翌日。その日の授業を終えた午後四時ごろ。俺と珀は、学校の保有する陸上競技場にて、肩を並べて構えていた。

「位置について。用意!」

 横から聞こえるかけ声に続き、パンッ! と大きな号砲が鳴り響く。瞬時に地を蹴って駆け出し互いに肉薄、抜きつ抜かれつの接戦の末、わずかに俺の肩が先にゴールをくぐる。

「っし! 勝った!」

「あー! あとちょっとだったのに!」

 俺は勝利に思わずガッツポーズ。珀は心底悔しそうだ。

「……って! ちげーよ!」

 しかし、唐突に湧き上がった衝動が、俺にそう叫ばせる。

「誰が短距離走するためにこんなとこ来とるか! 俺たちは放課後の陸上部で気持ちよく汗流しにきたわけじゃねぇんだよ! 何でこんなことになってんだ!」

「えー。いやあ、何でって言われても……成り行きだよねえ」

 そう。なぜかと問われれば、答えは成り行きだ。

 翠の要求で陸上部副顧問とそのディアを調べるにあたって、俺と珀はとりあえず、放課後の部活動の時間にここまでやってきた。そうして練習の準備をする副顧問とそのディアを見つけたまでは良かったが、校内で持ちきりの噂が拍車をかけたこともあり、部にはものすごい数の生徒が集まっていた。しかも、ちょうど一年生の仮入部期間と重なっており、どう見ても参加人数過多であるそんな状況でたった二人の三年生が目立つはずはなく……俺たちはあえなく一年生の道連れで一日練習体験ツアーへと連行された。あれよあれよという間にジャージ姿に着替えさせられ、こうしてせっせとトラックを走っている。

「しかしなあ、だからって真面目に練習までしなくてもいいだろ。スプリンター目指しにきたわけじゃねーぞー」

「でもさ蓮、これって実際、悪くない方法だと思うんだよ。授業のある日中は長話する時間ないし、狙うなら部活のあとがベスト。それなら他の人にも聞かれる心配は少ないよ」

「それって、このまま今日の練習の最後まで参加するって意味か?」

「そーだねー。たぶん、みんなあの副顧問の先生と話したいだろうし、今日っていうか、数日は様子見じゃない?」

 す、数日……こりゃ間違いなく筋肉痛だな。

 しかして珀の予想通り、それから二、三日の間は、これといった好機を見出せなかった。俺たちは遠巻きに副顧問とそのディアを眺めるばかり。見たところ件の副顧問は非常に人当たりのよい性格で、練習中は部員へのアドバイスやサポートに尽力し、それ以外では、やってきた生徒たちに対して分け隔てなく丁寧に接していた。聞けばまだ二十代のようで、その若さゆえか、勉強や部活のことから他愛のない雑談まで、生徒と話が合うのだろう。

 そしてその容姿には、確かに幾分、驚かされた。生徒と並ぶとまるで見分けのつかない小柄な体躯。かなりの童顔に浮かぶ黒目がちの大きな瞳と、笑ったときの八重歯が印象的。おまけに声は、まるで少女のような快活なそれであり、話し方だけが年相応に大人びているものだから、これが大きなギャップを生む。本名、佐倉(さくら)由(ゆ)梨(り)絵(え)から、愛称はゆりちゃん先生だそうだ。先生でありながら、生徒にとってはまるで姉のような、友達のようなポジションに、収まるべくして収まっている。

 対してディアの方は、長身で優しげな物腰、爽やかな好青年にも見える日本人男性を元としたモデルである。ただ、見た目に反しておっちょこちょいというかドジというか、部の備品を運ぶ際、その重量にバランスを崩し、転んでヘマをやらかしている姿をよく見かけた。そんな姿が生徒の心を掴んだのか、今では所有者の佐倉先生と並んで人気の中心というのは、確かに噂通りのようだ。俺としては、そうやって失敗をするところまで含めてプログラムされた行為なのか、あるいはただスペックが低いだけなのかは気になるところだが、どちらにしても、それを取り繕う曖昧な笑顔を端から眺めるにつけ、ディアらしからぬ人間性を垣間見るような気分にもなった。

 見れば見るほど、色々な意味で本当にディアなのかと疑問を抱いてしまうが、しかし何のことはない。彼の左手の甲には、はっきりシリアルナンバーが刻まれていた。遠目では詳しいところまで読み取れなくとも、ひとまず彼がディアであることは間違いなさそうだ。

 一般的にはディアを所有する場合、自分と同姓のモデルを持つ人の方が多い。けれども、佐倉先生はこの限りではないらしい。まあ、そういう人も、いるにはいる。

 そして佐倉先生は、彼のことをタカヤ先生と呼ぶ。それはOS名ではなく、彼に与えられた本当の“名前”だ。

 もちろん、ディアを名前で呼ぶことは、やや常識の外にある行為。赴任当初は皆も戸惑いを覚えていたようだが、しかし今では、学内に限りその名が浸透したらしい。理由は二つあって、一つは、周囲が佐倉先生の誠実な人柄を知り、合わせているから。もう一つは、当のタカヤ先生がとても人間らしく振る舞うので、周囲も思わず名前で呼んでしまうのだとか。現に俺がこうして陸上部に顔を出している数日のうちにも「ディアは人間じゃないけど、タカヤ先生はちょっと人間に見えちゃいそうだよね」なんて話している生徒を何度か見かけた。タカヤ先生は、正確には教員ではない。けれども学内にいる大人を先生と呼称するのは、このコミュニティにおいては一番自然で、受け入れ易い結果となった。

 そうして日々身体に蓄積されていく乳酸と戦いながら、いい加減太腿辺りの筋肉痛に限界を感じる頃になって、ようやく好機が訪れる。

 暮れる西日が競技場を照らす中、練習道具を片付けたあとに珀と二人で帰ろうとすると、近くにあった倉庫の中に、佐倉先生の姿が見えた。下校時間ぎりぎりのためか、周りに他の人影はなく、これ幸いと珀が先生に声をかけた。

「あ! ゆりちゃんせんせー! 何してるんですかー?」

 どうでもいいけど、ほとんど初対面でその呼称が使える珀はすごいと思う。

 俺たちが近づくと、佐倉先生は倉庫から出てきて微笑む。頭一つ分ほど下の目線。清潔感ある切り揃えられた短い黒髪。まとったウィンドブレイカーは袖口がやや余っている。

「ああ、ちょっと備品の整理をしていまして……あれ、あなたたちは確か、仮入部の」

 すぐに珀が元気よく「はい!」と返事をする。しかしすぐにかぶりを振って、

「あ、いえ。実は僕たち、仮入部ではないんです。僕たち、本当は三年生でして」

「……三年生、ですか?」

 すると佐倉先生は小首を傾げた。まあ、その反応は至極まっとうと言えるだろう。普通の三年生は、こんな時期に仮入部には来ない。

「そうなんです。僕は三年C組の遠山珀っていいます。こっちは、A組の那城蓮。僕たち二人ともディア工学に興味があって、来年からは、大学でそれを専攻したいなーと思っているんですよ。それでですね、最近噂で、ゆりちゃん先生のディア――タカヤ先生の話を聞いたんです」

「あらあら、そうなんですか」

 珀がてきぱきと自分、そして俺の紹介をしつつ、嘘八百の来訪理由を説明する。

 それを聞いた佐倉先生は、疑うこともなく優しげに応じてくれた。

「じゃあ、遠山君と那城君は、タカヤ先生に用があって、陸上部に?」

「えっと、はい」

「まあまあ、それはそれは、三年生で忙しい時期なのに、ありがとうございます」

「いえ、こっちこそすみません。冷やかしで」

「いえいえ、いいんですよ。少しでも人が増えると、部にも活気が出ますからね。それに、遠山君と那城君、結構良い線いってると思います。どうですか? このまま卒業まで、陸上部に居着いてもいいですよ」

 さすがにここまで言われてしまうと、純粋な陸上競技への興味からここへ来たわけではないことに、いくらか罪悪感を覚えてしまう。良い線云々はどう考えても世辞だろうが……しかし、本人に世辞を言っている自覚はなさそうだ。

 珀は「あはは」と曖昧に笑って応じる。俺もその後ろで、軽く会釈をしておいた。

「あ、すみません。それで、タカヤさんに用なんでしたね。今、校舎の方に、隣の倉庫の鍵を取りに行ってもらっていて……」

 佐倉先生がそう説明する。ちょうどその言葉が終わるかどうかのところだった。

「ええ。鍵、取ってきましたよ」

「ひゃうっ!」

 突然、倉庫の影、佐倉先生の背後から声がして、驚いた佐倉先生は素っ頓狂な声を上げた。現れたのはタカヤ先生だ。

「ち、ちょっとタカヤ先生! 何するんですか! 変な声出ちゃったじゃないですか!」

「ああ、申し訳ありません。そんなつもりはなかったんですが」

 タカヤ先生は持ってきた鍵を差し出しながら、落ち着いた笑みでそう答えた。

 佐倉先生はそれを受け取りつつ、さらに追求する。

「本当ですか!? タカヤ先生は、いつも口ではそう言いますけど!」

「そんなこと……いや、そうですね。佐倉先生に対しては、結構あるかもしれません。じゃあ、さっきのは嘘で」

「もうっ!」

 佐倉先生は、その短い腕をぶんっと回してタカヤ先生の胸を叩いた。身長差的に、ちょうどそこが叩きやすい部位なのだろう。しかしまったく痛くはなさそうだ。

 タカヤ先生はその様子を微笑ましそうに眺めている。しばらく佐倉先生をあしらったあと、やがて俺たちの方へ視線を向けた。

「ところで、遠山君に那城君。さきほど僕を呼びましたか?」

 まあ、呼んだといえば呼んだが……佐倉先生が必死に抗議をしているこの状況で話を進めていいものか、いささか疑問なところである。

 結局、佐倉先生の猛攻が多少収まるまで待ってから、再び珀が口を開いた。

「はい。唐突ですが、タカヤ先生はディアなんですよね。最近のディアはだいぶ人間に近づいてきましたけど、でもタカヤ先生は、中でも極めて人間そっくりに見えるって、生徒の間では噂になっているんですよ。僕たち、そんなタカヤ先生に是非、興味があって」

「そうですか。それは光栄ですね」

「タカヤ先生の人格プログラムは、プリインストールのものではありませんよね。オリジナルのデータを構成したのは、ゆりちゃん先生なんですか?」

「はい。僕はそう認識しています。ね、佐倉絵先生?」

 尋ねられた佐倉先生は、しかし先の件をまだ怒っているのか、拗ねた様子で返答する。

「私は、タカヤ先生をこんな性格にした覚えはないんですけどね!」

「いえいえ。ちゃんと僕は、佐倉先生が言った通りに構成された人格プログラムで動いていますよ。安心してください」

 タカヤ先生は笑いながら答えると、佐倉先生の頭を優しく撫でる。まるで子供をあやすような要領だったが、それでも佐倉先生は、膨らませた頬を次第に萎ませたようだった。

 ……って、それで収められてしまうのは、大人としてどうなんだろうか佐倉先生。俺は少々呆れながら心の中でそう突っ込む。

 しかし珀の方は、それとはまた別の点が気になったらしい。

「あの、タカヤ先生。今、『由梨絵先生の言った通りに』って言いましたよね。それは、本当なんですか?」

「え? ああ、はい。言いましたし、本当ですよ。佐倉先生は、僕に搭載されている人格プログラム構成用の音声入力インターフェースを使って、この人格を作ってくれました」

 それを聞いて、珀は感心したように驚いた。

「すごいですね。音声入力でディアの人格を構成するのは……相当な時間と労力がかかる作業じゃないですか」

「そうですね。僕もそう思います。でも、間違いなく事実です」

「どうしてその方法を? 人格プログラムの構成は、僕も昔、少しばかり手出したことがあるんですけど……普通にキーボードでやっても途方もなく大変なのに、あまつさえ音声入力インターフェースだなんて。こう言っちゃなんですけど、あの音声入力のインターフェースは実装初期段階から全然更新されていなくて、使い勝手もかなり悪いですよね」

 珀のその質問は、ほとんど純粋な疑問からくるものだったのかもしれない。一人のディア所有者として。あるいは、直接ではなくとも、そのインターフェースを開発している側の人間として。俺だって、もし仮にディアの人格を構成しようと思ったとしても、音声入力なんて絶対に使わない。まだキーボードでせこせこ打ち込んだ方が楽というものだ。

 けれども、当の佐倉先生は不思議そうな顔で首を傾げた。

「えっと……音声、いんたーふぇーす、ですか?」

 その様子を見て、タカヤ先生がまた、からからと笑う。

「佐倉先生にそういう質問をしても、たぶん伝わりませんよ。佐倉先生は、カタカナの連なった単語は苦手ですから」

 すると、横で聞いていた佐倉先生は異議有りとばかりに手を挙げた。

「ま、待ってください! 私は別に、カタカナ用語が苦手なわけではありませんよ! 断じて! それは英語教師としての沽券に関わります!」

「では言い換えましょう。佐倉先生にテクニカルタームは通じません」

「そ、それは……まあ、事実ですけど」

 事実なのか……。

「意外ですね。てっきり僕、ゆりちゃん先生はディアに詳しいのかと思っていたんですけど」

「いえ、由梨絵先生は、あまりディアには詳しくありませんね。むしろ逆で、ネットワークやコンピュータ関係の話は基本的に苦手です。有体に言って、機械音痴なので」

 だからそういったことは全部僕が担当ですよ、とタカヤ先生。

 佐倉先生も、これについては反論がないらしく控えめに応じる。

「そ、そうですね……。これでも興味はあって、最近勉強を始めたんですけど……」

 その後も、珀はいくらか質問を続ける。ディアについての勉強はいったいどんなことをしているのか、とか。先生はどうして英語の教師になったのか、とか。俺たちが目的としている調査に関係のありそうなことから、完全に珀の興味本位の質問まで様々に。初回の接触でこうまで親しげに話し、その会話からすんなりと情報を集めていくあたり、さすがは珀のコミュニケーション能力といったところだ。

 さて、しかしながらいつまでも雑談に興じてはいられない。珀が話しやすい空気を作ってくれたたところで、俺も一歩前に出て口を開く。

「あの、佐倉先生」

「はい。えっと、那城君でしたね。何ですか?」

 佐倉先生は微笑みながら、俺の方へと視線を向ける。

「さきほど言った通り、俺たちがここへ来たのは、ディアとしてのタカヤ先生に興味があったからです。特に、人間により近いと言われるディアがどんな風に動いているのか、すごく気になっていて……そこで相談なんですが、もしよかったら、直接データを見せてもらえませんか?」

 この発言を聞くなり、隣の珀はぎょっとした顔をしてこちらを見た。

 当然、俺にはその理由がよくわかっていた。自分の所有するディアやデバイスを安易に他人に調べさせるような行為を、普通の人はしないからだ。家族や友人ならまだしも、初対面の人に明け透けにデータを見せることは、一般的にはほとんどない。それはたとえるなら、家に来客があっても、簡単に自分の書斎や寝室に招き入れたりしないのと似た感覚だ。実際、俺だって自分のノートパソコンは、滅多に他人には触らせないのだから。

 ゆえに、もちろん、俺の要求はいささか無礼なものであり、佐倉先生やタカヤ先生にも、驚かれることは予想できた。極めて単刀直入な切り出しだったのは認めよう。ただ、その上でこちらにも考えがあった。データを見せてもらう際は、佐倉先生の立ち会いのもとで行うことを提案する。まあ、先生の見ている前であっても、求めている情報のいくらかを入手することはできるだろう。おそらくその条件でも最初は断られると思うが、何とかさらに理由を付け、押し切ることに全力を注いで――と、俺が脳内で戦略を練っていた矢先。

「ええ、そういうことなら構いませんよ。ね、タカヤ先生?」

 ……え?

「他でもない、生徒の頼みですからね。先生としては、できる限り協力を惜しみません」

 一瞬、俺は何を言われたのか理解することができなかった。

 しかし、佐倉先生が同意を求めた先のタカヤ先生が

「そうですね。佐倉先生が、そう言うのでしたら」

 と答えるところまでを耳にして、ようやくその意図を汲み取るに至る。しかも、あまりの意外さから俺が確認をするよりも早く、佐倉先生が

「じゃあ、タカヤ先生はここで二人の相手をしてあげてください。その間、私は隣の倉庫の備品確認を済ませてしまいますから」

 と言って歩き去ろうとするのを見て、俺は目玉が飛び出すくらいの衝撃を受けた。隣の珀も、口を半開きにして静止しているあたり、思うところは同じらしい。

 すんなりディアのデータを見せることを了承し、その上、自分は別のところへ行ってしまうだなんて……余りに大雑把というか不用心というか、セキュリティ意識に欠けすぎでは? 初対面の来客に家の留守番を任せるようなものだ。

 けれども、すぐに珀は自分の役割を思い出したかのようにはっとして、佐倉先生についていく。その際、俺に合図を送るのも忘れない。珀の目は「そっちは任せた」と語った。

「あ、ゆりちゃん先生。待ってください! 僕もそれ、手伝います!」

「あら、本当ですか? でも」

「大丈夫です。あとで那城君に色々聞きますから」

「そうですか、助かります。では、遠山君には、タカヤ先生にお願いしようと思っていた高いところの備品確認をお願いします」

 私の身長だと全然届かないんですよ、と冗談めかして佐倉先生は笑う。

「任せてください!」

 そうして、二人は楽しく雑談をしながら隣――と言ってもかなり離れた倉庫の方へ向かっていったのだった。あっさり俺とタカヤ先生だけが残され、その場は途端に静まり返る。

「では、僕は3Dモニターを投影しながら、スタンバイ状態に移行します。僕の意識はいったん眠りにつくことになりますので、質問などあれば、今ここで伺いますが」

「え? あ、ああ……」

 タカヤ先生はにこやかに告げつつ、俺の目の前に良質の立体モニターを出現させた。そこには既に『スタンバイ状態に移行中』と表示されている。

「いえ、大丈夫です」

「そうですか。では、那城君、ごきげんよう」

 その言葉を最後に、タカヤ先生は近くの椅子に腰掛けながら瞳を閉じた。

 ……さて。すんなり事が運ぶのは有り難いが、それもそれでゆき過ぎると戸惑いが隠しきれない。とはいえ、いつまでも面食らってなどいられないのも、また事実。陽はもう低いし、佐倉先生が戻るまでに、そう時間もないだろう。さっさと調べてしまわなくては。

 俺は調査に乗り出す。まず前提として、タカヤ先生の左の手の甲――そこに印字されているシリアルナンバーを確認した。肌色に薄く刻まれた、独特の文字列が見える。

 Sera-003-3085KS207A

 ディアのシリアルナンバーはどれも同じ形式になっていて、前から搭載OS名、マイナーチェンジ数、製造年月、その月に製造された順番というように、アルファベットと数字で構成されている。つまりこのディアは、《Sera(セラ)》という名のOSが三回マイナーチェンジされたものを積んでいて、三千八十五年の一月に製造された二百七番目のディアということになる。一月を表しているのはKSで、末尾のAは製造順の千の位が増えるにつれてB、Cと増えていく。

 そしてこいつは、翠から聞いていたクラッカーのシリアルナンバーと、見事に一致するのだ。どうやら調査対象に間違いはないようである。

 俺は早々とモニターを見ながら、データの確認作業を進めていった。

 最初はもっとも一般的なディレクトリ。続いて、めぼしいところから順々に目を通して、怪しげなソフトウェアやアプリケーションがあれば、その都度確認していく方針。

 正直、他人のディアのデータなどそうそう見るようなものではないから、予想などまったくしていなかったのだが、結論から言えば、確認自体はスムーズだった。むしろ怪しいデータどころか、ほとんど目に付くようなものがないというのが、調べてみての感想だ。

 これは非常に意外である。俺自身はディアを所有していないが、それでも普段の生活や珀との会話などから察するに、もう少し色々なものが入っているのだと思っていた。ガラテイアが公式で配布しているGPSやネットワークブラウザはインストールが任意だからいざ知らず、せめてアンチウィルスソフトくらいはあっても良さそうなものなのだが……どうなのだろう。

 いずれにしても、クラッキングに関わるようなものは見当たらない。まあ、強いて気になる点を挙げるとすれば、少し挙動が重いくらいか。佐倉先生は、ディアどころかそもそも機械自体にかなり疎いという話だったし、おそらくメンテナンスをしていないのだろう。

 ただ改めて思うと、本当に何も入っていない。ディアってのは、果たしてこんなんでも役に立つものなのだろうか? いや、今はそんなことはどうでもいいか。

 あと目を通していないのは、OS関連のディレクトリと動作ログくらい……もしこのディアが半年前のクラッキングに使われたのならば、そのときのログが残っている可能性があるから、優先すべきは後者だろうか。無論、クラッキングをしておきながらログを残したままそれを他人に見せるようなことは考えにくいし、そもそもこれだけディアの中を漁って何もなければ、ほとんど佐倉先生は白だと思うけれども、一応、駄目押しの確認だ。

 そして、動作ログの格納されたディレクトリを、俺が開いたときだった。

 脳に、一筋のわずかな違和感が走り抜ける。次いで表示されたログを見て気づいた。

「一番古いログで、三ヶ月前……?」

 違和感は唐突に膨れ上がっていく。不審に思って何度か操作を繰り返すが、それ以前のログは出てこない。モニターに映し出されるのは、今年の二月から現在までのログだけだ。つまり、半年前のクラッキングのログどころか、今から三ヶ月前の時点より昔に、このディアが動いていた記録全てが、存在しないことになる。これはいったい、どういうことだ?

 一つには、このディアは動き始めてまだ三ヶ月しか経っていないという推測。しかし翠の話を聞く限り、これは少々、信憑性がない。だとすれば意図的にログが消去された可能性が残る。

 誰に? もちろん佐倉先生に、だ。そういうことに、なってしまう。

 けれど、あれだけディアに疎くて、ログの消去なんてできるだろうか。いやいや、それを言い出したら、そもそもクラッキングさえ疑わしいではないか。

 俺の中では、佐倉先生はほぼ白という結論が出かかっていたにも関わらず、ここにきて見過ごせないものを見てしまった。ああ、もう少し入念に調べるべきか。

 そう思ってモニターに向き直ったところで、遠くの方から声がした。

「すごいです。遠山君って、ディアにとっても詳しいんですね。とても勉強になりました」

「あはは、それほどでもないですよ」

 聞こえてきたのは、珀と佐倉先生の声。しまった。もう戻ってきてしまったみたいだ。

「ところで先生。ディアに興味があるのでしたら、ディアにまつわる噂とかにも、興味あったりしませんか?」

「噂、ですか。へえ、どんなのがあるんですか?」

 だんだん声が近づいてくる。後半になるにつれて、会話の内容までよく聞こえる。おそらくあと数秒で、ここまでたどり着くだろう。やむを得まい。切り上げるしかないようだ。

「えっとですね。ディアによって計算された、この世界最後の日とか。大昔には、ディアは二年おきに性能が二倍になっていたらしいとか。ディアに搭載するとまるで人間のように動く、通称ココロプログラムとか。僕、今の授業のレポートで、こういう言い伝えみたいなのを調べているんですよ」

「へえ! 、何だかとても面白そうですね」

「でしょう?」

「私は……そうですね。特に最後の、ココロプログラムというものに興味があります」

「お、さすが先生! 目聡いですね! 実は僕も、その話が一番したくてですねー」

 珀の声は活き活きとしていて、普段よりも少し大きい。楽しんでいるのも事実だろうが、同時に、自分たちが戻ってきたことを俺に知らせる配慮だろう。そんなことを思いつつ、俺はモニター上で開かれたディレクトリを一つずつ閉じていく。

 気づけばもうすっかり陽が落ちていて、辺りが暗くなっていることを認識する。見上げた空は深い藍色。しかし飲み込まれていくオレンジ色とは対照的に、俺の抱いた違和感は、徐々に徐々に広がっていくばかりだった。

 そうして何とか無事に珀や佐倉先生と合流を果たし、一通りの礼を告げたところで、この日の黄昏は終わりを迎えた。


     ○


「面白い噂じゃない」

 白い丸テーブルを挟んで、反対側に座る女性が言った。

「世界最後の日、大昔のディアの驚くべき成長速度、ココロプログラム。興味深いわ」

 遥か天空の雲の上、そこに設けられた展望フロア。俺は翌日の学校帰りにそこへ立ち寄り、ほぼ横薙ぎの赤い光に照らされて、少し遅い午後のティータイムに興じている。

「噂というより、単なる都市伝説ですよ。てか俺の話、そっちがメインじゃないですよね?」

「あはは、ごめんなさい。つい、ね」

 話しているのは、先日ここで出会った風変わりな女性――突然話しかけてきて、少々雑談をした末の別れ際に「次は紅茶をご一緒しましょう」と残して消えたあの女性である。その言葉通り、俺とその女性は今、二人で紅茶を嗜んでいる。このフロアに唯一ちょこんと存在するカフェから提供された、たいそう立派なティーセットとともに出てきた紅茶。よくわからんがものすごく仰々しい、いかにも高そうな紅茶である。

「ついって……あなたが聞いたんですよ。最近の高校生は学校で何をするのかって」

「そうね、そうだったわ。でも、私はてっきり、部活や授業のことを話してくれるのかと思ったけれど……何だか探偵みたいなことをやっているのね」

 俺の苦言に、女性は優しく、その紫の瞳を細めて笑う。

「それくらいしか、話すことないんですよ。俺、授業中はプログラム組んだり、工学の本を読んだりしてますから」

「あら、いけない子ね」

 言葉とは対照的に、俺を咎める様子はない。女性は手に持っていたティーカップを音もなく机上に置くと、そのまま緩く両手を組んだ。その白い手には、今日も真っ黒の手袋がはめられている。ゴシック柄の仰々しいドレスを纏った黒一色の、まるで人形の衣装のように独特な、というか奇抜な……ぶっちゃけ浮きまくりのフォーマルスタイル。

「それと、部活はやっていません」

「でも、陸上部なんでしょう?」

「仮ですよ、仮。もう行きません。ここに来られなくなりますからね」

「ああ、そうねえ。そういうことなら、仕方がないわねえ」

 女性はこくこくと頷く。

「しばらくあなたがここへ来なくて、私、とっても寂しかったのよ」

「大袈裟ですよ。まあでも、その心配は不要ですね。俺は、放課後に競技場で走っているよりも、ここに来る方が好きですし。言ってみれば、ここに来るのが、俺の部活動みたいなものです。ここで夕陽を眺めるのが」

 そうして俺は、空に浮かぶ赤々とした太陽の方へと首を捻る。

 すると女性は、そんな俺を数秒あまりじっと見つめ、的確な補足を加えてきた。

「それと、あの塔を……かしら?」

「……ええ、その通りです」

 驚きはなかった。この女性は、以前の俺との会話をよく覚えていたということだろう。俺があの世界樹を見るために、ここへ来ているという事実を。そう思うと、こちらとしても好感だ。世界樹を見るのが好きだなんて、現代では真面目にのたまったところで変人扱いされるのがオチだというのに、しかしこの女性には、そういった雰囲気は感じられない。

 しばらく外の景色を眺めていると、女性はゆっくりと俺の視線に自分のそれを重ね、ぽつりと小さく尋ねた。それはまるで、何気ない雑談の、ほんの一部であるかのように。

「ねえ、あなたは、あの塔に行ってみたいって、思ったりするの?」

「え?」

 今度は多少ながら、驚きを感じざるを得なかった。確かにそれは、普通ならば至極まっとうな質問だ。たとえば人間、好きなものは見るだけでなく、欲しいと思うのが自然だろう。好きなことならば、見るだけでなくしたいと思う。同じように、好きな場所は眺めるだけでなく、行きたいと思うはずである。だが、こと世界樹に限っては、それはいささか難題である。

「そ、そうですね。昔はよく考えましたよ、そういうこと」

「……今は?」

「うーん……あの塔って、意外とわからないことだらけなんですよ。まあ、ガラテイアの企業秘密ってところなんでしょうけど……とにかく、どうやったらあそこに行けるのか、俺には知る術がありませんでした。たとえばガラテイアの技術職員とか、どっかの国の大統領にでもなれば、行けるのかもしれませんけどね」

 昔、俺は珀に行き方を尋ねたことがある。しかしあいつは知らなかった。翠ならばあるいは、と思ったこともあるが、結局、今の今まで訊いたことはない。あいつに何かを教えてもらうのはとても癪だし、おそらく知っていたところで、俺に教えはしないだろう。この地球上のほとんどの場所から見ることのできる世界樹。けれどもその実、たどり着くのはほぼ不可能に近い。誰に教えてもらうでもなく、俺はこの年になるまでに、いつしかそういうことを理解していた。

「じゃあ、私と一緒に行きましょうか?」

 しかしそこで、女性がにこやかに発したその言葉は、極めて唐突かつ難解なものだった。

「……は?」

「私が、あなたをあの塔に――世界樹に、連れていってあげましょうか?」

 二度目を言われて、俺はようやく、女性の発言の意味だけを認識する。どうやら聞き間違いではなかったようだ。しかしその意図まで汲み取ることはできない。

 だって、世界樹だ、たとえば駅前のホテルのレストランとか高級料亭とか、そういうのじゃない。あの世界樹なのだ。まず物理的に、簡単に立ち入ることのできる場所ではない。

「……冗談、ですよね?」

 俺は恐る恐るそう尋ねる。けれど目の前の女性は頬杖をつき、じっとこちらを見つめるばかり。そして訝しげな視線を向ける俺に「ふふっ」と悪戯な笑みを返した。

「代わりに、あなたがまたここへ来るときは、是非、面白い話をして頂戴。私の退屈を紛らわすために」

 そうして何を言い出すかと思えば、交換条件としてはあまりに不釣り合いな平凡な要求。

 聞いて俺は、ああ、なんだ、と思った。なんだ、ただの冗談か、と。

「……あのですね。そんな冗談、いまどき小学生でも信じませんよ」

 まあこんなことを言うくらいだから、俺とのティータイムを快く思ってくれていることは確かだろう。それ自体は、まったく悪い気はしない。俺は軽く溜息を一つ零し、わずかな苦笑いで頷いて見せる。

「まあ、そんな取り引きみたいなことしなくても、努力はしますよ」

 俺が言うと、女性は穏やかに目尻を細めて優しく微笑んだ。

「そう。それはとても、嬉しいわ」

 女性の睫毛が、頬が、黒いしなやかな髪が、夕焼けの中で光っている。華奢な手が艶やかな仕草でティーカップを持ち上げ、音もなくその唇へと紅茶を運ぶ。ただそれだけで、随分と絵になるものだ。俺はつい見惚れそうになるのをぐっと抑え、女性と同じように紅茶を飲んだ。

「ねえ、その紅茶はどう?」

 少しの沈黙を経て、覗き込むように女性は尋ねた。

「ええ、美味しいですよ、すごく」

「そう。頑張って用意した甲斐があったわ」

 俺が答えると、女性はまるで花が咲いたかのような満面の笑みになる。

「あれ、もしかしてこれ、あなたが淹れたんですか?」

「ええ、そうよ。私が茶葉を選んで、お湯を注いで、蒸らし、そしてカップに入れたわ。私、そこのカフェに顔が利くから、少し場所を貸してもらったの」

 しっかりと店員がいるというのに、わざわざ場所を借りてまで。そんなことができるというのは、何だろう……昔ここでバイトでもしていたのだろうか。

「ちなみにお代はいらないわ。ここのカフェが私からお金を取ることは絶対にないから、私のお客さんであるあなたも同様ね」

「は、はあ……」

 ……いや、この言い方だとそれも違うか。するとたぶん、従業員サービスとかでもないのだろう。ならば本当に何なんだ。まさか弱みでも握ってんのか? いやいや、まさか。まさかね。

「と、とにかく、ありがとうございます。ほんと、美味しいです。なんて言うか、こう、割と渋みがあるんですね。あと、ちょっとスースーします」

「あら、へえ……結構感覚は鋭いんだ」

 俺は素直な感想を述べたつもりだった。

 それに対し、女性はまるで、我が意を得たりと言わんばかりの嬉々とした表情をする。

「素晴らしいわ。それはセイロンティーの一つ、ウバという銘柄の紅茶でね。適度な渋みとハッカの香りが特徴的な上級種よ。今年の葉は特に、よく香りが乗っているの」

「え、年によって味が変わるんですか?」

「もちろんそうよ。年もそうだし、葉を摘む季節、さらには育てる場所によって、味や香りが大きく変わる。だから紅茶は、季節や土地によって銘柄が区別されるの。その中でも今回用意したのは、セイロンの高地、ウバというところで、八月頃に摘まれたものよ。この収穫時期は、クオリティーシーズン真っ只中なの」

 女性はその真っ白な人差し指を一本、ピンと可愛らしくまっすぐに立て、紅茶の図鑑にでも載っていそうな詳しげなことを滔々とそらんじる。

「紅茶をたしなむ文化は今から二千年以上も前に始まったのだけれど、この品種はそれだけの長い年月の間、数々の銘柄が新たに生まれては消えていく中で淘汰されて残った、古き良き銘柄なのよ。基本は細かく砕かれたブロークンオレンジペコ。だけど今回は、よりストレート向きにフルリーフのオレンジペコを選んでみたわ。その分抽出時間を少し長めにして、ほど良い渋味を狙った感じね」

 ほうほう、なるほど、うん……わからん。

「……へ、へえ。紅茶って、随分奥が深いんですね」

「そうよ。他にも使う水の硬度とか、気にすることはたくさんあってね。色々と試行錯誤が必要なの。それが私の楽しみなのよ」

 たかがお茶、されどお茶ということだろうか。世の中にはこういうものにのめり込む人もいるのだな。だからつまり、この人は――

「紅茶オタク、なんですね」

「あはは。そう、そうなの。あなたがあの世界樹みたいなメカを好むのと、きっと同じね」

 そう言われてしまうと、こちらとしてもなかなかに返す言葉がないものだが……要するに、俺たちは同類、分野は違えど同じ穴のむじな、か。俺がそんなことを考えていると、女性は「じゃあ、せっかくだからもう少し蘊蓄を語らせて」と前置いてまた話し出す。

「ウバの一番の魅力は、非常に美しいその水色にあると言われているわ。上手に抽出すると澄んだ真紅の色がついて、カップに注いだときには、内側の縁にゴールデンリングと呼ばれる金色の輪ができるの。ほら、見てごらんなさい」

 女性に言われて、俺は自分の手元にある飲みかけの紅茶に目を落とす。

「綺麗なコントラストでしょう? まるで私たちがここから眺める夕焼けを、そのまま溶かしたみたいじゃない?」

 確かに、液面は吸い込まれそうなほどにどこまでも赤く、染まり上がった空と雲のよう。そして周りの金色の輪は、太陽の光にそっくりだ。

「じゃあ、もしここに茶柱でも浮かんでいたら、まるで夕焼けの中に世界樹が聳えているみたいに見えますね」

「あはは、面白い発想ね。私、そういうの、すごく好きよ」

 俺の些細な戯れの言葉に女性はころころと上品に笑った。その表情はとても生き生きとしていて、しかしながら、睫毛のかかった伏し目がちな瞳は、儚げな印象を抱かせるものでもあった。

「あの……俺も一つ、聞いていいですか」

 何とも謎めいた、浮世離れしたその様子。それを見ていて、俺はこの女性と初めて出会ったときから胸にあったはずの疑問を、今、ここで聞いてみたくなった。

「あなたは、本当にディアなんですか?」

 それは他でもない。この女性が自分のことを、ディアだと称している件である。俺は未だに、その言葉を信じられていないのだ。

「……あら、どうして?」

 女性はカップに視線を落したまま、こちらを向くことなく尋ね返してくる。

「どうしてと言われると……気になるから、としか答えられませんけど」

「その尋ね方だと、あなたには私がディアに見えない、ということかしら」

「えっと、まあ……そうです」

 だって俺は、今の今まで、こんなディアは見たことがない。おかしな冗談ばかり言ったり、質問に質問で返してきたり、会話をしているだけでは完全に人間と区別がつかない存在だ。そういう意味では、今日調べさせてもらったタカヤ先生も十分人間らしかったが、彼の場合は、外見にディアとしての特徴があった。一方でこの女性には、それも確認できないのだ。

 女性は澄ました表情で「ふうん、そう」とだけ零すと、また尋ねた。

「じゃああなたは、人間とディアの違いって何だと思う?」

「……え?」

「たとえば、そうね。ディアの身体にはシリアルナンバーが入っているわね。それを見せれば、あなたは納得するかしら。これまで世に出たディアのシリアルナンバーの記載部位は、新しいモデルから順に、左手の甲、額、腹部、大腿部、胸元、首筋、背中、同じく首筋、肩口と遡っていくわけだけれど」

 ……随分と詳しいな。数年、もしくは数十年に一度、ディアの世代が新しくなるごとに、シリアルナンバーを記載する部位は移り変わってきた。その時代時代によって、開発者とユーザーの意見が反映されてきた結果だ。そして女性の列挙した後半は、おそらく百年以上も前のモデルの話だろう。本来ならば、文献で確認するレベルの知識である。

「見ての通り私の場合、左手の甲、額、首筋には印字がないわ。あとめぼしいのは腹部と大腿部、それから胸元くらいかしら。確認したい?」

 俺が感心していると、女性は該当個所を順に俺の方へと見せ、さらに手袋を取って、洋服にまで手をかける。って、おい待て。まさか――

「わっ! ちょ、ちょっと! いいです! こんなところで脱がないでください!」

 俺は途端に椅子から立ち上がり、あたふたしながら女性を止める。複雑そうな構造の服なのに、気づけばいつの間にかリボンが解かれ、鎖骨が覗くくらいまではだけられていた。

 女性は「あら、そう」と非常に落ち着いたまま俺の制止を聞き届ける。まるで俺がそうするのをわかっていたみたいに。

「じゃあ、そうね。直接触って確かめてみる?」

 かと思ったら、今度は俺の手をとって、自分の頬を触らせてきた。ピタッと密着した手のひらから、すべすべとした柔らかな感触が、緊張とともに伝わってくる。

 俺は驚きの声を何とか殺して手を引っ込め、とっさに一歩退いた。

「と言っても、ディアの身体は人間の細胞を模した人工細胞でできているから、簡単にはわからないかもしれないけど」

「そ、そりゃあ、わかりませんよ。触ったくらいじゃ、何も違いなんてわかりません。身体組織の違いで判断しようと思ったら、それこそメンテナンスセンターにでも行って調べないと」

「ふふっ、その通り。人間もディアも、その身体を巡る血は等しく赤い。今や世界の常識ね」

 まったくもって本当に、その通りだ。

「じゃあ……そうね。やはり人間とディアを分けるのは、そこに心があるか否か、かしら」

「……こ、心?」

 女性は自身の両手を、そっと胸にあてがって言う。

「そう。この私の思考や行動が、プログラムされたものであるか否か」

「……いや、それこそ、あなた以外には判断する方法なんてないでしょう。だいいち、心なんて、目には見えない。そんな曖昧なものを基準に分かれているわけではありませんよ、人間とディアって。仮にシリアルナンバーで判断できなくても、もっと他に色々あるじゃないですか」

「色々って?」

「え、ほら……ネットワークやデバイスに接続する機構を持っているかどうかとか、メモリを内蔵しているかどうかとか、いくらでも」

「なるほど。ま、そうかもしれないわ。でもね」

 俺の控えめな提案に、意外にも女性は、すんなりと頷いた。けれどもすぐに先を続ける。

「それはあくまで、ディアと人間を見分ける基準の一つ。分かつ根拠には成り得ないのよ」

 まるで諭すように述べられたその言葉。しかしながら、いまいち俺には意図が読みとれない。

「……? 言っている意味がわかりませんけど」

「ふふっ。要するに……ナイショってことよ」

 それを聞いた瞬間、今まで目一杯に右往左往していた俺の脳が、一斉に停止した。

 ……なんだ、そういうことか。グダグダとはぐらかしてくるなとは思ったが……ああ、うん。つまるところの結論は、これ。

「……わかりました。じゃあもう、どっちでもいいです」

「ふふっ。そんなに拗ねなくてもいいじゃない」

「拗ねてませんよ。確かに、会って間もない相手にする質問にしては、失礼だったかなとも思っています 」

「それは別に、構わないけど」

 拗ねてはいない。拗ねてはいないさ。俺は確かに、初めて会ったときからこの人のことが気になっている。でも、何でもかんでも聞けば答えてもらえるわけではない。だから。

「だから質問を変えます。名前を教えてください。あなたの」

 まあ、これくらいなら、差し支えない範囲の質問だろう。むしろ、会って間もない相手にする質問としては、これ以上にないくらい適当ではないか。

「俺は、那城蓮って言います。刹那の那に建築物の城、植物の蓮と書きます」

 対して女性は、「ふうん。蓮君、ね」と、俺の名前を確かめるように呟いた。

「わかったわ、蓮君。じゃあ、私のことは……そうね、アイリスって、呼んで頂戴」

 ……なんだって?

「ちょっと。今『じゃあ』って言いましたね。それ、絶対偽名じゃないですか」

 しかも、アイリスって……この女性は、どこからどう見たって日本人の女性である。だというのに、言うに事欠いてアイリスとは。ディアOSの名前なのだろうか。

「つまり、あなたはあくまで、ディアの振りをするつもりですね」

 俺は呆れた想いで苦言を呈す。そんな俺の抗議を、女性はいっさい、華麗にスルー。そうして渋い顔をする俺の目をただじっと見つめ、にこりと甘やかに微笑んで言うのだった。

「あらあら。私たち、二人とも同じ、お花の名前ね」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る