第9話 再生

 窓から月が見えている。青白く冷たい光。まるで私だ。彼はさっき部屋から出ていった。黙って出ていった。私のせいだ。ベッドに横たわり、下着すら身につける気力もない。彼に抱かれても何とも感じなくなった。このままでは、今に恋人でもなくなる。

 自分が病気だとしたら、あらゆることに気力が湧かないことだ。ただ何となく、毎日やることはやっているのだけど、ただそれだけ。人間というより、単なる生き物だ。喜びとか、情熱とか、意欲とか、そういうものがない。体が芯から冷えているみたいだ。

 病院に行けば、多分それなりの薬を処方されるだろう。きっと気分を上げる薬だ。でもそんなことでいいのだろうか。それは薬で気分を上げている。ただそれだけだとか考えてしまう。この世のあらゆるものが、ただそれだけになっている。病院へ行く気は出なかったが、その前に占いでもしてもらおうと思った。占いなら薬は出しようがないから、何が返ってくるのか分からない。その分からない部分が、何かの抜け道のような気がする。

 駅の地下道にある小さい占いブースで、老婆の占い師に見てもらった。目の前にタロットカードが広げられている。その中に、月のカードがあるのが分かる。

「さっき、自分が冷えてしまったようだと言ったね?」

「はあ、はい」

 私は答えも定まらない。

「『現在』を表す位置に『月』のカードが出ている。これは普通迷いを表すんだけど、あなたの場合、月の光に溺れているように見える。『過去』の位置に『太陽』のカードもあるね、でもこれは過去のことだ。あなたの太陽は、隠れようとしている。そして『未来』は『魔術師』。知恵で切り抜けられる」

「そうなんですか」

 どう切り抜けられるのか、よく分からない。

「今の時代、あらゆる人が心に冷たいものばかりを抱えている。常に月の光に照らされているようなものだよ。あなたはそれに影響され過ぎている」

 そうだろうか? 私は彼を思い出す。確かに、私が無気力と見ても、優しい言葉はかけてくれなかった。素敵な人ではあったのに。彼だけではない、私の周囲は誰だって、面倒な相手をすぐに見捨てる。私はため息をついた。

「どうしたら……」

「こんな都会になんかいてはいけない。森へ行きなさい。月夜の晩に」

「森?」

「探すんですよ。月の光に立ち向かう木を。そして、その木の声を聞くのです」

「木がしゃべるんですか?」

 老婆は苦笑した。

「いやいや……まあしゃべるかもしれないけれど、しゃべらなくても、そのつもりで身近に感じるのです。木に寄り添うのです。その木をあなたとするのですよ。大地の力を吸い上げ、月の光を浴びてもしっかりと立つ。それを自分だと思いなさい」

「そんな木、あるんでしょうか?」

「あります。探してみなさい」

 月齢のカレンダーを見て、満月の夜、私は森へ行った。森といっても少しは常夜灯もある森林公園だった。本当の森ではきっと暗くて迷ってしまう。寒いので着込んでいって歩き回る。ただでさえ冷たい体だ。寒い夜の屋外では動く気にもなれない。家にいればよかったと何度も思うが、それではもう終わりだ。元に戻ってしまう。私の歩みは遅い。人は誰もいない。公園はただひたすら広い。

 常夜灯がない場所では、月の光が思ったよりも明るく、木の形も分かる。ただ、どれも変わりがない。月から降ってくる光の中、どれも暗く押し黙っているように見える。ああ、そうだ、これが今の世の中だなと思った。あの老婆の言ってたことも分かる気がした。私はひたすら歩いた。道は続いているがもうここがどこだか分からない。ただ公園内だし、案内板もきっと探せばあるだろう。不安はなかった。ただ、私は木を探していた。

 何時間かさまよった。今が夜中の何時かも分からない。ふと、目の前の大きな木が、他と違うのに気づいた。見かけは同じだ。ただ、明らかに違う。その木の前に立つと、体の冷たさが和らぐ気がする。見上げるほどの一面の葉。常緑樹だ。その葉は、月の光を跳ね返していた。そして揺れている。風もないのに。

 私は木の幹に近づいた。両手を広げたほどの太い幹。その中が温かいのか、熱が伝わってきた。こんな木があるとは思わなかった。私は手を伸ばし、木の幹に触れた。すると目の前で、幹に大きな縦の裂け目が入り、横に広がっていった。何重ものカーテンが押し広げられるように。それは私を招いている。招き入れようとしている。向こうに何があるか、暗くて分からないが、私は中に入っていった。まるで液体の中に入っているように、抵抗があって生暖かい。そして頭の上の方から、何か熱のようなものが降りてきて、私の体の中に入ってくるのが分かった。それは昼の間、この木が吸収した太陽の熱と光だ。ああ、そういうことか。私は分かった。人間は、木が持っているこの力を奪われた生き物だ。だから木に比べて寿命がとても短いし、すぐに冷たくなってしまうんだ。降り注ぐ熱で私の意識がぼんやりしてきて、そして気を失った。

 気がつくと私は、木の前に倒れていた。すぐに起き上がった。心臓の鼓動が聞こえる。木の中に入って、すぐに出てきたのか、分からない。ただ今までとは違った。体が温かい。そして熱は体の中から湧き出てくる。私は彼を思い出す。今なら、今なら抱いてあげる。抱きしめて、抱かれて、情熱的に燃え上がってあげる。私は公園を出ようと思った。来た道も分からないが、構わない。勘で進んでいく。やがて案内板を見つけて、正確な出口も分かった。そのまま歩く。夜を歩く。今は夜中のいつだか分からないが、気にしない。一刻も早く彼の元へ。今すぐに会いたい。会って抱き合いたい。もうだいぶ前だけど、彼の元に通っていたこともある。合い鍵はいつだって持っている。彼の町へ。彼のアパートへ。そして彼の部屋へ。空が少し明るい、夜明けだ。構わない。これは私の夜明けでもある。鍵を開けて、中に入った。

 薄明かりの中、私は見た。眠る彼と、その傍らにいる若い女を。

 その時、私の中の熱が、全て解き放たれた。私はまた気を失った。

 誰かに抱き抱えられた。彼だろうか。違う。誰かが怒鳴っている。何かに乗せられた。私は目を開いた。

「あっ、気がついた!」

 見ると知らない人。銀色の服。消防士だ。

「どうなってるの?」

「よく助かりましたね。火傷一つない」

 火事になってしまったらしい。

「彼は? あと、もう一人の女は?」

「彼? もう一人の女? ああ、火傷を負って病院に運ばれましたよ。命は取り留めてるようですがね」

 生きてるのか……いいのか悪いのか分からない。ただ、私は冷たい体に戻っていた。


(参考)

http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/varo/rv30.jpg

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