15話
ホテルの絨毯はふかふかしていて、なんだか地に足がついていない気がする。
秋斗さんがエスコートしてくれていなかったら、歩くこともままならない気がした。
それにしても、これはいったいどういう状況なのだろう……。
あまりにもスペシャルな待遇すぎて、動揺せずにはいられない。
地上四十階にエレベーターが止まると、ドアが開くなり黒いスーツを身を纏った人に出迎えられた。
「秋斗様、お待ちしておりました。翠葉お嬢様、本日は当ホテルにお越し頂き光栄に存じます。私、総支配人の
丁寧にお辞儀をされびっくりしていると、
「さ、お姫様。こちらへどうぞ」
秋斗さんにエスコートされ、廊下を進む。
案内されたのは広さ八畳ほどの個室で、夜景がとてもきれいに見えるお部屋だった。
ウィステリアホテルには何度か家族でも来ている。でも未だかつて、こんなに緊張を強いられたことはなかった。
携帯に目をやった秋斗さんがこちらを見る。
「翠葉ちゃん、緊張しすぎ。血圧が一〇〇超えてるよ?」
ディスプレイを見せられて唖然とする。
一一〇の六十九って誰の血圧だろう? 脈拍なんて九十近い。
「……誰のせいだと思ってるんですか!」
「僕、かな?」
秋斗さんは満足そうに答えた。
「でも、きれいだ。ドレスも髪型も似合ってる」
そんなことを言いながら、最上級の笑みを向けるのはやめてほしい……。
「翠葉ちゃんは赤くなると、首どころか身体まで赤くなっちゃうんだね」
言われて、露になっている肩や首を手で押さえたけれど、手で隠せる面積は限られている。
本当はテーブルに突っ伏してしまいたかったのだけど、テーブルはきれいにテーブルセッティングがされているため、突っ伏す場所がない……。
恥ずかしさに悶絶していると、軽やかなノック音が割り込んだ。
「食事が運ばれてくるには早い気がするけど……」
言いながら、秋斗さんが「どうぞ」と声をかけるとドアが開いた。
そこに立っていたのは――
「静さん……?」
ほかの誰でもない、藤宮静さん。このウィステリアホテルのオーナーだ。
「翠葉ちゃん、どうして静さんのこと――」
「なんだ、そういうことか……。秋斗が初めてプライベートで予約を入れたと聞いて、顔を出してみたんだが……。お相手は翠葉ちゃんか」
静さんはにこりと微笑んだ。
「……静さん、翠葉ちゃんとお知り合い?」
きょとんとした秋斗さんが静さんに訊くと、
「彼女には、現在建設中のパレスガーデンのラウンジに飾る写真を提供してもらうことになっている」
「そうだったの!?」
秋斗さんは相当びっくりしているようだ。
「……どうしてか、そういうことになっているようです」
あまりにも信じがたいことをかろうじて肯定する。と、
「おやおや、先日私と交渉していた翠葉ちゃんとは思えない返答だなぁ」
静さんはクスクスと笑い、秋斗さんはさらに驚いたような顔をした。
「静さんと交渉って……!?」
「彼女は意外としっかりしたお嬢さんでね、この私が少々譲歩したくらいだ。あと、彼女は秋斗と同じでうちのホテルのフリーパスを持っている。ふたりとも、今日は存分においしいものを食べていくといい。帰りは秋斗がきちんと送り届けるのだろう?」
「それはもちろん」
「では、邪魔者は退散するとしよう」
そう言うと、静さんは部屋を出て行った。
どうやら、挨拶をしに顔を出しただけのようだ。
「もう、やです……。今日は色んなことがありすぎて、私いっぱいいっぱい……」
情けなく声を出すと、
「翠葉ちゃん、あの静さんに写真提供って本当?」
真面目な顔で、改めて訊かれた。
「はい……。あまりにも高額な報酬すぎて食い下がったんですけど、結局は間を取られたうえに、ホテルのフリーパスを発行されてしまいました……」
「それ、すごいことだよ?」
「え?」
「あの人、仕事においては一切妥協をしない人なんだ。それに、藤宮の人間でもフリーパスを発行されている人は数え切れるほどしかいない」
改めて事の重大さを認識させられてしまった。
肩を落としていると、
「不思議な子だね」
と笑われ、そうこうしているうちに料理が運ばれてきた。
前菜から、食べるペースに合わせて一品ずつ出てくる。それらはどれも少量で、食べるのが苦にならない分量だった。
「どう? おいしい?」
「とてもおいしいです。いつもなら途中でお腹いっぱいになっちゃうのに……」
不思議に思っていると、
「僕を褒めて?」
え……?
「このディナーは翠葉ちゃん用にオーダーしたものだから、分量も少なめだし薄味なんだ」
嬉しそうに種明かしをしてくれたけれど、私は驚きに言葉を失っていた。
「……驚かせてばかりでごめんね」
そうは言うけれど、秋斗さんはとても嬉しそうに笑っている。
「……秋斗さん、ずるいです。お詫びって言っていたけれど、これじゃお詫びどころの話じゃないです……」
「そんな困った顔しないで? 喜んでもらいたくてしてるんだから」
そうは言われても、困惑せずにはいられない。
「翠葉ちゃん、笑って? 僕は翠葉ちゃんに笑ってほしい」
この人はどうして困ることばかり言うのだろう。
……うまく笑える自信など微塵もない。それでも、口元を引きつらせながら笑顔を作ると、
「がんばってくれてありがとう」
と、再び笑われてしまった……。
本当にひどい――
食後のお茶も、私にはハーブティーが運ばれてきた。
ミントとレモングラスの爽やかなお茶。
秋斗さんにはコーヒー。
ほっと一心地つくと、
「それ、トップを外すとストラップにできるんだ」
胸元を指して言われる。
私の胸元には、先ほど園田さんがつけてくれたネックレスがあった。
「これ、秋斗さんからのプレゼントって……」
「うん、気に入ってくれた? これがスマホにつけるストラップ部分」
秋斗さんは胸ポケットから藤色が美しいベロアの巾着袋を取り出すと、それを私に差し出す。
その巾着袋を受け取り、恐る恐る中に入っているものを確認すると、シルバーの繊細なチェーンが入っていた。
「トップは取り外しがきくから、そこに通してストラップとして使ってもらえると嬉しい」
「なんだか、こんなにしてもらって恐縮してしまいます……。でも――すごく嬉しいです」
小さな葉っぱモチーフに触れると、自然と笑みが零れる。
「その顔が見たかった」
秋斗さんはとても満足そうな表情をしていた。
「じゃ、そろそろ八時だから帰ろうか」
先に席を立った秋斗さんに手を差し伸べられ、今度は戸惑うことなくその手に左手を預ける。
「秋斗さんはエスコートし慣れてるんですね?」
「そう見える?」
「はい」
「じゃ、そういうことにしておこうかな」
どこか上手にはぐらかされた気がしたけれど、そんなことは気にしない。
今日一日、びっくりすることばかりだったけれど、とても楽しかったことに変わりはないから。
今日はいくつのびっくり箱を開けたかな、と思いながら個室を出る。
エレベーターホールへ向かって歩いていると、前方にエレベーターを待つ人たちが見えた。ぱっと見、二組の家族だろうか。
両親に付き添われ、ピンクのワンピースを上品に着こなしている女の子と、同じく両親の後ろを歩く――
え……?
思わず足が止まる。
「翠葉ちゃん?」
シンプルなスーツを身に纏っているのは――
「……司、だね」
やっぱり、司先輩なの……?
エレベーターが着くと、司先輩は女の子の手を取ってエレベーターに乗った。
なんだろう……。どうしてこんなに胸がざわざわするんだろう。どうして……。
「翠葉ちゃん、大丈夫?」
「……はい。大丈夫、です……」
「とりあえず、ドレスを着替えに二階へ行こう」
そう言うと、また手を引かれてエレベーターホールまで歩き始めた。
エレベーターに乗っても、何かを考えるということができなくて、秋斗さんと話すこともできなかった。
ポーン、と少し篭ったような高い音が聞こえ、二階に着いたことを知る。
先ほどと同じショップに入ると、
「園田さんお願いね」
秋斗さんは私の手を園田さんに引き渡す。
「翠葉お嬢様、お帰りなさいませ」
園田さんは先刻と同じように柔らかな笑顔を向けてくれるけど、それに応える余裕もなかった。
フィッティングルームに通されドアを閉められると、ペタリとその場に座り込む。
今の自分がよくわからない。
なんで? どうして胸がぎゅって苦しいの? 何、これ……。
思い立ってスマホを取り出しディスプレイを見る。
血圧に異常はないし、体温も普通。ただ、脈拍だけが異様に速かった。
とりあえず深呼吸をしよう、深呼吸――
十回ほど深呼吸を繰り返すと、ほんの少しだけ脈が落ち着き始める。
その合間を縫って服を着替え、フィッティングルームを出た。
園田さんにドレスを渡し、秋斗さんのもとへ戻ると、
「翠葉お嬢様、またいつでもいらっしゃってくださいね」
と、言葉を添えられて見送られた。
先ほどと変わらず、秋斗さんにエスコートされるまま地下駐車場へ下りる。
車に着くと、秋斗さんに促されるままに助手席へ収まり、ドアを閉めてもらった。
秋斗さんは運転席に乗り込むと、スマホを取り出しどこかへかけ始める。
「あのさ、ものは相談なんだけど、あと少し翠葉ちゃんを借りてもいいかな? 九時までには返すから」
通話相手はたぶん蒼兄。でも、九時って……? 時刻はまだ八時を過ぎたところだ。
「そうなんだけど……。――うん、わかってる。じゃ、またあとで」
秋斗さんは通話を切るとこちらを向いて、
「翠葉ちゃん、もう少し付き合ってね」
私の返事は必要ないらしく、車を発進させると幸倉へ向けて走り出した。
車内に会話はなく、ただ音楽が流れているだけ。
私はまださっきの動揺から立ち直れておらず――
あ、れ……? 私、動揺したの……?
ふとすれば、私はそんなこともわからなくなっていた。
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