その涙さえ命の色

増田朋美

その涙さえ命の色

その涙さえ命の色

時おり、世の中には、悪いやつというものがいるものである。つまりどういうことかというと、人の弱いところを使って商売にしようとか、悪い集団の中に入れてしまおうとか、そういうことを目論むやつである。そういうやつというのは、大概が悪人というものに入るのだが、なかには仕方なく悪事をしているというやつも、少なからずいる。

今日も、ブッチャーの姉有希が、食事をさせたりきものを着替えさせたりと、水穂さんの世話役をしていた。相変わらず水穂さんの方は、疲れきった表情のままだったが。

「ねえ、水穂さん。」

有希は、水穂さんの顔を見てこんなことを言いだした。

「これからも、あたしは水穂さんの世話をして行くつもりだけど、水穂さんもできたら、もうちょっと、生きようっていう気になってもらいたいな。少なくとも、あたしがいるときは、自分の事を、だめな人間だって、卑下をしないで貰いたいの。ねえ、そういうの、わかるでしょう。」

そういう時の有希は、ちょっと妖艶な感じがして、ちょっと気持ち悪い感じさえするのだった。どうして彼女は、そういう風に女郎のような、雰囲気を持っているのだろう。

水穂さんが、何をこたえようか、答えに迷っていると、こんにちは、という声がして、小杉道子が製鉄所に入ってきたことが分かった。

「こんにちは。」

道子は、いつもと変わらず、どかどかと足音を立てて、四畳半にやってくる。こういう時に杉ちゃんだったら、うまく言葉を並べて追い出してくれるのだが、有希にはそういう能力はなかった。

「どう、水穂さん。具合はどうなの?」

「変わりありません。」

と、道子が質問すると、水穂さんはいつもと変わらない、細い声で、そう答えた。

「変わりないじゃ困るわ。もうちょっと、何か、前向きになってもらわないと。悪くなるだけじゃ、あたしだって、気持ちが落ち込むわよ。」

道子は、そういって、水穂さんを励まそうと思ったが、隣に、有希が座っているのが、何となく、不安になる。

「今日は有希さんに世話してもらっているのね、食事は何を食べたのよ?」

道子は、水穂さんに聞くと、

「ああ、あたしが答えるわ。ホウレンソウとゼンマイのおかゆよ。」

と、有希が即答した。

「まあ、それでは、栄養がないわねえ。それだったら、栄養剤の投与が必要なんじゃないかしら。あたしだったら、そうするわよ。そのほうが、ご飯を食べさせるより、合理的だわ。」

道子がそう答えると、

「何よ其れ。食べるほうが、そういう薬より、よりおいしいじゃないの。おいしいと感じたほうが、よろこぶんじゃないかしら。」

有希は、そういうことを言った。

「はあ、古臭いわねえ。今は、食料よりも、栄養があって、より食べやすいものがいっぱいあるでしょうに。」

「でも、ご飯のほうが、愛情ってものがあります。それのほうが、より、食べてくれるっていうものじゃないかしら。」

道子がそう言うと、有希は、すぐ即答した。

「古いわ。今は、白いご飯が何よりのごちそう何て言う時代じゃないわよ。白いご飯より、栄養価の高いものはいっぱいある。味だって、甘くて食べやすくて、普通のご飯よりよほどおいしいっていうモノは、一杯ありますよ。そんな古くさくて栄養価のない食事をするよりは、栄養の高い、治療食に切り替えたほうが、いいんじゃありませんか。」

「ご飯に、古いも新しいもありませんよ!」

道子の説得に、有希は、そういうことを言った。

「まあ、そういう事を言って。そんなことを平気で主張する何て、有希さん、そういうことは、病人にとって、大していいことにもならないのよ。それよりも、合理的な栄養価のある治療食に切り替えましょうよ。そういうものを作って言う会社なら、私知っているから、明日、ここに連れて来ましょうか。」

「何よ!そんなもの役に立ちはしないわよ。それよりも手作りで作って居る、ご飯のほうがよほどいいに決まっているわ!」

道子が話を続けると、有希はちょっと語勢を強くする。

「有希さん、それを言うなら、ご飯のほうが優れているっていう根拠は何なのよ。」

道子が、そういうと有希は、それだけは、うまく説明できないようで、ワーッと声を上げて泣き出してしまった。隣で、水穂さんが咳き込み始めた。道子は、枕元に置いてある、咳止めの薬を見つけだして、水穂さんにすぐにこれを飲んでと指示を出した。幸い軽い発作だったようで、咳き込むのは、それを飲んだだけでおさまってくれた。

「やれやれ、これではだめね。こんな重たい病気の人を看病するのに、適切な介護者が居ないって、可哀そうすぎるわ。もっと、迅速で、適宜な判断ができる人を探さなきゃ。ねえ、有希さん。ほかの人は居ないの?誰か、使えそうな介護会社とか、家政婦をお願いするとか、そういうことをしましょうよ。」

道子は、眠り始めた水穂さんを眺めて、有希にそういうことを言った。

「いないわ。」

有希は、泣きながら、それだけは答える。

「本当に?どこかの、家政婦事務所とか、そういうところの連絡先は知らない?」

「知らない!」

道子の問いかけに、有希は直ぐに答えた。

「そう、そういう事なのね。わかったわ。あたしが、すぐに、そういう事務所をやっている友達に聞いてみる。」

道子は、そういうことを言ったが、有希は先ほどのショックに耐えられないらしく、泣くばかりだった。

それでは、余計に家政婦さんを頼んだ方がいいなと、道子は確信する。

「本当にね。そういうことをしてくれる人を、すぐに頼んだ方がいいわね。水穂さんの事を適切に介護してくれる手伝い人もここには居ないなんて、水穂さんがかわいそうだわ。」

有希は思わず、

「やめて!」

と声を上げたが、道子は、それを無視して、

「有希さん。だって有希さんには、水穂さんを適切に介護することはできないじゃないの。有希さんの作ってくれる、ご飯では、栄養が足りないのよ。だから、ちゃんと治療食を作ってくれる、業者とか、シッカリ世話をしてくれる家政婦さんとかを探しましょう。有希さんがいくら頑張っても、素人にはできない事もあるわ。そういう風に、自分にはできないってことを認めることも重要よ。」

と、つづけた。

「でも、すきな人にしてもらうほうが、一番いいんじゃないかしら。」

「そうだけど、他人の手を借りて、健康になってもらった方が、有希さんもよろこぶに決まってるじゃないの。うれしいと思わない?有希さん。だって、水穂さんだって、病気で寝込んでいるより、健康になってくれる方が、よほどいいでしょう。そのためなら、他人の力を借りてもいいんじゃないかしら。ねえ、有希さん、一人で何でも抱え込む必要はないのよ。あなたは、なんだか、あたしから見たら、ただ、出来ないことを、抱え込んで苦しんでいるように見えるわ。そうじゃなくて、できない事は人に任せてさ、出来るところだけ付き合っていけばいいじゃない。そのほうがよほど楽で、あなたも、水穂さんのそばにより長く、居られるようになれるんじゃないかと思うんだけど?」

道子は、そういうことを言って、有希を説得した。有希は、最後まで首を縦に振らなかったが、道子の話を聞いて泣くのをやめてくれたので、やっと納得してくれたか、と勘違いする。

「じゃあ、あたし、そういうことをやっている、友達に、頼んでみるわ。」

道子は、そういうことを言って、眠っている水穂さんを見つめた。それが実現したら、本当に良くなると思った。


その足で、道子はすぐに、ある人物の自宅へ向かった。自宅と言っても、小さなマンションなのだが、部屋は、小ぎれいに整理されている。

「なあに、道子。あんたが、あたしを訪ねてくるなんて、珍しいわね。」

と、そのマンションに住んでいる、都井由美は、一寸驚いた顔をして、道子の方を見た。

「ああ、ごめんなさいね。高校の付き合い依頼かしらね。確か、都井さん、会社始めたって言ってたわよねえ。」

道子がそう言うと、都井は、そうだけど、と言った。

「まあ、東京の介護施設に勤めてたんだけど、向こうでいろいろあってね。結局、自分で介護事業を始めることになったのよ。」

「そうなのね。具体的にはどんなことをしているの?」

道子が聞くと、

「ええ、まあ、介護事業、と言っても、うちはヘルパーの派遣だけかなあ。もちろんあたしも、現役で、一人暮らしで病気になって困っている人のところに、行ってるけどさ。」

と、都井はそう答えを出した。

「そうなのね。じゃあ、一人手伝ってほしい人がいるのよ。もし空きがあるんだったら、ちょっと来てくれないかしら。」

道子がまた聞くと、

「へえ、どんな人なのよ。高齢のおじいさんとか、そういう人?それとも、認知症が有ったりするのかしら?あたしが、出る幕は、大体そういう人が相手だからなあ。」

と、都井は言った。そういう言い方をすると、なんだか彼女は、介護する相手を人間ではなく、単なる商品としか見ていないのではないか、と疑いをもってしまう気がした。でも、仕事だから、そういう風に見てしまうのかな、と考え直した。

「それでは、ちょっとお願いなんだけどね。相手は、おじいさんでもおばあさんでも無いの。中年の男性で、名前を磯野水穂さんっていって。自己免疫疾患でずっと、寝たきりの生活をしているのよ。周りには、適切な介護をしてくれる人も、居ないようで、ご飯だって、ちゃんと食べていないみたいなの。だから、そういうところを改善してくれるように、指導もしてもらいたいのよ。」

と、道子は、そうお願いした。

「ああ、わかったわ。それでは、すぐにその人の家を訪問した方がいいわねえ。ご飯食べていないんじゃ、それではまずいじゃないの。じゃあ、明日、その人のお宅へ向かうから、住所だけ教えてもらえないかしら。」

都井は、そういって、タブレットを出した。

「ああ、一人で行かなくていいわ。あたしが、迎えに行きますから。一人で行ったら、怪しい人と見られて、追い出されそう。」

と、道子はすぐに付け加える。

「ああ、家族がいるのね。まあ確かに、他人の世話になるのは、恥ずかしいっていう家族も居るわねえ。それも、あたしがしっかり説得するから、任せておいて。」

と、都井はにこやかに笑った。

「介護なんて、初めのころは、誰かにしてもらうのは恥ずかしいっていうけれど、時間がたてば、必ず、人に任せてよかったわって、いうモノなのよ。契約はすぐに取れるわ。」

と、いう都井は、道子が考えているシナリオとちょっと違うなあと思われたが、道子は、そういうことは、あえて言わないで置いた。

「じゃあ、お願いね都井さん。明日、迎えに来るから、二人で説得、よろしくお願いしますね。」

とりあえず、そういっておく道子。

「ええ、わかったわ。任しておいて。しっかりあたしが説得するから。道子は、黙っていてくれれば、それでいいわよ。」

都井はそう言って、パンフレットを整理し始めた。道子は、

「よろしくね。一時に迎えに来るわ。長居をして申し訳なかったわ。じゃあ、これでお暇します。」

とだけ言って、しずかに、彼女の部屋を出て行った。


翌日。

道子は、都井のマンションを一時に訪れた。都井は、しっかりと、スーツ姿になって、鞄をもって待っている。

「じゃあ、行きましょうか。」

と、道子はそれだけ言って、都井を自分の車に乗せる。都井は、クルマの中で、さあ契約を取るぞと、言う感じなのか、気合を入れていた。道子は、そういうことを望んでいるわけではないのだがと思うのであるけれど、それは言えなかった。

「ここヨ。」

道子は、製鉄所の正門の前で車を止める。。

「ここ?なんだかへんなところねエ。なんだか、アパートというより、日本旅館みたいじゃない。」

と、都井は言っている。

「ええ、旅館というか、支援施設なのよ。そこで住み込みで働いているのよ。その人。」

と、道子は説明して、どんどん製鉄所の中にはいった。都井も、お邪魔しますと言って、靴を脱ぎ、中に入る。

「まあ、鴬張りの廊下なんて、随分古臭い建物ねえ。」

都井は、そう言って、きゅきゅきゅとなる廊下を歩いている。そういうことを平気で言って、いいのかなと思う道子だが、それも言わないで黙っていた。

とりあえず、道子は彼女を、四畳半に案内した。

「何よこの部屋。本当に、狭い部屋ねえ。ピアノが、半分以上を占めていて、患者さんは、布団に寝かされている何て、おかしな部屋ねえ。」

と、都井は、にこやかであっても、そういうきついことを言っている。

「この人ね。」

と、都井は、四畳半で寝ている水穂さんの前に正座で座った。道子もそのとなりに座る。

「ちょっと、起きて。この人、都井由美さん。あたしの、知り合いなのよ。今日はその都井さんから、ちょっとお話があるって。あなた取っても、役に立つ話でしょうから、一寸聞いてやって頂戴。」

道子は、水穂さんをゆすって起こした。

「初めまして、磯野水穂さんですね。私、介護事業をしております、都井由美と申します。今日は、無理して起きなくてもいいですから、お話を聞いてください。」

都井は、水穂さんに話を始めた。

「今日は、耳よりな話を持ってきましたの。この近所に、新しい病院がオープンしましたから、そこで、シッカリと治療を受けてほしいというのが、この道子先生のお願いなんだけどね。でも、それを、あたしは、無理にすすめはしません。今日は、それよりも、水穂さんが普段食べている食事の事について、お話しに来たんです。」

水穂は、そうですか、と言って、一つだけため息をついた。

「まあ、そういわないで。だって、あなた、まだまだやるべきことの在りそうな年齢ではありません?それに、なかなか、いい顔していらっしゃるじゃありませんか。それなのに、こんなところに、いつまでも寝かされているだけの状態では、何も意味がないじゃありませんか。それよりも、しっかりとした、栄養補助食品を取って、体調をよくして、また、芸能界に戻りたいとお思いになりませんか?」

都井はそう言って、鞄の中から、栄養補助食品のサンプルをだした。

「さあ、食べてみてください。最近私の契約している、介護食品販売会社で発売した、栄養補助食品です。栄養がとれるだけではなく、作る暇もいらないからって、評判なんですよ。」

都井が、そういって、パッケージをあけると、クッキーのような食べ物が出てきた。これが、本当に栄養補助食品なのか、疑わしいくらいだった。

「なんだか、栄養食というより、お菓子みたいですね。」

と、道子も思わずそういってしまったほどだ。

「だめ。そんなもの、水穂さんに食べさせないでよ!」

と、いきなりふすまをバンと開けて、有希が怒りたった顔で現れた。

「こんなもの、ご飯なんかじゃないわ!これは、ただの栄養のあるお菓子よ。ご飯というものは、ちゃんとお米のご飯でなければ、ご飯とは言えやしないわよ!」

有希は、それを、むしり取るようにとりあげて、中庭にぶちまけてしまった。ちょっと、何をするんですか!と、都井が、すぐに有希に詰め寄る。

「これは大事な商品です。それに、お米のおかゆよりも、何十倍のたんぱく質や、エネルギーがあるんですよ!ご飯なんか食べるより、よほど合理的なんじゃありませんの!」

「合理的。」

都井の言葉に、有希は、そういった。

「何も合理的なんかじゃないわ!ただ食べさせるだけでは、愛情も何もないじゃない!」

「そんなもの、必要ない時代じゃありませんの!そんなものがあったって、たいした事にはならないじゃありませんか。そういうことより、理性と、合理的さのほうが、大切なのよ!」

「いいえ、そんなことありません。愛情は、合理的よりも、勝ると思います。」

有希は、都井の言葉に、半分泣きながらそういう事を言った。

有希の目に涙が光っている。

「有希さん、もういいですよ。もう、かばう必要は、ないですから。」

不意に、水穂さんがそういうことを言った。それでは、栄養食を食べようという気になってくれたのだろうか、と、道子は思ったが、水穂さんが言った言葉はそれとは待ったく違う物だった。

「いいえ、そういうことは、お断りします。合理的に何でも、便利なものにしてしまうなんて、僕には、合いません。」

「そんなバカな。だって、そんな悪い状態なら、もっと合理的なものを食べて、栄養を取った方が絶対にいいわよ。」

直ぐに都井は即答したが、水穂さんのいう事は変わらなかった。

「そんな事はありません。僕が、それを食べることになったら、彼女から、役目を奪ってしまうことになります。彼女にとって、僕の食事を作ることは、重要な役目ですし。」

そう言って、水穂さんは、ひどく咳き込んでしまった。有希がすぐに、口元を、タオルで拭く。それが必要なほど、悪くなって居るのかと、都井は、はあという顔で、水穂を見た。

「そういう事なら、余計に栄養を取った方がいいわ。それが、あなたにとって、一番合理的なやりかたよ。」

「いいえ、合理的ではありません。彼女から、役目を奪ってしまう事になるのなら、本当に合理的とは、言えないのでないでしょうか。」

水穂さんは、有希に口もとを拭いてもらうと、しずかにそういうのだった。

「其れだったら、別の役目を探せばいいじゃないの。やることは、この世界、一杯あるはずよ。それを探すことだって、必要なんじゃないの。」

都井は、そういうことを言っている。

「いいえ、そんなことないわ。」

二人のやり取りと、有希が目に涙を浮かべているのを見て、道子は、そう呟いてしまった。

「都井さんがしていることは、そうやって、有希さんの役目を奪う事よ。有希さんの役目は、水穂さんにご飯を作ってやることだもの。それを合理的という名目で、それしかできない有希さんの、役目をもぎ取ろうとしているのよ。」

道子は、有希の顔を見てそういった。そう、有希の涙も、命の色があると思いながら。



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