第8話「おはようございます」
最近、朝起きるのが早くなった。
原因は色々ある。
だが、その原因をまとめて一言で言うのであれば、宿がいいからだ。
毎日シーツの取り替えられているベッドは寝心地がよく、寝心地がいいということは寝起きもいい。
部屋の窓を開き、朝の新鮮な空気を取り入れると、心が澄んだような気持ちになる。
この宿がある場所は、表の大通りではなく街の中の少し奥まったところにあるのだが、それが故に朝の空気を汚すものも、騒音を起こすものもない。
店としては立地は良いとは言えないが、宿泊客からしてみれば、静かな最良の立地だ。
私はベッドから立ち上がると、テーブルの上に積み上げてある本の上に座っている、長年愛用している眼鏡をかけた。
先程よりもはっきりとした視界が、部屋の中を映し出す。
この宿の部屋は、帰ってくる度に綺麗になっている。きっと、客が外出している間に掃除してくれているのだろう。しかも、客の持ち物には触れないように、でも隅までしっかりと掃除をしてくれているのだから、その奥ゆかしい心遣いには脱帽である。
そして、私にはこの宿に来てからの、毎朝の楽しみがある。
扉の近くにあるクローゼットを開けると、私はいつもの仕事着へと着替える。
男である私の支度は、そう時間はかからない。
きっちりとアイロンの施されたシャツとズボンを身につけるだけで、ひとまずは完了である。
皮のベルトを締めながら、私は部屋を後にすると、出てすぐ近くにある階段から、下の階へと降りる。
低すぎるでもなく高すぎるでもなく、絶妙に足に負担がかからない高さに設計された階段を降りると、この宿の受付と食堂がある。
厨房から聞こえる食器の音以外、他に物音は聞こえない。どうやら、今日は客の中では私が一番乗りのようだ。
「あ!ジェフリーさん、おはようございます!」
「おはよーさん!今日は早いんやなぁ」
食堂に行くと、二人の女性が朝の挨拶をしてくれる。
その挨拶に、私は笑顔で「おはようございます」と返した。
朝食を作ってくれているこの宿一番の美人サヤさんと、その横で食器の整理をしている太陽のように元気なカナさんだ。
起きるのが早くなった私だが、この宿の店員より早く起きたことはない。
いつも、客の誰よりも早く起きて、朝食の準備をしてくれている。
私は朝はテーブル席でいただく事が多いのだが、食堂に他の客が来ていなかったので、カウンター席に座ることにした。
「ジェフリーさん、今日の朝はどないする?」
メニューが書かれた薄い本をこちらに渡しながら聞いてくるカナさんに、私は朝食が書かれたページを開いて、悩む。
この宿の朝食には、五種類のメニューがある。
大抵宿の朝食というのは、一種類に限定されているか、用意されてすらいないのだが、この宿では非常に多くの選択肢がある。
私はその内の二種類で、毎朝どちらにしようか迷うのだ。
一つは、トーストセット。もう一つは、焼き魚定食。
トーストセットは、食パンという平たいパンに、コーヒーという飲み物と、ヨーグルトという
食パンに乗せるジャムを選ぶことができ、さらには目玉焼きを乗せるという神秘的で革新的なことをしてもらうことも出来る。その上、パンを増やすことも可能。コーヒーは、やや苦いが嫌な苦さではなく、朝の眠気を覚ますのにはちょうどいい。しかも、コーヒーにもいくつか種類がある。ヨーグルトは朝のデザートとしては最高だ。さらりと喉を通り、胃へと素直に進んでいってくれるため、食べやすい。
焼き魚定食は、日によって出される魚が変わり、
魚、
捨てがたい。どちらも捨てがたいぞ。
朝食は一日で一番最初の食事だ。つまり、ここでの食事は今日一日の運命を左右すると言っても、過言ではない。
どうする。
一品一品が主役となっている、トーストセットか。それとも、主役と脇役の絶妙なバランスを持った、焼き魚定食か。
「なんや、難しい顔しとるなぁ」
私が、メニューを手にうんうんと唸っていると、カナさんが可笑しそうに言った。
しまった。少し時間をかけ過ぎてしまったか。
「すみません。中々迷ってしまいまして」
「トーストセットと焼き魚定食やろ?ジェフリーさん、いつもそれで悩んどるからなぁ」
私が毎朝朝食で悩んでいることは、給仕を務めるカナさんにはいつものことのようだ。
少しその事に恥ずかしくなり、私は決断する。
「では今日は、焼き魚定食で」
「お、今日は和食なんやな。少々お待ちくださーい」
カナさんが注文を伝える手間なく、隣で聞いていたサヤさんは頷くと準備に取り掛かってくれる。
私が朝食の到着を待っていると、玄関の扉が開く音がして、箒を持った男が食堂に入ってきた。
数日前からこの宿で働き始めたという、新たな店員だったか。確か名前は……ジンさんだ。
「外の掃除、終わりました」
「お疲れ様です。レイちゃんは?」
「ペコの散歩に行きました」
「なんやかんやで仕事も、ペコの世話もちゃんとやるところが、ほんまあの子らしいなぁ」
そんなやり取りの後、ジンさんは私がいることに気づいたようで、「おはようございます」と律儀にお辞儀付きの挨拶をしてくれる。当然私もそれに、丁寧に返した。
この宿の店員は、いつでもしっかりと挨拶をしてくれる。小さなことだが、だからこそとても大切なことだ。
「ジェフリーさん、今日の朝食はどうされたんですか?」
箒を片付けて戻ってきたジンさんは、私にそんなことを聞く。
「今日は、焼き魚定食を。どうかしましたか?」
「あ、いえ、いつも皺を寄せて悩んでいるので、今日はどっちにしたのか気になってしまって。失礼でしたね、申し訳ないです」
「いえいえ、良いのですよ」
私はそんなに覚えられるほど、毎朝迷っているのだろうか。
「俺はいいと思いますよ。朝食って一日の始まりで大切ですからね」
「そうですね。この宿のメニューはどれも魅力的で、とても悩んでしまいます」
「わかります。俺もそうだったので。というか、今もそうなので」
ジンさんとはあまり話したことがなかったが、どこか分かり合えるような気がした。
「はい、焼き魚定食どうぞー」
そう言ってカナさんが、一品一品私の前に持ってきてくれた。
まずは、小さな茶碗に入った白く宝石のような輝きのある米。それから、湯気を立ち昇らせる味噌汁。今日の具は、ダイコンとトウフだ。
主役である焼き魚で出てきたのは、赤い魚の切り身。
たまに小さい魚であれば、丸々一匹出てくることがあるのだが、今日はそうでは無いらしい。所々に焼き目がついたそれは、香ばしい匂いを漂わせ、朝の空腹を否応なしに掻き立てる。
白菜の酢漬けと、紫色の羊羹。最後に深みのある色をした緑茶が出てくれば、朝食の用意は万端である。
私は、この宿に来るまでは、フォークとナイフで食べるのが一般的だと思っていたのだが、焼き魚定食を初めて食べた時から、箸という二本の棒を使って食べるようになった。
使い方はカナさんが教えてくれ、初めの頃は慣れることができずに、食べづらい思いをしていたのだが、数日もすれば若干の食べづらさはあるが、それでも困るほどではなくなった。
「今日は鮭やで。骨、気をつけてな」
この赤い魚はシャケというのか。私は内陸に住んでいたので、魚というものを食べる機会が少なかったのだが、この店では魚を使った料理がたくさんある。どうやって仕入れているのだろうか。
カナさんの注意に、私は頷いてから目の前の朝食に、箸をつけた。
焼き魚で切り身が出てくる時、必ず切り身の端に皮がついているのだが、今日のシャケには皮がない。
魚の皮に対して、不潔な印象が拭いきれない私にとっては、非常にありがたい配慮だ。
赤い身を箸で割って、一口サイズにしてからそれをつまみ、口の中へと入れる。
柔らかく、よく火の通ったシャケは、噛む事に溶けるように崩れるが、確かな歯ごたえもある。
塩っけが強いが、香ばしい旨みが、舌の上で絶妙なバランスを保っている。
そこに米を投入する。もっちりとした感触と、米特有の甘さが、シャケの塩っけを抑えて、さらにシャケの旨みを引き立てる。
そして、そんな旨みを飲み込んだ後、今度は味噌汁を少し啜る。
味噌という食材に、私はこの宿で初めて出会ったのだが、私はその味噌を使ったこの味噌汁のことを、調停人だと思っている。
この料理は、いつでも中立なのだ。
口の中でどんな味が広がっていても、それを中立な立ち位置から丸く収めて、新たな旨みを引き出す。
中立が故に、どんな食べ合わせをしても合うし、味噌汁単体であっても完成された料理でもある。
シャケ、米、味噌汁、またシャケ。こうして繰り返すループのことを、私は黄金のトライアングルと呼んでいる。
まさに、非の打ち所のない完璧な組み合わせである。この組み合わせを考えた者に、もし出会う機会があるのであれば、最上級の感謝と畏敬の念を抱くであろう。
そんな黄金のトライアングルを三度ほど繰り返すと、私は白菜の酢漬けへと手を出した。
小皿に乗ったそれは、そう量は多くはない。だが、この焼き魚定食の中で、最も強い味を持っている。
一口のサイズに合わせてカットされた白菜を箸で摘むと、黄金のトライアングルで染め上げられた口の中へと招き入れる。
黄金のトライアングル。なぜ私がその名をつけたのかは、至って簡単な理由である。
完成された組み合わせ。だからこそ、そこに他のものが入り込む余地などないのだ。
しかし、例外がある。それが、この焼き魚定食で出される、漬け物である。
今日の漬物としてだされた、白菜の酢漬けは非常に酸味が強く、口の中に足跡を残してきた他の料理達を、一気に飲み込んでキレイさっぱりと掃除してしまうほどの力がある。
だが、それは悪い意味ではなく、口の中をすっきりとリセットすることによって、また新たに次の旨みを素直に感じることが出来る。
さらに、驚いたことに白菜の間にちらほらと見える、小さな小さな黄色い塊がある。
カナさんに正体を問うと、「柚の皮を、小さく刻んどるやつやな」と返された。
ユズというのは、また聞きなれないものだが、白菜と一緒に食べてみると、白菜のシャキシャキとした食感と、酸味のある酢の味と、鼻を抜けるような爽やかな香りが駆け抜けた。
爽快感。この感覚を、その言葉以外で表すことが出来ないであろう。口の中がリセットされると共に、気分が晴れ渡るようだった。
食とは、腹を満たしてくれるだけのものではない。こうして、心の中まで満たしてくれることをものなのだ。
その後も、コンビネーション抜群の料理を食べ進め、盛られた米の山が半分になった時、サヤさんがカウンター越しに、小皿に乗った新たな料理を出してくれた。
「どうぞ、皮の炙り焼きです」
「皮?」
「はい、鮭の皮を火で炙って、それに軽く塩を振ったものです」
そこで私は、朝食のシャケに皮がない、本当の理由を知った。
皮がなかったのは、食べやすいようにという理由だけではない。それを使って、新たな料理を作っていてくれたのだ。
皮というものに、あまりいい印象を抱いていなかった私だが、目の前に出された香ばしく香る料理には、好奇心を隠せずにはいられなかった。
炙っただけ。炙っただけなのだ。いつも、邪魔でしか無かった皮が、炙っただけでこうも魅力的に見える。まるで魔法だ。
私は、味噌汁を飲んでから、本当であればシャケへと伸ばすはずの箸を、皮の炙り焼きへと伸ばした。
箸で摘んでから、ゆっくりと口の中へと入れる。
パリッ
軽く、耳障りの良い音が口元で鳴り、溢れんばかりの香ばしさが、口に広がり、鼻に広がり、そして喉へと抜けていった。
今まで好んでこなかった魚の皮は、一つの料理としてそこにあった。
薄味で仕上げられたそれは、後引く美味さだ。
どんどんと箸が進み、同時に米を口に入れる速度も早まる。
そんなこんなで、私が朝食に舌づつみを打っていると、起きてきた宿泊客が何人か食堂へと入ってきた。頭を抱えるようにして入ってきた人もいるが、確かあの人は昨夜だいぶ飲んでいた人だ。二日酔いだろう。
カナさんが客たちに注文をとる声を後ろに聴きながら、私が再度黄金のトライアングルを楽しんでいると、厨房でサヤさんの手伝いをしていたジンさんの手が空いたのか、一人で食事をしている私に話しかけた。
「ジェフリーさんは、学者なんですか?」
「えぇ。歴史学者をしております」
そう答えたが、私は彼に自分の仕事の話をしたことがなかったような気がする。というより、彼とは今日まで挨拶だけの関係だったため、言葉を交わしたことはついぞなかった。
「なぜ、そのことを?」
「あぁ、随分と箸の覚えが早いので。なんとなく、箸の扱いが上手い人は、手先の器用な方か、ペンをよく持つ職業の方なのかと」
確かに、箸を持つ時の手の形は、ペンを握る形に通じるものがある。
「それに、お高そうな眼鏡をかけてらっしゃるので、それなりの稼ぎがあって、でも商人でないようでしたので、その他に旅をしてきて宿に泊まることのある職業は、学者かなと」
「なるほど。よく見ていらっしゃる」
驚く程に鋭い観察眼だ。
確かに、私は学者だ。歴史を専門とした学者をしている。
学者。その字の通り学ぶ者であり、多くの知識を必要とする職業だ。
主な仕事としては、人に蓄えた知識を教授すること。この街には、この街を治める領主の方に、とある青年に歴史の知識を授ける仕事を頼まれ来ている。
大通りの宿が満室で、この宿には大通りの宿の部屋が空くまでのつもりで来たのだが、今まで泊まった宿とは比べ物にならないほどの快適さに、そのままこの街での滞在期間である二週間の宿泊を決定したのだ。
「この街は歴史が深い。仕事の傍ら、この街の歴史についてのさらなる知識を求めているのです」
ズレた眼鏡を直しながらそう言うと、ジンさんは感心したように頷いてくれる。
彼は、非常に話しやすい男だ。あまり特徴のない外見をしているが、相槌を打ったりしっかりと話を聞いてくれるところが、こちらからスラスラと話しやすい空気を作ってくれる。
カナさんは、話を盛り上げるのが上手く、それはそれで楽しいのだが、こうして自分の話をしっかりと聞いてくれる人を相手に話すのは、全く違った心地良さを感じられる。
「今は、この街の水路について調べているんです」
「水路……なるほど、人の発展には水が付きものですからね」
「そうなのです。水がなければ、生き物は生きていけない。頭脳の発展した人類が、最も効率よく生きていくには、水の整備をすることが不可欠なのです。そして、水路が進化している場所では、文明もよく育つ。つまり、文明の差というのは、水路に依存すると言っても過言では無いのです。この街は色々な地域からの文明が入ってきて発展している街。そんなこの街の水路を調べることで――――」
「ジンさん。これあっちのテーブルに」
「あ、はい。わかりました」
私が熱く語っていると、他の客の朝食が出来上がったのか、給仕をしているジンさんが呼ばれる。
「また今度聞かせてください」と言い残し、ジンさんが去っていく。不完全燃焼ではあるが、仕事を邪魔する訳にはいかない。
そんなことを思っていると、私はすっかり黄金のトライアングルの供給を食べ尽くしてしまっていたようで、白菜の酢漬けの最後の一口を放り込んで、口の中をさっぱりとさせてから、最後の羊羹へと取り掛かった。
私は、羊羹を食べる時は緑茶と一緒にと、決めている。
その理由は、双方とも味わいが大人しく、優しいものだからだ。
私は箸を置き、羊羹と一緒に器に乗っている、二股の小さな木のフォークに持ち替えた。
箸で食べてもいいのだが、一緒に器に乗っているのであれば、それを使うのが最善なのであろう。
食べ終わった他の器を重ね脇に避けると、目の前に羊羹と緑茶を用意する。
こうして、他の邪魔が入らないように羊羹を食すのが、この大人しいデザートへの礼儀だと思った。
羊羹を切り崩し、木のフォークで刺してから、自身の中へと招き入れる。
このデザートの不思議なところは、口の中へと入ってすぐは、寝ているのかと思うほど大人しいことだ。
確かに甘さはある。しかし、よく舌で感じなければ感じられないほど、小さな甘み。
でも、そこから噛んでいくことで、どんどんと内に秘めた甘さを露わにし、幸福を溢れださせる。
それでも、やっぱり大人しい。他の砂糖をふんだんに使った菓子や、飲み物に簡単に敗北してしまうほど、大人しく、上品な味わいだ。
それでいいのだ。それがこの菓子の魅力なのだ。
わかりやすい味わいではなく、身にも心にも染み込むような、高貴ささえ感じることの出来るこの菓子が、私は好きで好きでたまらない。
そして、そこに緑茶を加えると、羊羹の上品な魅力を、奥深い緑茶がさらに絞り出す。
緑茶は、歴史だ。
何年も積み上げられてきたような、そんな不動の重鎮。揺るがぬ飲み物の王と言ってもいい。
大人しい羊羹。それを支える緑茶。
やはり焼き魚定食は、この絶妙なコンビネーションが最大の魅力なのだ。
こうして私は、また今日も最高の一日を迎えたのだ――――
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