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透明な箱が、ゆっくりと空へ上っていく。ほんのわずかな過重力空間。足下に力がかかり、その代わりにふわりとした妙な浮遊感が身体にせり上がってくる。
学校終わりの午後四時半。高校三年生である俺、那城蓮(なしろれん)は、エレベータに乗っていた。街の中心である都心駅に併設された、百貨店のエレベータ。なんと全面ガラス張りで、上階にある高層タワー展望台に直通だ。
上るほど、次第に低く、小さくなっていく人や街並み。やがて駅周辺以外も見えるようになってきて、ある高度までくると、眼下はいっぺんにオレンジの雲海に変わる。
バス、地下鉄、在来線や新幹線の集まる都心駅の真上、オフィスや百貨店の入ったビルから伸びる形で、このタワーは建っている。最近になって首都圏に建設された、地球の丸みを実際に見ることができるという成層圏展望台ほどではないが、雲を突き抜けて天空の世界に片足を踏み入れる感覚くらいは、このタワーでも味わえる。建築物の高さが国家の保有技術の指標であるという慣習は今も昔も変わらないもので、現にこいつも、世界で何番目かの地上高を誇っているらしい。まあ、建てられて久しい今となっては、訪れる人も少ないのだけれど。
きっと今も昔も、千年前も二千年先も、人類の営みはさほど変わらない。暮らしが劇的に豊かになっても、不可能と言われていた夢の技術が確立されても、人間の本質は変わらないのだ。
――そう、まるで人間のように振る舞う人形が実現されても。
信じられるだろうか。俺の生きる現代では、人形が人間の生活を支えているのだ。人間の形をした、人間でない人工の存在が、俺たちの社会に深く深く溶け込んでいる。そして俺たち人類は、彼らのことを《ディア》と呼ぶ。
今や人間は、何をするにもディアと一緒だ。ディアは何だってできてしまう。
たとえばディアは、常に世界中のネットワークに接続している。だから人間は、彼らの傍らにいるだけであらゆる情報を得ることができる。自宅でも街中でも関係ない。加えてスケジュール管理や家事だってお手のものだ。秘書や多忙な母親の代わりに会社や家庭を補佐しているディアはごまんといる。ディアのスペックを上げる研究は国家規模で大々的に行われているし、社会インフラの運用についてもディアに頼っている部分は非常に多い。
つまるところ、ディアは俺たち人間のサポーターであり、かけがえのないパートナーだ。さきほどまで俺が見下ろしていた街の人混みだって、おそらくは三割くらいがディアなのだろう。かつて観光客で賑わっていた頃には、このエレベータにもガイド役として配置されたディアがいたと聞く。
なんて、そんなことを考えていると、長い長い上昇を終えて、ようやくエレベータが到着の知らせを出した。
扉から出て、広い円形フロアの中心に降り立つ。視界は三百六十度がオレンジ色に染まった天空。わずかな設置物と横薙ぎの陽光が作る、細長い陰が印象的だ。
フロアの外周は、床が透明になっているところもある。円盤の中心を串で貫いたかのようなこの展望台の構造上、空中に張り出したその部分まで行けば、まるで空にぽっかりと浮いているような気分になるだろう。雲のない日ならば、遠い下界の景色が足元に見えるはずである。
そして、一角にはテーブルや椅子、それとカウンターが設けられている。訪れる人々はここで飲み物や軽食を買い、景色と一緒に楽しむことができるわけだ。
俺が目を向けると、ちょうど一組のカップルがカウンターで注文をしていた。応対するのはシックな黒いベストに身を包んだ男性店員。おそらくはディアだろう。
「ご注文はお決まりですか?」
店員が尋ねる。
「えっと、俺はコーヒー。アメリカンのLサイズで。君は?」
「私は……紅茶にしようかな。アッサムをミルクティーで」
男女がオーダーを告げると、店員は素早くレジを片手に愛嬌のある笑みで問いかける。
「かしこまりました。ご一緒にお菓子はいかがですか? コーヒーにはこちらのタルト、紅茶にはスコーンなどがお勧めです」
「へえ。うん、もらおうかな。フルーツタルトで」
「じゃあ私も、プレーンスコーン。あ……」
言い終えると同時、女性はさらに別の場所に並べられたビスケットへと視線を向ける。
それは一瞬の出来事だったが、しかし店員はその視線の動きを見逃さなかった。すぐに
「こちらのビスケットもお召し上がりになりますか? セットにするとお安くなります」
と快く笑みを重ねる。
すると女性は嬉しそうに「はい。お願いします」と答えた。
「かしこまりました。すぐにお持ち致しますので、お好きなテーブルでお待ちください」
さすがはディアだ。今のは、女性の瞬間的な視線の動きを正確に追跡した上での提案だろう。加えて、目当てのビスケットを視界に収めたときの、わずかな心拍数の上昇も読み取っているかもしれない。
注文を終えた男女は、満足そうな表情でフロア内のテーブルの一つへと歩いていった。
また、別の方向へ目を向けると、買い物のあとらしき家族連れの姿が見受けられる。たくさん店を巡ったのか、疲弊した様子の壮年の父親。その傍で小学生くらいの男の子が、カフェカウンターのケーキを食べたいとせがんでいる。さらにその双子とみられる女の子が辺りをパタパタと走り回っていて、二十代くらいの清潔な身なりの女性が、多くの荷物を片手にしながらそれを見守っている。この場にいない母親はまだ、階下の百貨店で買い物中といったところか。
ごく一般的な、和やかな家族の光景。ただ、思うに妙齢の女性はディアかもしれない。女の子が女性に向かって「セレナー、セレナー」とディア特有の呼び名で声をかけている。
父親にあしらわれた男の子が諦めて頬を膨らませ、走り回る女の子のあとに続いて走る。これは……と思ったところで、案の定、二人がぶつかった拍子に転びかけた。しかしすかさずディアの女性が片腕を伸べて二人を受け止める。決して少なくない量の荷物を持ちながら、さらにもう一方の腕に二人の子供。いやはや、まったく脱帽の対応能力。
これだからディアは……やはり優秀だ。
これが今の人間の社会。人間と、人間に似て非なる存在――人間とディアが作る社会だ。
俺はエレベータから離れ、フロア外周の吹き抜け部分へと歩き出した。途中で自販機から缶コーヒーを二本買い、景色の良く見えるテーブルに腰掛ける。そして一息。一本目の缶コーヒーを開け、窓の外へと目を向けようとする。
けれど、そこで俺は、咄嗟にフロア内へと視線を戻した。
少し離れたテーブルに、一人の女性が座っていたのだ。そして紅茶を嗜んでいる。
ただ問題はそこではない。驚いたことに、その女性は全身を黒いゴシック調のドレスに包んでいた。鍔広の柔らかそうな生地の帽子。ひらひらしたレースで飾られた胸元。スカートの部分は腰から広がって傘のようになっており、おまけに手にはロンググローブ。さらに足元は細くて高いフォーマルなヒール。一見、パーティー仕様のようだが、これでもかと言うほど露出の少ない真っ黒な装いから、まるで喪服のようにも見えてしまう。
想像するに、年の頃は俺よりも二つ三つ上という程度。若さの割に大人びた印象を抱かせるものがある。髪は纏う服と同じ漆黒で、長く腰まで伸ばしたあとに先端で緩く切り揃えられている。かと思えば、目を見張るのはわずかに覗く肌の白さだ。抜けるように一片の曇りもない白が、夕陽の茜色に溶け込んで同化している。
その姿はまるで、完成された一枚の名画のようだった。
しかしそれゆえ、周りとの隔絶は激しかった。彼女の周囲には現実と絵画の世界を隔てる額のような境界めいたものがあるのではないかと疑うほどだ。
……ものすごい人がいるな、と俺は極めて端的にそう思った。常識的に考えて、あんな格好で涼しい顔して往来を出歩くことは可能なのだろうか。いったい何のコスプレだ? ファンタジーの世界からやってきたのか? 冗談抜きで人形みたいだ。
しかしそう思って俺は、ふと気づく。そうか、人形か。それならあり得なくはない。
なるほど、彼女はディアなのかもしれなかった。
確かにあれだけの美人なら、ディアの可能性は十分高い。もちろん人間にだって絶世の美人はいるけれども、客観的に見てディアの方が整った容姿を持つのは事実である。
たった一人でこのフロアにいるというのはいささか謎だが……うーん、一時的に《所有者(オーナー)》と別行動をとっているのだろうか。ディアは単独で行動することもままあるけれど、しかしだからといって、ここで暇そうに紅茶を飲んでいるのは、よくわからない。
とすると、やっぱり人間なのだろうか。人間ならば、散歩がてら一人で紅茶を飲んでいようがおかしくはないが……。
いやいや、はてさて、一体全体どっちだろう。ちょっと興味がわいてきた。
『目の前の存在は、はたしてディアか人間か』というのは、昨今を生きる中ではしばしば出会う疑問である。大抵の場合、眺めているだけでそこそこ察しはつくものだが、如何せん今回の場合はまた別だ。相手が一人で紅茶を飲んでいるだけでは見当をつけにくい。
ならば、次なる手段は実際に声をかけてみるというものだ。ディアならそうと答えるだろう。仮に人間だったとしても、きょうび、ぱっと見でディアに間違えられて憤る人はあまりいない。非常に容姿が整っており、老化という概念すら持たないディアのように見えることを、ほとんどの人々は好意的に解釈するのだ。自分が美しく見られたのだと。
たとえばルックスの良い人に向かって「まるでディアのようだね」と言うのは今ではありきたりな褒め言葉だし、歳不相応にいつまでも若々しい人が「本当はディアなんでしょう?」と疑いの言葉を向けられるのは、ジョークの一種として市民権を得ているほどだ。
俺はコーヒーを飲み進めながら、ぼんやりと女性の様子を眺める。
その間、あちらはただカップを口に運ぶばかりで一度もこちらを振り向きはしなかった。
そして一本目の缶を空けたと同時、唐突に俺は、横から声をかけられた。
「お客様。お飲み物をお持ちしました。当店のデイリーオリジナルスペシャルブレンドコーヒー、プレミアムエディションでございます」
何事かと思い声の方を向くと、離れたカウンターにいたはずの店員が目の前にいる。
「え? あ、いや……あの、頼んでませんけど」
「あちらのお客様からでございます」
戸惑いつつ断りを入れると、店員はさきほどまで俺が見ていた女性の方に視線を向けた。
すかさず女性が、横目で俺をちらりと見やる。
目の前では、コーヒーの満たされたカップと銀のスプーン、さらに砂糖とミルクの入った容器が次々と並べられていく。それらがいちいち高級そうで、コーヒー一杯に随分と仰々しい。ていうかデイリーオリジナル……何だって?
店員が去ったあとも、俺はしばらく固まっていた。突然現れたコーヒーに戸惑っていたのももちろんあったが、遠目に見ていた女性に既に気づかれていたことにも驚いていた。俺が見ていることに気づかれていることに、俺自身が気づいていなかった。
しばらくするとその女性はするりと立ち上がり、こちらへ向かって歩いてくる。両手でティーカップを丁寧に携え、動きにくそうな服装に反して危なげなく、やがて俺の対面に腰掛ける。惚けていた俺にとって、それは一瞬の出来事だった。
「こんにちは。初めまして、かしら」
女性が言う。帽子の影から見える、大きな紫の瞳を俺へ向けて。
「こ、こんにちは。ええ、たぶん、そうだと思います」
思います、なんて言いつつ、絶対に初対面だという確証が、俺にはあった。今までの人生でこんな人に出会っていたら、まず忘れてなどいないだろう。
答えると、女性はニコッと笑って目を細めた。
「今日はどうしてここへ?」
そして、尋ねられて俺は、今更のように思い出す。俺が今日、どうしてここを訪れたのか。俺はここにきてようやく、本来の目的を求めて窓の外の景色を見た。そこにあるのはぽっかりと雲の上に浮かぶ夕陽、その夕陽をちょうど真っ二つに割るように聳える――
「塔です。あの塔を見にきました」
そう。この世界には、塔が建っている。遠く離れた海の真ん中に建設された人工島から、空を貫くように真っ直ぐ一本。どんな天候や天災にも負けることなく、その先端を宇宙空間まで届かせる巨大な塔だ。飛び出た先端はまるで花弁のように開いて太陽からの光を受け止め、エネルギーとしているらしい。そして今の世界は、そのエネルギーで回っている。
あの塔はいわば、世界の中心。
「《世界樹(ワールドツリ―)》ね。へえ、わざわざあれを見るために、こんなところまで?」
「そうです。そのためにわざわざ、こんなところまで」
丸い地球上に地理的な中心と呼べる場所があるかはさておき、役割の面から考えれば、あの塔は間違いなくそれに当たる。その役割と、花弁を模した先端、そして部分部分で葉のように張り出した構造から、塔は別名世界樹(ワールドツリ―)と呼ばれている。技術力、構造美、その他様々な側面から見て、人類史上、唯一無二の傑作に相違ない建造物。それがこうして夕陽の中で、他に何物も並び立つことなく佇む姿は、俺のお気に入りの景色だった。
「あら、それは珍しいお人だこと。あんなの別に、目新しいものでもないのに」
「まあ、そりゃあ、新しくはないですね。むしろ機械的な建築としては、飛び抜けて古い方です。なんたってあれは、今から三百年も前にできたものですから」
「三百年、ねえ」
女性は俺と同じように窓の外を見て、まるで感嘆の溜息でもつくかのように呟いた。
「大昔ですね。でも、だからこそすごいじゃないですか。だってあの塔は、世界のエネルギー問題を一挙に解決しただけじゃなくて、今や世界の隅々まで普及したディアの、総合サーバーとしての機能まで果たしているんですよ」
「あらあら。あなた、物知りね」
「いやいや、何を言っているんですか。からかわないでくださいよ。建てられてすぐの頃ならまだしも、今じゃ小学校で教えてくれるような常識ですよ」
世界樹と呼ばれるあの塔は、全世界におけるエネルギー消費の約八割を賄っていると同時に、この地球上で稼働しているディアの全てとオンラインで繋がっていて、常に演算補助や情報共有を行っている。どちらかと言えば、今やこちらの方があの塔を世界樹と呼称すべき理由として大きいのかもしれない、と俺は思う。
「でもそれだけじゃなくて、特に俺がすごいと思うのは、三百年前に建てられたものだっていうのに、現代の技術と比べてまったく遜色がないところですね。機械としてのスペックはもちろん、接続方式や処理方式は時代ごとに更新されてきているのに、今のところその全てに対応してる。まるで建てた当時から、何百年も先の未来を想定していたみたいだ」
俺が感想を述べると、女性は「へえ。そうなのね」と穏やかな相槌を打って見せた。柔らかな物腰だ。呼吸や雰囲気にとても親近感が持てる。もしかしたらこの人はディアではなく人間かもしれないと、俺はこのとき、ふと感じる。
「じゃあ、あなたはあの塔がすごいものだと思うから、こうしていつも見に来ているのね」
「すごいっていうか、まあ、そうですね。ああいう機械的なものが好きなんです。特にあの世界樹は現代の情報社会の象徴、世界のCPUみたいなものですし……てか、あれ? 俺がここへ通ってるの、よくわかりましたね?」
指摘された通り、俺がここへ来るのは初めてではない。しかし、どうしてこの女性にそれがわかったのだろう。もしかして、実は初対面じゃないとか? いやそんなはずは……。
「ふふっ。だって、分かるわよ。迷わず自販機でコーヒーを買って、数あるテーブルの中から真っ直ぐ一つを選んで座る、なんてことをしていればね。しかも、買ったコーヒーは同じ種類の缶を二つ分。そんな一見さんは、なかなかいないわ」
なるほど。俺は微笑む女性の言葉を聞いて納得すると同時に、自分がこのフロアに踏み入ったときから気づかれていたのだと知った。
「長居するつもりなんだなって、すぐにわかったわよ。それに、随分と私のことを気にしてくれていたみたいだしね?」
「それは、えっと……すいません。バレてたんですね。気を悪くされたのなら、謝ります」
「ふふっ。いいえ、思いの外に熱い視線で、私、ドキドキしちゃったわ。だからお礼にご馳走させてもらったんだもの」
言って、女性がテーブルの上に視線を向ける。そこにはさきほど店員が運んできた立派なコーヒー。しかしながら、若干立ち昇る湯気が薄くなってしまっている。
「コーヒーが好きみたいだけど……どう? お気に召さなかったかしら?」
「いえ、そういうわけではないんですけど……俺、こんな立派なコーヒー、飲んだことないんですよね。自販機でいつも缶コーヒーを買うのは、他に並んでるジュースがあんまり好きじゃないからで……でも、同じ値段でお茶や水を買うのも嫌ってだけなんです。そうすると、消去法でコーヒーしかなくて。それで、いつも」
「コーヒーオンリーなのね」
「そうです。だから特別コーヒー通ってわけでもなくて。作法とか……よくわかりません」
「あっはは。なんだ、そういうことだったの。でも、ドントウォーリーよ。特に難しい作法なんてないわ」
「そうなんですか? じ、じゃあ……お言葉に甘えて、好きに飲ませてもらいます」
せっかく用意された砂糖やミルクを使った方がいいのかと思ったが、結局俺は、何も入れずにそのまま口を付けることにした。一口飲んで、とても美味しいと感じる。これは、缶コーヒーとはまったく別の飲み物だ。
「それで今日は、あなたはお一人? ここまで話を聞いていると、お連れ様がいてもよさそうなものだけど」
尋ねられて、俺の手が止まる。“お連れ様”か。この場合「誰と一緒なのか」というよりは「ディアを連れていないのか」と質問されたとみるべきだろう。現在では目新しくもない世界樹を何度も見にくるほどの物好きが、まさかディアを連れていないわけがないと。
「ああ、えっと……そうですね。今日は、一人です」
しかし、俺はディアを連れてきていない。正真正銘、お一人様だった。“今日は”というのも、実のところ嘘なのだ。俺はそもそも、普段からディアを連れていない。
皆が口を揃えて便利だと言い、重宝するディア。もはや連れて歩いていない方が、不思議に思われてしまうくらいのディア。でも、俺はそんなディアが少しばかり苦手だった。
「学校帰りに寄り道しているだけだから、別に一人でも困らないんですよ。それに、ディアを連れてきて、俺だけ缶コーヒーを飲みながらここにいるのも、あれでしょう? なんか悪いし」
「悪いって……ディアに?」
「ええ、まあ、そうです」
「……ふうん。だからロンリーなのね」
ただそれはそれとして、ちょくちょく変なコメントが返ってくると思ったら、オンリーウォーリーときて、お次はロンリーか。随分と節操のない韻の踏み方だ。
「……随分と苦しいですね。ダジャレにしてもさすがに」
もはや語尾を伸ばしているだけに近い。こんな下らない、冗談にもならない冗談を、ディアは間違っても言ったりしないだろう。
「ふふっ。いいじゃないの、ちょっとくらい大目に見てよ」
女性は少し身を乗り出し、テーブルに頬杖をついて薄く笑った。思いきり雑なギャグを言っているのに、そのくせ纏う高貴なオーラが一向に崩れないことには素直に驚く。穏やかで清楚な身のこなしと、夕陽に照らされて映える容姿の賜物だろう。
最初はディアの可能性を考えていたものだが……握れば折れてしまいそうな細い指先、雪にも劣らぬ白い肌、木漏れ日のように光を跳ねる長い睫毛……これが人間の容姿だと思うと、いやはや、ちょっと感嘆を禁じ得ない。
「ところで、さっきの話だけど……」
女性は浮かべた笑みを意味深な雰囲気のそれに変え、俺をじっと見つめて尋ねた。
「もし人間がコーヒーを飲んでて、一緒にいるディアが隣で待っているだけでも、誰も気にしないものなんじゃない? そのディアも含めてね。むしろ私からしたら、そっちの方が自然な光景に思えるわ」
「そう……ですか?」
「そうよ。だってディアは、基本的に飲食をする必要はないんだもの。稼働のためのエネルギーは世界樹から電波として受け取っているのよ。ごく稀に、レストランや家で人間と一緒に食事をしたり、お祭りやイベントでお酒を飲んだりすることはあるけれど、それはただ形式的なものであって、場の空気を壊さないようにするためだけの行為じゃない。こういう日常の中での話なら、あなただけがコーヒーを飲んでいても、悪気を感じる理由はどこにもないわ」
確かに、一般的なディアに対しての認識は、まあそんなものかもしれない。ディアはあくまで人間のサポート役。それ以上でも以下でもない。裏を返せば、ディアはやはり人間ではないのだということだ。それ自体は揺るぎない事実であり、俺だって否定するつもりは、一切ない……でも。
「でも、今のディアは、限りなく人間に近い存在って言われているくらいじゃないですか。人間のように、体内に入れたものを糧にする機構も持っています。美味しい食べ物を食べたら喜ぶし、苦い飲み物を飲んだら顔をしかめる。稼働に必須ではなくても、食事ってそういう、味とか感想みたいなものも伴うわけだし」
「味や感想? ディアが?」
俺が答えると、途端に女性は目を見張った。何だろう、俺の回答はそんなにおかしなものだったろうか。まるで虚を突かれたというような表情を見せる。
「え……ええ。ディアだって、何も感じていないってことはないでしょう、きっと。少なくとも、人間の感情に近しいパラメータみたいなものは、あるはずですし」
俺の肯定に、女性はすぐには言葉を返さず、こちらを見据える両眼を少しだけ細めた。何かを考えているのだとわかる。静かに漂う時の中で、そんな女性の姿はこの上なくミステリアスだ。やがて女性は、形の良い唇の端を持ち上げてニヤリとする。
「……へえ、あなたってとってもファニーね」
……出来損ないのダジャレはもういいですよ、なんて突っ込むべきだったのかもしれないけれど、しかしながら今のは、冗談の類ではないようだった。
俺が返答に迷っていると、その沈黙の間に、女性は椅子から立ち上がる。
「あれ、もう……お帰りですか?」
「ええ。そろそろ夕陽も、お帰りのようだからね。お話しできて楽しかったわ」
そうか。いつの間にか、もうそんな頃合いか。窓の外を見やると太陽が半分ほど雲の中に隠れていて、赤い光が世界樹を横薙ぎに照らしている。
「いえ、そんな。あの、コーヒー、ありがとうございます。とても美味しいです」
「そう? 何よりだわ。私も、一度でいいからオーダーのときに『向こうのお客さんに』って言ってみたかったのよね。だから、私も、ありがとう」
女性は満足そうに笑うと、艶やかに服裾を翻し、俺に背を向けながら言った。そうして歩き出そうとしたところで、あたかも今しがた思い出したかのように、首だけで振り返る。
「あ、それと、言い忘れていたんだけれど……私、こう見えても、ディアなのよね」
女性のその言葉を、聞いたときだった。俺の思考は、明確に数秒、停止した。いきなり予想外のことを言われて、完全に処理落ちしてしまったのだ。
「ごめんなさいね。せっかく綺麗な人に出会えたのに、相手がディアで」
……あれ、この女性は人間のはずじゃ……いや、それは俺が勝手に得心していただけか。言われてみれば、結局最後まで確認はしなかった。でも、この女性がディア? そんな、まさか。
うろたえる俺を前に、女性は悪戯な笑みとともに手を振って見せる。
「ふふっ。もし機会があれば、次は是非、紅茶をご一緒しましょうね」
そうして俺の返答を待つことなくフロアの中央まで歩みを進め、しばらくしてやってきたエレベータに乗り込んで姿を消す。
惚けていた俺が再び動き始める頃には、辺りはすっかり藍色に包まれていた。まるで女性が帰るのと一緒に、あの眩い夕陽までも連れ帰ってしまったかのようだった。
もしかすると、俺は夢でも見ていたのではないだろうか。
しかし目の前には、今も残った立派な佇まいのコーヒーがある。俺はそれを、これが現実であることを確かめるかのようにゆっくりと飲み干すと、どこかぼんやりとした感覚を抱えたまま、雲の下へと降りていった。
○
「からかわれたね」
中学時代からの俺の友人、遠山(とおやま)珀(はく)がそう言った。ある日の放課後、俺が先日出会ったディアと自称する女性について話した末のコメントである。
ここは学校と最寄駅の中間にある大型アミューズメントスペース、その四階。清潔感あるブライトカラーの壁面と、目に優しい穏やかな光を放つフロアタイルに囲われた、適度にアガるBGMと賑やかさが売りの娯楽施設だ。最近の俺と珀はここで、新しく導入された麻雀なるゲームにはまっている。四月から約一ヶ月、毎日ではないが時間を見つけて寄り道し、ようやく能書きの一つや二つ言える程度には手を慣らした。
「うん。からかわれたね」
「何で二度言った?」
「いや、言うでしょ。なんなら三回目も言うよ。蓮はその女の人にからかわれたんだ」
珀のやつが、四角の台の一辺からゲーム画面を操作しつつケラケラ笑う。若干幼めの中性的な顔立ちゆえ、本来は馬鹿にする意図のそんな笑いが、柔和な微笑みに見えなくもない。妙に落ち着きのある大人びた様子も、外見とのギャップを際立たせる。珀は面白そうに笑ったまま、台の左隣に座る人物に「シエロもそう思うよねえ?」と尋ねた。
するとそこから「うんうん、それはからかわれてるなー」と返ってくる。無論、声の主は俺ではない。彼は珀が幼い頃から一緒にいるという男性ディアで、シエロと呼ばれている。その外見は、俺たちよりも少しだけ年齢が上というくらいの印象だ。麻雀には人数が必要なため、こうして参加してもらっている。ちなみに本来ならばあともう一人必要だが、そこはもう妥協してゲーム内のAIに頼った。だから今、珀を真ん中にして左隣がシエロ、右が俺、正面は無人だ。
三回ならず四回にまで上った「からかわれた」返答に、俺は一瞬席を立ちかけるが、自分の順番を知らせるゲーム画面に気づいて冷静になる。
「……まあ、そうだな。今、振り返って思えば、そうかもしれない」
「ほぼ間違いなく人間でしょ。話を聞く限り、かなり個性的な性格みたいだし、普通のディアはそんなこと言わないもんね」
「言わないよなあ……。一応、市販状態のデフォルトの性格じゃなくて、所有者が意図的に《人格(パーソナリティ)プログラム》を構築したディアだっていう可能性は残るが」
「何さ、それ。ほとんど屁理屈みたいな可能性だね。オリジナルの人格プログラムの構築と適応って、最新のディアでもかなり大変な作業だよ。まあ、昔からの名残で、音声インターフェースってのもあるけど……それはそれでプログラムやハードウェアについての難しい知識が要らない代わりに、膨大な時間がかかるし。とにかく、普通はやらないよ」
たとえば個人がディアを手に入れるとき、形としては販売店で購入という手順を取るわけだが、その段階で既にディアにはいくつかの人格のパターンがインストールされている。実際、俺の正面に座る彼の性格も、幼い珀とともに成長していくことを鑑み珀の両親が、親しみやすさを求めて選んだ結果だ。技術的問題ゆえ、丸っきり人間そっくりというわけにはいかないが、それでも最近のものはかなり評判がいい。一言二言会話した程度では見分けられないくらいには人間らしいと言える。
「ま、君のような無類のメカオタクみたいな人なら、やるのかもしれないけどさ」
珀は肩をすくめるようにしながら画面を操作して牌を切る。
「おい。俺をメカオタと呼ぶのは構わないが、無類じゃないぞ。ディアは別だ。そこんところ、忘れてくれるなよ」
「相変わらずディアだけは専門外ですか。何とも変わったメカオタだね。ディアなんて、昨今の工学界じゃ一番の花形なのに」
「ほっとけ」
俺は一般的に機械好き、いわゆるメカオタと称される部類の人間らしい。“らしい”というのは、俺にはあまりそういった自覚がないからだ。両親を含め、親戚には工学研究者やエンジニア職の人が多く、その影響を受けているのだと、この年になれば客観的に理解はできるが、如何せん幼い頃からの感覚はなかなかに矯正されない。
ちなみに、世の中にはディアマニアといった人間もいるけれども、俺はそれとはまた別だ。俺は、ディアは、苦手だから。
「ま、ディアは機械とはまた別か。とりあえず、現状ではそういう傾向から、人格プログラムを独自に用意するインターフェースについて改善される予定は、あまりなさそうだね。コストや搭載される内部容量のことを考えても、開発側からしたら二の次なんじゃない?」
現代技術の結晶であるディアを作るには、それなりの費用がかかるものだ。加えて、いくら世界樹の補助があるとはいえ、個々のディアの持つ容量や演算能力は限られている。そんな中でマニア向けの仕様を汎用化するようなメリットはないということだ。
珀は俺のように機械好きというわけではないが、ディアについての知識は一般人よりそこそこある方だ。今の珀の意見も、十分に的を射た意見だと思う。
というのも、何を隠そう、こいつの実家こそがディアを生産している会社なのだ。
世界で唯一ディアの開発を成功させ、今や他の追随を許さぬ大企業《ガラテイア》。各国に支部を持ち、ディアの生産と管理を一挙に担うことから、その影響力は凄まじい。取り決め上、世界樹は国家間の共同所有物だが、実質はガラテイアの技術支援なしでは管理などままならないため、必然的に政府、ひいては国際的な連合組織との繋がりも生まれる。その知名度たるや、教養ある文明人ならばまずガラテイアの名を知らぬ者はいないと言っていいくらいのもの。
まあ、俺からしたらそんな金持ちの息子が自分と同じ学校に通っていること、それがそもそも驚きだったが、どうやら俺と珀の通っていた中学校は、ガラテイアと提携している大学の系列校らしいとあとから知った。おかげである程度の成績を保っていれば、大学までエスカレータ式である。
思えば俺がそんな学校に入学したのは、親の影響もあって工学に特化した授業があることだけが理由だったが、そんな中で俺が珀と親しくなったのはまったくの偶然だ。ひょんなことから馬が合って、高校三年になった今でもこうして放課後をともに過ごす。
「二の次……実際は三、いや四の次ってとこか。そんなのに回すコストはないんだろ」
「まあね。そういうニッチな仕様よりも、もっと需要と反響の大きいところに開発コストは回るんだよ。たとえば、ほら、こんなのとか」
そう言って珀は、右手の人差し指にはめたリング状の物体を、俺の方へと見せてきた。察するにそれは指輪……だが、単なるアクセサリーではなさそうだ。
「これ、流行の指輪型(リング)デバイス。もうすぐ発売される最新モデルの試作版だよ」
瞬間、ゲーム画面へ伸びようとしていた俺の手が行く先を変えた。
「おまっ! そんなん持ってるなら早く見せろよ!」
「あはは、目の色が変わるのがわかりやすいねえ」
珀は笑い半分、呆れ半分といった様子で、はめていた指輪を俺の手の上に置いてくれる。近くで見ると、それは確かに指輪の形をした《ディアデバイス》だった。
ディアデバイス――つまりはディアとの通信を行うための機器である。最近では回路の集積技術が格段に進み、持ち運びに便利という観点から装着型のものがどんどん販売されている。これ一つでディアに関する情報を全て確認できる他、遠隔でいつでもどこでもディアとやりとりすることができる。さらに、従来普及していたパーソナルコンピュータとしての機能まで受け継いでいて、計算、情報記憶、グローバルネットワークへの接続などもこなしつつ、必要とあらばホログラフの3Dモニターとキーボードで情報の入出力も可能な優れもの。ディアに付随する周辺機器ではあるにせよ、まさにこういうのが俺の好みの代物だ。有り体に言って、メカオタの血が騒ぐのである。
「すごいよね。ディアデバイスって、僕が生まれた頃なんかはまだ両手で抱えるほどの鞄みたいだったのに、小型化はどんどん進んでる。今回のモデルではパフォーマンスの向上もさることながら、前までごつめだった無骨なデザインがシャープになって、女性の指にも似合うようになったんだ。外見もいくつか選べる仕様だから、アクセサリーにもなるよ」
「うおー、すっげ細いな、このリング! よくこの中に回路やメモリが入ったもんだ。へぇー!」
硬質の樹脂で覆われた外装はメタリックな光沢を放っている。見たところ継ぎ目らしき部分がない。溶接したのだろうか。起動中らしく、まるでセンターストーンのようにはめ込まれた小さなライトが時折点滅しているのがわかる。そして何より軽い。
「なぁ、なぁ! これバラしていいか?」
「ダメに決まってるでしょ。今まさに、君の正面にいるシエロとリンクしてるのわかるよね? 試作のテスト中なんだよ」
俺が興奮気味に問いかけると、珀は呆れた声を返してくる。
けれども正面から聞こえた「バラすなら一度接続は切ったほうがいいと思うよ?」なんて呑気なアドバイスを無理矢理好意的に解釈し、俺はなおも食い下がった。
「大丈夫大丈夫! そのへんはちゃんとするから! ちょっとだけ!」
「いや、ちょっとって……ちょっとだろうが何だろうが、ここでバラしたりなんかしたらテストにならないでしょ」
「じゃあ五分だけ!」
「寝起きみたいに言わないでよ。ダメなものはダメ!」
ちっ。どうやら意志は固いらしい。せっかく面白いものが目の前にあるのに。ケチんぼめ。バラさないと何がどうなっているのか全然わからないではないか。俺の興味の先は、この妙にスタイリッシュなのっぺりとした表面ではない。その中身なのだ。にしてもこいつは、仮にバラすとしてもどうやってバラせばいいんだ?
俺が目の前の指輪と睨めっこをしていると、隙をついてバラそうとしている魂胆を見抜かれたのか、珀がそれをひょいと取り上げる。そして話をすり替えるように、俺に尋ねた。
「そういやさ。指輪ほど小さくはないにしろ、最近じゃあもうほとんどの人が、こういうディアデバイスを身に付けてるじゃない? さっき話してた女の人はどうだったの? 腕輪型(ブレスレット)だったり手帳型(ブック)だったり、もしデバイスを持っていたなら人間だと思うんだよね」
「ん、まあ……そうだな」
「あるいはディアなら、シリアルナンバーが入ってるでしょ? 最近のモデルは左手の甲だし、一世代前は額、二世代前なら腹部。もっと前なら、えっと……」
珀が左隣のシエロを見ながら、考え込むように首を捻る。
確かに、全ての人間がデバイスを身に付けている保証はないが、ディアの方はまた別だ。必ずボディのどこかにシリアルナンバー、つまり個体識別用の番号が刻印されている。
俺は奪われてしまった指輪を名残惜しげに眺めながら、珀の言葉に続きを添えた。
「三世代前は大腿部、さらに前なら胸元だ。つっても、そんなに昔のディアが今もそこらで動いてるとは思えないけどな」
「さすが、詳しいね。ディアのことなのに」
「たまたま知ってただけだ」
そう、たまたまだ。いくら俺がディアに興味がないとはいえ、現代の電子機器に触れている限り、ディアの情報はどうしても入ってくるものである。たぶん何かの仕様書とかで見たのだろう。でなければ、自分が生まれる前のディアのことなんて知るわけがない。
「その女の人は手ぶらだったし、見る限りでは何も身につけていなかった。シリアルナンバーに関しては、ほとんど全身が服に包まれていたからわからない。手袋もしていたし帽子も被っていた。大腿部や腹部、胸元なんかは論外だ」
「んー、そっか。ディアにとってはシリアルナンバーって、車のナンバープレートみたいなものだし、あんまり隠すとは思えないんだよね。だから逆に、そういうところを気にしてないってことは、やっぱり人間なのかな?」
「いや、車と違ってディアはシリアルナンバーを見えるようにしなきゃいけないルールはないんだ。わからないぞ。そんなわかりやすい基準で判断できれば、俺だって悩まないさ」
「あはは。ま、そうだよねえ」
あの女性と話していたとき、俺はまるで、夢でも見ていたかのような気分だった。それくらいに惚けていたのは認める。けれども、シリアルナンバーが目に入っていたら、さすがに気づいていたはずだ。まあ、それも今となっては確かめようもないことだが。
「ところで、その新型デバイスはいつ出るんだ?」
ここで考えてもキリがないので、俺はまた、さきほどのデバイスの話を引っ張り出す。
珀は取り戻した指輪を元通りに指にはめ、隣のシエロと動作確認をしながら答えた。
「一ヶ月後くらいには市場に並ぶと思うよ。何? もしかして買う? これと同じシリーズの男性用モデルも、同時に出るよ」
「ああ。さすがに値段次第だが、バラす用に一つ買ってもいいなと思って」
「バラす用って……何でメカオタは全部バラしちゃうのかなあ。使う用に買いなよ」
「二つも買う金はねーよ」
「あくまでバラす方が優先なんだ……」
当然だ。まっとうな消費者として、まずは最新モデルの進化の具合を確かめるのが先だ。珀は大きな溜息とともに不服そうな視線を向けてくるが、俺は気づかぬ振りで押し通した。
「蓮ってさ、こういうデバイス、一つも持ってないでしょ? 今使ってるのって、いわゆるノートパソコンだよね。しかもかなり昔のモデルの」
「いかにもそうだが」
「今時、キーボード付きのソリッドモニターって、いい加減かさばるでしょ。こっちの方が便利じゃない? 軽いし」
「確かにそうかもしれんが……でもな、ソリッドはやっぱり画質がいいんだ。あとキーボードも、実際に押してる感覚ってのは、結構大事なんだぞ」
ホログラフの投影によるモニターやキーボードは、使うとき以外には消してしまえるという点で非常に有用だが、やはり実体のあるものとまったく同じクオリティは出ないものだ。出先で気軽に使う分には問題ない。ただ、ちょっと凝ったことをしようと思うと、どうしても痒いところに手が届かないという代物。要するに、俺が持つには向いていない。
それに、俺がこういったデバイスを持たない大きな理由は、もう一つあった。
「そもそも、俺はディアを連れていないんだぞ。そうなるとせっかくの機能がほとんど無駄になっちまう。この中にはディア専用のソフトウェアがいくつあると思ってるんだ」
「ああ、まあね……」
いくらパソコンの機能を受け継いでいるとはいえ、あくまであれは、ディアのためのデバイスだ。ディアにリンクせず単体で使うことは想定されていない。ゆえに俺の場合、向いていないどころか、まず前提からしてお話が別である。ディアを所有していない。非常に不本意なことではあるが、今の時代、もうこれだけで一般人というカテゴリから外れてしまうのだ。
珀の自慢のセールストークもこれにはお手上げ。返す言葉もないらしく渋々と引き下がった。
「やっぱりまずは、蓮のディア嫌いをどうにかするところからかあ……」
おい、目の前にディアがいるところで、そういうことを言うんじゃない。俺はそう思ってちらりと正面のシエロを気にするが、しかし当のディア本人はすこぶるゲーム画面に夢中だった。
いや、というかそもそも……。
「別に嫌いなわけじゃあないぞ。苦手なだけだ」
「え、同じじゃない?」
「同じじゃねーよ」
同じではない。俺はディアのことを疎ましく思っているわけではないから。
でも苦手なのだ。そして、それには理由がある。俺がディアを苦手な理由は
――人間に見えるから。
いいや、だってディアは人間に似せて作られているんだ。人間に見えて何がいけない?
幼い頃には、そう思っていた時期もあった。
けれど、もう、時間は流れた。お人形が友達に見える年齢は過ぎた。
成長した節度ある大人たちは皆、ディアのことは人間には見えない。人間“みたい”に見えるだけだ。技術の粋を集めて人間に似せて作られたディアを、それでも人間と見てはいけない。人間みたいに見えるのは良くても。
難しい、と俺は思う。
もちろん“そういう人”が他にいないわけではない。「ディアの人権を認める法律を」なんて叫ぶ政治家もたまにはいるし、ディアをこよなく愛する人たちの団体なんかもあったりする。ただ、いずれにしても周囲から奇異の目で見られることは覚悟の上だろう。
遡れば《ディアコンプレックス》なんて言葉とともに社会的隆盛を見せた――もとい問題を露わにした時代もあったと聞くが、もはやそれも歴史の隅の隅。ディアコンプレックスは当然、死語だ。
要するに圧倒的少数。そして異常とも見られる側。
だから俺は、事ここに至っては逆に、ディアと人間の判断には自信がある。もし初対面であっても、俺はいち早くその違いに気づき、人間には人間への、ディアにはディアへの、適切な態度をとらなければならない。より注意深く、より意識的に。
だからシリアルナンバーの場所もよく知っている。
だからコミュニケーションの中に現れる人間とディアの相違にもよく気づく。
そういう風に育ってしまった。
たとえば、普通のカフェの店員は、客の視線を追跡してメニューの追加提案をすることはない。若い華奢な女性であれば、片手で荷物を持ちながらもう一方の腕で双子を支えることはできない。
けれど……それでもやはり、見た目は完全な人間という事実。厄介なものだ。
正直に言えば、俺は今でも考える。周りの皆、ここにいる珀も含めてよく――
「よく割り切れるな、ほんと」
「え?」
「人間は人間。ディアはディア。よくそれだけはっきり線引きできるもんだなって」
すると珀は視線を真上に向けて思案し、やがてしれっと左隣に尋ねる。
「うーん。だって、ディアは人間じゃないしねえ?」
対する答えも「そうだね。僕たちは人間じゃない」と当たり前のような顔。
珀はまた、俺に向き直って言った。
「こういうのって、慣れだと思うよ? 少しずつディアと時間を過ごすようにすれば、自然とそういう感覚になると思うんだよ。試しに数日なら、シエロ、貸してあげようか?」
「……遠慮する」
俺が答えると、珀は「えー。結局いつもそう言うー」と笑いながら不平を漏らした。
俺は続ける。
「ってかその、シエロって呼ぶのも、なんか違和感あるんだよなー」
「え? そう?」
「そう」と俺は力強く頷いて見せる。
とはいえ、これも俺だけなのだろうけど……でも感じるものは感じてしまう、違和感。
では、なぜ違和感を感じるのか。
実は、シエロというのはディアに内蔵されているOSの名称なのだ。
ディアのOSには非常に様々なものが存在する。技術革新により新しいOSが生み出されたり、メジャーアップデートなどで機能がガラリと変わったりする場合に新規名が冠される習慣で、多くはディアの役割にあった用語や、象徴的な言葉が名称として用いられる。
たとえば営業店舗の販売員をするディアであれば《Sourire(スリール)》や《Cortesia(コルテシア)》。看護師であれば《Kind(カインド)》や《Ai(アイ)》。その他、役割の定まらない汎用のディアであれば、月の女神を意味する《Selena(セレナ)》。イタリア語で夜を意味する《Sera(セラ)》。ラテン語で星を意味する《Stella(ステラ)》。スペイン語で空を意味する《Cielo(シエロ)》などが、ここ数十年ではよく見られる。
この通り、ディアのOSには多くの国の言葉が代わる代わる用いられているが、過去に遡れば遡るほど《Kaguya(カグヤ)》や《Nanohana(ナノハナ)》といった日本語を由来とする名称が多い。これについては、その昔、ディアの開発が日本で行われたことに関係している。
とにかくいずれにしても、これらはディアの型タイプを表すもの。したがってさきほどから俺たちが呼んでいるシエロというのも、珀が彼に与えた名前というわけではないのだ。
「違和感って言っても、ディアをOSの名称で呼ぶのは、一般的にとても普通のことだよ。ディアは所有者やその周りの人の声を聞き分けられるんだから、少しくらい呼び方が被っても問題ないんだ。蓮だって知ってるでしょ、それくらい」
「そりゃ知ってるけどさ」
同じタイプを一家で、あるいは一事業体で複数所有している場合、名前を付けたり、記号や番号で区別することもあると聞く。つまり名前を付けるというのは、そうなって初めて行われる“処置”なのだ。でも……。
「名前くらい、自分で考えてやってもいいと思うけどなあ。大事な車や楽器に名前を付ける人だっているじゃないか」
「まあ、確かにそうだね。あ、じゃあもしかして蓮は、いつも持ち歩いてるそのノートパソコンに、名前とか付けてたりするの?」
「うっ……」
まさかそうくるとは思わなかった。
いやいや、別にいいんだ。名前くらい付けてたって。相手がディアでなくて単なるノートパソコンなら“愛用している”くらいの意味合いにしかならないのだから。
「……シータ」
俺は少し考えた上で小さく答えた。
「シータ? シータって、ギリシャ文字のシータ?」
「……ああ」
「へえ、由来は?」
「俺が今まで使ってきたパソコンを数えて、こいつが九機目だから」
「あ、シータってギリシャ文字で九番目だから。なるほど、いい名前だね。可愛げもあるし」
あっさりしたコメントの割には無関心にも皮肉にも聞こえず、素直に言葉通りに受け取れるところが、またすごいというかなんというか、珀のひととなりによるところだろうか。
「うるせっ」
それでも俺は、一応のように毒づいておく。
「それに、自分で言ってて思ったが、これも他人からしたらただの記号だ。名前だと思ってるのは俺だけでさ」
「うーん……そうかもしれないけど」
珀はまた、何やら思考を回している様子だった。そしてしばらくすると突然
「シエロ、名前ほしい?」
と自身のディアに向かって尋ねた。
シエロはゲーム画面を操作していた手を止めると、そのまま無表情で珀を見て答える。
「僕は、どちらでもいいよ。現状困ってないし。君が付けたいなら、付ければいいと思う」
まあそりゃ、そう答えるだろう。普通に考えて、ディアが自分から名前をほしがるなんてことはない。彼らは基本、人間を気遣って動くものなのだ。世の言葉を借りるならそれは“良きパートナーとして”。
彼らもまた、人間ではなくディアとしての立場に徹しているということだ。
そしてそれを理解した上で動ける珀のような人たちが正常。
だから俺は、ディアを、持たない。昔、いつだったかそう決めた。
「ま、やめとけよ。名前なんか付けたら、それこそ人間に見えちまうだろ。俺が」
冗談半分で言いながら、ゲーム画面を操作しようとした、そのとき。
「ロン!」
という音声が台から聞こえてきて気づいた。不意に画面に飛び出た『和了』を俺が無意識に選んでしまっていたのだ。
つまりこの回は俺の得点。オーラスなのでこれでゲームは終了だ。振り込んだのは対面に座っているシエロ。
どうやら他事を考えながらプレイしていたら思わず勝ってしまったらしい……て、んなことがそうそうあるわけない。
俺はその場で立ち上がってシエロに言った。
「おいお前! 今のはなんだよ!」
「え? 何って、捨て牌選んだだけだけど」
あどけない顔で答えるシエロは、素なのか、あるいはとぼけているのか。
「選んだのはいいけどよ、俺の川見たら、その牌は明らかに危ないってわかるだろ! 初心者じゃねーんだから!」
「まあ、染め手かな、とは思ったけど」
「思ったなら警戒しろよ! こっちは点差があるから露骨でもガッツリ染めて、ツモに賭けてひっくり返そうとしてたのに!」
そう叫ぶ俺の肩に、横から珀が手を置いてくる。
「まあまあ、勝ったんだからいいじゃない」
「いいわけあるか! こっちは真面目に遊んでんだぞ。ゲームでまで人間に気ぃ遣ってどうすんだよ!」
「まあまあ、まあまあ。相手はディアだよ。抑えて抑えて」
珀は笑いながら俺の肩をポンポン叩く。その笑いに、俺を宥める意思が含まれているのかは知らない。ただ、今の俺を見て面白がっていることはよくわかった。
そうなると途端、こちらは冷静になれるものだから、いやに気分は複雑だ。
「っち」
俺は口をすぼめて目を逸らす。
「えっと、ごめんね、蓮」と、シエロはタイミングを見て謝罪を口にした。
「謝るよりは、俺が怒った理由を学んでくれる方が嬉しいけどな」
まあ、返しでそうは言ってみたものの、これは単なる捨て台詞だ。ディアの学習プログラムがどこまで汲み取ってくれるかはわからない。
それに、本来であればこんなゲームは、少しはまって長じただけの俺たちなんかより、ディアの方がよっぽど上手だろう。その知識や分析能力を以ってして、たとえばネットワークから統計データや対戦記録なんかを参照してやられたんじゃ、それこそこっちが相手にならない。あくまで俺たちのレベルに合わせているのだ。
わかっている。わかってはいるが、腹は立つ。これだからディアってやつは……。
横の無人AIがどんなちゃらんぽらんなプレイをしてもなんとも思わないのに。
ああもう! これだからディアってやつは!
俺は「はあ」と短い溜息をついて椅子をしまう。
「あれ、もうやめる?」
尋ねる珀に、俺は背を向けて歩きながら答える。
「まだやるさ。きたばっかだしな。ちょっと飲み物買ってくる」
そして一人で近くの自販機を探しに向かった。
○
しばらくして俺が戻ってきたら、なにやら頭数が一つ増えていた。
「あ! やっほー、蓮。邪魔してるよー」
声の主は女だった。俺の顔を見るなり片手を上げて軽い挨拶を放る。さきほどまで無人だった台の一辺に、そいつはさも初めからいたかのように、我が物顔で腰掛けていた。
思わず俺の口から、苦い息が漏れる。
「……げ」
「あっはは! 出た出た、嫌そーな顔!」
下から覗き込むようにして見上げてくる、ケラケラと俺をからかう歪んだ笑顔。自分が歓迎されていないことなど気にも留めない様子である。そのムカつくほどに端整な顔立ちは、下品に唇を釣り上げた笑みの分を差し引いても、造形として褒めざるを得ない。年代物のアンティークのようにくすんだ金髪は周囲の光を絶妙に品良く跳ね、おまけにこちらを見つめる瞳は、片方だけがまるでエメラルドのように緑色をしている。
「ほらほら、そんなところで突っ立ってないで座りなよ。みんなあんた待ちよ、これ」
突然目の前に現れたこの女、名を遠山(とおやま)翠(すい)という。年は俺と同じで、珀の双子の姉。つまるところこいつも、大企業ガラテイアのお嬢様だ。ただし、ほとんど純日本人の外見を持つ珀に対して、こちらは打って変わってイレギュラー。遠山家はその家柄もあってか国際結婚の機会も多いらしく、確か二人の祖母だか曾祖母だかに当たる人がドイツ人だそうだ。翠のこの特異な見た目は隔世遺伝によるもので、中学の頃、翠はそんな自分の外見――あからさまに異国人めいた金の髪と、人目を集める片翠眼を嫌がって、黒染めと黒のカラーコンタクトをしていた記憶があるが、高校に入ってからはすっぱりそれをやめたらしい。おかげで入学当初から、こいつの周りは騒がしいったらありゃしない。
「そりゃ、お前に急かされんでも座るっての。つーかここは俺らのホームだぞ」
画面を見れば既に配牌は済んでいるらしく、俺の操作を待機していた。プレイヤー数四人で、新しいゲームに設定されている。
「お前、何しに来たんだよ」
「そりゃ、あんたに会いにきたに決まってるでしょ」
「やめろ寒気がする凍えて死にそうだ」
「あっはははは」
そうやって、さっそく順番が回り出す。同時に拍が翠に尋ねた。
「っていうか、翠姉さん、一人? ステラは?」
「あー。あの子とはちょっと、今、別行動」
ステラというのは、この翠が普段から連れているディア。要は珀にとってのシエロのような存在である。
「もともと、今日は取引先との会合に出る予定だったんだけど、前々からうちの会社の方がトラブってて、結局なくなっちゃったのよね。そういうわけで、あたしは浮いた時間に、学生らしく学校帰りの寄り道をお楽しみ中。ステラはスケジュールの調整のため、今も家で会議に参加中」
「へえ、なるほど。でもいいの? そういう会議には、翠姉さんも参加しないといけないんじゃない?」
「いいのいいの。あとから議事録貰うし。あたしにだって息抜きは必要でしょ」
「それは……まあ、そうかもしれないね」
「だからってわざわざここに来ることねぇだろうよ……」
珀の答えの裏で、俺が目一杯声を低くしてそうコメントすると、翠は対照的に軽々とした口調で絡んでくる。
「えー、いいじゃない別に。あんたたちが最近ご執心のこのゲームにも、興味あったところなんだから。それに蓮にはちょうど朗報が……おっと。それ、貰おっかな」
そしてついでのように俺の捨てた牌をポンしてくる。っち、会話どころかゲームのやり口までいちいちいけ好かんやつ。
その鳴きの処理を終えたところで、翠が俺の方を見て言い直した。
「で……そう、朗報。あんたの例のプログラムだけど、かなり評判いいわよ」
例のプログラム? 瞬間、俺は頭の中でそんな疑問符を浮かべる。しかしそう言われてみると、一つ心当たりがあるような気がした。
「……ああ、 ディアと既存デバイスの遠隔接続を効率化するミドルウェアのことか」
「そうそう。よくわかんないけど、確か、そんな感じの」
どうやら想像通りだったらしい。それは、以前に俺が関わったことのある商用プログラム――ディアのシステムに用いられるD言語と、従来の電子機器に用いられるC言語の読み替え、および両者の接続を効率的に行うプログラムについてだった。
そのプログラムは、親父の勤める研究所で開発されていたものだった。研究所はガラテイアとの共同製品開発も行っていて、親父から開発が行き詰まっていると聞いたとき、たまたま俺から提案したアルゴリズムが打開策に繋がったらしいのだ。当時、俺はその部分限定でソースコードを書き、親父が形にしてガラテイアに持ち込まれた。しかし、あとから試作版のコードを見せてもらったら、俺が書いた部分はほとんど原型がないくらいに改変されていた。残っていたのは処理を行う方式の、アイディアだけといった感じだった。
「あんなの俺のプログラムじゃねぇよ」
「またまた、謙遜しちゃって。本社の研究員の人が、あんたのこと褒めてたわよ。我々にはない新しい思考回路だって」
ふん、そーかよ。でも違う。謙遜じゃあない。あんな問題、あのとき俺がどうにかしなくたって、いつかそのうち、誰かが解決していたことだろう。本心からそう思っている。
親父は案件を持ち込む際、正直に自分ではなく息子である俺の名前を出したらしいが、俺にとっては別に、どちらでもよかった。それよりも俺は、自分で書いたソースコードが、目も当てられないくらいダサいコードに変えられていたことが、我慢ならなかったのだ。そもそもプログラムのコードというものは単なる数字とアルファベットの羅列に見えて、きちんとした作法がある。ただ動けばいいというものではない。大事なのは美しさだ。それをあんな……あんな美学もへったくれもないコードに俺が関わっているなんて、毛の先ほども思いたくない。
「いいか、あれはな。元々は俺がディアを使わずに、色んな機器にアクセスする目的で考えた方法なんだ。近頃はディアかディアデバイスを持ってる前提でインフラが整備されてるから、それを俺のノートパソコンでどうにかするためのアルゴリズムだったんだよ。それがたまたま応用できたからよかったものの、勝手にいじくるなんて聞いてなかったぞ」
「あっはは。あんた、相変わらず変なことしてるわねえ」
「るせいやい」
翠は笑ってからかいやがるが、俺からしたら、これは死活問題だ。近頃、コンビニや小さな量販店では、ディアによる支払い専用のレジしか設置されていないところが増えてきた。ネットワークのホームページも、ディア向けのものがほとんどだし、こういった不便をいい加減どうにかしないことには、俺の日常生活には永遠に支障が出続けるのだ。
「自分たちに思いつかなかった画期的な方法を生み出したのが、あんたみたいなディアを使わないタチの人間だって知ったら、うちの研究員たちはこぞって驚くでしょうね」
翠は、その特徴的なエメラルドの瞳で俺を見据えて言う。口調はいつも通り軽々とした感じだが、表情はそれなりに真面目だった。
「そんでもってあたしも驚いた。プログラムの難しいこととか、あたしにはよくわからないけど、でも、今回の件に関して、素直にあんたのことをすごいと思ったわ」
こいつがこんなことを言ってくるなんて、俺も今まさに驚いた。
「何言ってんだお前。気色悪い」
「失礼ねー。褒めてるのに」
「俺はお前に褒められると心臓麻痺を起こすんだ」
すると翠はまた「あっははは」と豪快に笑う。それから、タイミングを見計らったかのように再び口を開いた。
「で、そんなあんたに一つ、面白いお話。率直に言うと、すっごーく人間みたいなディアの話、なんだけど」
それを聞いた途端、しばらく自分の画面と睨めっこで黙っていた珀が顔を上げた。
「へえ、こりゃあまた、タイムリーだね」
「何がよ?」
珀は、翠が来る前に俺としていた会話を踏まえてそう言ったのだろう。翠は不思議そうに尋ねるが、もう一度同じ話をする気など俺にはない。相手が翠なら尚更である。
「こっちの話だ」
腑に落ちないのか、翠は少しだけ首を傾げたけれど、やがて勝手に先を語り出した。
「あのね。今年の三月から赴任してきた、新しい先生がいるのよ。まだ若い女性の、一年生の英語担当でね。陸上部の副顧問をしてるの。結構可愛い系の人なんだけど……」
と言いつつ、俺の方を見てくる翠。
「……? はあ」
「あー、やっぱり知らないか。あんたはそういうの、興味もんね」
やっぱりとは何だ、やっぱりとは。どういう意味だよ。
「……三月から赴任してきたんだろ。まだたった二ヶ月だ。俺らの学年と関わりのない先生なら、知らなくても普通じゃないか。なあ、珀?」
この学校は大きいのだ。生徒の数が多い分、教師の数だってとても多い。知らなくて当たり前の先生なんてたくさんいる。
しかし、同意を求めた先の珀は、あっさりと俺の期待を裏切った。
「ごめん。僕、その人知ってる。年度終わり前に一人だけ赴任って、ちょっと妙だったし。ていうか、三年生の間でも結構騒がれてるよ。翠姉さんの言う通り、可愛い先生でさ。うちのクラスには、今からでも陸上部に入ろうか、なんて冗談を言う人もいたけど」
……何だって。つか、そこは嘘でも知らないって言えよ。
「ま、そんな感じで、先生本人は既に生徒の間じゃ話題なんだけど……実のところ、もっとすごいのはそのディアでさ。なんでも、言動がものすごく人間に近いんだって。噂では、最新モデルにプリインストールされた人格プログラムよりも数段作り込まれてるんじゃないかって言われてるくらい」
「……別に、あり得ないことじゃないだろう。人格プログラムはある程度の時間と手間を費やして作り込めば、それなりのものができるはずだ」
「いやあ、一応はそうなんだけどさ。普通はやらないのよねぇ、そんなこと」
なんか、さっきもこんな話をした気がするな。しかも、貰った返事も似たようなものだった気がする。さすが双子、返しがそっくりだ。
「とにかく、先生とディア、二人揃って話題の中心よ」
「ふうん」
新しくやってきた可愛らしい先生と、まるで人間のように動くそのディア。気になるとすれば、後者が先日俺の出会った女性と一致するかというところだが……いや、あれが学校にいたらさすがに気付くか。とすると、たぶん関係ない話だ。
既にこの時点で、元々ゼロだった興味が下を振り切ってマイナスまで落ち込むところではあるが……しかしまあ、いいか。麻雀のBGMとでも思って聞いておこう。翠の口ぶりからして、おそらく、というか絶対に、まだ続きがあるのだし。
「んで、まさかそれがすごいよねってだけじゃないよな?」
「だけじゃないわねえ。あんた相手って話が早くて、あたし、好きよ」
……だったら、その話の腰を折ってまでからかわないでほしいものだ。
「実はそのディア、クラッキングに使われたかもしれないのよね」
そうしてやっと本題まできたかと思えば、翠の口から少々穏やかでない単語が飛び出す。
「クラッキングだあ?」
「そ。今から半年くらい前のことなんだけどね。しつこくうちの本社のディア管理サーバーに入り込もうとするアクセスがあったのよ。師走のクソ忙しい時期だったのに、ホント、何回も何回もね。ま、全部門前払いなんだけどさ」
まあ、そこはさすが、世間をして鉄壁と言わしめるガラテイアのセキュリティか。
「んで、ほとんど素人みたいにアクセスログも丸わかりだったんだけど……」
「それが、その先生のディアだと?」
「アクセス元のシリアルナンバーによればね。まさかディアでクラックしてくるなんて、なかなか喧嘩売ってるわよ。そりゃあ、うちにちょっかいかけてくる輩なんてたくさんいるけどさ。そういうやつらはみんな、ディアを使うなんてことはしないわ」
「まあ……そうだな」
ディアは、稼働している全ての個体がそれぞれのシリアルナンバーで区別されていて、かつほとんど常にオンラインに接続している。しかも所属や所有者等の情報が公的な機関を通して管理されているため、その性質上、悪用すれば特別に足が着きやすいのだ。
「ログを残してるところをみると、まさしく素人なんだろ」
「素人にしたってねえ。クラッキングにディアを使うメリットがないことくらい、あたしにだってわかるわよ。当然、クラッカーが使うならディアじゃなくて、いわゆるコンピュータってやつでしょ? ちょうどあんたが持ってるみたいな、さ」
なっ……なんて妙な言い方をしやがる。それじゃあまるで、コンピュータを使ってるやつが悪者みたいに聞こえるじゃないか。まさか、こいつ……俺を疑ってやがるのか? 冗談じゃない。俺は清廉潔白だぞ。
「翠。お前のギャグは相変わらず面白いな」
「あはは。どうもどうも」
わざと苛立ちを乗せた俺の言葉に、翠は片手をヒラヒラさせながら笑って返す。嫌味を嫌味ととらえないその姿勢、まったくもって忌々しい。
「……ったく。だったら愉快犯だろ。ガラテイアの作ったディアでガラテイアを攻撃してやろうっていう……要は、からかってるんだ。お前がいつも俺にしてるみたいにな」
「いやいや、あたしのは愛がこもってるじゃない。溢れんばかりのあんたへの愛がさ。一緒にしちゃあ嫌よ」
「いじめっ子の言い分だな。いいからとっとと警察に突き出せよ、そんな似非クラッカー」
アクセス元がわかっているなら、何もためらうことはない。たとえ被害がなくても、クラッキングはれっきとした犯罪だ。
付き合っていられないと思った俺は、一番手っ取り早い解決策を提示する。
しかし、対する翠はあからさまに渋い顔を見せた。
「いやー、警察はちょっとねえ……」
「ちょっと、何だよ。何かまずいことでも……ああ、なるほど。そういうことか」
俺は自分で尋ねておいて、けれどもすぐに、思い当たる理由を見つける。
「《時の凍結(クロックフリーズ)》だな?」
「さすが、察しがよくてホント助かるわ」
《時の凍結(クロックフリーズ)》。それは、今からほんの一年半前の出来事だ。何の変哲もないある日の午後、突然、ディアが停止した。それも全世界同時、一斉に。そしてディアが止まったことにより、関連する全ての機器、さらには人間の社会までもが尽く停止した。その時間、七分十三秒。停止した瞬間のディアが示していた内蔵時計から、のちにそう報告されている。
あの日、あの時。まるで普段の活気が嘘のように、音や光のない時間が流れた。あくまでディアが止まっただけで、人間は確かに動くことができたのだけれど、それでも人々は動くことができなかった。事件を振り返ると、皆、口々にこう言ったものだ。時が止まっていたようだ、と。
原因は世界樹の突然停止とされているが、未だ詳しい事情はわかっていない。これまで数百年に渡って一度も異常を示した記録のないあの世界樹が、なぜいきなり何の前触れもなく止まったのか。当時は自発的に機能を持ち直したらしいが、今後もこのようなことは起こり得るのか。もしそうだとしたら、対策はどのようにしたらよいのか。人々の不安は、あれから一年半という時間が経過した今でも、消えたとは到底言い難い。
もちろんガラテイアの過失ではない。けれどもやはり、ディアや世界樹の技術的管理を全面的に任せられている立場上、ある程度不安や非難の矛先となっているのも事実だった。
だから、翠はこのタイミングで、また騒ぎを起こしたくないのだ。本社のディア管理サーバーがクラッキングを受けている。たとえ被害者側だとしても、実害はないのだとしても、そんなことをわざわざ公にしてガラテイアの評価を下げたくない。そういうこと。
「まあ、うちだってそう暇じゃあないのよ。素人クラッカーにいちいち目くじら立てて、悪目立ちなんてしたくないの。民間企業ってのは、特に世間様の風評には気を配るものよ」
「じゃあ放っておけばいいだろ。お前の言葉通り、いちいち目くじら立てなきゃいいんだ。ガラテイアはセキュリティの確認だけして、自分たちの身をしっかり守っていればいい」
こういう場合、変に反応して動きを見せてしまうと、かえって相手の思うツボということもあるかもしれない。愉快犯ならなおのことだ。
「でも、気になるじゃない? アクセス元がディアだったり、そのディアの持ち主が、突然この学校に赴任してきたり。というわけでさ。あんた、ちょっと調べてみる気ない?」
調べる……なるほど。つまり今日のこいつの目的は、これか。
話を大きくしたくない。クラッキング関係に知識がある。調査対象は学校内。そういった諸々の条件から、こいつは俺に、白羽の矢を立てたのだろう。その判断は理解できる。
しかし、俺とて易々とこいつの手駒になる気はない。確固たる意志できっぱりと答える。
「ないね」
「おっと。即答なんて随分とつれないじゃない。あんたに注いだあたしの愛も、これじゃあちょっと浮かばれないわねえ」
「お前からの愛なんて一切貰った覚えはねぇよ。浮かばれてたまるか。むしろ沈め」
「あっはは。なるほど、そんなに重い愛をご所望か。ならいっそ一緒に沈むかー。マリアナ海溝の底くらいまで」
「何それ重っ」
死ぬじゃん。それ絶対無理心中じゃん。さしずめ愛のコンクリ詰めか。
「と、とにかく、俺はやらんぞ。あんまり面倒事ばかり持ち込んでくるなよ」
背筋に深海の水のごとく冷たい悪寒が走った俺は、逃げるように話をすり替えようとする。
「だいたい、お前はいつもそうやって――」
「蓮、やってあげようよ」
ところが、不意に俺の言葉は遮られた。今度は翠ではなく、横で黙っていた珀によって。
「おまっ……珀、何言って」
「あ、やってくれる? さすが珀、優しー。二人ならそう言ってくれると信じてたわ」
すぐさま翠が便乗する。
「俺はやらんつってんだろ!」
対してこちらは断固拒否を主張。ついでに手元の画面で勢いよく捨て牌を選択。
「あ、それロンだわ」
「は?」
瞬間、翠がぬけぬけとそんなことを言った。
「ふっふっふ。ホンイツチャンタに風牌ドラドラで、跳満っと」
台の右隣から、妙に騒がしい和了の音楽が聞こえてくる。画面のリザルトに目を向けてみれば、そこには綺麗に並んだ十三個の牌。そこに俺の切った牌が加われば、確かに文句なく跳満になる。
唖然として固まった俺をよそに、翠は椅子から立ち上がってグッと伸びをした。
「さーてと。じゃ、今のあんたの負け分で、この話よろしくね。いやー、勝った勝ったー」
「あ、ちょ、おい翠!」
俺は台を去ろうとする翠に向かって手を伸ばした。が、しかし。
「頼まれてくれてありがと。愛してるわ」
離れた場所から振り返ると同時に放たれる投げキッスを反射的に避けようとして、結局、椅子から転げ落ちることとなる。そうして俺の耳には、自分の画面から響くヘンテコな敗北の音楽が虚しく届くだけ。
「……蓮、大丈夫?」
椅子に座ったままの珀が、こちらを見下ろしてそう尋ねる。向かいのシエロは立ち上がりかけて、黙ったまま俺を見ていた。
「いってて……くっそ、あの女……」
俺は恨み言を呟きながら、自分の身体と椅子を起こす。さらに汚れた制服を払い終わってから、改めて珀へと向き直った。もちろん文句を言うためだ。
「お前、何であんなこと言った。わかってるだろ? これじゃあいつの思うツボだぞ」
「わかってるよ」
「じゃあ何で」
すると珀は、相変わらず穏やかに笑って答える。
「僕、翠姉さんには、できるだけ協力してあげたいと思っているんだ。君を巻き込んだのは……うん、謝るよ」
「協力って……お前ら姉弟は、将来どっちが会社を継ぐかの、要はライバルみたいなもんだろ? あいつの頼みで調べ事したって、上がるのはあいつの評価だぞ。敵に塩を送るつもりか?」
「ライバルなんて、そんな。僕は翠姉さんには勝てないよ。翠姉さんは、僕とは比にならないくらい優秀だから」
「だったら、なおのこと手伝ってやる筋合いはねーだろ」
「筋合いはなくても、でも手伝いたいんだ。翠姉さんが僕を頼ってくれたときは、できるだけ応えてあげたい」
前からわかっていたことだが、こいつはとことんあの姉に甘い。お前が甘やかすから、あんな傍若無人ができあがったんだぞ。
「はあ……あいつの掌の上で、二人してダンスでも踊るってか」
「いいじゃない、踊ろうよ。きっと楽しいよ。同じ阿呆ならって、言うくらいだしさ」
「踊りすぎて、すっ転ばないといいけどな。今みたいに」
「あはは」
珀は俺の皮肉を気にした様子もなく、それを曖昧に受け流した。そして、わずかに寂しそうな表情を見せながら言うのだった。
「あのね。僕が今、こうして君といられるのは、翠姉さんが会社を継ぐ気で動いてくれているからなんだ。周りの皆が、会社を継ぐのは僕じゃなくて翠姉さんなんだって思ってるから、僕はこんなに気楽でいられるんだよ。僕は、会社のこと全部、翠姉さんに任せっきりにしちゃってる。だから、せめて頼ってきてくれたときくらい、力になりたいんだ」
珀の口調は妙に真剣だ。たぶん、それは本心なのだろう。こういった想いがこいつの胸には常にある。だからこそ珀は翠のやつに甘い。珀はそれを自覚しているし、さらに言えば、翠もそれをわかっている。
「蓮もさ、なんだかんだいって、気になってるでしょ?」
「……まあ、ちょっとくらいはな」
結局、翠にここを訪ねられ、話を聞いてしまった時点で、負けは決まっていたのだろう。
「よし、じゃあ、張り切って調べよー」
珀は間の抜けた声で意気込みながら、右手を上げて宣言した。釣られてシエロも、意味もわかってなさそうなままで手を挙げる。俺がそれを黙って見ていると、珀が少し困った顔になり、やがてまた微笑んで、俺の手首を掴み一緒に引き上げる。
俺は仕方なく「へーい、頑張ろー」と投げやりに答えた。調べ事そのものの面倒さよりも、翠と、そして珀に丸め込まれたことに対し、若干の不服を感じながら。
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