第13話 逃亡奴隷、薬屋の弟子になる。


 梅毒ばいどく


 それは、「梅毒トレポネーマ」と言う細菌による感染症だ。

 皮膚や粘膜の小さな傷から感染する。


 ひとたび感染すると、血液やリンパ液の流れにのって病原菌が全身を巡り、長い時間をかけてさまざまな症状をひき起こす全身性の慢性感染症まんせいかんせんしょうだ。


 現代日本では、これによる死者が出る事はほとんど無い、と言って良い。

 日本には良いお薬があるからね。

 だけど、治療薬の存在しない時代だと、とても恐れられた病なのだ。


 何故かと言うと、この病、病状が進行すると、全身にえんどう豆大~ニワトリの卵大のゴムのような弾力のある腫瘍しゅようや、しこりができる。


 特に、顔や軟骨である鼻に、このゴム腫ができてしまうと、当然、顔が酷く変形してしまうのだ。


 想像してみると良い。

 自分の顔のいたるところに、ニワトリの卵大のコブがくっついた姿を。


 さらに言うと、このゴム腫……放置しておくと、壊死えしして崩れる。


 元々が、どんなに美男美女だったとしても、美貌びぼう裸足はだしでトンズラする容姿に変わり果てるのだ。

 しかも、全身性だからね? もちろん、内臓にも影響あるからね?


 さらに放置すると、感染後10年ほどで、大動脈瘤だいどうみゃくりゅう大動脈炎だいどうみゃくえんといった心臓や血管の異常、進行性のまひ、歩行障害や認知症の症状まで現れ、やがては……死に至る。


 第2期から、ゴム腫が発生する第3期まで進行するには、数ヶ月~数年の「自覚症状じかくしょうじょうの無い潜伏期間せんぷくきかん」が存在するが、その間も他の人に、この病を感染させる力は高い。


「おや、ウィーリン、久しぶりだね。今日はいつもの薬かい?」


「ええ、ちょっと体調を崩して寝ていたの。

あと、見て~。特に痛い訳じゃ無いんだけど、湿疹しっしんが酷くて……」


 お姉さんがエリシエリさんに皮疹ひしんを診せる。


「もう、全身こんな感じで、仕事にも支障が出るのよ。」


 エリシエリさんは、その湿疹を見て、キツイまなじりをさらに険しく歪ませたかと思ったのだが、その表情かおは一瞬のうちに掻き消えた。

 そして、いつもの男勝りの笑顔を浮かべる。


「ああ、ちょうどいいね。今、新鮮なシフキ草が入ったから、軟膏なんこうを出すよ。」


 エリシエリさん、違う! これは、ドクダミ軟膏では治らない!!

 いや、一旦は治ったように見えるけど、それは潜伏期間に入っただけだ。


 日本で言う、ペニシリン……抗菌薬・抗生物質を処方しょほうしないと完治はしない。


 僕は、思わずエリシエリさんの後ろに並んでいる薬剤に片っ端から、【鑑定】を発動させた。


 「抗生物質」……その四文字を必死に探す。


 【鑑定】

 名前:リポキロ

 効果:抗菌剤・β-を多量に含む。魔力回路の異常に対する万能薬でもある。


 あ、あった!!

 よかったぁぁぁ! 


「あのっ! これ! こっちのお薬でないと、だめ、デス!」


 僕は急いで「リポキロ」の名の入った壺を指差す。

 突然の僕の言葉に、エリシエリさんもお姉さんも、小鳥が豆鉄砲を喰らった顔で僕を見つめた。


「こっちって……リポキロの事かい?」


 こく、こく、と力強く頷く。

 しかし、二人は目を見合わせると、何故か同時に噴き出した。


 へ? 

 僕、そんな変な事言ったの?


「ふふふ、心配してくれたの? 確かに、リポキロなら、直ぐに治ると思うわ。

でも、たかが皮膚炎に、そんな高価な薬、買えないわよ。」


「バカだね。コレはかなりの病気に効く万能薬だよ?

確かに皮膚炎も治るだろうけど、アンタ、コレがいくらするか知ってるのかい?」


 お値段……!

 そ、それは、考えたことが無かった。


 もしかして、こっちの世界の抗生物質ペニシリンって、お高いの!?


 そんな僕の疑問を感じ取ったのだろう。エリシエリさんが大きく頷いて、こう続けた。


「小金貨3枚だよ。」


 それは……もしかして、リーリスさんのツケより高い?


 聞けば、お貴族様に直接仕えているオズヌさんの一月分のお給料が、約小金貨3枚。


 ……そ、それは、お高い。

 でも、ここで放って置くわけにもいかない。


 うーん、病名を伝えてしまって良いものなのだろうか?

 一説には「男と女の不名誉」だと言われるデリケートな病名だぞ?

 だが、背に腹は代えられんか……


「でも、あの……その症状は『梅毒』だと思いマス。だから……」


 早く治療しないと、大変なことに……と、続けようとした僕の言葉を遮るように、お姉さんは、嬉しそうな声を上げた。


「あら! コレ、梅毒だったの? うふふ……嬉しいわぁ!」


 えええええええ?!


「う、嬉しいんデスか!?」


「ええ、そうよ。」


 この世界では、梅毒を経験した遊女の方が価値が上で、勤めているお店によっては、お給料も倍に跳ね上がるのだとか。

 さらには、特別ボーナスのようなものまで支給があるそうだ。


「その赤い湿疹が消えないうちに、お店に申告をしときな。

しばらくしたら、その湿疹も消えちまうからね。」


「ええ、そうするわ!」


 お姉さんは、弾む声でエリシエリさんに答える。


 珍重されるのは、理由がいくつかあって、「妊娠しづらくなる」「肌が抜けるように青白く妖艶になる」「床上手の証」と言われているらしい。


 そ、そんな、バカな……!


「で、デモ、『梅毒』は、悪化すると、全身にブニブニした卵大の腫瘍が出来て……

それが腐り落ちるんじゃないんデスか?!」


 僕の言葉を聞いたエリシエリさんが、少し厳しい声で、ピシャリと否定した。


「……ソイツは、『腐肉腫病ふにくしゅびょう』だよ。『梅毒』とは別物さ。」


 ふぁっ?!


 も、もしかしたら、潜伏期間が長すぎるせいで別の病気だと認識されてるの?!


「でも……!」


「アンタはちょっと黙っときな。」


 エリシエリさんの、有無を言わせぬ迫力に、僕は思わず息を詰める。


「悪いね、ウィーリン。この子はアタシの弟子にして日が浅くてね。

まだ、病名なんかは、ごちゃごちゃになっちまうのさ。」


 あれ? いつの間にか弟子になってる……?


「うふふ……構わないわ。それにしても、小さなお弟子さんね。」


「ああ、小人族だからね。

……でも、この子の言うとおり『腐肉腫病』が、『梅毒』を経験したような上級遊女に多い病なのは確かさ。

少しでも異変を感じたら、またウチに来るんだよ。」


 そう言うと、エリシエリさんは、シフキ草の軟膏といつものお薬をお姉さんに手渡しながら続ける。


「そん時ゃ、迷わず『リポキロ』さ。アンタなら、ちょっとはオマケしてやるよ。」


「ありがとう! でも嬉しいわぁ、やっと『梅毒』になれたんだもの!

うふふ、これで、あと半年も有れば借金だって返し終わるわよ。」


 お姉さんは会計を済ませると、スキップでもするような軽やかな足取りで薬屋を出て行った。


「……さてと。」


 エリシエリさんのドスの効いた声が、僕の背筋を撫でる。

 ぞわぞわと駆け上がって来るこの寒気は、彼女に対する畏怖なのだろうか……?


「正直に話しな。アタシに『嘘は通用しない』よ。

アンタ、『梅毒』や『腐肉腫病』なんて、どこで知ったんだい?」


 思わず、いつもと違う輝きを放つ瞳と声色に防衛本能が働いた。


 【鑑定】

 名前:エリシエリ・リシス

 祝福:【嘘発見】……他人の嘘を見抜く力。


 な、なるほど……! マジで嘘は通用しないのね……!


 う、なんて、言おう……

 日本の、前世の知識です、って言ってあっさり理解してもらえるとは思えない。


「あの……昔、本で……読み、マシた……」


 嘘じゃ無いよ! 昔、日本にいた頃、本当に本で読んだもん!


「本で? ふむ、まぁ、嘘じゃないみたいだね。

しっかし……アンタ、相当、良いトコのお嬢様だったんだね!?」


「え? そうなんデスか?」


 エリシエリさん曰く、本を所持しているような獣人けものびとは、かなり珍しいらしい。

 そもそも「本」とは、基本的に各々が書き写す事でしか増えない代物らしく絶対数が少ないのだとか。


 ちなみに、僕の親は相当な「知識人階級」か「読書マニアの変人」だと、断言されてしまった。


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