17話

 倦怠感が煩わしくて目が覚める。目を開けて、「あれ?」と思った。

 ここは確かに自分の部屋なのに、点滴のパックが視界に入るのはどうしてだろう。

 右手を見れば、やっぱり管がつながっているわけで……。

 頭にはアイスノン、額には冷却シートが貼られているようで、ひんやりとして気持ちがいい。

 アイスノンと冷却シートはわかるのだけど、どれだけ考えても点滴だけは理解できなかった。

「なん、で……?」

 声を発すると、

「あ、起きた?」

 少し低めの、よく通る声の持ち主。湊先生に顔を覗き込まれた。

「先生、どうして……?」

「あんな高熱出してたら心配で電話だってするわよ。なのに、あんた出ないし……」

 どうやら、寝る前に鳴ったスマホは湊先生からの電話だったらしい。

「栞に電話したらここにいるっていうから、点滴セットを携えて往診に来たまでよ。感謝なさい」

「……ありがとう、ございます」

「昨日は秋斗と出かけてきたんでしょ? 疲れでも出た?」

 相変わらず、ポンポンと言葉を投げてくる。いっそ清々しいほどに。

「……すごく楽しかったんです。でも、途中からわけのわからないことになっていて――」

「ん?」

「わけがわからなすぎて、話しようがないんです」

「何よそれ」

 呆れた表情までもが司先輩にそっくりだ。

「本当に、自分でも自分がよくわからなくて……」

「まあいいわ。さっき解熱剤も入れたから、もう少ししたらちょっとは楽になるでしょ。病人はゆっくり休むっ」

「……はい」


 それからどのくらい経ってからか、汗が気持ち悪くて目が覚めた。

 汗をかいたということは、少しは熱が下がったのかもしれない。

「パジャマ着替えるか?」

 声をかけてくれたのは蒼兄だった。

「うん、汗だくで気持ち悪い……」

「じゃ、栞さん呼んでくる」

 そう言って部屋から出ていった。

「……あれ? 蒼兄、大学は?」

 枕の脇に置いていたスマホを手に取ると、七時と表示されている。

 私、そんなに寝てたのかな。

 すぐに栞さんと湊先生が来てくれて、パジャマを着替える前に身体をさっと拭いてくれた。

「サッパリしたでしょ?」

 栞さんの優しい笑顔に、「はい」と答える。

 栞さんはタオルやパジャマを片付けるのに部屋を出ていき、湊先生はタブレットを見ながら思案顔。

「今でやっと三十八度よ。明日の朝に三十七度前半まで下がってくれればいいけれど……」

 ということは、明日は学校を休まなくちゃいけないのだろうか……。

「明日からテスト前で午前授業になるでしょ? だから明日は休んでおきなさい」

「でも、生徒会のお仕事手伝うって約束をして――」

「そんなのあとで司に言っておくわよ」

 瞬時に身体が反応する。「司」という言葉に。

「何よ、司がどうかした?」

 湊先生が訝しげに訊いてくる。

「どうもしないんですけど……」

「どうもしなかったら反応なんてしないでしょ」

 そう言われてみればそうだ。でも、こんなにも司先輩が気になる理由は定かではない。

「昨日、ウィステリアホテルで司先輩を見かけたんです」

「あぁ、なんか食事に行くって話は聞いてたわね」

「ただ見かけただけなんですけど……。なんだかよくわからないことになっていて……」

「何が?」

「自分が?」

「もっとわかりやすく話せないの?」

「わかりやすく解説できたら、こんなに悩んだりしないと思うんです」

「あっそ……」

「しかも、秋斗さんにもよくわからないことを言われて、一気に飽和状態です」

「……翠葉、あんた頭回ってる?」

「いえ、かなり怪しいと思います」

「何言われたのよ」

「いえ、それも理解できてないので話せそうになくてですね……。まるで袋小路でどうしようかと……」

「わかった……。要は知恵熱なのね?」

 額を軽くデコピンされた。

「たぶん……。でも、知恵熱って初めてで……」

「んなもん、体験せずに済めばそれに越したことないでしょうが」

「……もし、私にお姉ちゃんがいたらこんな感じなのかな」

 思ったことを口にすると、

「こんなに危なっかしい妹は遠慮願うわ」

 と、即座に却下された。

 確かに、司先輩も楓先生も手はかからなそうだ。

「吐き気は?」

「ないです」

「知恵熱じゃ吐き気も何もないか……。少し胃にもの入れたほうがいいから、栞に何か作らせるわ」

 そう言うと、湊先生も部屋を出て行った。

 入れ替わりで入ってきたのは蒼兄。

「熱、まだ高いな」

 言いながらも表情は穏やか。

 いつもみたいに、「すごく心配」って顔をされていないことにほっとする。

「きっとね、知恵熱なの……。だから、大丈夫」

 言うと、少し呆れたような表情になる。

「知恵熱だって、これだけ熱が高ければつらいだろ」

 その知恵熱の原因にも触れてはこない。

 珍しいな、と思いつつ、今は湊先生がいるから安心しているのかもしれないと思った。

「もう少し……。もう少しだけひとりで考えてみる。というよりは、昨日も言ったとおりで、何をどう話したいいのかすらわからないの。言葉にならなくて話せないの。だから、隠してるとかじゃないのよ?」

「うん。翠葉の中で答えが出てからでも、話せる糸口が見つかってからでもいい。話せるようになったら聞かせて」

 言うと、蒼兄は目を細めた。

「ふふ。蒼兄のその表情が一番好き……」

「俺は苺タルトを食べてるときの翠葉の表情が好きかな」

「そこのシスコンバカ。これ、翠葉に飲ませない」

 湊先生が入ってきて蒼兄に手渡したのは野菜のドロドロスープだった。

 あぁ、これなら食べられる。

 蒼兄は身体を起こすと背にビーズクッションを入れてくれた。

「自分で食べられるよ」

 蒼兄の手からスープカップを受け取り、少しずつ口に運ぶ。

「おいしい……」

「経口摂取できてるうちは安心だわ」

 栞さんに言われ、

「はい。今回は大丈夫です」

「栞、明日は一応休ませて」

「了解よ」

 私がスープを飲んでいる間中、ずっとシスコンだのブラコンだのと言われていて、食べ終わるとすぐに「寝なさい」と寝かされた。

 湊先生がいると、その場をすべて仕切ってくれる。

 うちの中でこんなにテンポよく話が進むことはないため、とても新鮮に感じた。

 きっと、私が寝れば三人で夕飯を食べるのだろう。

 今度は私が元気なときに来てほしいな……。

 そこまで思って、湊先生の反応を想像してクスリと笑う。

 もしも私が元気なら、「あんたがうちまで来なさい」と言われるに違いない。

 取り留めなく、考えても考えなくてもいいようなことを思い浮かべて眠りについた。



 翌朝、目が覚めるとまだ点滴がつながったままだった。

 昨夜栞さんが帰る前に、点滴パックを替えていってくれたのだろうか……。

 それにしてはずいぶんと残量がある。

「翠葉ちゃん、起きた?」

 え……? どうしてベッドの下から栞さんの声?

 不思議に思って声の方を見ると、ベッド下に備え付けられている簡易ベッドが出ていた。

「栞さん、昨日泊ってくれたんですか!?」

「うん。夜通し点滴してるほうが早く楽になるからね」

 ちゃんとパジャマを着てるあたり、昨日は最初から泊るつもりで来てくれていたのだろう。

「なんか、すみません……」

「ほら、また謝る……。このくらいなんともないのよ? 好意と思って受け取ってくれると嬉しいわ」

「……私の周り、優しい人がいっぱいで、嬉しいのにちょっと困ります……」

「……それは翠葉ちゃんの人徳と思いなさい」

 栞さんはすぐにスマホを手に取りバイタルをチェックする。

 少し寝癖のついた髪の毛を手で押さえながら、

「熱は三十七度四分。だいぶ下がったわね。血圧も八十五の六十一。明日には学校へ行けるわよ」

「今日は少し起きててもいいですか?」

「そうね……。三十七度まで下がったらにしましょう?」

「はい……」

 栞さんは簡易キッチンで洗顔を済ませ洋服に着替えると、

「翠葉ちゃんはこっち」

 渡されたのはお湯で濡らしたタオル。

 とりあえずは顔だけ拭いて終了。

 栞さんがリビングへのドアを開けると、いつものように蒼兄がテーブルセットでコーヒーを飲んでいた。

「栞さん、コーヒー淹れてあります」

「蒼くん、ありがとう」

 栞さんと入れ替わりで蒼兄が入ってくる。

「熱、だいぶ下がったな」

「うん。三十七度まで下がったら起きていいって。テスト勉強しなくちゃ……」

「そうだな。でも、あまり無理はするなよ?」

「うん、わかってる」

「……昨日、秋斗先輩と司に会ったんだけど、ふたりとも心配してたよ」

「……こういう場合はどっちがいいんだろうね?」

「何が?」

「……数値を知らなければ心配させずに済むでしょう?」

 蒼兄は私の頭をくしゃりと撫でて、「そうだな」と答えた。

 少し前みたいに重くならない。少しだけ笑みを添えて話せる。

 そんなことがひどく嬉しく思えた。

「あとで桃華さんたちにメールしなくちゃ」

「学校に行ったら俺が佐野くんに話しておくよ。彼なら部活でこの時間にはいるだろう」

「うん。ありがとう」

「じゃ、ゆっくり休めよ」

 言うと、蒼兄は大学へと出かけた。

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