16話

「動揺」という言葉に、さらに動揺する。

 胸にものがつかえた感じがするのは今も変わらない。

 これ、なんなんだろう……。

 さっきから何度もスマホのディスプレイを見ている。でも、依然数値は変わらない。

 強いていえば、少し脈拍が落ち着いたくらい。

 車が停まったのは、家の裏にある運動公園の駐車場だった。

 不思議に思っていると、

「食後の運動。少し歩こう?」

 誘われて車を降りる。

 外灯が多いからか、夜でも辺りを見渡せる程度には明るかった。

 芝生が青っぽい光に照らされて、夜独特の光を放っている。

 途中にベンチがあり、そこへ座るように促された。

「寒くはない?」

「はい」

 本当は少し寒かった。でも、応えるための返事を用意することすらできなかった。

「その返事は嘘でしょう?」

 秋斗さんは少し笑って、自分が着ていたジャケットを肩からかけてくれる。

「でも、秋斗さんもシャツ一枚……」

「男のほうが筋肉付いてるから、寒さには強いんだよ」

 言いながら、私の隣に座る。

「司に見合い話がきてるって話は聞いていた。それが今日だったとはね……。通常、高校を卒業するまでそういう話はあまりこないんだけど、俺と楓が応じないからかな。そのとばっちりが司に行ったのかも。これは海斗も時間の問題だな」

 お見合い……。

 胸が、ぎゅってなる。さっきよりも強く、ぎゅっ、て……。

 苦しい――思わず胸元を手で押さえるくらいには。

「ここ、痛い?」

 秋斗さんが自分の胸を指差して問う。

「胸……? 心? どっち?」

「どっち、でしょう……」

「残念ながら、それは翠葉ちゃんにしかわからないことだ」

 私にしか、わからないこと……?

 さっきから、心臓を鷲掴みにされている感じがして、苦しい……。

「これ、なんだろう……」

 胸元を押さえたまま独り言のように零す。と、

「恋、だと思う?」

「え……?」

 秋斗さんを見ると、真っ直ぐな目が私を見ていた。

「恋って……。恋って、こんなに苦しくなるものなんですか?」

 小説にはもっと淡いピンク色をした世界が描かれていたのに。

 こんなに胸がぎゅってなるような本は読んだことがない。

「……翠葉ちゃん。試しに『恋』をしてみない?」

 いつもみたいに、なんでもないことのように提案される。

 何を言われたのか理解できずに秋斗さんを見返すと、

「僕と、恋愛してみない?」

「……また、そういう冗談を真顔で……」

 思わず視線を逸らしてしまう。

 すると、手を握られ「俺を見て?」と言われた。

 ゆっくりと視線を戻すと、

「冗談みたいな本気の提案だよ」

 顔は笑っている。でも、声と目が「本気だよ」と言っている気がした。

「どうかな? お望みとあらば、クーリングオフ期間も設けるけど」

 いつものように少しだけ茶化した話し方。

 私もいつものようにさらりと流せばよかったのに、どうしてかできなかった。

 手を引こうとしても、それすら許してはくれない。

「あのっ――」

「今答えを出さなくていいよ。ゆっくり考えて? 誰に相談してもらってもかまわない。でも、最後に答えを出すのは翠葉ちゃんだ。いいね?」

 そう言うと、握っていた手を放された。

「さ、送っていくよ」

 動揺したままに秋斗さんの顔を見ると、いつもと変わらない穏やかな表情だった。

 ほっとさせてくれる笑顔。

 思わず、今言われたことは冗談だったんじゃないか、と思ってしまう。

「あの……ここからなら歩いてひとりでも帰れます。ここまでで大丈夫です」

 今できる精一杯の笑顔を作った。

 このまま冗談のように終わらせたくて、ひとりで帰ると申し出てみる。

 肩にかけられたジャケットに手を伸ばすと、秋斗さんの手に遮られた。

「それは聞けないかな。きちんと送り届けることを約束したうえで、蒼樹から許可が下りているんだ」

 先ほど停めたばかりの駐車場へ戻り、結局は送ってもらうことになる。

 さっきまで――ついさっきまで、ずっと楽しくて嬉しくて、びっくりしてばかりだったのに。本当に楽しかったのに……。

 今は車内の空気すら変わってしまった。

 何よりも、自分に何が起きたのかがわからない。

 話もなく五分ほど走ると家の前に着く。

「今日は、ありがとうございました……」

 シートベルトを外そうとしたら、秋斗さんにその手を掴まれた。

「かなり態度には示してきたつもりだけど……。翠葉ちゃんはちゃんと言葉にしないと伝わりそうにないから」

 掴まれている手をたどって秋斗さんを見ると、真っ直ぐに私を見る目があった。

「僕は翠葉ちゃんが思っているよりはるかに、翠葉ちゃんのことを好きだと思うよ。さっきはああ言ったけど、恋愛お試し期間が必要なのは翠葉ちゃんだけだ。僕は本気だからね」

 言うと、手を放しシートベルトを外してくれた。

 音を聞きつけたのか、車の外には蒼兄が出てきている。

 蒼兄が近寄ってくると、秋斗さんが助手席の窓を開け、

「後部座席に翠葉ちゃんの荷物がある」

 秋斗さんは何事もなかったかのように蒼兄に声をかける。

 蒼兄はその言葉を受けて、後部座席から私の荷物を下ろしてくれた。

 秋斗さんになんて言ったらいいのかわからなくて、車から降りるときもお辞儀しかできなかった。代わりに、蒼兄が助手席の窓から、

「先輩、遅すぎです……。でも、今日は本当にお世話になりました」

「いや、今日は俺もすごく楽しかったから。帰すの遅くなって悪かった」

 短いやり取りを済ませ、「じゃ、翠葉ちゃん、おやすみ」と窓を閉め、車はあっという間に見えなくなる。

 今日、いったい何が起こったんだろう――


 車が見えなくなっても、まだ目を離せずにいた。

「どうした?」

 蒼兄に訊かれ、

「あ……なんでも、ないの……」

「……少し冷えるから、早く中に入ろう」

 蒼兄のあたたかく大きな手に、背中を押されて玄関をくぐる。

 私がサンダルを脱いでいると、蒼兄がスマホのディスプレイを見ているのが目に入った。

 何か変だと思われているのだろう。でも、今の状態をどう話したらいいのかがまったくわからない。

 リビングを通り過ぎ自室に入ると、手を洗うこともうがいをすることも忘れてベッドに転がった。

 蒼兄は荷物をソファに置くと、

「何かあった?」

「……わからないの」

「ん?」

「何があったのか、どうしたのか、わからないの……。だから、何も話せない」

「……話ならいつでも聞くから、抱え込みすぎるなよ? もし、俺にも両親にも言えないなら、湊さんのところへ行くんだ」

 そう言うと、蒼兄は部屋を出ていった。

「私、どうしちゃったんだろう……」

 ホテルで司先輩を見かけてからおかしくなった。

 今はあのときほど胸も痛くないけれど、あのときに感じた衝撃はなんだったのか……。

 自分が何にショックを受けたのかが理解できない。

 あの場で起きたことを一生懸命思い返してみたけれど、どうしても答えが見つからなかった。

 答えが出るまでずっと考えていたかった。けれど、身体は相当疲れていたようで、気づいたら深い眠りについていた。



「翠葉ちゃん、朝だけど……起きられる?」

 栞さんの声で目を覚ました。

 どうやら着替えもせず、お布団にも入らずに眠ってしまったらしい。

「今ね、ものすごく熱が高いの。履歴を見ると、夜中からみたいなんだけど……。遊び疲れちゃったかしら」

 遊び疲れ……。

 そうかもしれない。昨日は本当に楽しかったから。

「とりあえず、洋服だけは着替えましょう?」

 言われてパジャマを渡された。

「……蒼兄は?」

「私が来て、しばらくしてから大学へ行ったわ。蒼くんも熱には気づいていたみたい。この毛布を掛けてくれたのは蒼くんよ」

 私に掛けられていたのは蒼兄の毛布だった。

 そっか……。お布団の上でそのまま寝ちゃったから、自分の毛布を持ってきてくれたのね……。

「血圧は悪くないけど、熱はすごく高いの。水分摂れそう?」

「たぶん……」

「じゃ、スポーツドリンク持ってくるから少し待っていてね」

 栞さんが部屋を出ていき、枕元に置いてある携帯を開く。と、ディスプレイには三十八度八分と表示されていた。血圧は八十二の五十八。

 確かに血圧数値は悪くない。脈拍も七十五、と正常値の範囲。

「……知恵熱、かな」

 自分でもわかってる。

 でも、誰かに話そうにも、何をどう話していいのかがわからない。

 こういうときはどうやって相談したらいいんだろう……。

 運動公園で持ちかけられた話にしても、シートベルトを外そうとしたときに言われた言葉にしても、秋斗さんがどういうつもりなのかがわからない。

 また、いつもみたいにからかわれているのかな、と思わなくもない。

 でもそれは、自分がそう思いたいだけな気もする。

 あのとき、秋斗さんの目は笑っていなかったから。

 あれ……? じゃあ、どうしたらいいのかな?

 だって、飛鳥ちゃんは秋斗さんが好きなわけで、佐野くんは飛鳥ちゃんが好きなわけで……。

 えぇと――

「だめだ……」

 頭が回らない。

 何をどう考えたらいいのかがまったくわからない。

 数学みたいに方程式で解けたらいいのに……。

 そんなことを考えていると、手の中にあるスマホが鳴り出した。

 誰、だろう……。

 でも、もうディスプレイを見る気力も話す気力もない。

 誰だかわからないけど、ごめんなさい。話せるようになったらかけ直すから――

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