その言葉は誰も知らない

 ここしばらく、エッセイも、詩も書けない日が続いていた。プライベートで上手くいかなくて、Twitterで愚痴をこぼす毎日を送っていた。

 自分に何か問題があるのではないかと思い、色々本を読んでみた。調べていく内に、自分はHSPという過敏な体質ではないかという結論にたどり着いた。(HSPの話をすると、長くなるのでしないでおく)

 昔から、学校やある一定の集団に馴染めないのはある種、自分が過敏な体質だったからか、と内心ほっとした。同時に、何となく日本社会の生き辛さの正体を見てしまった気がする。多様性を声高に叫ぶ、この世界で、生き辛いということがあるのかと問われたら、私は迷わずYESと答える。

 これが出来るのは当たり前、常識。そういう言葉を聞くことが多い気がする。これが普通、どうして出来ないの?言葉に出さなくても、態度や雰囲気でそういう事を言ってくる人もたくさんいる。でも、人々は多様性を強調する。普通にできない人もいるけれど、多様性を受け入れて、みんな仲良くしましょう。学校で口々にそう教えるし、社会や会社でもそうだ。とても、不思議で違和感がある。多様性があれば、普通なんてない。これが出来て当たり前、常識、どうして出来ないの?なんて、言葉は出てこない。それなのに、何故普通や常識という言葉が出てくるのだろうか?もしかして、日本で言われている多様性は、もっと別の意味があるのではないかと感じる。そもそも、多様性が広がっていれば言葉自体が出てこないし、意識もしない。ならば、日本で蔓延している多様性という言葉は、どんな意味があるのだろうか?と考えてみた。

 個人的には、誰も知らないのではないか?と思う。多様性に触れる機会があるない以前に、多くの日本に住む人々はそういう多様な人たちにあたる人を無視して来たのではないかとも思う。もしかしたら、私も知らないのではないかと思うときがある。ただ、一つ思うのがみんな同じ人間ではないのに、できない人がいたら途端に迷惑がって煙たがられる。何故この社会は『個』に重きを置かないのだろうか?という疑問はある。皆に同じことをさせることに無理があるのではないだろうか?とも。

 平均して、これという世界で生きてきた人が社会を形成して、それに届かないちょっと不器用な人たちを排除してきたら、それは生き辛いだろうなとも思う。もし、多様性という言葉に意味を付けるとしたら、日本の場合、迷惑をかけないように生きろ、煙たい存在になるな、これがきっと多様性の意味ではないかと最近、強く思う。

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