――アイリス。愛用のノートパソコン、シータで調べたところ、意味はスミレの花だそうだ。ディアOS名ですらなく完全な偽名。

 俺と同じで、花の名前なのだと言ったあの人。果たしてディアかどうかはともかく、おそらく年は俺よりも上だろう。間違っても尋ねなどしないが、それを踏まえて俺からあの人を呼ぶのだとすれば、きっと、アイリスさん……かなり呼び辛い。

 いや、まあしかし、たとえ嘘でもあの人を名前で呼べるのであれば、それも悪くはないのかもしないな、なんて思う。

 それからというもの、俺は夕陽の綺麗な日には必ず、あの展望台を訪れた。もちろん、雲の上のあの場所は下界が雨でもまったく関係ないのだけれど、それでも地上であの赤々とした燃えるような光を浴びると、無性に呼ばれているような気がしたのだ。俺が出向くと、彼女はいつも決まって展望フロアの同じテーブルに座っていて「待っていたわ」と迎えてくれた。

 そんな日々が続いて、早一週間。放課後はほとんど展望台に通っていた俺だが、学校ではアイリスさんの言うところの“探偵業”に勤しんでいた。

 めでたく仮入部の期間も終わり、陸上部も普段の落ち着きを取り戻したであろう頃。機を見て再び佐倉先生に声をかける。タカヤ先生をもう一度調べるためだ。以前に珀と二人で話しに行ったこともあってか、二度目の訪問は一人でも容易く、事も運び易かった。

 今回は部活動の最中に訪れたのだが、やはり佐倉先生はタカヤ先生を俺の前に一人残すと、忙しなく練習の方へと去っていってしまう。相変わらずセキュリティ意識の欠片もない対応だ。

 一方で、そんなディアに疎そうな態度の割に、過去のログが意図的に消去された形跡が、タカヤ先生にはある。それが判明した当時は惜しくもタイミング悪く調査を終わらざるを得なかったが、今日は十分に時間もあるし、丁寧に調べられるだろう。特にOS関連のディレクトリは、まだ開いてもいなかったはずだから、より重点的に見てみたい。

 俺は順当に以前と同じ手筈で確認をしていき、やはり何も入ってないな、と呆れながらも感嘆にすら似た想いを胸に抱き……そして最後に、満を持してOSディレクトリを開く。

 さあ、一体全体、鬼が出るか蛇が出るか。ログの件もあるので、もはや何を見ても驚かないつもりだった。それでも実際に中身を見て数秒、俺はたっぷりと息を飲むことになる。

 そこには信じられない光景があった。


     ○


 校門前、煉瓦造りの花壇に腰掛け人を待つ。そこに、遠くから間延びした声が聞こえた。

「はあーい、ダーリーン!」

 翠だ。

「おいやめろ。ただでさえお前は目立つんだぞ」

「やあねー違うでしょー。あたしが『はあーい、ダーリーン!』って言ったら、あんたは『やあ、ハニー!』でしょー」

 アホか。それじゃあまるでデートの待ち合わせみたいじゃねぇか。断じて違うぞ。俺はさきほどまで、競技場でタカヤ先生の調査をしていた。その結果、驚愕の事実を目の当たりにしたので、報告のために翠を呼んだのだ。普段ならば俺から翠に連絡することなど皆無だが、今回ばかりは事情が事情。翠はちょうど家の用事で帰宅するところだったらしいが、さすがに自らの依頼した調査である手前、二つ返事で落ち合うことになった。

 ……だというのに。

「ほら、じゃあテイクツーよ。はあーい、ダーリーン!」

「帰るぞハニー」

 いつまでやっとるんだお前は。

「うっわ、冷たっ! ノリ悪いなあ、もー。金髪翠眼のこーんな美少女がダーリンって呼んでんのよ? 少しくらい嬉しそうにしたっていいのに」

「金髪翠眼は気にしてたんじゃねぇのかよ。だいたい、自分で美少女なんて言うやつは、大抵は性格の方がイカれてんだよ。ほら、あんまり無駄話してると、すぐ陽が落ちるぞ」

「大丈夫大丈夫。家から迎え呼んだから」

 何だと! 家から迎え!? まったく、これだから金持ちは……。

 さらっと零れた発言に呆れながら、俺はジト目で翠を睨む。翠はそれを知ってか知らずか、背中まで伸びる長髪を夕焼けの中になびかせつつ、俺の隣にひょいっと座った。

「それで、少しは調べがついたのね? わざわざ呼びつけたってことは、てんで見当違いのハズレでしたってわけじゃあないんでしょう?」

 直前まで冗談を言って笑っていた翠の顔が、その言葉を境に真剣なそれに変わる。俺はその変化に若干戸惑いながらも、喉まで出かかった文句を飲み込んで話し始めた。

「ああ。まず先に確認するが、半年前の十二月にガラテイアのサーバーをクラックしたディアのシリアルナンバーは『Sera-003-3085KS207A』で間違いないな?」

「ええ、その通りよ」

 最初に必要な前置きをし、予定通りの返答を得て俺は「ふう」と溜息をつく。

「翠、お前の見込み通り、そのシリアルナンバーは例の先生――佐倉由梨絵先生の所有するディアのものと一致した」

 瞬間、翠の表情がわずかに張り詰めるのが見てとれた。俺は構わず続ける。

「だが、あのディアの中にクラッキングに利用できそうなアプリケーションやソフトウェアは入っていなかった。さらに言えば、あのディアのログには、三ヶ月より前のものが存在しない」

「ちょっと、どういうことよ、それ」

「意図的に消去されたと考えるのが妥当だ。当然、クラッキングの痕跡は残っていない」

 翠は少し考え込んだ。頭の中で、状況を一つずつ整理しているのだろう。しばらくして言う。

「でも、向こうにログがなくったって、こっち側――ガラテイアのサーバーには、『Sera-003-3085KS207A』からアクセスされたログが残ってるわ」

「ああ、だろうな。つまり、故意にやったにしろ、別の誰かのプロキシにされたにしろ、あのディアがガラテイアのサーバーにアクセスしたこと自体は、事実だと思う。ただ……」

「ただ?」

「今日、お前を呼んだ理由、本題はここからだ。今さっきわかったことなんだが……あのディアのOSは、セラじゃない。あのディアには《Veiner(ヴェイナー)》というOSが搭載されていた」

 すると、翠の表情がまた凍った。明らかにさきほどよりも驚いているとわかる。

 しかし、それはこちらも同じである。このヴェイナーというOS、俺はこれまで、一度も見聞きしたことがない。「心当たりは?」と尋ねてみるが、翠は無言で首を横に振った。

「……待って。でも、シリアルナンバーは一致したんじゃなかったの?」

「一致したさ。要するに、だ。あのディアは左手に印字されているシリアルナンバーのOSと、実際に搭載されているOSが違ったんだ」

「何よそれ! 思いっきり違法改造じゃない!」

 そういうことになる。ログを消去するのは確かに怪しい行為ではあるが、極論を言えば所有者の自由。しかしOSの書き換えはまた別だ。左手のシリアルナンバーにセラと記されている以上、作られた当初はその通りだったはずだから、OSを後天的に書き換えたということになる。そしてその行為は、法に触れている。佐倉先生は、接した限りではさほどディアには詳しくないが、少なくとも違法なディアを所持しているということ自体は、逃れようのない事実なのだ。

「なあ翠。あのディアは明らかにおかしいぞ。例のクラッキング、俺は前に、愉快犯のちょっかいだと言ったかもしれないが……こうなるとそれもわからない。俺たちみたいな一般市民がこそこそ嗅ぎ回るのはやめて、大人しく警察にでも何でも頼るべきだ」

 俺の助言に対し、しかし翠は、地面に視線を落とし苦々しく言った。

「……それは、出来ない相談ね」

「なぜだ。会社の体裁を気にするのはわかる。だけどガラテイアの後継者として、違法改造を看過するのもどうかと思うぞ」

「まったく正論だわ。でも駄目なのよ。今は、まだ」

 翠は無表情で、なおも頑なに否定を返す。

 その言葉を聞いて、俺は自分の胸にわずかばかりの疑念と焦燥が生まれるのを感じた。

「……まだ? 何か理由があるのか」

 しばらくして翠は「はあ」と短く息をつき、考え事の結論が出たとばかりに空を仰ぐ。

「ま、ここまで調べてもらったわけだし、あんたには喋っとくかー。いやね、ちょっと言いにくいことでは、あるんだけどさ」

 後ろに傾いた身体のバランスをとるかのように、足を浮かせてぶらつかせる。短いスカートが、それに合わせてひらひらと揺れる。脱げかけのローファーが宙で踊る。

「半年前の十二月、うちのサーバーは『Sera-003-3085KS207A』から執拗なクラッキングを受けた。もちろん全部門前払いだったけど……って話は、既にしたわね。でも実は、そこからさらに一年前にも、クラッキングを受けてるの。しかもこのときは、そこそこ中まで入り込まれた」

「……おいおい。それって、鉄壁と言われたガラテイアのセキュリティが破られたってことか?」

「真っ向から破られたわけではないわ。さすがにそんなことになっていたら、もっと騒ぎになっているでしょうね。そうじゃなくて、所属している研究員のアカウントを利用されたの。これについては、現在調べている最中よ」

 ……アカウントを利用されたって、それ、間接的には破られてんじゃねーかよ。

「そんなことがあったのが、今から遡ると一年半前。ところで、ねえ蓮。一年半前っていうと、いったい何があったときでしょう?」

 言いながら、翠は突然こちらを向き、覗き込むように俺を見た。いや、一年半前って、そりゃお前……と、俺は思う。そんなの、答えはわかりきっている。

「……時の凍結」

「そ。それは今から一年半前、八月二十三日の午前十一時五十六分の出来事。そしてその瞬間は、まさにうちのサーバーがクラッキングを受けた時刻」

「――なっ!」

 はっとなった。そこまで聞いて、俺は翠の言いたいことがわかった気がした。

「あの事件は、全世界共通の大事件だった。もちろんうちのサーバーだって、例外なく被害を受けたわ。重要なデータはしっかり対処されているから無事だったけれど、でも、一時的なログはそうはいかなかった。おかげでそのクラッキングに関するログが、一部吹っ飛んだの。だからクラッキングの元を辿ることは、未だに出来ないでいる。わかっているのは、アクセス方式からしてOSがセラのディアであることだけ」

「……一年半前の時の凍結と、同時に行われたセラOSからのクラッキング。そして、その半年後に執拗に行われた『Sera-003-3085KS207A』からのクラッキング」

「ね? 無関係とは限らないでしょう? 繋がっているのは二つのクラッキングだけじゃない。そのクラッカーは、時の凍結と何らかの関わりがあると、あたしは踏んでるわ」

 翠は、ようやく理解の及んだ俺を見て、不適に微笑む――だが笑い事では済まされない。

「……時の凍結の原因は、未だにわかっていないんだっけか」

「恥ずかしい話、ガラテイアもやっきになって調べてはいるけれど、ほとんど何もわかってないのが実状ね。だから、うちとしては掴める情報はどんなものでも掴みたい。あんたもさっき言っていたけれど、時の凍結に関わりのあるかもしれないクラッカーが、佐倉先生だけとは限らないわ。もしかしたらプロキシにされただけかもしれない。トロイでも仕込まれていたのかもしれない。仮に佐倉先生本人が真のクラッカーなのだとしても、詳しいことがわからないこの状況で騒ぎを公にしたら、相手にだって感づかれる。それじゃあ、掴めるものも掴めないわ」

「だから今は、まだ事を大きくできない、と」

「そういうこと」

 そこまで述べると、翠は足下に視線を落として、無表情へと戻ってしまった。

 少しの沈黙が流れたのち、目の前のロータリーに車の入る音が響いた。黒い、見るからに高級そうな車がそこに停まる。運転席からスーツを着た女の人がすっと現れ、助手席の前に立った。その女性は翠のディア――ステラだ。おそらく翠の呼んだ迎えだろう。

 翠も、それには気づいている。しかし依然、腰掛けた花壇から立とうとはしなかった。何となく直感で、翠は俺が口を開くのを待っているのだと思った。

「じゃあ、そうだな……次はあのOS、ヴェイナーについてでも、調べてみるか」

 すると途端、まるでスイッチでも切り替えたようにパッとまた笑顔になる。

「あれ? まだ付き合ってくれるんだ? あんたにしては珍しいじゃない」

「……まあ、気にならんと言えば嘘になるからな。それにお前、頭ん中じゃどうせ、俺が動くこと見越してるだろ」

 そう言ってやると、翠は至極ご満悦といった様子で答えた。

「さすがね。完璧な以心伝心だわ」

 ぬかせ。と俺が抗議する前に、もう翠は、花壇から跳ねるように立ち上がる。

「じゃあ、期待してるわね! ダーリン!」

 ああ、わかっていた。こんな風に調査の続行を申し出てしまえば、またも翠の思うツボだとわかっていた。だというのに、なぜ俺は、まんまとそれに乗ってしまったのだろう。

 クラッキングの件、多少気になっているというのは嘘ではない。けれども、それだけで翠の傀儡になってやるほど、大きな好奇心でもないはずなのに。自分で自分の行動がわからない。わかるのは、やはり俺は、翠が苦手だということくらいだ。それがどうにも癪で、気分良く帰ろうとしている彼女の背を眺めながら、俺は小さく呟いた。

「いい加減、そういう冗談はやめろっての……」

 当然、独り言のつもりだった。だが、どうやら翠には聞こえてしまったらしい。彼女は立ち止まり、その場で振り返らずに言葉だけを返した。

「あはは、まあいいじゃない。もうじきこんな冗談も言えなくなるんだし。大目に見てよ」

「言えなくなるって、そりゃどういう意味だよ」

「あたしね、来月末に結婚するの」

 ……は? 結婚?

 いきなり飛び出てきた単語に頭が追いつかず、俺は思わず固まってしまう。

 しばらくすると、翠はようやく首だけをこちらへ向けぎこちなく笑った。

「えっへへー。ジューンブライドよ。いいでしょー」

「……また、随分と急だな。相手は?」

「えっとね、イギリスの人。ディアに使うパーツや新規技術を扱ってる会社の経営者、かな。なんでも、かなり優秀みたいよ。まだ会ったことないんだけど」

「思いっきり政略結婚じゃねーかよ」

「あったり前じゃない。良くも悪くも、あたしみたいなのが恋愛結婚なんてできないわよ」

 うわ。なんだそのコメントしづれー返し。つーか今時、政略結婚だなんて、昔の貴族や武士じゃあるまいし……なんて、俺は咄嗟に思ってしまったが、ただ、実際のところはどうなのだろう。今の時代でも、大企業の後継者ともなると、似たようなものなのだろうか。

「まあ……そりゃあ俺には、お嬢のお前の事情なんてわかんねーけどさ。でも、後継者ってのは、会社のためにそこまでしなきゃならんもんなのか?」

「そうね。ならないものよ。あたしの結婚は、今後の会社の発展のために必要だもの」

「いや、そうかもしれないけど……ほら、お前の気持ちとか、そういうのもさ……」

 結婚。そんなものは、俺にはまだ全然実感の湧かないものだ。自分の常識のうちにある一般論として、好き合う者同士でするのが当たり前だと思っていた。

 けれども、翠はきっぱりとそれを否定する。

「ないわね。あったとしても、残念ながら、それは意味のないものよ。あたしの人生は、あの会社のためにある。シナリオは既に出来上がっている。今回の結婚はそれに則って、あたしが自分で、自分のために、そして会社のためになるように決めた」

 清々しかった。清々しいほどに割り切っていて、後悔や不満を感じさせない物言い、そして明るい声だった。それはまるで、他愛もない世間話に興じるかのように、自分にとって当たり前だと思っていることを話す声だ。そんなものを聞いてしまったら、俺は、そういうものなのかと思ってしまう。思うしかなくなってしまう。少なくとも、翠にとっては。

 喉から出かかり、くすぶったいくつもの言葉。俺はそれを全部飲み込んで、静かに言う。

「……そうか。じゃあ、えっと……おめでとう、か」

「うん。ありがとう」

 そのとき、風が一瞬、吹き抜ける。その風になびく金色の髪が、翠の横顔をそっと隠す。彼女はそのまま、前を向いて歩き出した。

「じゃ、調査よろしくね。それもあたしのシナリオに、ちゃーんと組み込まれてるんだからさ」


     ○


「検索ワード『Vainer』に、対する文献ヒット数は、ゼロ件、です。申し訳ございません」

 目の前のカウンターで深々と頭を下げる受付の女性。理知的な顔立ちに眼鏡をかけ、長髪をバレッタで留めて白いエプロンベースの制服に身を包む女性が、抑揚の乏しい声でそう言った。

 身体の前で重ねられた手の甲には、薄い刻印で《Weisheit(ヴァイスハイト)》とある。つまりはディアだ。このタイプは汎用ではなく、司書としての業務に特化したOSを搭載している。

「別の、検索ワードで、再検索を、致し、ますか?」

 その日、俺は早朝から街の図書館を訪れていた。目的は当然、例のOS、ヴェイナーについて調べるためだ。本来ならばわざわざ実際に足を運ばなくても、蔵書の電子版を自宅からネットで検索すれば事足りるはずだったのだけれど、しかしいざやってみたら、それはディア専用のシステムだった。ああ……こんなところでもディア非所持民の弊害が。

 ちなみに今日は休日だ。祝日『ディア感謝祭(Dear Thanksgiving Day)』。なんでも、大昔に最初のディアが誕生した日なのだとか。本当かどうかは眉唾である。

 ともあれ、予想通りの芳しくない検索結果に、俺は表情を崩さない。その後もいくつかの検索手法を駆使して、なんとかそれらしい資料を絞り込むことに努める。目の前の司書はそのたびに目を閉じて検索処理を実行し、有線接続したシータに結果を送信してくれた。さすがは司書業務のために作られたディアだ。柔軟な検索ができ、しかもスムーズ。その分、ほとんど無表情で言動が固いのは、そこにスペックを割く余裕と必要がないから――もといご愛敬。

 そうして、全六十二階層もあるこの広大な書架の中を、司書の淡泊な案内に従って捜索すること、なんと七時間。俺は今日、朝一番でこの図書館にきたはずだが、気づけば空には赤々とした夕陽が輝いていた。考えてみれば昼飯もろくに食っていない。

 だというのに、成果は依然として乏しいまま。ヴェイナーについて調べるどころか、ディアOSそのものについても、わからない部分は多々残った。まあ、この世の全ての知識が公共の図書館にあるわけではないし、ガラテイアの企業秘密もあることだろう。

 そもそも、ヴェイナーはガラテイアの作った公式のOSではない。たとえば図書館にある歴代ディア辞典にも、ガラテイアの公式のウェブページにも、それに関するまっとうな記述は存在しないのだ。だからあれは、既存のOSを改造して作られた違法OS。つまりは非公式のOSなのだろう。どうにかして得られた情報からは、そのくらいの憶測が関の山だった。

 半ば閉館時間に追われるようにして図書館を出た俺は、荷物片手に茜差す帰路を歩く。佐倉先生やタカヤ先生のことを頭に浮かべて調べていたからか、道行く人々にその面影がちらちら重なることもあった。自宅まで地下鉄に乗って帰るため、都心駅へと向かう。

 けれども、駅はなぜか妙に混み合っていた。今日が祝日だという理由もあるにはあるが、しかしさすがに、異常なほどだ。遠巻きに見やれば、連綿と続く人の波が――より正確に言えば人とディアの波が、駅から百貨店へ繋がる道をひたすらに埋め尽くしている。はてさて、まったく、いったい何が。

「あ、今日って……最新のリングデバイスの予約開始日か」

 俺は思い当たる節を一つ思い出す。そういえば、少し前に珀に見せてもらった例のアレ。確か、もうじき発売だと言っていた。とすると、この混雑はそれが原因か。

 正直、電車はとても乗れたものではない状況だった。げんなりと肩を落とす。恨めしげに周囲を見渡し、何気なく百貨店への入り口が目に入った、そのとき――

 俺はふと、ある人の姿を思い浮かべ、頭上の雲の、さらに上の空を見上げた。



「違法OSについて調べてる?」

 天空の世界。そこからまばらに見え隠れするオレンジ色の地上を眺めながら彼女が言う。

「まだやっていたのね、探偵ごっこ」

「ごっこの割には、結構深刻な気がしてるんですけどね……」

 百貨店がかつてないほどに賑わっているから、その真上に設けられた展望台も、ともすれば……。もしそうだとしたら、そんな混雑の中で色々と奇抜なアイリスさんはどう映るのだろう。俺はそんな面白半分な疑問を抱きながら、人の波に逆らってここまで来た。

 しかしながら、実際は何のことはない。案の定、この展望台はガラガラだった。やはり今時、エレベータで上るだけで十五分近くも費やすこんな場所は流行らないのだ。いつも通り、広大なフロアに少ない人影。黙々とカウンターで待機しているディアの店員。控えめな音量のはずなのに、よく耳に届く背景のピアノクラシック。

「ヴェイナー。空虚なる者、ってところかしら」

 アイリスさんが頬杖をつきながらぽつりと零した。

「ええ。もしかしてアイリスさんなら知ってたりしないかな、と思ったり思わなかったり」

「ふふ、本当かしら? 混雑で帰れないから、時間潰しに来たんじゃないの?」

「はは、手厳しいですね。それも、なくはないです。すみません」

「いいえ、いいのよ。私としては、それでもとても嬉しいのだもの」

 こちらを向いて淡く微笑む今日の彼女は、もはや恒例のように、真っ黒で大仰なドレスに包まれていた。これまで会ってきて確信したが、彼女は絶対、この奇抜な黒ドレスの類を何着も所持している。あんまり何度も目にしていると、まるでここではそれが当たり前の格好なのではないかとすら思えてくるほどだ。そんなことがあるはずはないのに。

 やがて彼女は、少し考えるように視線を落とした。

「でも、そうね。ちょっと、わからないわねえ」

「……まあ、そうですよね」

 駄目元とはいえ、外れた期待に、俺の方は肩を落とす。そりゃあそうか。知の宝庫とも言うべき図書館に一日籠もってヒントの欠片すら見つからないことが、そうそうわかるはずもない。

 けれども、そんな俺の諦念を覆すようなことを、そこで彼女はさらりと言った。

「あ、そうじゃなくて、ちょっと思い出してみないとわからないって意味よ。待って、今思い出してみるから」

 思い出してみないとわからない?

 その言葉に不思議を感じる俺の前で、彼女はゆっくりと目を瞑った。背筋を伸ばし、軽く肩を張って、手を腹部に――何だろう、いかにも「今思い出し中です」とでも言いたげな姿勢。あるいはそれは、まるで瞑想のようにも見える姿だ。思い出すって、口では簡単に言うけれど……いやいや、とても無理だろう。仮に本当に知っているのだとして、それでもすぐには出てきまい。だって思い出す必要があるということは、忘れているということだから。そして、人間の脳は都合よく端から端まで検索するみたいに、何かを取り出せるわけじゃあ――

「ああ、知っているわ」

 嘘?!

「えっ、あ、あの……本当、ですか?」

「もちろんよ。私、生まれてこの方、嘘をついたことなんて一度もないもの」

「……それって典型的な嘘つきの台詞ですよね?」

「ふふっ。どう、かしらね?」

 頬を引きつらせる俺をよそに、彼女は首を傾げ、鈴を転がすようにころころと笑う。

「大丈夫よ。ちゃんと知ってた。ヴェイナー、非正規ディアOS。早い話が改造OSね。確認されたのは、一番古くて今から三百年くらい前かしら」

「三百年前……随分と前ですね」

「そうね。とは言っても、この頃にはもうディア技術は、ほぼ出来上がっていたのだけれどね」

 ディアの歴史は、それはもう、実に長い。現在に至るまで絶えず技術は進展しているけれども、OSそのものの基本、構成のベースが確立されたのは、比較的初期の頃だと聞く。

「じゃあこのOSは三百年前に生み出されて、何か犯罪に利用されたんでしょうか?」

「うーん……いいえ、そういう事実はないはずよ。だって、もしそんなことが起こっていたら、このヴェイナーというOSの記録は、そこら中に残っているはずだものね。わざわざ私に聞くまでもなく、蓮君だって、さぞ簡単に知ることができるでしょう」

 それは……確かに、その通りだ。

「むしろ事件として取り上げられたのは、元のOSの方じゃないかしら」

「元?」

 予期していなかった彼女の発言に、俺はオウム返しで首を傾げた。

「そう。ヴェイナーは改造OS。したがって当然、改造元が存在する。元となったOSは《Avenir(アヴェニール)》。当時、飛躍的なスペックの向上を謳って発表された正規のOSよ」

 アヴェニール。その名前には覚えがあった。何せ数時間前、図書館で見たものだったからだ。

「……そのOS、歴代ディア辞典に載っていた気がします。でも確か、製造、販売ともにものすごく短い期間だったような」

「ええ。アヴェニールは、確かに当時の既存OSと比べて、目に見えてカタログスペックが良かったし、実績も上げた。でも、のちに致命的な欠陥が発見されたの。このOSは、与えられた指示を、全て完璧に実行しようとするのよ」

 アイリスさんは『全て完璧に』の部分を強めて言った。おそらくは、わざとだろう。俺はその意図を何となく察し、戸惑いを露わにする。

 彼女は頷きつつ、先を語った。

「つまりは指示された処理を、文字通り捨て身で実行しようとするということ。OS以外の別のユニットや身体パーツへの負担は完全に度外視。たとえばある処理を実行することで、そのディア本体が破損したり、周囲に著しい悪影響が発生することになるとしても、まるっきりそれを厭わない。言うなればそれは、まさに諸刃の剣。制御と限界を超えた力――バグそのもの」

 なんてことだ。通常、ディアは与られた指示に対して、個体への物理的負荷や周囲への社会的道徳を考慮し、その上で動作を選択する。そういうプロトコルを持っているべき存在なのだ。それは、人の隣に立つべきものとして、最低限の資格とさえ言える。けれどもアヴェニールというOSを搭載したディアは、その限りではなかったということか。

「その性質上、アヴェニールは短期間で製造と販売が停止されたにも関わらず、根強く世に――特に、非合法な活動を主とする人たちの間に出回って、改造OSの元として利用されるようになった。たぶん、アヴェニールを元とした改造OSって、調べればたくさん出てくると思うわ。犯罪利用されたものも多いはずだから」

 いくら三百年も前とはいえ、そんなOSが正規品としてガラテイアから流通したという事実に戦慄を覚える。リコール程度で済めば御の字の大失態ではないか。

「ただ、ま、今回のヴェイナーに関しては、話が別ね。おそらくこれは、犯罪利用されていない、世間的に表に出ていないOSで、だから公的な記録がなく、作成者も不明とされている」

「犯罪利用が目的じゃない改造OS……だとしたら、じゃあ、いったい何に……」

「あら、蓮君、前に言っていたじゃない。ココロプログラムって。あーゆーのに用いられるのが、割と妥当な筋書きだと思うけれど?」

 驚愕で混乱していたのか、そのときの俺の頭では、思考を巡らせどもそんな筋書きは浮かばなかった。しかし、言われてみればその通りだ。

 ディア工学は、昨今でこそその利便性、機能面について大きく技術発展が求められ、成し遂げられてきた傾向にあるが、遙か昔から一貫して人の心――ココロを作り出す研究も行われている。それは、時には大々的に、時には細々と、しかし片時も途切れることなく続けられてきた試みだ。そして、こと現在においても、そういう分野を専攻している機関や施設は世界各地に点在している。より革新し、進化を遂げたディアが生まれるたび、人々は繰り返し口にする。「ディアはまるで人間のようだ」と。

 そしてまた、往々にして、社会の枠から逸脱してさえも、ココロを求める人たちもいる。そんな連中の生み出したプログラムが、おそらくは現在において噂となっているココロプログラムと呼ばれるものの一つであることは、可能性としてゼロではない。もちろん、大概は名ばかりの、ガラクタのような稚拙なプログラムであったりするのがオチなのだが、ごく稀に――砂漠に落とした一粒の宝石のように本当にごく稀に、極めて精巧な人格を宿したプログラムが見つかることもあるらしい。それが、長くココロプログラムなどという都市伝説が消えない理由。

「アヴェニールに少し手を加えて現在の規格に合った改造OSとし、本来は実行できないような負荷の多いプログラム――ココロプログラムを実行させる……?」

「そういうこと。人の心は、とても複雑よ。人間の脳は毎秒一京回もの処理を、わずか二十ワット程度の電力で行う。それを機械で再現しようと思えば、一千万倍以上の電力と、相応に大掛かりなプログラムが必要になる。感情という無限にも近いパラメータ。そこからくる一挙手一投足の細かな動き。それぞれの個性。論理的な表現が難しい直感。そして何より、日々の生活で積み重なっていく、膨大な記憶。それら全てを複合的に処理し、人間とともに生きるということ……機械にとっては、並大抵のことじゃない」

 子供の頃から普通に目にしてきた光景。人間とディアが当たり前のように生活をともにしている、その光景。現代では、ディアは人間の社会に十分に融和し、その営みを助けている。振る舞いは人間と比べて遜色なく、彼らがあえてディアという立場に徹しようとしなければ、さらに人間に近づくとも言われている。でも……それでもまだ、完璧ではない。

「……たとえば、アヴェニールの改造OSを使えば、曲がりなりにもそのプログラムを動かせるわけですよね。実際にやったら……どうなるんでしょう」

 その疑問は、単純に俺の興味からくるものだった。ディアは日に日に、人間に近づく。昨日よりも今日、今日よりも明日、それがついに留まることなく、際の際まで極まったら、いよいよディアは、どうなるのだろう? ディアは人間そのものに、なるのだろうか?

 しかし、俺のそんな妄想に対し、アイリスさんの答えはひどく現実的なものだった。

「さあ、予想もつかないことだけれど……少なくとも、まともに機能するのは、ほんの僅かな時間でしょうね。無理をしている以上、やがては一つの綻びが生まれ、遠くないうちに二つ、三つ。そして最後には……」

 語る彼女に表情はなかった。苦渋も同情も哀切もなく、まるで水が高所から低所へ流れる事実を諭すかのように、平坦な口調でただ述べる。当たり前のことを、当たり前に。

 そうなのだ。何もディアに限らず人間だって、無理をすれば異常を来す。それが自然の摂理である。オーバードライブのディアが行き着く先なんてのは、ただ一つの例外なくスクラップ、有り体に言って、つまりは死――

 俺がその結論に、たどり着いたか、着かないか。アイリスさんが珍しく先に席を立ったのは、ちょうどそんな頃合いだった。

「さて、気づけばもう、陽が沈んでしまったわね」

 彼女につられ、俺もガラス越しの空を眺める。雲の上のこの場所は、地上よりも少しだけ日の入りが遅い。それでももう、すっかり太陽は沈んで、藍色一色。

 アイリスさんは俺を見下ろし、にこやかに言った。

「じゃあ、これにて今日のお茶会はお終い。どう? 望みの情報は得られたかしら?」

「……ええ、まあ。とても、参考になりました」

「そう。それは、とてもよかったわ」

 そして彼女は歩き出す。カツ、カツと緩慢な足音を響かせ、フロア中央のエレベータへ。

 その背をただただ黙って見つめ、しかし俺は、これだけは聞いておこうと思ったことを咄嗟に口から弾き出した。

「あの、最後にもう一つ、質問していいですか?」

「なあに?」

「アイリスさんは、どうして、こんなことを知っているんですか?」

 すると彼女は、ゆっくりと振り返って「ふふっ」と笑った。真横に伸び、端の引き上がった唇の前に、一本の人差し指が静かに添えられる。

「ねえ、蓮君。秘密は女性を美しくするものよ。これで私はあなたにとって、また一つ美しくなったわね」

 未だ照明のつかないこの空間で、彼女の表情はほとんどが陰に隠れ、よりいっそう、ミステリアスな空気だけが辺りを伝った。

 何も別に、現時点から一つや二つ彼女の秘密が増えたところで、そしてその結果、彼女の美しさが一回りや二回り増したところで、俺にとっての彼女の美しさは既に十二分に振り切れているのだから、今回ばかりは教えてくれたってよかろうに。ふとそんな風に思ったけれど、しかし残念ながら、実際にそう口にするほど俺は気障でも無垢でもなく、結局は去りゆく彼女が下界に消えるまで、何も言わずに見つめていた。思えば俺は、彼女のことを、何も知らない。なのに……いや、だからこそだろうか、俺は彼女に魅かれてやまないのだと、はっきり感じた。

 闇と言うほどでもない曖昧な暗がりの中、雲の向こうに凛と佇む世界樹が、その花弁が、淡い光を放っていて、ただひたすらに俺の胸を焦がす。


     ○


 六月になった。梅雨の季節だ。この時期は湿度も高く曇りも多いため、地上から世界樹を見ることのできる日が少なくなる。俺としては、やや退屈な日々である。授業中、本来ならばそれが見えるはずの方角を窓から眺め、しかし灰一色の空、そして休みなくしとしと降り続ける雨に頬杖をつきながら溜息を一つ放る。磨硝子のように煙る景色の向こう、花壇に咲いた紫陽花は雨に打たれて小刻みに揺れ、まるで喜んでいるかのように見える。

 午前の授業を終えて昼休みを迎えると、後ろの席に座るクラスメイトから声がかかった。

「おつかれー。那城、学食と購買どっちにするよ?」

 学食は混むから購買で何か買ってここで食べよう。俺は、そう答えようとして振り返る。

 しかし、そのときだ。突然に教室の入口扉が開け放たれた。そうして臆すこともなく俺の机まで入り込んできたのは、金髪翠眼のトラブルメーカー。

「はあい! ダーリン!」

 クラス中の視線がこちらに集まっているのは明白だった。俺はあえてそれを無視し、クラスメイトに一言告げる。

「学食へ行こう。今日は朝からAランチの気分だったんだ」

 けれど。連れ立とうとした彼はワンテンポ遅れて、何かを察したような様子を見せた。

「いや、先約済みだったか。悪い悪い」

「違う。別にそういうんじゃ」

「いいよいいよ、気にすんなって。じゃ、ごゆっくりな、お二人さん」

「あ、おい!」

 俺は思わず手を伸ばしたが、彼は無慈悲にも曖昧な笑顔を浮かべて去っていってしまった。まるで自分が邪魔者とばかりに詫びるような表情と声色。そんな気遣いができる彼の優しさは伝わったが、正直に言わせてもらえばとんでもない誤解である。さらに言えば、彼のその行為は、教室中の誤解を駄目押しとばかりに増長させた。

 まあ、それもこれも全部、目の前のこいつがおかしな呼称など使うからである。

「……おい翠。その呼び方はもうしないんじゃなかったのか」

 俺が声を低くして尋ねると、翠はまったく悪びれた様子もなく笑顔を返した。

「えー、だからそれは月末だって。今の私はまだ、清廉潔白純真無垢な真っ白セニョリータよ」

「ふざけんな。所構わず相手も選ばずそんな愛称使う女の、どこが真っ白かってんだ」

「立ち居、振る舞い、申し立て?」

「白々しいわ」

 駄目だ。こいつの相手をまともにしたら負けだ。

「んで、何しに来た」

 俺は無駄話を避け、わざわざ昼一でこのクラスまで出向いてきた意図を早急に問う。

 対して翠は、自分を見つめる人間のうちいくらかに向け「あ、どもども。やっほー」などと手を振り、愛想を振りまきながら集まった視線を上手く散らす。

 しばらくすると、翠は座る俺を見下ろして言った。

「はあい。ダーリン」

「お前、俺の質問聞いてた?」

「いやあ、正しい答えが返ってこなかったからさ」

 はあ? 何だそれは。

 俺は疑問を抱いたが、しかし不意に思い当たった。いや、思い当たってしまったと言うべきか。結局、腹立たしさと話の進まない苛立ちを天秤に掛け、精一杯の苦々しい表情で返す。

「ちっ。何か用かよハニー」

 すると翠はニヤニヤ笑いながら、机の上に数枚の紙束を出した。

「……何だ? これ」

「私が調べた、ホシの情報」

「ホシ? ……って、ああ」

 佐倉先生のことか。まあ確かに、この場で名前を出すわけにもいかないな。

 見れば、それは過去の新聞記事など、翠なりに集めた情報をまとめたものらしかった。

「これ、渡しとくわ。どうせあんた、午後の授業も聞かないんでしょ? 読んどいてよ」

「とんでもない言いがかりを前提に話を進めるな」

「え? じゃあ聞くの?」

 ……聞かないけど。

 答えない俺を前に、翠は「ほらね」と口角を上げ、なかなかにムカつく表情を見せる。

「互いに持ってるものは共有しなきゃ。って言っても、私、今日はこれから早退だし、口で聞かせる時間もないから、紙にしたのよ。あんたとしても、私と長々話すのは嫌でしょ」

「よくわかってるな。しかし、早退ってのは、何でまた」

「結婚式の衣装合わせとかリハーサルとか、色々とね」

 ああ、なるほど。こいつの結婚式ともなれば、さぞや大掛かりなものなのだろう。したがって準備も相応に大変なわけだ。

 翠は肩をすくめ、諦念や妥協の見え隠れする薄い笑みを浮かべた。

「でもさ、子供の頃から憧れてたウェディングドレスも、こう何回も着るとさすがに飽きてくるもんよね」

「……女子高生の台詞とは思えんな」

「だってあれ、仰々しいベールの付いたヘッドドレスに、これでもかってくらい丈の長いスカートとか、着るだけでものすっごい時間かかるし、着たら着たでほとんどまともに動けないし」

「夢も希望もへったくれもないコメントはやめろ」

 事実だとしても、出来ればあと数年は聞きたくなかった。確かに、見た目はどんなに麗しくても、着る方は決して楽ではない代物か。俺の知る中にはたった一人だけ、ウェディングドレスほどではないにしろかなりご立派なドレスを普段着のように着こなす人がいるけれども、あれを引き合いに出すのは間違いだ。まともに考えれば、あちらの方が絶対に異常なのだから。

「あーゆうのは見る専に限るってことがよーくわかったわ。お姫様みたいなドレスってのは、人形にこそ着せる服だってことがね」

 もうこれ以上は何も言うまい。ろくな感想が出てこないだろう。ゆえに俺は、露骨に話の方向をずらす。

「……その様子だと、式は国内か?」

「そうよ。あ、ねえ、あんた招待したら来る?」

 翠は特に気にした風もなく、まるで、今日うち来る? みたいなノリで尋ねてきた。

「嫌だよ。周りから、誰だよお前って言われちゃうだろ」

「そしたら紹介するわよ、私のダーリンですって」

「……なあお前、本っ当の本当に結婚するのか?」

 どうもこいつの言動は、いちいち冗談と本気をわからなくする。よくもまあ次から次へと突っ込む隙もなく、ボケなのかからかっているのか、薄っぺらい発言が絶えないものだ。

「ま、気になるんなら、それを確かめに来るのもいいかもね? っと、そろそろ時間か」

 訝しげな視線を送る俺に、翠は相変わらずのムカつく笑みで面倒をふっかけると、腕にはめたブレスレットデバイスを見て踵を返した。

「じゃ、引き続き、期待してるわ」

 果たして期待されたのは、式への来場か調査の件か。こいつのことだから、両方という欲張りな線も十分ある。俺は早足で教室から出ていく翠の背中を見送ってから、手元の資料をざっとまとめて机の中に放り込むと、軽く息をついて窓の外の空を眺めた。

「……はあ」

 六月。結婚式。ジューンブライド。季節柄、街でもネットでも、この手の宣伝が増えてきた頃だ。ある種、こんなのは業界の戦略に過ぎないのかもしれないが、それでも幸せの花嫁という謂われにあやかりたがる人たちは多いのだろう。式場にとっては繁忙期だ。

 中でも、近年少しずつ目立ってきたのは、ディアをターゲットとしたサービスを提供する式場だ。たとえば、とある人間の男女が結婚する際、新郎新婦それぞれのディアもこれからともに暮らすことになるのだからと、その結婚式まで同時に執り行うという、所謂ダブル結婚式。また、招待客や来賓にディアを積極的に招きたいという顧客のために配慮された大型の結婚式も少なくないと聞き及ぶ。一昔前まで、ディアを交えた結婚式はかなり稀だったが、これから先はどんどん増えていくかもしれない。

 それよりも、俺からすればこの雨の中こぞって結婚式をやりたがる古き慣習の方が、よっぽどか謎だ。だって、雨だぞ。仮に想像の中だけなら、新郎新婦、立派なタキシードにウェディングドレス。二人仲良く一つの大きな傘を持ち、優しく打ちつける慈雨の音色を観衆の拍手に見立て、ロマンチックに新たな門出の道を歩く。そんなことも可能だろうが、でも現実は違う。

 翠曰わくただでさえ面倒なウェディングドレスが、さらに面倒になること請け合いだ。喜ぶとすればブーケの花くらいのものである。立場的に祝事というよりも催事の意味合いが強い翠の結婚式は、当然、失敗の許されないものなのだろうし、だとすれば晴れた方が良いに決まっている。なぜ今やるのか。大人しく梅雨が明けるまで待てばいいのに。

 などと、俺はぼんやり考えながら、しかし一方でまた、ふと思う。

 どうして俺は、行きもしない翠の結婚式の天気や日取りなど気にしているのだろう。俺には一切関わりのないことではないか。それに、おそらく俺がどんなに気にしたところで、どうせあいつの式本番は晴れるに違いない。きっと翠なら、神通力でも何でも使って、当日にしっかり梅雨晴れを起こすだろう。大事な来賓と一緒に、 ついでに太陽様にも無理矢理出席願うわけだ。六月は休日の多い太陽もこれには勝てまい。非常に気の毒この上ない。

 俺は胸の中で勝手な同情を呟くと、降り続ける雨を尻目に緩慢な動作で席を立つ。そうして、今にも泣き出しそうな腹の虫を抑えるために購買部へと向かった。



 昼休みを終え午後の授業となり、癪だけれども翠の言う通り、それを聞く気になどならなかった俺は、結局、机の中から例の紙束を取り出した。それを読み始めて真っ先に俺の目を引いたのは、一つの新聞記事。見たところ、資料はその記事を中心に構成されていた。

 内容は、今から約二年半前、雪の降る冷えた二月に起こった、ある交通事故についてだった。かなり大きくメディアに取り上げられた事故で、当時中学三年だった俺の記憶にも残っている。

 その事故は休日の夕刻、首都圏のある交差点でトラックが停止し損ね、横断歩道を渡る歩行者三名に突っ込んだというもの。原因は濡れた路面によるスリップとも、車両不良とも言われていたが、詳しいことは述べられていない。それよりも、ここで触れられているのは、トラックのドライバーがディアだったという点である。事実、これが事を大ニュースたらしめた。

 一般常識として、ディアが運転でミスを起こすことはほとんどない。常に世界樹と情報のやりとりをすることで周囲に配慮し、車両の機械的な不良にも敏感で、なおかつヒューマンエラーを起こさないからだ。現在のディアは技術的にそれだけのスペックを持っており、また実績も十分にある。だからそこ、それだけこの事故は、珍しい出来事だった。

 読み進めると、記事の説明は事の概要から、被害者である三名へと移る。その三名の内訳は、人間一人とディア二人だ。人間の被害者の名は、鶴舞(つるまい)鷹(たか)弥(や)。当時二十七歳、男性の企業研究員。トラックの追突を受け、救急で病院に運ばれるも、間もなく死亡したとされている。また、ディアの方は、一名が先述の鶴舞氏を所有者とするセラタイプの男性モデル。こちらは比較的軽傷で、事故後、すぐにメンテナンスセンターに運ばれて処置を受けている。もう一人のディアは、第三者を所有者とする同じくセラタイプの女性モデルで、鶴舞氏同様、トラックの追突をまともに受けた。彼女については、鶴舞氏をトラックから庇う形で直接追突を受け、ほとんど即死――もとい機能停止であったようだ。被害者の三名は交差点近くの店で買い物をし、その帰りに事故にあったということらしい。

 記事には現場を俯瞰した写真が一枚だけ載っており、事の様相を表していた。その一枚を見ただけで読みとれる。一言で言って、現場は騒然だ。周りの人間や自動車は皆、立ち往生。交差点内には被害者たちの購入した様々な物品に混じって血痕が散っている。おそらく、電子版ニュースの履歴などを調べれば、現場を映した動画なんかも見られるのかもしれないが……とても見る気にはなれなかった。新聞の記事はそこまでだ。

 ただ、確かに悲しい事件ではあるが、ここまで読んだ俺の感想として、資料と佐倉先生の関連性が分からない。被害者である鶴舞鷹弥氏の名前と、佐倉先生のディアのそれであるタカヤが一致するのは、一つ引っかかる点ではあるけれど……。

 俺はページをめくる。続きは、翠の書いた文章だ。

 その、鶴舞鷹弥という人物。どうやら資料によれば、ガラテイアの研究員だったようだ。優秀な若手の研究員で、ディアの人格プログラムに関する研究に長けていた。二十代後半という若さでプロジェクトを一つ任されるほどだったと書かれている。ディアの研究にとても熱心だったと。そこから、彼についてのいくらかの説明と、簡単なプロフィールが述べられて……さらにページを一つめくる。俺が驚いたのは、ほとんどそれと同時だった。

 すぐに目に飛び込んできたのは、免許証や社員証に載っていそうな証明写真。鶴舞氏のものだそうだ。穏やかそうな顔立ちに、茶色がかった柔らかく癖のある髪。その相貌が、俺の知るタカヤ先生にそっくりだったのだ。

 後頭部に走る、電流のような何か。俺はその場で立ち上がりそうになるのを何とかこらえ、急かされるように資料の先を読み進めた。すると間もなくして、彼には婚約者がいたという記述に行き当る。ともに暮らし、結婚を目前に迎えた間柄にある女性、佐倉由梨絵。そして新聞に載っていた第三者、被害を受けたディアの所有者というのも、どうやら彼女のことらしい。

 そこまで読んで、俺の中で、やっと繋がる。翠がこの資料を寄越した理由が、やっとわかる。つまるところこの資料は、ガラテイアにクラッキングを仕掛けた容疑者である佐倉先生の、その過去について調べたものなのだ。資料は以降、もっぱら彼女の説明となった。

 結局、件の事故によって彼女は婚約者と自身のディアを一度に失い、突然一人になってしまったことになる。そのショックが原因で、当時就いていた教職を無期休職。のち、それまで暮らしていた都市圏の住まいで何とか生活を営んでいたようだが、ほどなくして親元であるこちらの地方に戻ってきたのだそうだ。それから今に至るまでの二年と半年の間、彼女についての社会的足取りはめっきり途絶え、一切の情報は得られなかった。これが事故の顛末である。

 だというのに、最近になって俺たちの通う高校で急に復職した佐倉先生の、何と、何と明るく快活なことか。元職場から遠く場所を移したためか、その変化に直接気づく者はいなかったのかもしれないが、こうして彼女の過去を知ってしまえば話は別だ。凄惨な事故で愛する人とパートナーを失いながら、しかしこのタイミングで堂々の社会復帰。これが健全な療養の結果であれば一つの問題もありはしない。でも実際は、いささか疑問が残るところ。資料と照らし合わせて整理をすれば、クラッキングはちょうど彼女の空白期間に当たるのだ。その上どうやら、翠の調べでは、クラッキングに利用された元社員のアカウントというのは鶴舞氏のものだという。さらに佐倉先生の現在のディア――タカヤ先生には、不健全な部分があり……。

 果たしてここまでの状況証拠が、単なる偶然で揃い上がるものだろうか。もはや外堀は十分埋まっている気さえする。これはいよいよ……ひょっとすると、ひょっとするのかもしれない。

 俺はそんな調子で資料を読み終え、そして、自分が非常に大きな驚愕という感情を抱いていることを自覚した。この資料には結論はない。ただ客観的な過去の事実が載っているだけだ。でも、翠は言っている。佐倉先生は極めて怪しいと。俺も、そう思えてならなくなってきた。

 驚きで頭が熱を持ち、冷静さを失っている。これではいけない。そうだ、一旦、落ち着こう。思えば今は授業中だ。意識を無理やり資料から引き剥がし、教室へと戻す。さきほどまでまっさらだったはずの黒板は、気づけば白いチョークの文字で埋め尽くされていた。

 俺は今更のようにノートを広げてペンを握る。だが案の定、それは数分ともたない。やがて静かにペンを置き、窓の外を見る。空から水たまりに落ちては円い波紋となって消えていく雨粒を目で追いかける。結局俺は、その日の授業が終わるまでずっとそうしていた。

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