間でした。タカヤさんは……鷹弥さんは……今も私の傍にいて、生きている。そう、生き続けているの。それが全てなんです。私が、そう思えることだけが……!」
人間なのだと。生きているのだと。繰り返し述べる佐倉先生のその様子は、まるで自分に言い聞かせているようでもあった。傍らのディアに、愛する人の面影をいくら精巧に投影しても、真実を知る自分の理性は、それを頑なに妨げるだろう。それでも、たとえ嘘でも偽りでも……佐倉先生にとって、タカヤ先生は確かに人間だったのだ。現代の社会に安く溢れている、ディアと人間に向けられた皮相的な一般論とは何ら関係なく、そんなものは超越して、心から切に人間だった。今日、こんなことにさえならなければ、それはこれからもきっと――
佐倉先生を見ていると、俺はただただ、きつく胸を締め付けられた。先生の中にある俺の知らない感情が、空気を伝ってこの身体に染み込んでくるみたいだった。俺はたまらず、思考の止まりかけた頭で先生に言う。
「……佐倉先生。タカヤ先生は、人間でしたよ。仮に真実は違うとしても、本当はプログラムで動いていても……それでも、少なくとも佐倉先生にとっては、絶対に人間でした。俺にとっても、十分にそう思えた。大事な人なんだろうって、思いました」
先生は俺を見上げる。その両の瞳からは、堰を切ったように大粒の涙が溢れている。
「ああ……そうでした。大切な人でした。那城君、ありがとうございます。かけがえのない人だったんです。でも……」
先生は両手でギュッと、自分の胸を握るように押さえた。それは身体中に走る痛みに抗うようでありながら、ともすれば必死に祈りを捧げているようでもあった。その表情がなおいっそうに強く歪む。
「私はまた……また失ってしまった。ともに生きる人を。ともに歩いてゆく人を。まるであの人が生き返ったかのような、魔法のように幸せな時間でした。でも……でも、もう、魔法は解けてしまいました」
魔法、か。もしも魔法が使えたなら、死んでしまった人を生き返らせるなんてことも、できるのかもしれない。けれどこの世界に魔法はない。この世界は、お伽噺ではないのだから。
先生は嘆く。もう俺に、かける言葉は残っていない。
翠はそっと息を吐き、沈黙に差し込むように、静かに言った。
「佐倉さん。このたびの事故についてですが、期せずして周辺の記録装置やディアに異常が発生し、したがって一切の記録が残っておりません。ですから、あの事故について公的に周知されることはないでしょう」
いったい何を言おうとしているのか。確かに今回の件については、事故後に起こった時の凍結のため、記録がなくても不思議ではない。それも『一切』ということは、映像、画像、音声、その他あらゆる情報の全てがサルベージ不能ということだろう。
本来、街中には公共監視機(パブリックカメラ)など、周囲の情報を取得する機器で溢れている。公共の場では常に記録が残るのが当たり前で、それは健全な社会を維持する国の義務でもあるのだ。
そんな社会においては、何かにつけて記録を元に話が進む。過去の事実を語る上では記録がなければ話にならず、記録があるからこそ人は事実を事実として認める。裏を返せば、記録なしでは事実は事実になり得ない。たとえどれだけ多くの人の目に触れていようと、事故の記録が存在しなければ、それはなかったことと同じなのだ。
「我々ガラテイアは、あの場で起こった局所的な時の凍結――《局所凍結(ローカルフリーズ)》について、独自に調査を進めております。これに付随して、あなたの行ったクラッキング行為からディアOSの書き換え、そして今回の事故までの顛末、全てを内々に処理させて頂きたいと考えています。あなたの犯した罪はなかったことになり、刑事罰も科されません。職場である学校には数日間の休暇を手配させ、互いに事なきを得るというのが、こちら側の提案、もとい交渉案件です」
翠の言葉に、しかし佐倉先生は答えず、俯いて涙を流している。当然だ。提案だの交渉だの、そんなことを考えられる心状ではないはずだ。今、先生は、二度目の悲劇のただ中にいる。
「もう一度、言わせてください」
「翠、もういいだろ」
俺は繰り返し述べようとする翠に駆け寄り、その腕を掴んだ。この場でこんな話をすべきではないと、翠を止めようとした。
すると、翠が唐突に俺を見据える。しっかりと数秒、いやに長い時間をかけて、俺の両眼を正視したのだ。俺は言葉を失い、やがて翠は先生に向き直る。
「佐倉先生。これはガラテイア次期後継としてだけではなく、同じ学校に通う者としての、生徒としての言葉でもあるのです。学校には数日の休暇を、体調不良などの今後に影響の出ない形で、周囲に悟られることなく手配させるよう尽力致します。もしも他に要望があれば、その全てに応じることを、ここで約束致します」
そこまで述べると、翠は今まで以上に深く深く頭を下げた。丁重に紡がれたその声には、押し殺してなお隠しきれない震えが滲み出ていた。
「佐倉先生は、生徒の皆からの人望がとても厚く、親しみやすい先生だと聞いています。私も、掛け値なくそのように思います。ですからどうか……どうか戻ってきてください。先生は、多くに必要とされているんです。この世界には、先生のことを大切に思っている人が、たくさんいるんです。どうか、生きることを……生きていくことを、諦めないでください」
そうして、翠はとうとう口を閉ざした。微動だにせず、何も言わない先生の前で、ずっと頭を下げ続けた。俺は正直、唖然とした。この翠が、ここまで真剣になって他人に頭を下げる姿を、俺は見たことも想像したこともなかったのだ。数秒、数十秒――いや、感覚的には何分もの時間が、その固まった状態の中で流れたように思えた。
やがて俺は、逡巡しつつもう一度、翠の腕をとる。そのまま入り口の方へと足を進める。もう俺も翠も、この部屋にはいる意味がない。いるべきではないと、そんな気がした。
翠は初め、頑なに動こうとはしなかったが、しかし最後には結局、俺の腕に身を委ねた。そして一緒に病室を出て扉を閉めるとき、不意に聞こえた。
「お二人とも……ありがとう、ございました」
どこまでも悲しい声だった。その底抜けの洞のように悲しい先生の声は、部屋を出たあとも長く長く、俺の耳に残り続けた。きっとしばらくは、いや、もしかしたらずっと、消えることはないかもしれない。記録に残らない佐倉先生とタカヤ先生のこの事故は、しかし俺の記憶には極めて強く、色濃く鮮明に刻まれた。
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