第8話 螺旋の運航
「あそこは廃墟です。誰もいませんよ」
俺はややきつい口調で言ったが、相手はひるまない。
「いや、いるんでず。僕は見たんです。望遠鏡で確かに。中央塔の最上階に、見たこともない美しい姫君がいるんです」
この男はおとぎ話でも読みすぎたんじゃないだろうか。そんな本を読んでばかりいるから、こんなに太るんじゃないかと思うくらい太っている。
海岸から見える海上の小都市。古い時代、いつ造られたか分からないが、石造りの建物群には今は誰も住んでいないという。遠目で見ても廃墟そのものだ。地図では小島とされるが、名前もない。
「仮にそんなお姫様がいたとして、いきなり行って写真を撮らせてくれますかね? わざわざあんな場所に行くなんて、実に怪しい人間だと思われる」
「物陰からこっそり撮ればいいんです」
「冗談じゃない。普通の人間なら、寝ているんでもなければ何十秒もじっとしていない」
この男は写真が簡単に撮れると思っている。常識のない男だ。しかし、彼は持ってきた革袋から一台の写真機を出した。
「これをお使い下さい。ゼンマイを巻いてボタンを押すだけで、露光は自動です。だいたい二秒です」
「二秒だって?」
今、一番高価な感光紙でも二十秒はかかるはずだ。
「感光紙がこちらにあります」
俺は驚く。薄いケースに入った感光紙が十枚ほど。
「露光が自動で二秒というのは間違いないのか?」
「もちろんです。これだけのお金をかけるのに、嘘なんかつきません」
確かに、安くはない俺の言い値を承諾した。身なりからして、金だけはあると思っていた。廃墟に行って写真だけ撮るなら、面倒な仕事でもない。
「じゃあ写真を撮りに行きますが、前金で半額いただきますよ」
「結構です。行って下さると思っていました」
「探偵という仕事ですからね。でもさっきも言いましたが、あそこは廃墟ですよ。誰も住んでいないはずだ」
「それなら、いないところの写真を撮ってきて下さい。でも、いるはずです。僕は見たのです」
男が帰って、俺は金を数えた。このまま逃げちまおうか。でも、もう同じだけもらえるなら一仕事も悪くない。
猫が入ってきた。
「何か食わせてくれ」
「おう、何がいい。今は何もないが、何でも買ってきてやる。魚はどうだ?」
「珍しく気前がいいな」
「大金が手に入った。一仕事すればもう同じだけもらえるぜ」
俺は上機嫌で言ったが、猫は鼻で笑った。
「うまい話はそうそうないもんだがね」
「猫のくせに生意気だな。楽な仕事じゃないんだぜ」
誰もいなかったことにして、適当な場所で写真でも撮ってごまかすかと思ったが、あれだけ金のある男だ、ばれたら殺し屋でも雇われかねない。まあ、たまには廃墟探検も悪くはなかろう。
その日、新しく水上自転車を買い、俺は海上都市に向かった。彼に借りた写真機だけでなく、何日もかかるかもしれないので、食料なども持ってきた。都市は海岸から小さく見える程度で、水上自転車を漕いでもなかなか近づかない。彼は望遠鏡で中央塔を見たと言うが、相当な倍率のものだろう。最近、木星に衛星が見つかったという話題があったが、その望遠鏡なら天体観測にも使えるのではないだろうか。彼にその気はなさそうだが。
事前に海上都市について調べたが、嫌な噂があるのが分かった。あそこに行って帰ってこなかった者が何人もいるのだという。人が全く住んでいないわけではないのかもしれない。俺は用心して、一応拳銃も持ってきていた。
海上を約一時間半かけて、やっと近くまでたどり着いた。高い壁に囲まれ、都市というか要塞のようだ。都市内には石造りの建物がひしめいていて、中央塔が少し高くなって見えている。外壁が湾曲しているので、上から見ればきっと円形だろう。
外壁は高く、中に入るのは困難かと思ったが、中に入る水路があっけなく見つかった。大きめの船でも通れそうな水路だ。俺はそこを水上自転車で進んでいった。水路は壁の円形に沿ってカーブしている。人の気配はない。中央塔に近づくには、やはりどこかで降りなければならないだろうか。とりあえず俺は水路を進んだ。左右がまるで城壁のようで、その間を進んで行く。どこかに船着き場でもないだろうか。
カーブに沿って進んで行くに連れ、外側の建物が増え、壁の上に見える中央塔が近づいてくるのが分かった。俺は気づいた。この水路は螺旋状になっていて、しだいに中央部に近づいているのだ。これは話が楽だ。自転車を降りるのは最後でいい。ところどころ船着き場もあったが、このまま行けるところまで行こう。
水路が突き当たり、最後の船着き場に水上自転車を置いて、俺は降りた。中央塔は目の前だった。風が吹いて、所々に植えてある木が揺れる音だけがする。地面は石造りのようだが、枯れ葉や枝が散乱し、そこらじゅう砂埃もたまっている。何の物音もしない。やはり誰も住んでいないのだ。拳銃など持ってこなくても、よかったかもしれない。ただ、中央塔には誰かいるかもしれないので、俺は物陰を用心深く進んて、塔に近づいていった。
その時、何か別の音がした。羽ばたく音だ。鳥がいる。低い音なので、かなり大きな鳥のようだ。俺は動きを止め、上の方を見渡したが、鳥らしきものも何も飛んでいない。塔だけがそびえている。塔の上の方から聞こえたような気もする。
俺は塔に入り、階段を上っていった。足音を立てないように。階を上がる度に、俺は部屋を確認していった。どこの部屋も誰もいない。床まで石造りのままだ。かつて人が住んでいたような、家具や食器のようなものが散らかっているが、どれも砂埃をかぶっている。
そして、そろそろ頂上近くだと思ったその部屋に、俺は何かの気配を感じだ。さっきの羽ばたく音だった。すぐ近くにいる。俺はそっと部屋を覗いた。そこにいた者を見て息を飲む。美しい女の顔、そして上半身。しかし大きな翼を持ち、下半身は鳥だった。ハルピュイアだ。伝説の妖怪だ。依頼してきた彼が見たのはこいつだ。お姫様どころではない。こいつは人間ではない。それにしても何とか写真を撮らないといけない。俺は写真機を取り出した。露光時間は二秒。ゼンマイを巻き、部屋の方を向けて差し入れ、ボタンを押してすぐに引っ込める。それでいけるだろう。機械音を立てるだろうか。でもこの部屋は風の音もするから何とかなるだろう。俺はその場にしゃがんで感光紙をカメラにセットしたが、ふと見上げると、目の前にハルピュイアが来ていて、俺を見下ろしていた。俺は焦って反射的に拳銃に手をやる。何か仕掛けてきたらすぐに抜いて撃つつもりだ。しかしハルピュイアは、無邪気そうに俺を見下ろしているばかりだった。
「それは、なに?」
ハルピュイアが割とかわいらしい女性の声で言った。刺激したくないので、俺は冷静に答える。
「これは写真機だ」
「写真機って、なに?」
「知らないのか? ちょっと待ってな」
感光紙はセットしてある。俺は写真機を取り上げ、レンズをハルピュイアの方に向けた。
「もう少し向こうの、窓の近くに立ってくれるかな。明るい方がいいんだ」
ハルピュイアは素直に言われた通りにした。窓にはガラスもはまっていない。外からの光で、顔が照らされる。確かに美しい。妖怪であることを忘れそうになる。彼が見て夢中になったのはこの顔なのか。外の窓から中にいるハルピュイアを見ても、下半身は見えないのだ。俺はボタンを押した。わずかな機械音と、歯車の立てる低い音が二秒ほど聞こえて終わった。これでいい。間違いなく撮れている。
「写真を撮ったけど、現像しないと見ることはできないんだ」
「しゃしん? げんぞう? なに?」
「ええと……」
俺は説明に困る。別に正確に説明する必要もない気もするが、何と答えよう。
「それより、そらをとびたくない?」
「何だって?」
「わたしと、そらをとぼうよ」
「俺には羽はない」
「わたしに、つかまればいい」
そうして、ハルピュイアは羽を広げた。あらわになった胸に、招かれているような気がする。俺は写真機を置くと、近づいていってハルピュイアに抱きついた。温かい体だった。ハルピュイアはいきなり羽ばたくと、体が浮き、窓からすぐに飛び出した。俺は両腕と、足でもつかまっていた。羽ばたく力は強く、俺がいても平然と飛んでいる。空に向かって、高度が上がっていく。
「すごい力だな」
「したを、みて」
俺は言われた通り下を見た。すると、視界に入ったのは、巨大な螺旋模様だった。それを見るなり、激しいめまいに襲われた。俺は血の気が引く。目を閉じようと思ったが、閉じることもそらすこともできなかった。手足の力が抜け、ハルピュイアの体をつかめなくなり、俺は下に落ちていった。
そして俺は聞いた。ハルピュイアが高く笑うのを。あいつは肉食なのだ。
(参考)
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/varo/rv04.jpg
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