第9話「あかんゆーとるやろ!」
食堂での優雅な朝食を終えた私は、片付けをカナさんたちに任せて、宿の一階にある洗面所という所へと向かう。
この宿では蛇口というものを捻ると、水が出てくる。仕組みはここへ来て初日で見抜いた。この蛇口へは常に水が供給され、捻る部分が水門の役割をしているのだ。それを開くことで、せき止められていた水が解放され、外へと水が放たれる。簡単だが、画期的であるし、何より、私が知る限り世界中どこを探してもこの宿にしかない。それに、これを作るのには繊細な技術が必要だろう。見てすぐに真似できるものでは無い。
そんな素晴らしいアイデアで作られた蛇口は、朝の身支度には非常に便利だ。なにせ、井戸から水を組み上げる必要なく、使いたい量を、使いたいだけ得ることが出来る。
朝にある程度顔などを洗うことは大切だ。特に、これから仕事へ行くのであれば尚更。
洗面所での用事を終わらせた私が次に向かうのは、二階の借りている自分の部屋だ。
まずは、机の上に乗せていた本の中から、今日必要と思われる何冊かを、布でできた愛用のバッグの中へと放り込む。もちろん、それと一緒にペンやインク、紙といった、必需品が入っているかの確認も、忘れてはならない。
必要なものが揃っていることを確認して、今度はクローゼットを開いた。
今身につけているのは、シャツとズボン。食堂へ朝食を食べに行く程度であったら、別になんの問題もない服装だが、このまま仕事に行く訳にはいかない服装だ。
私は、クローゼットの中を漁って、ネクタイを何本か取り出すと、少し悩んだ。
今日の気分によって、色と柄を決定するのだ。
朝食では優柔不断な私だが、それは選択肢がどれも魅力的だからだ。今日の気分という、はっきりとした判断基準があるこの選択には、大して時間を使わずに決定出来る。
今日は、明るい緑に、端に白の線が入ったものにしておこう。
ネクタイを締めるようになって、十年近く経つ。もう手馴れたもので、先程の決定までかかった時間よりも早く、私の首にはネクタイが取り付けられていた。
続いてクローゼットから取り出したのは、裾の長い黒の上着。
学者という職業につく者は、こういう服装が一般的だ。マントのように大きな上着は目につきやすく、知識ある者だということが、わかりやすい。
そうして、仕事の用意が終わる頃には、出発するにはちょうどいい時間だということを、昇った太陽が教えてくれる。
愛用のバッグを肩にかけ、軽やかな足取りで一階へと戻った。
するとそこには、普段見かけることのない銀の髪の店員の一人である少女、レイさんが受付で作業中のようだった。
「……お仕事?」
「えぇ。これからです」
「忘れ物は大丈夫?」
「はい、ご心配なく。では、行ってまいります」
見た目は幼いながらも、中身は大人びている少女の気遣いに、私は笑顔で答える。
レイさんは作業の手を止めると、受付を離れて玄関の扉を開けてくれた。
「いってらっしゃい」
無表情であるが、だからといって機械的でなく、しっかりと感情の篭った声に見送られ、私は宿屋『月光』を後にした。
働きへ向かう人々がまばらにいる中、私は仕事場である領主の屋敷へと歩く。
道行く人の中には、活力のないない顔が見えるが、爽快な朝と朝食によって活力を得ている私は、機嫌が非常に良い。
私のこの街での仕事に対する思いは、とても良いものだった。
私が教えている青年は、勉学への前向きなやる気が感じられ、なにより素直で真面目だ。そんな生徒に午前中に三時間ほどこの街の歴史を教えると、その後は街を歩きながら自身の研究の時間である。
その研究の時間が終われば、『月光』に帰って美味しい夕飯をいただく。
こんな日々を送って、雇い主が領主であるため給料は高く、短い仕事時間だが生活に困らないほどの額を受け取ることが出来る。
だからこそ、私が青年へ知識を与えることに、全力を注いでいる。
そんなことを思いながらも、やはり頭の中には『月光』での美味しい食事への思いの方が強いというのが、悩みどころであろうか。
さて、今日の夕飯は何を頼もうか。
そう考えながら、大通りを歩いていると、前方から本が迫ってきた。
迫ってきたというのは、言葉の通りである。迫ってきていたのだ。
人の流れの合間を縫うように、高く積み上げられている大量の本が、フラフラとこちらへと向かってきている。
当然のことながら、手足のない本が独りでに歩くということはありえない。
積み上げられた本の下の方を見ると、人の手がチラリと見えた。持っている人の頭よりも高く、本が積み上げられているせいで顔は見えない。
こんなにも多くの本を持つのが大変なのは、やってみなくともわかる。それも、自分の頭よりも高く本を積み上げれば、いつ倒れるのか心配で仕方がない。
そして、そんな心配は、そう間を置かずに現実となる。
少し大きめの風が、大通りを駆ける。
私を含め、道行く人々にはまったく問題のない、なんてことの無い風。
しかし、本を抱える見知らぬ人影には、そうはいかなかったようだ。
風に吹かれて一番上の本がグラグラと揺れると、その振動はどんどんと下の方へと伝わっていき、ついには積み上げられた本全てが、バランスを崩し始める。
「わっ、えっ、わわわっ」
本の向こう側から、戸惑いの声が聞こえる。
あっちにフラリ、こっちにフラリ。持ってる本人の足もバランスを崩し始め、大通りをフラフラと行ったり来たりする。
どう見ても、そう時間がかからずに倒れてしまうだろう。そして、それはもう止めることができない。
人々は巻き添えを食わぬように、本の山が近づくと離れ、道を空けることで回避する。
当然私もそうしようと、本の山が迫ってきた時に、当たらぬように道を空けた。
だが、そううまくはいかなかったようで、運の悪いことに本が次に傾いたのは、私が避けた方向とまったく一緒だった。そして、それを崩すまいと本の持ち主が急に方向転換した方向も同じで。
「うきゃあ!」
「うわっ」
お互いに叫び声を上げながら、衝突する。
それと同時に本の山が、雪崩のように降りかかった。
鈍い痛み。何冊か角が直撃した。
「いたた……」
「あ、す、すみません!」
チカチカとする視界の中、本の持ち主が何度も頭を下げているのが見えた。
持ち主は、背の低い女性。丸メガネをかけ、ボサボサと整理されてない髪を下手くそな三つ編みで纏め、伸びすぎた前髪のせいで顔をしっかりと見ることが出来ない。
「すみません!すみません!」
私がズレた眼鏡を直していると、目の前の女性は腰が悲鳴を上げるのではないかと、心配になるほどの速度で頭を下げている。しかも、だんだんとその速度は早くなっていってるではないか。
「だ、大丈夫です。一旦落ち着いてください……」
「すみません!すみません!」
どうやら、私の言葉は届かなそうだ。
私は、乱れた服を直しながら落ちた本を一つ拾い上げると、高速のお辞儀を繰り返す女性に、無理やり押し付けるように渡した。
すると女性は、少し落ち着いたのかお辞儀を止め、今度は直角を通り越して地面に頭がついてしまうのではないかというほど、深々と頭を下げた。
「ほんとーーーに申し訳ありません!お怪我はございませんでしょうか!」
「いえ、ご心配なく。大して痛くもありませんでしたし」
その言葉は嘘であるが、本当はそこそこ痛みがあったのだが、ここで余計なことを言えば女性は、再度高速お辞儀を始めてしまう気がした。
さすがにそれは、彼女の腰が心配だ。
「大丈夫ですので、本を拾いましょう。このままでは、状態が悪くなってしまう」
本とは、意外にもデリケートな物だ。栞一つ使うか使わないかで、状態が大きく変わるほどだ。
こんな街路に散らばらせてしまっては、傷ついてしまうのは目に見えている。
学者たるもの、知識を得るための必需品とも言える本のことは、大切にしたい。そう思っての言葉だった。
女性は、私の言葉で地面に散らばった本を見つけると、「す、すみません!」となぜかもう一度謝ると、大慌てで拾い始める。
しかし、その手際は非常に悪いとしか言えないものだった。本を地面に置いて積むということをしたくないのか、拾った本を抱えながらその上に積み上げていく。
もちろんそれは、背が小さく腕も短い彼女には、到底うまくいくものではなく。
「うきゃあ!」
先程と同じ悲鳴を上げて、抱えていた本がまた地面に落ちてしまった。
これでは、いつまで経っても事は進まないし、なによりどんどん本が傷ついてしまう。
私が手伝えばどうにかなるのだが、仕事の時間にもそう余裕がある訳では無い。
そう思って、私が辺りを見回すと、良いものを見つけた。
「ここで、待っていてください。それと、とりあえずそのままに。また落としてしまっては、いたずらに本を傷つけるだけです」
私は彼女が頷いたのを確認して、財布を持つとその見つけた良いものの所へと歩いていった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「それで、先生はどうなさったんですか?」
「簡単な手提げ袋を買ってあげたのですよ。大通りの露天に売っていたので」
温かな紅茶を啜りながら、私は生徒の問いに答える。
ここは、ストローツ邸、この街の領主の屋敷にて、優雅な休息をとっていた。
隣には、私の生徒であるメル青年。
私はここで、彼に三時間授業をするのが仕事なのだが、三時間ずっと授業というのも疲れるので、一時間半ごとに休憩をとっている。まさに今が、その休憩の時間である。
そこで私は、彼に今朝あった出来事を話していた。普段は私が住まいを持っている、王都についての話をすることが多いのだが、今朝あったことは非常に珍しく、おかしな話であった。
結局あの後、私は大通りにあった露天から、そう高くはない手提げ袋を二つほど購入し、彼女に渡した。
彼女は何度もお代を支払うと言ってきたのだが、手に持たれていた額が、明らかに手提げ袋をあと十個ほど買える額だったので、丁重にお断りして逃げるようにその場を後にした。
「それにしても、おもしろい女性でした」
「そうなんですか?」
「えぇ。あんなに本がいっぱいあったのに、本は半分以上が地図の本。しかも、同じ地域のものが何冊も。あれでは、どの本も書かれている内容に、そう差はありません。同じ地図を何枚も何枚も見ることになってしまいます」
「売り物、だったのではないですか?それを運んでいる最中だった、とか」
「だとしたら、落としてしまっては商売になりそうもありませんね。ですが、あの本には全て栞が挟まれていました。読んでいるのでしょう、全て」
それに、不器用なりに本を大切にしようという気持ちが、ほんの少しだけだが伝わってきた。
「さぁ、では雑談はこれくらいにして、そろそろ授業を再開しましょうか」
「はい!もっともっと教えてください!」
意欲の高い将来が楽しみな若者に、私は自分の中に蓄えられた知識を、余すことなく教えることとした。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「ただいま戻りました」
空の赤みが深まり、直に夜を迎える時間帯。俺が仕事中のレイに代わって、ペコに餌をやっていると、疲れきった声が聞こえた。
小屋の中を汚さないよう、ペコに餌をやるときはいつも、小屋の外で食べさせている。
そのため、この時間に餌をやっていると、仕事から帰ってきた宿泊客の人と会うことが多い。
声がした方に目をやると、そこにはジェフリーさんがいた。
「おかえりなさい。今日は随分遅いんですね」
「えぇ、少し謎が解けなかったもので」
いつもは、日が落ちる頃には宿に帰ってくるジェフリーさんだが、今日はかなり遅めの時間だった。
それに、声と同じように疲れきった顔をしている。
「謎?」
「えぇ。個人的な研究のことで少々」
餌にかじりつくペコの頭を、しゃがんで撫でながらジェフリーさんが、力なく言った。ちなみに、今日のペコの夕飯は、わんわんササミご飯(サヤさん作、命名レイ)である。
個人的な研究というのは、今朝話していた街の水路がどうの、とかいうやつだろうか。
「この街の昔の水路の地図が見つかったので、それを頼りに街中を歩いていたのですが、街の至る所で水路が途切れ、そしてその近くからまた繋がっているのです。その途切れている空間に、何か地下にあるのかと仮説を立てて歩いていたのですが、まったく見当がつかず……」
「それは大変でしたね。お疲れのようでしたら、今日の夕飯は部屋にお持ちしましょうか?」
「いえ、それには及びません。今日も夕飯は食堂でいただきます」
「でしたら、そろそろ行かないと席が埋まってしまうかもですね……」
「なんと!それは急がねば」
俺の言葉を聞いて、ジェフリーさんは立ち上がると「失礼します」と行って、宿の中へと戻っていった。
「わんっ!」
「……なんだよ」
こちらを見上げて吠えたペコに、俺は少しぶっきらぼうに返す。
今まで食事に夢中だったくせに、その手を止めてまで吠えたということは、こいつ俺がジェフリーさんを宿の中に戻らすようあえて誘導したのを見抜いてやがるな。
「しょうがないじゃないか。あの人は、一度自分の学問の話をし始めたら、止まんなくなる」
「わう!」
「お前も一緒に、飯食い終わっても終わんない話に付き合ってくれんなら、別に俺はいいんだけどな」
「うぅぅ……わんっ!」
再び食事に戻るペコ。どうやら、こいつは付き合ってくれる気がないらしい。
しばらくわんわんササミご飯にがっつく、つれない子犬を眺めていると、
「わぁ!可愛いですね!」
そんな声が聞こえ、ふと顔を上げると、先程ジェフリーさんが立っていたところに、両肩に一つずつ手提げ袋を引っさげた女性が立っていた。
手提げ袋は両方共に、今にも破けそうなほど膨れ上がっている。いったい、何が入っているのだろうか。
見知らぬ女性であったが、俺はもう宿で働く身だ。レイに無愛想過ぎると何度も言われてから、できるだけ人当たりが良い人間を意識している。まぁ、レイに言われても、最初はお前が言うなしか思えなかったのだが。
だから俺は、突然現れた女性に、爽やかを意識して口を開く。
「こんばんは。うちの宿の犬ですよ」
「そうなんですね!実は私、犬への興味がすごいんですよ!」
返ってきた言葉は、どこか引っかかる言葉だ。
犬が好きとか、さらに可愛いという言葉を重ねるのではなく、興味がすごい。なんとも変な返しだ。
「きょ、興味ですか……」
「はい!興味です!」
「はぁ……」
なんともおかしな人だ。
そしてなんだか、ジェフリーさんと同じ雰囲気を感じる。だが、ジェフリーさんと違って目の前の女性は、身だしなみを整えるということを知らないみたいだ。
一応髪は三つ編みでまとめているようだが、それ以外の箇所は好き放題伸びきって、まるで樹海のようである。
長い前髪の隙間で輝く眼鏡は曇り、今は街灯に照らされてるからいいものの、夜中の薄暗いところで見たら、めちゃくちゃ怖い。
ジェフリーさんとの共通点は、
それになんだか、強烈なハッカの臭いもする。
その臭いを嗅いだのか、ペコがしかめっ面になってい。それでも食べ続けるのが、こいつらしいが。
「私一度、犬の解剖とかしてみたいんですよねぇ……」
「わう!?」
突然の爆弾発言に、ペコが怯えている。
解剖とは、これまた物騒な……。
「あ!大丈夫です!この子を解剖したいというわけではないので!」
当たり前である。
「そういえば、先程うちの宿とおっしゃってましたが……」
「はい。俺はそこの宿の店員なので」
そう言って、俺は『月光』を指さした。
すると、女性はパッと笑った。まぁ、顔のほとんどが隠れているから、口元しか見えないのだが。
「私今宿を探してまして!部屋ってまだ空いてますか?」
確か今日は、まだ二階が二部屋ほど空いていたはずだ。見たところ連れがいるようには見えない。一人ならば、問題ないだろう。
「空いてますよ。ちょっと待っててくださいね」
俺は、綺麗に完食したペコを、小屋の中に戻すと、女性を連れて宿の中へと戻った。
宿の中に戻ると、すでに夕飯で食堂が賑わっているのが聞こえる。
俺は、受付にある宿帳を確認しながら、部屋が空いているかを再度確認した。
その間女性は、キョロキョロと宿の中を見回している。失礼かもしれないが、傍から見たら結構不審だ。
すると、受付の奥で物音がして、レイがひょっこりと顔を出した。
「ジン……女連れ……」
「いやな言い方をするな。お客さんだ」
「知ってる」
なら、その恋人の浮気現場を見つけたような顔をするんじゃない。なんでこんな時だけ、無表情じゃないんだ。
「受付は私がやっとく。ジンは香菜姉のとこ行って、すごいことになってる」
「ん。じゃあ任せた」
女性の手続きをレイに任せ、俺は食堂の手伝いに向かうことにした。後ろで話し声が聞こえる。まぁ、レイに任せておけば、俺がやるより確実だ。
そう思い、食堂に足を運ぶと、すごいことになってるの意味がわかった。
満席。凄まじいほどの人口密度だった。
その間を縫うように給仕するカナも、珍しく手が回っていないほどだ。
「あ、ジンさん!ちょっと手伝ってぇや!」
「あぁ、すぐに」
すごい盛況っぷりだ。
サヤさんが言うには、ペコの客引き能力らしい。子犬のくせに、恐るべし。
俺がカナと共に、注文を取ったり料理を運んだり、済んだ食器を片付けたりと、ほとんど走るように仕事をしていると、先程の女性が食堂の中に入ってきた。あの謎に膨らんでいた手提げ袋は持っていない。レイが運んでくれたのだろう。それに、先程のハッカの臭いがほとんどしなくなっていた。
「あかんなぁ。席が足りへんわ」
カナがそう困ったように言うと、「ジンさん、ちょっとお願い!」と俺に女性の対応を任せた。
満席だが、断るということはしない。それがこの宿の決まりである。
どんなお客さんであっても、可能な限り受け入れる。常々サヤさんが言ってる事だ。
俺は、食堂を見回して、窓際の二人掛けのテーブル席で一人で夕飯をとっているジェフリーさんを見つけると、女性を連れてそこへ向かう。
「あの、今すごく混みあっているので、相席大丈夫でしょうか?」
俺がそう問うと、ジェフリーさんは何かの本を開きながら、「えぇ。もちろん」と了承してくれた。本に夢中のようで、こちらを見ていないが、話はちゃんと聞いてくれているようだから構わない。
了承がとれたので、俺が女性に「じゃあ、こちらの席に」と言おうとすると、なぜか急に女性がほとんど頭が足についてしまうぐらい、深く深く頭を下げた。
彼女の腰の骨はどうなっているのだろうか。
ほとんど軟体生物と思えるようなお辞儀をした女性は、叫んでいると思えるほどの声量で、
「今朝はありがとうございましたぁ!!」
その声に、さすがに本に夢中のジェフリーさんもぎょっとしたのか、本から目を離して女性を見た。
「あぁ、あの時の」
「はい!あの時のあれです!」
あの時がどの時でどれがあれなのか、まったくわからないが、両者ともに言葉は通じているようなので、問題は無さそうだ。
「本はご無事でしたか?」
「はい!いただいた袋に大切に!虫除けのハッカ油も入れてあります!」
あの不思議な袋の中身と、強烈なハッカの臭いの正体がわかる。
あそこまで強烈な臭いを出すとは、どれほどのハッカを入れているのだろうか。下手したら、逆に本が痛みそうだ。
「まぁとりあえずそこの席どうぞ」
「し、失礼します!」
ジェフリーさんに席を勧められ、女性は一気に頭を上げてから、席につく。
不思議というか奇っ怪というか。おかしな女性だ。
俺は女性が席につくのを確認してから、再び給仕に戻った。
しかし、あのおかしな女性が気になり、給仕をしながら時折会話に耳を傾けた。よろしくないことだが、本人たちに気づかれないように、そしてそれを他言しなければ、誰に罰せられることもないだろう。これでも俺は、耳が良い。
初めはお互いに自己紹介。女性の名は、イサリというらしい。職業はジェフリーさんと同じ学者。犬の解剖どうこう言っていたので、そちら関係のかと思ったら、地理学者らしい。それを知って、余計先程の発言が怖くなった。
イサリさんの注文をとり、料理を運んだのはカナだ。そのカナと視線が合う。おかしな女性という感想は、どうやら同じみたいだ。なんせ、注文をしているときも、料理が運ばれてきた時も、座りながら何度も何度も頭を下げていた。見方によっては、カナに脅されていると見られても仕方がないほどだ。
それからしばらく経つと、客足も落ち着き、帰る者、部屋へと戻る者で食堂の人数は減っていき、残ったのは酒飲み達だけだった。この宿では、夕飯の時だけ酒を出しているのだ。
そして、そんな中意気投合した学者の酒飲みが二人。
ジェフリーさんとイサリさんは、学者通し話が通じ合うのか、どんどんと話が進み、酒も進んでいる。
「それでですね!!この街は素晴らしい!!地理的にも研究しがいがあります!」
「そうなんですよそうなんですよ!!謎が多くて飽きません!!」
酔った二人の声は、次第に大きくなり、食堂全体で聞けるほどにまでなっていた。
「なんやあれ、止めた方がええんかな」
「いや……あの二人に捕まると、そうそう抜け出せないぞ」
傍から見ててわかったことがある。イサリさんは、ジェフリーさんと同じで、自分の研究分野のこととなると、止まらなくなる。
そして、それはジェフリーさんも同じなので、二人で話していると延々に尽きることがないのだ。
そんな二人の間に入っていって、無事で帰ってくる保証はどこにもない。
幸い、食堂の中の酒飲みたちは二人の会話に興味があるのか、特にクレームなどはない。放置しておいていい、という結論になった。
そこから二人はさらに盛り上がり、話の内容は、今朝ジェフリーさんが話していた水路の話へと変わる。
「ここの途切れている部分がどうしてもわからなくて……」
「なるほど……これはまたおもしろい……」
何やら難しそうな顔をして、ジェフリーさんの持っている地図のようなものを覗き込む二人。
学者の顔だ。
机に乗った酒の空き瓶の山がなければ、俺はもっと感心していたかもしれない。忘れてはいけない。この人たちは今酔っ払っているのだ。
しかし、酔っ払っていても、学者の頭脳は素晴らしいもので。
すぐに結論に至ったようだ。
そこから話された内容は、とても専門的な言葉が飛び交って、俺達にはわからなかった。しかし、ジェフリーさんが探していたものが、古代の排泄物の処理施設であったことは伝わってきた。
その事実に、興奮気味の二人。
どんな排泄物があるのか、それは今どんな状態なのか。
とてもじゃないが、周りで食事をしている人達のなかで話す内容じゃない。
「あのー、二人とも、その話題を大声はあかんと思うねんけど」
さすがに、カナが止めに入った。
だが、酔った学者眼鏡二人は止まらない。
「しかしカナさん!古代の人々の排泄物が眠っているのですよ!?」
「いやそんなん眠らせとけばええやん」
「それを調べたら、当時の人々の食生活がわかる……素晴らしいと思いませんか!?」
「すごいことや思うけど、今ここで話す内容としてはよろしくないとも思うんや」
宿屋『月光』そこには、多くのお客さんが訪れる。
普通の人も、そして、変な人も。
「古代の人々の排泄物!掘り起こそうと思います!」
「だからここで話すのはあかんゆーとるやろ!!」
…………それでも、とても愉快な場所だ。
「今、すごく無理やりまとめたでしょ」
「許せ、俺の手には負えん」
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