時刻は現地時間で午後十一時半。渡航は概ね予定通りだ。翠、珀、そして俺は数時間前に旅客機を降り、パイロット共々ヘリコプターに乗り換えた。

 混ざりあう漆黒の海と空。その間を切り分けるように進んでいく。闇の中で静かに煌々と佇む人類の礎。遠方からは細い糸のように見えた世界樹が、今は現実的な建造物という存在感を持って眼前にある。近付くにつれ細部が見えるようになるその姿に、俺はただただ圧倒された。

 低層の形状はほぼ完全な円柱のようでひたすらに大きい。聞けば数キロメートル単位の直径を誇るらしく、それはもう、ほとんど都市というほどの占有面積である。一般に、世界樹は花の形を模して造られたと言われているが、これはその内、茎の部分に当たるだろう。壁面に設けられた幾多のインジケータライトは緑色を呈し、その濃淡で稼働率を表していると分かる。時折一部が警告のように赤くなるが、すぐに近辺の緑色が濃くなって、やがて赤はまた緑に戻る。無数の細胞が各々機能しつつ、異常動作があれば周囲の細胞がカバーして修正するその様は、まるで生体活動そのもののようだ。

 ヘリは次第に上昇していく。比較的地上に近い茎の部分の次に現れるのは葉。上へ行けば行くほど空中に張り出した構造が多く見られ、街がすっぽり収まるほどのものもあれば、駅くらいのものまである。

 そして俺たちは、ついに雲をも突き出るほどの高度に辿り着いた。地上から見えるのも、またヘリで上るのも、この辺りが限界だ。

「あれら“葉”のいくつかには、ヘリポートが設けられています。そこへの着陸を試みます」

 外界を眺めつつ翠が言う。つられて俺も窓を覗く。

「ヘリポートなんて見当たらないんだが」

「待機状態では、ドームのように屋根が閉まっているのです。一番近いところでは……ちょうどあなたの真下辺りに」

 答え、翠は俺の近くで外を指差す。その先には、確かに丸い屋根を被った施設があった。

「あれを開けないと着陸できないのか」

「はい。ですからそのために、我々は世界樹のセキュリティを突破しなければなりません」

 翠は俺の方を向く。

「セキュリティの解析は出来ましたか?」

 問われた俺は軽く息を吐き、モニターの画面に視線を移した。

「ああ。結論から言えば、完全な解析は出来なかった。だが、侵入すること自体は可能だろう」

「……と言うと?」

「あの人に関する八百年間の記録は、セキュリティ突破用のプログラムに組み込むには、あまりに量が膨大過ぎた。ここに来るまでの短時間ではまず無理だ。対してそのセキュリティは、投げ掛けた質問の回答によって可否を判断するものだ。的確な回答なら認証はよりスムーズだが、曖昧なものでも方向性だけを定めることでいくらか粘れる。そこで、突破用プログラムには肝となる情報だけを組み込んでギリギリまで入り込み、そのあとは強引な力押し。こんな感じで、正攻法と邪法のハイブリットでいくことにした」

 俺の説明ではいまいちイメージが掴み辛かったのか、翠は少々顔をしかめる。

「そんなことが可能なのですか?」

「まあ、アルゴリズムを作った本人だからこそ出来ることだな。決して胸を張れる方法でないのは確かだが」

 しかし翠は、そこに文句をつけることはなかった。

「いいえ。目的が果たせるのなら、一向に構いませんよ」

 これはこれで、こいつらしい返答だ。

「ついでに言うと、どのみちこっちには彼女を作った主とやらの情報がない。その時点で完璧な理詰めの突破は不可能ということに、途中で気づいた。せいぜいそれを言い訳にさせてくれ」

 そうして俺は、手元のシータからセキュリティ突破用のプログラムを起動する。

 視線で翠に合図をすると、翠がパイロットに向けて指示を出した。ヘリが世界樹の葉に接近し、付近でホバリングを開始する。揺れる機内で、俺はシータと窓の外を交互に見る。プログラムが順調に走っているのを確認しつつ、しばらく無言の時間が続き、やがて――

 眼下の葉一帯が、突然に赤く染まった。同時に翠が声を上げる。

「那城さんっ!」

「問題ない。稼働率が急上昇して異常と見なされているだけだ。このまま上手くいけば……」

 そして俺が言い終わるや、今度は珀が短く叫ぶ。

「あっ! 見て蓮!」

 直後、葉を侵していた赤が一斉に引いた。あとには何事もなかったかのように緑色だけが残る。

「よし……成功だ」

「見事だね! 蓮!」

 珀は思い切り立ち上がると、そのまま俺の横に来てシータを覗き込んだ。視界の端で、ヘリポートを覆う屋根がゆっくりと開いていく。機体が着陸体制に移るのがわかった。

 けれど、だ。懸念すべき問題は、実はまだ一つ残っていた。俺は張り詰めた表情を崩さない。

 翠にも説明したことだが、これは正攻法と邪法の両用。華麗に美しく秘密裏に、忍び込んだわけではないのである。だから、この行為は必ず相手にも感づかれる。いや、もう既に感づかれている可能性もあるくらいだ。今はこちらが主導権を握り、ヘリポートを開けさせて、世界樹の内部に繋がる扉のロックも解除している。けれど、それはあくまで一時的。すぐにセキュリティは復活するだろう。ともすれば、ヘリの着陸を待つ時間すらもないかもしれない。

「というわけで、だ。なあ珀」

「ん?」

 俺はおもむろに立ち上がり、手に持つシータをパタンと閉じて珀の膝に置いた。ヘリは折良く、ヘリポートに向かってゆっくりと降下しているところだった。

「こいつをお前に託す」

「え?」

 奇妙な空気を感じたのか、少し離れて外を見ていた翠も、こちらに気づく。その頃には俺は、ヘリの搭乗口に手をかけていた。

「ち、ちょっと! 何をしているんですか!」

 翠が叫ぶ。俺は開いた扉から流れ込む風で聞こえない振りをする。

「いやいや、ちょっと蓮!」

 珀が叫ぶ。俺はアイコンタクトで先に謝って、聞こえない振りをする。

 その後も二人は何かを言っていたが、以降は本当に俺の耳には届かなかった。

 俺はそのまま、夜の冷たい闇を切ってヘリポートへと飛び降りた。


     ○


 俺は一人、世界樹主幹の内部に入る。翠と珀には悪いが、こうするべきだと俺は思った。俺にはわかる。不遜でも自惚れでもなく、この上で彼女は俺を待つ。俺だけを待つのだ。

 一刻も早く彼女に会いたい。その想いが、強く強く、俺を突き動かしている。俺は彼女に伝えなければならない。彼女が俺に求めた答を。

 この胸にある答を――

 世界樹内部は、一見して吹き抜けの層構造になっていた。上下の行き来は点在するエレベータによって行われ、その間の移動には一切のセキュリティがかけられていない。一度中に入ってしまえばほとんどの行為が自由であった。これにはある種、合点がいくところがある。本来、誰であっても世界樹外郭のセキュリティを不正に突破できるはずはないのだから、それ以上に内部セキュリティを増やしても単なる蛇足。自宅の玄関の鍵は頑丈でも困らないが、部屋の扉一つ一つにいちいち鍵がついていたら、たいそう鬱陶しいではないか。

 俺は周囲の構造から地理を把握しつつ、どうにか上へと進んでいく。地図目当てで無意識的に何度もシータを取り出そうとするが、その度に自分が手ぶらであることに気づく。今の俺は自分の現在位置すら受信できない。丸腰の身体は妙にふわふわして落ち着かない。

 そうして、いくつのエレベータを乗り継いだ頃だろうか。あるときふと、視界に映る光景が変化した。急に三百六十度が透明になり、これまで一切伺うことのできなかった外界が見えるようになったのだ。眼下にあるのは大きな、そして色鮮やかな花弁。どうやら俺は、花の持つ構造で言うところの、雌しべの部分を上へ移動しているらしかった。

 周囲は宇宙空間だ。ここまで来ると、もはや昼や夜の概念は曖昧になる。広大な花びらには太陽の光が注がれ、その下には青い地球が見える。本来は無重力のはずだろうが、エレベータが相当な速度で動いているのか、はたまた重力制御装置でもあるのか、俺の身体感覚は地上とさほど変わらない。

 やがてまた視界が閉ざされ、エレベータが停止する。待ち望んだ扉が、やっと開く。

 辿り着いたのは世界樹の最上階、そこはいわゆる管制室のような様相だった。学校の教室二つ分くらいの広さがあり、壁には大小様々なモニター。音はなく、ただ静寂を全身で感じる。ひたすらに無機質な印象を受けるながら、俺はゆっくりと、足音に気遣いながら奥へ歩いていく。

 すると、唐突に継ぎ足したような渡り廊下が見つかった。繋がる先は半径三メートルほどの円い小部屋で、一言で表せば、そこはティールームだった。ブラウンを基調とする暖色系で設えられた空間。照明は柔らかな蜂蜜色。壁には洒落た飾り窓といくらかの棚がある。何種類ものティーポットやカップ&ソーサーが、あたかも美術品のように並べられ、それらに取り囲まれた中心に置かれるのは、アンティーク調の一脚丸テーブルに二脚のチェア。

 座っているのはもちろんのこと、彼女であった。

「……探しましたよ」

 目の前の彼女は、相も変わらず奇抜な黒のゴシックドレスを見事に着こなし、優雅な仕草で右手にカップを携えている。その光景が、あの展望台で見た彼女に、よくよく重なる。

 彼女は穏やかに俺を一瞥すると、テーブル上のポットを手に取り、新しいカップをそっと満たした。それを、自然な動作で俺の前に差し出す。着席を促されているのだと思った。

 俺は彼女を見つめながら静かに腰掛ける。カップに入っていたのは予想通り紅茶で、ほどよい湯気が立ち昇っている。その紅茶の暖かさは、彼女が俺の来訪を予期していたのだと語っているようであった。

「その紅茶は、ダージリンよ」

 不意に彼女の唇が開き、次いで俺は自分の手元に視線を落とした。

「以前あなたに教えたウバと同じく、世界三大銘茶の一つ。ダージリンには春、夏、秋の三つのクオリティシーズンがあって、これはそのうち、夏に摘んだ茶葉。爽やかな渋味や甘味と、特徴的な香りを感じて頂ければ上出来ね」

 その言葉に誘われ、俺は目の前の紅茶を口元へと運ぶ。すぐに感じたのは、鼻孔を通り抜けていく樹のような甘い香り。けれど、実際に味わってみると渋味や、わずかな苦味もあって、様々な味が重なって感じられた。

「紅茶にはね、とても面白い性質があるの」

 鈴の鳴るような音の、綺麗な声が耳に届く。

「飲み比べてみるとわかるのだけれど、スプーン一杯分の茶葉にカップ一杯分の湯で淹れた紅茶と、スプーン二杯分の茶葉にカップ二杯分の湯で淹れた紅茶。どちらがより美味しいかというと、それは間違いなく後者なの。理由は、対流するよりたくさんの湯の中で茶葉が泳げば、それだけ自然な抽出がなされるからで、茶葉が潰れることもなく、したがって不必要な苦味も出ない。その説明は至極合理的で、とても理解のできるものだわ」

 彼女の語りはゆっくりと、まるで本を読み聞かせるかのように進められる。その落ち着いたリズムに呼応して、大きく透明なポットの中で、茶葉が悠々と漂っている。

「でもね。私はこうも思うのよ。この事実は、紅茶が、それを飲む人たちに教えてくれているの。一人で飲むより、二人で飲む紅茶の方が美味しいということ。相手のことを想って淹れる紅茶が美味しいということ。誰かと一緒のティータイムが、とても幸せだということをね」

 そして彼女は居住まいを正した。時間をかけて一呼吸置き、まっすぐに俺を見つめる。

「よく来たわね、待っていたわ。さあ、あなたの答を聞きましょう」

 彼女の、紫色の真剣な瞳。今、その瞳は確かに俺だけを捉えていて、どこまでも美しく俺を魅了する。

 ゆえに、このとき、俺はもしかしたら半分ほど惚けていたのかもしれなかった。そうして頭の回らない俺は彼女を前にし、ただこの胸にある想いを口にした。それはまるで、呟くように。

「好きです」

 けれど、茶器の触れ合う音しかないこの静かな部屋で、俺の声はとてもよく通った。

 しばらくのち、彼女はゆっくりと口を開く。

「……面白いことを言うのね。でも、質問の答になっていないわ。好きっていうのは、あなたが私を?」

「その通りです」

 俺が答えると、彼女は数秒黙してまた尋ねた。

「好きっていうのは、恋しているという意味の? 」

「その通りです」

「好きっていうのは……」

 彼女はなおも尋ね続ける。

 しかし、そこで俺は彼女の言葉を阻んだ。彼女の変化に気づいたからだ。

「顔が赤いですよ」

 彼女は少しだけ俯き、恥ずかしそうに髪を耳にかける。

「……そういう風にプログラムされているのよ……たぶん」

 彼女はその場の空気を紛らわすようにカップに手を伸ばし、両手で口元へと運ぶ。

 訪れた静寂に乗せて、俺は先の言葉を紡いだ。

「俺、あなたが好きなんです。あの展望台で、夕陽に照らされているあなたが好きでした。話してみたら意外とおかしなところばかりで、楽しそうに紅茶の知識を披露してくれるあなたが好きでした。どこまでもミステリアスで、底なしに魅力的なあなたが好きでした。自分では気づいていなかったけれど、たぶん、初めてあなたに会ったときから……ずっと」

 彼女はカップを口元から離さない。前髪とカップで表情が見えない。それでも、俺は自分の胸の中から、伝えるべきことが清流のように穏やかに溢れ出てくるのを感じる。

「あなたは前に、言いましたね。あなたの世界で、俺は人間だと。そして、あなたの胸にはココロプログラムが埋まっていて、だからあなたはディアで、人間ではなくて……でもそれは、俺には確かめようのないことです」

 結局のところ、俺が何者なのか、彼女が何者なのか、今の俺にはわからない。でも……いや、だからこそ。

「だから、俺は決めました」

 俺はテーブルの下で握った拳に力を込める。

「俺の見る世界の“本当”は俺が決める。俺の世界で、俺は人間で、そしてあなたも人間です。俺にとっては、あなたはやっぱり、アイリスさん。アイリスさんなんです!」

 俺は身を乗り出すようにしてそう訴える。

 ――アイリス。

 たとえ嘘でも、偽りでも、本当じゃなくても。俺には確かに、目の前の大切な存在を示す、二つとない名前。

「これが俺の答えです」

 そう。彼女はアイリス。俺にとって、それ以外の何者でもない。

 しばらく動きを見せなかった彼女は、やがてカップをテーブルに置き、静かに言った。

「……似ているわね」

 そして再び俺を見る。

「あなたはとてもよく、彼に似ているわ」

「彼……あなたを作った人、ですね」

「ええ」

 その顔には、慈しむような微笑みがあった。アイリスさんの瞳はまるで、彼女の想う遠い遠い過去を照らし出すようだった。

「懐かしいわ。今でもよく覚えている。忘れられない。彼は私を、本当の娘のように愛してくれた。まだ私が生まれて間もなかったときからずっと、育て、導き、守ってくれた。優しくて聡明で、かと思えば回路とかネジとか歯車が好きな、そういう、ちょっとおかしな人だったわ」

 話すほどに、彼女の語調は優しくなっていく。

「あとは、そう……紅茶にもとても詳しくてね。どんなに仕事が忙しくても、午後のティータイムだけは絶対に欠かさない人だった。今思えば、遥か昔、夕陽に照らされながら教えてもらった紅茶のお話が、私にとって、生きていくのにもっとも大切な知識だったの」

 俺は手元の、アイリスさんの淹れた紅茶に目を落とす。長い時を経た彼女の、そしてその主の、想いが溶けた紅茶に。

「私と彼は、元々ガラテイアに属していた。けれど、彼はほどなくしてガラテイアを去った。私も彼についていくことに、一つの迷いもなかったわ。でも、やがて彼は、私を残してこの世界をも去ってしまった。私はそのときも、彼についていこうとしたのだけれど……何でも許してくれた優しい彼が、けれどそれだけは許さなかった。そんな彼は最後、私に告げたわ」

 アイリスさんは一度そこで言葉を切った。瞳を伏せ、何かを読み上げるように再び語る。

「人間とともに生きなさい。ともに生きてゆく人に出会いなさい。難しく考える必要はない。それはたとえるなら、優雅なティータイムを一緒に過ごしてくれる人を、見つけるようなものだから。人として生き、そしていつか、人類とディアがともに生きる世界を見届けなさい」

 聞いて、思った。おそらくそれは、一字一句、彼女の主が語ったものと同じなのだろう。口調も、リズムも、そして些細な抑揚さえも。それほどにこの言葉は、彼女にとって大切なものなのだ。しかし、そんな懐古が呼び水となったのか、彼女の表情がわずかに曇った。

「……でも、独りで生きるのは寂しかった。想像したよりも、ずっとずっと寂しかったわ。彼と過ごした時間は、私を苦しめる記憶に変わった」

 俺はふと感づいて、彼女に尋ねる。

「もしかして、この世界にその人の記録が残っていないのは……」

「私が全部消したからよ。辛くて苦しくて、彼のことを忘れたくて……でもやっぱり愛おしくて、忘れたくなくて……」

 だから結局、世界樹にだけは、彼女の中にだけは、その人の記録が残っているというわけか。

 それは心の底からの、本心ゆえの、矛盾した想いに起因する行為。一見すれば理解不能で、けれども必ずどこかで複雑に繋がった、感情の発露。

「独りになって五十年、孤独に泣いた。二百年、世界を憎んだ。五百年、ただただ生きた。気づけばもう、八百年になる」

 アイリスさんは、歌うような声音で言った。その、氷がグラスの中で鳴るような透き通った哀歌の旋律は、聞いている俺の胸をも強く締め付ける。

「そして私はあなたに出会った。彼の血を引くあなたに」

「……え?」

 やがて彼女は緩慢な動作で顔を上げた。

 唐突な言葉に俺は驚く。

「言ったでしょう。あなたは彼に似ているって。性格もだけど、容姿もまさに瓜二つよ。あの展望台で出会ったときから、私は、あなたのことを知っていたわ」

 その発言の意味を理解するのに、俺は少しの時間を要した。俺が、彼女の主の血を……?

「じゃあ、アイリスさんは、俺がその人に似ているから、血の繋がった子孫だから、話しかけたんですか?」

「初めはね。でも、違った」

 彼女は目を閉じて首を横に振った。

「私、あなたと話していて楽しかったの。誰かと言葉を交わすのが幸せだなんて、いつぶりに抱いた感情かしら。今も、ほら、私のココロは踊っている。あの人と別れてから、きっと私は、あなたに会うために生きてきたのだわ」

 彼女はそっと、両手を自分の胸の上に乗せた。いつの間にか口元は穏やかに綻んでいて、彼女の喉が奏でる優しい音色が、この小さな部屋を満たしていく。

「人間だって、言ってもらえて嬉しかった。おかげで私は、もう一度、本当に、ディアになれた。ただの機械じゃない、あなたのディア。あなたの――愛しき隣人に」

「愛しき、隣人……」

「それがディアという名の由来。八百年生きてきた私の、たった一つの、レゾンデートル」

 そこまでを語ると、アイリスさんは軽く息をつく。そうして再び彼女の瞳が開いたとき、そこに一筋の寂しさが差していることに、俺は気づいた。その視線を、彼女は窓の外へと放る。

「本当、よく動き続けたものよ、私も、そして世界樹も。けれど……それももうすぐ終わる」

 彼女が見遣るのは、周りに広がる大きな花弁と、その間に覗く青い星。

 このとき、俺にはもう既に、彼女の口から出る次の言葉がわかっていた。

「時の凍結」

 ああ、やっぱり、と思うと同時、俺の中で浮き彷徨っていた思考のピースの、その最後の一つが、コトリ音をたててはまった気がした。

「あら、あんまり驚かないのね」

 彼女は少し意外そうな顔をし、けれども直後、すんなりと納得の表情を見せる。

「ふふ……でも、そうね。あなたなら、そうかもしれない。だってあなたは、それがわかっていたからこそ、ここまで一人で、私に会いに来たんでしょう」

 そうかもしれない。きっと、アイリスさんの言う通りだ。いつからだったか。たぶん俺は、自覚はなくとも薄々感づいていたのだろう。確信はしていなくてもわかっていたのだ。

「時の凍結の原因は、やっぱり世界樹そのもの、なんですね」

「ええ。世界樹は、この地球上にあるディアやインフラの補助機構として存在している。これが現代の一般常識。でも本当はそれだけじゃない。世界樹のスペックは、私のココロプログラムにも費やされている。この二つの役割に対する世界樹の稼働比率を、あなたはご存じ?」

 それはちょうどここに来る前、さながら予習のように得た知識だった。

「……一対九十九」

「良くできました。もちろん、九十九が私側」

 軽々としているのは口調だけ。彼女の表情に笑みはない。

「ただね。元はこんなに非常識な割合ではなかったのよ。建設当初の世界樹は、二つの使命を果たしながらも、なお潤沢な余力を持っていた。ついでに言えば、あなたたち人類の必要とする演算補助の量は、その頃からほとんど変化していない。計算上、世界樹のたった一パーセントの能力であっても、それが滞ることはないわ」

「……だったら」

 残るはもう、一つしかない。

 続きを述べない俺が、それでも理解したことを、彼女も理解したのだろう。

「そう、私が変わったの。生きるほどに経験し、生きるほどに知識を得る。記憶し、思考し、進化する。そうしてココロはより複雑になる。ゆえに逼迫しているのは、むしろ私側の方。私のココロプログラムの方。世界樹が、増え続ける私の記憶と処理要求に対して、残された少ない余力に警告を発している」

「余力とはすなわち、あなた側ではない、一パーセントのことですね」

「さすが、話が早いわ。世界樹は、何よりも私を優先するように作られている。ゆえに私以外のために動く領域は、例外なく余力と判断されるの。このまま放っておけば、私は遠くないうちに世界樹を――残された人類の一パーセントを食い尽くすでしょう。時の凍結は、その予兆だったということよ」

 俺は想像した。自発的にというよりは、ほとんど無意識的に想像した。この先、世界樹の全てがアイリスさんのためだけに動くようになる。人類の営みを支える演算は行われなくなる。社会を秩序立てるシステムが失われる。そうしたら、いったいこの世界はどうなるのか……。

 無理だ。今、世界樹がなくなったら、この世界はとてもじゃないが成り立たない。ディアやネットワークシステムへの依存度が大き過ぎる。当然、行き着く先は混乱、そして破滅……。

「ねえ、蓮くん。ここは、私が彼と出会った世界。私が彼と過ごした世界なの。けれど今は、私と彼が二度と会うことのできない世界。だからもう、はっきり言ってどうでもよかった。このまま朽ち果てていけばいいと思っていたわ」

 長い睫の間から、彼女の紫の瞳が伺える。いつしかそこには、悲しみだけではない様々な感情がありありと表れていた。まるで彼女のココロを映すかのような、紫一色ではない、色とりどりの想い。その瞳が静かに俺を見据える。

「でも、あなたに出会った。この世界には、あなたがいることを知った。だから、あなたが生きているこの世界は、失わせない」

 悲愴、慈愛、憎悪、安穏、後悔、恐怖……他にもたくさん、数えきれないほどの感情がある。アイリスさんのココロが見える。そして俺は、その中の一つに“覚悟”を見る。その覚悟は、俺の焦燥を呼び起こした。

「待ってください。もしかして……」

 もしかして彼女は……。

 死ぬつもりなのか。

 その問は、言葉にせずともおそらく伝わったことだろう。対するアイリスさんは、無言でただただ微笑んでいた。そうしてどこまでも優しく、全てを包み込むような声で告げた。

「あなたは世界を救うわ」

 それはもう、明らかな別れの言葉で。この世界を去っていく人の言葉で。

 俺は、自分の声が震えるのを抑えることができなかった。

「そんな……嫌ですよ。俺……あなたが好きだって、やっとわかったのに……」

 俯いた先にあるティーカップが滲んでぼやけ、そこに湛えられた紅茶の水色が、涙の色に染まってゆく。俺は嗚咽を飲み込みながら、必死に声だけを絞り出す。

「もし俺が、俺が世界を救うというのなら、それは……アイリスさん、あなたを救うことであってほしかった」

「何言ってるのよ。私もちゃんと、あなたに救われたわ」

 彼女の微笑がさらに深まる。その表情は美しく、まるで額に収められた名画のようでさえあった。どうして、と反射的に俺は思う。どうして彼女は、別れの淵に立ってなお、そんなにも美しいのか。

「でも……でもあなたは、まだ、この世界で、生きなきゃならないはずじゃないですか。だって、そうでしょう? あなたは人間とディアの共生を、見届けるはずなんだから!」

 きっともう、こんなことを言ったところで、彼女の意志は変わらないのだろう。それでも俺は、情けなくとも、みっともなくとも、縋らずにはいられなかった。俺の希望を、俺の願いを、俺のわがままを……たとえそれが、彼女にはもう届かないのだとしても。

「俺は、あなたと一緒に、この世界で……生きていきたかった!」

 両眼から頬を伝い、音もなく涙滴が机に流れ落ちる。その雫は窓から差す陽の光を跳ね返し、徐々に吸い込まれ跡となって消えていく。俺はその繰り返しを何度も見た。堰を切ったかのように、自分の奥の奥から涙が溢れ出してくる。それはもはや、俺の意思ではどうにもならない。

 やがて、視界の端で彼女がゆっくりと立ち上がった。

「大丈夫よ。私は生きるわ。また一から、新しい私になって」

 新しい私。世界樹への負荷を減らし、全てを手放し、生まれ変わって……。

「けれど、そのとき……アイリスさん、あなたは……」

 彼女が目の前までやってくる。優雅に服裾を御して膝を折り、椅子に座る俺を見上げる。

「さあ、蓮君。手を出して」

 俺は訳もわからず、彼女に言われるがまま左手を差し出した。するとそこには、いつの間に取り出したのだろう、既視感のあるシャープなデザインの指輪があった。

「それは……」

 見紛うはずはない。彼女の手にあるのはディアデバイスだ。いつだったか、彼女と百貨店へ出向いたとき、目にした記憶のあるリングデバイス。

「あのとき、あなたは断ったけれど……今日は、受け取ってくれるでしょう?」

 言いながらも 、彼女は俺の薬指に輪を通してしまう。誂えたかのようにサイズはぴったりだ。ディアデバイスは、対応させたディアとその所有者との間で、特別密に情報をやり取りする道具。彼女がそれを渡した意図が、わからない俺ではない。

「ふふっ。よく似合うわね。センターストーンは淡紅色。あなたの証よ」

「……俺の?」

「そう。あなたの、蓮の花の色」

 そして次に取り出されたのは、同じ姿形で中央の石が紫のもの。言わずもがな、それがすみれの色――彼女の証であるのは明白で、手渡されれば自然、彼女の左薬指にはめるのが正解と思われた。それはまるで、誓いの儀式のようで。

「これで私は、あなたの隣人。彼と生きた私は、あなたと生きる私になる。だからあなたも、これからの私と、ともに生きましょう」

 同時に別れの儀式だった。


     ○


 微弱な稼働音とともに、ティールーム全体に動力が走った。管制室に繋がる細い渡り廊下の扉が閉まり、足元から徐々に振動が伝わってくる。

 アイリスさんの白い手が、俺の両の手からするりと滑り落ちて、同時に彼女は立ち上がった。

「さて、じきに世界樹は停止するわ。魔法のかけられた時間が終わる」

「魔法……」

 俺は彼女のその言葉を繰り返す。そうか……魔法か。

 そして気づく。いつの間にか俺は、そんな時間の中にいたのだと。

 そしてまた、知る。もうじき俺は、魔法の消えた、お伽噺ではない世界に、戻るのだと。

 彼女は再び穏やかに言った。

「そう。私の占有する領域を解放して再起動(リブート)するために、一度シャットダウンをするのよ」

「それってつまり……時の凍結が」

「そうね。厳密には違う現象だけれど、似たような状況にはなるわ。でも、大丈夫よ。突然全てが止まる時の凍結と違って、今頃、地上では事前警告が出ているはずだもの。私たちが地上に降りる頃には、ちゃんと元通りになっているでしょう」

 止まらない涙が目尻から時折流れ落ちる。彼女は俺の頬に手を添えて、その涙の粒を親指で優しく拭った。

 ティールームの揺れはしばらくの間続き、やがてそれが収まったとき、窓の外が動き始めたことに意識が向く。景色が等速で上へ――いや、俺たちが下へ、落ちている。

「この部屋は降下用カプセルになっているの。世界樹がシャットダウンされると、この辺りでは生命の存在できる環境も維持されなくなってしまうから、こうして脱出するというわけね」

 確かに、本来ここほどの高さであれば、地上とは明らかに環境が異なってくる。俺たちが今いるのは、地球の重力すらも弱まるほどの高所なのだ。ならば、たとえば酸素濃度や気圧なども、生身の人体が耐えられる状態とはとても思えない。

「私はきっと、降下中に眠ってしまうわ。悪いけど、蓮君。その後をお願い。あと、目覚めてからの私のこともね」

 彼女の指先が、俺の頬からそっと離れようとするのを感じ、そのとき、俺の中で強く強く喪失の予感が輪郭を帯びた。あとを追ってこの手を伸ばし――

「アイリスさんっ!」

 気づけば俺は、何かに弾かれたように立ち上がって彼女を抱き締めていた。

「あら、ちょっと。まだ早いわよ。下で目覚めてからだってば」

 彼女は驚きつつも笑ってそう嗜めたが、それでも俺は彼女を離そうとはしなかった。

「少しだけ……こう、させてください」

 力んでしまって動かない奥歯を無理矢理浮かし、絞り出すようにそれだけを言う。

 すると彼女は、数秒ののち、俺にその身を委ねてきた。触れた彼女の身体は細く柔らかく、いとも容易く折れてしまいそうに感じる。けれども実際は、精巧で堅固な骨幹に支えられていて、その中で、彼女の心臓が脈打っているのがわかる。

 どれだけの間、俺はその音に耳を傾けていたのだろう。優しく穏やかな、安堵を与える彼女の音色に背を押され、俺は再び口を開いた。

「俺、あなたのこと忘れません。たとえあなたが、俺を忘れても」

「あはは……こんな風にされたら、私が、上手く忘れられないかも、しれないけどね」

 彼女は困ったように、冗談混じりにそんなことを言う。

「本当は、俺もあなたに、ついていきたいくらいです。俺は、あなたの世界の中にだけ、いられたらよかった。でも俺は……此処で、この世界で、生きていきます。目覚めたあなたと」

 俺は彼女を抱く腕に力を込める。それは俺の決意の表れであり、同時に、その決意を彼女に伝えようとするがゆえの行為でもあった。

 彼女の息遣いが耳元にある。彼女はクスッと笑みを溢す。

「……暖かい、わね」

 その腕で俺の身体を緩く抱き締め返すと、この距離でやっと耳に届くほどの細い声で囁いた。

「今の人類の世界は、多くの人がともに生きているようで、けれど日々、互いに触れ合うことは驚くほど少ない。こうしてあなたに触れて、私は長い間、誰にも触れてこなかったのだということを実感したわ。触れ合うことは、親しみの証。愛することの証。人の熱は、生命の熱は、心の宿る者の熱は……こんなにも暖かいものなのね」

 語りながら、彼女は懸命に俺の身体を抱き寄せようとする。求めるように、欲するように。

「ならそれは、あなたにも心があるってことですよ。だってほら、あなたも、とても暖かい」

 誰がなんて言ったって、この彼女の熱は本物だ。そう信じられる。互いの体温が、重なる身体を通して深く混ざり合う。それはまるで、互いの命に直接触れ合っているようにも感じられた。

 けれど、同時に俺は理解した――理解してしまった。彼女の身体からは、もうほとんど力が抜けている。伸ばした腕は上手く上がらず、足は自重を支えることすら危うい。立っているのも難しくて、ゆえに彼女は、いつしか俺にもたれかかっているのだった。

「いつから私は、諦めながら生きていたのかしら。そんな毎日は、ただ虚しかった。愛してほしかった。本当は愛してほしかったの。誰よりも、私を」

 空気に溶けてしまいそうな淡い声が、静寂の中、ぽつりぽつりと生まれては消えていく。わずかに湿っているようにも思える彼女の言葉。それは紡がれるほどに小さく、弱くなっていく。

「愛されて愛されて、そして私も、愛したかった。かけがえのない誰かを」

 俺は息をするのも忘れ、彼女が遠ざかっていく感覚を噛み締めながら無言で耳を傾けた。

「あなたはそれを、全部、叶えてくれたわ。ありがとう」

 ――“心”からね

 きっと最後の言葉に、声は伴っていなかっただろう。でも聞こえた。確かに聞こえた。去りゆく彼女の最後の想いが、俺の心を震わせたのだ。

 そして無音の時間が過ぎる。やがて俺は、もう動かない彼女の身体をかかえて丁寧に椅子へと座らせた。目を閉じて、少しだけ微笑んでいるようにも見える彼女。窓から差し込む陽が白い頬を淡く照らし、そこにすーっと流れる一筋の光を浮かび上がらせる。俺は親指の腹でその光に触れ、優しく払った。椅子を引き、テーブルを挟んだ彼女の対面に腰を下ろす。手元のカップに残った紅茶を口へと運ぶ。そうしていると、あの展望台で何度も何度も彼女と過ごしたお茶会を、一つ一つ思い出すことができた。

 部屋がゆっくりと降下していくにつれ、地球の向こう側に輝いていた太陽が地平に隠れていく。それはまるで、宵の終わりを告げる光景のようでもある。

 陽が沈む。彼女とのティータイムが終わる。そして俺も、彼女を見つめながら瞳を閉じて、夜に包まれた地上へと帰っていった。

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