14話

 頬に刺激を感じると思ったら、

「翠葉ちゃん、冷えてきたからそろそろ戻ろう」

 とても近くから声が聞こえ、パチリ、と目を開ける。すると、目の前にグレーの生地が映りこんだ。

 え……?

 グレーの生地にはボタンが付いていて、秋斗さんのシャツであることがわかる。さらには、ラグで寝ているはずなのに、どうして枕の感触があるのだろう……。

 恐る恐る視線を移すと、私は秋斗さんの右腕に頭を乗せて横になっていた。

「きゃっ、ごめんなさいっ」

 何がどうしてこんな状況なのか――

 咄嗟に身体を起こそうとしたら、腕を掴まれ止められた。

「慌てて起きたらいけないんじゃなかった?」

「それはっ、そうなんですけど――」

 でも、起きたら秋斗さんの腕の中にいたとか、そんな状況は想定していないわけで――

 どうしよう……。今、間違いなくトマトのように赤くなっている自信がある。

 起き上がらせてもらえないのなら、と両手で顔を隠し、顔を思い切り自分の胸に引き寄せ丸くなる。

「くっ……ごめんごめん、いたずらが過ぎました」

「……意地悪」

 一言文句を零すと、

「無防備な顔して僕の隣に寝てる翠葉ちゃんがいけないんじゃないかな?」

「だって……あまりにも秋斗さんが気持ちよさそうに寝てたから……」

「はいはい。少し冷えてきたから上にパーカ着て?」

「あ、はい」

 今度は注意されないように、ゆっくりと上体を起こし、しばらく待ってから立ち上がる。

 この工程を踏まないと、どうしても眩暈に襲われるから。

 そうして起きると上着を羽織った。

「明るいうちにパレスへ戻ろう」

「はい」


 行きと同じで、荷物の大半は秋斗さんが持ってくれている。

 足場の悪い道を歩いていると、木の根に足を取られて躓いた。

 衝撃がくることを覚悟し目を瞑る。と、思ったような衝撃はやってこなくて、ゆっくりと目を開けると、秋斗さんの腕に受け止められていた。

「セーフ……」

「……すみません」

 もう、恥ずかしくて泣きたい……。

「意外とおっちょこちょい?」

 秋斗さんはクスクスと笑いながら、「ほら」と手を差し出してくれる。

 けど、またからかわれるんじゃないかと思えば、手を預けることを躊躇するわけで……。

「もういじめないから。こんなところで転ばれでもしたら蒼樹に怒られちゃうから、ね?」

 言われて素直に手をつないだ。

 中庭まで戻ってくると、昼とは違う光景が待ち受けていた。

 噴水の中にも周りにも、たくさんのキャンドルが灯されている。

 キャンドルの小さな炎たちがゆらゆらと揺れて、柔らかなオレンジ色の光が漂う。

 幻想的な光の世界――

 そこかしこにキャンドルが灯っているというのに、山の中という立地だからか、火の熱さはさほど感じない。

「お気に召しましたか?」

 秋斗さんに顔を覗き込まれ、

「とても……。すごく、すごくきれいなのに、言葉が見つからなくて――」

「写真は?」

 訊かれて首を振った。

「これは撮れません……。私には表現できない。それに、写真に撮るのすらもったいなくて――こんなふうに思うの初めて」

 いつもなら、きれいなものはすべて写真に収めたくなるのに……。

「じゃあ、また連れてこないとね」

「本当にっ!?」

「いつでも連れて来るよ」

「秋斗さん、大好きっ!」

 感情のままに口にすると、秋斗さんの表情がピタリと固まった。

「……秋斗さん?」

「……ごめん、ちょっと面食らった」

「え?」

「翠葉ちゃん、めったにそういうこと言わないし、こんなこともしないし」

 目の高さまで手を持ち上げられて気づく。思わず手に力をこめてしまったことに。

 しかも、「大好き」なんて口走ってしまったことが、ひどく恥ずかしい……。

 恥ずかしいけれど、そんな言葉を口走ってしまうほど嬉しかったのは本当で――

「……今日は特別なんです」

 苦し紛れに言葉を発すると、

「それでも嬉しいけどね」

 秋斗さんがものすごく嬉しそうに笑ったから、心臓が止まるかと思った。

 そんな表情のまま見つめられるのは耐えられない。

「……でも、見つめるのはなしにしてください……」

 蚊の鳴くような声でお願いをすると、

「どうして?」

 その声は、私の反応を楽しむときのものだった。

「意地悪……」

 むくれて見せると、クスリと笑われる。そして、

「そろそろ帰ろう」

「はい。……あの、お手洗いに行ってきてもいいですか? 日焼け止めを落としたくて……」

「レストルームはそこの突き当たりだよ」


 レストルームの水道は、お水ではなくぬるま湯が出てきた。

 ハンドタオルを濡らして、日焼け止めを塗った肌を拭く。

 日焼け止めを塗らなければ赤くなって熱を持ってしまうし、日焼け止めを塗ったままにしておくとかぶれてしまう。

 私の肌はとても取り扱いが面倒なのだ。

 すべて拭き終えてロビーへ戻ると、秋斗さんは木田さんと話していた。

「お待たせしてすみません。木田さん、今日はおいしいサンドイッチとハーブティーをありがとうございました」

「お嬢様のお口に合ったようで何よりでございます。スタッフ一同、またのお越しを楽しみにお待ちしております」

 私たちは木田さんと数名のスタッフに見送られ、ウィステリアパレスをあとにした。


「眠かったら寝てていいからね?」

 シートベルトを締める秋斗さんに言われるも、眠いという感覚はない。

「さっき、一時間は寝てましたよね? だから、今は元気です」

「そう? ならいいけど……。肌、少し赤い?」

「あ……少し長く塗りすぎちゃったかな?」

「日焼け止めにもかぶれるの?」

「はい。なるべく肌に優しいものを使ってはいるんですけど、難しくて……。本当はあまり陽に当たらないほうがいいのでしょうけど、森林浴はやめたくないし、着込んじゃうと血圧下がっちゃうし。かといって日傘を持って写真は撮れないでしょう?」

「手のかかるお姫様だね」

 秋斗さんはおかしそうにクスリと笑った。


 帰り道はノンストップで高速を走った。

 渋滞がなければ六時過ぎには地元に着くという。

「実はね、あっちのウィステリアホテルにも予約が取ってあるんだ。ディナーはいかが?」

 びっくりしすぎてきょとんとしてしまう。

「出かけるときに栞ちゃんと蒼樹には話してきてるから、家のほうは大丈夫だよ?」

「なんか、色々としてもらいすぎてどうしましょう……」

「あのね、僕がしたくてやってることだから、そういうところはいちいち気にしないの」

「でも……」

「じゃあさ、この間の約束を履行して?」

「……クッキーですか?」

「そっちじゃない。土曜日にお昼ご飯を作ってくれるっていうほう」

「本当に、それでいいんですか?」

「ぜひ、お願いします」

 夕方だからか、秋斗さんはサングラスをしていない。

 それはそれで、さっきとは雰囲気が違って少しドキドキする。

 どうしてだろう……。

 最近は格好いい人が周りに多くて、ちょっと困る。

 今までは蒼兄だけだったのにな……。

 こんなの、いつになったら慣れるんだろう……。


 帰りは少しスピードを出したのかもしれない。

 六時前には藤倉市街に着いていた。

 ただ、日曜日の夕方ということもあり、市街のほうが渋滞していて、

「あと少しで目的地なのに」

 秋斗さんが零す。

 私は、秋斗さんがセレクトしてくれた曲を聴いているのが楽しくて、渋滞はさほど気にならなかった。

 それもそのはず。十曲に一度のペースでカーペンターズの「Close to you」が流れるのだ。

「この曲、好きな人の側にいたいって歌詞だよね?」

「はい……。あなたが近くにいると、いつも急に小鳥たちが姿を見せる。きっと私と同じね。小鳥たちもあなたの側にいたいのね――なんだかその光景が見えてくる気がして……」

「その先もきれいな歌詞だよね? 星が空から降ってくる、とか」

「そうなんです! 好きな人ができたら世界がこんなふうに見えるのかな、って……。ちょっと憧れちゃう」

「……意外とドロドロした世界だったらどうする?」

「……夢を壊さないでください」

 楽しく話していれば、渋滞なんてあっという間に抜けてしまう。

 市街のメイン通りに入って少し走ると、ウィステリアホテルの地下駐車場に入った。

 秋斗さんが駐車場に車を停めている隣で、以前このホテルに来たときのことを思い出す。

 あのときは少しかしこまったワンピースを着ていたし、蒼兄やお父さんもスーツを着ていた。でも今日は、どこからどう見てもカジュアルな服装。

 シティーホテルの中でも格の高いホテルなのに、こんな格好で大丈夫なのだろうか……。

 秋斗さんに誘導され車から降りると、

「まずはこっちね」

 と、二階へ連れて行かれた。

 案内された場所は、ウェディングドレスがたくさん並ぶ部屋。

 場違いであることをひしひしと感じ、不安に拍車がかかる。

「秋斗さん……?」

 秋斗さんは私を見て、安心させるようににこりと笑む。そして、

「園田さん、この子お願いできますか?」

 カウンターに佇む女性に声をかけた。

「承ります。今日はずいぶんとかわいらしいお嬢様をお連れですね」

「そうでしょう?」

「秋斗さんっ――」

「翠葉ちゃん、かわいくドレスアップしておいで」

 私の手はその女性へと渡される。

「ご心配なさらなくても大丈夫ですよ。私、園田そのだと申します。お嬢様のお名前をおうかがいしてもよろしいですか?」

「御園生翠葉です……」

「とてもすてきなお名前ですね」

 園田さんは優しく微笑むと、秋斗さんへ向き直った。

「十分ほどお待ちください」

 園田さんに手を引かれ、奥の部屋へと通される。

「園田さん、ここは……?」

「ここは貸衣装店、マリアージュです。本日はディナーの席に相応しいドレスを、と承っております」

 私、そんなこと聞いてない……。前もって話してくれればよかったのに……。

 私の顔色を察してか、

「ご存知ではなかったのですね。秋斗様もお人が悪い……」

 言いながらもてきぱきとドレスを選び、簡易ラックにそれらをかけていく。

「翠葉お嬢様は細くてらっしゃいますね。……七号か五号か――」

 言いながらいくつかのドレスを前に並べられた。

「この中でお好きなものはございますでしょうか?」

 右から白、黒、濃紺、ベージュ、薄いグリーン、ピンクと並ぶ。

「……グリーンのドレスを」

 それはチューブトップになっていて、ウエストから膝下にかけて何枚もの花びらが重なったようなデザインのドレスだった。

 ハイウエストの切り替え部分には、深緑色のベルベッドのリボンが使われている。

「お嬢様はお肌が白くてらっしゃいますので、何色でもお似合いになりますね。では、こちらのフィッティングルームでお着替えください。靴のサイズはおいくつでしょう?」

「二十三です」

「かしこまりました」

 フィッティングルームのドアを閉められ唖然とする。

 えぇと、今日は秋斗さんと森林浴へ行く日だったと思うのだけど、どうしてこういうことになってるのだろう……。

 思考停止しそうなくらいには、状況が掴みかねる。

 それでも人を待たせていることに変わりはなく、出来る限り急いでドレスに着替えた。

 ドアを開けると、そこにはゴールドの華奢な靴が用意されていた。

 ヒールの高さは四センチくらいだろうか。

 このくらいならふらつくことなく歩けるとは思うけど……。

「翠葉お嬢様、よくお似合いですよ」

 園田さんに促され、フィッティングルームの隣にあるパウダールームへ連れて行かれる。

 鏡の前に座ると、

「メイクはせず、髪型だけ整えましょう」

 鏡越しに言われ、「お願いします」と口にした。

 園田さんはコームとゴム、ピンを使って髪の毛をハープアップにしてくれた。

 普段は髪の毛を結うことがないので、鏡に映る自分がとても新鮮に思えた。

 それはドレスの効果もあったかもしれない。

「仕上げはこちら」

 そう言ってつけられたのはネックレスだった。

 シルバーのチェーンに通されているのはゴールドの葉っぱと、透かし網でできた立体的なシルバーのハート。

 ふたつが可憐に揺れている。

「かわいい……」

「こちらは秋斗様からのプレゼントとのことです」

「えっ!?」

 私の驚きように園田さんは笑みを零し、

「秋斗様は本当に何も仰られてないのですね。さ、あちらで秋斗様がお待ちです。参りましょう」

 園田さんに連れられて、ソファに座っていた秋斗さんのもとまで行く。と、

「きれいにドレスアップしたね」

「あの……私、今、何が起こっているのかわからなくて……」

「だろうね?」

 私たちのやり取りに、

「秋斗様、あまり意地悪しますと嫌われてしまいますよ?」

「そうですね。でも、驚いた顔を見たくなる子なので……。園田さん、ありがとうございました」

 そんな会話を聞いても、私の心臓はちっともおとなしくならない。

 不安に胸を押さえると、

「翠葉ちゃん、緊張しなくていいよ。行き先はレストランの個室だから」

 どこへ行くと言われても、この緊張は払拭されそうにない。

「お嬢様、すてきなディナーをお楽しみください」

 私たちは園田さんに見送られ、貸衣装店をあとにした。

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