第7話 塔へ向かう

「アニタはどこに行ったの?」

 彼女が突然立ち上がって大声で叫んだので、みんなは食事の手を止めて彼女を見た。ただ、誰も何も答えない。

「ねえ、どこに行ったの? 昨日まで一緒にいたじゃない! どこに行ったの?」

 みんな冷たい目で見ている。彼女は前からおかしかった。普通じゃなかった。いや、ある意味ここでは誰もがおかしい。でも、アニタなんて子はいないし、いたこともない。彼女の幻覚か何かだ。

 大人達が数名、彼女のところに駆け寄り、連れ去っていった。きっと彼女はもう帰ってこない。ここでは、こんなことが時々ある。食堂内は落ち着きを取り戻し、私も黙って食事を続けた。周りの女の子達も黙ったまま食事を続けている。

 食事を終え、自分の部屋に戻って支度をする。部屋を出る。自転車に乗る。そして寄宿舎を出て、塔に向かう。自転車は二列に、きれいに並んで道を走っている。私達はまるで人形のように、みんな同じ顔だ。同じ髪型で、同じ灰色のワンピースを着て、同じ自転車に乗っている。自分は違うと思っているけれど、多分私も同じだ。なぜみんな同じ無表情を続けられるのか分からない。でも、私もきっと無表情だ。そう思うと、自分が何なのか分からなくなってきて、自転車のハンドルを持つ手が汗ばんでくる。そして、なぜか髪の毛が、ゆっくりと浮き上がってくる。

 塔に着く。雲にも届きそうな高い塔。いつ造られたのか、何のために造られたのかも分からない。ただ、今では学校として使われている。下の方には、教室として使える大きな部屋がいくつもあって、私達はその一つに入る。机が並んでいる。私は自分の席に着く。授業が始まる。

「無限に部屋があるホテルは、現在満室です。一人の旅人がやってきました。旅人は、そのホテルに泊まれるでしょうか?」

 誰もが無表情のまま聞いている。

「一号室のお客様は二号室に移ってもらいます。二号室のお客様は三号室に、こうして無限の移動を行うと、旅人は一号室に泊まれるのです」

 毎日毎日、無限こそが、この世界で最も重要で神聖なものと教わっている。世界は一度滅びた。それは私達が無限を理解できなかったため、来るべきものに対処できなかったからだという。何が来たのかは教えてもらえない。いや、恐らく何が来たのかすら分からないのだ。そして、私達はまだ無限を理解できていない。誰かが理解しないと、再び世界は滅びる。だから一人で多く、学び続け、考え続ける必要があるのだと。

 授業が終わると、別の部屋で仕事が待っている。鏡を磨く仕事。鏡の大きさはいろいろで、手のひらぐらいのものから、体と同じぐらいの大きさのものもある。薬品を柔らかい布に染み込ませ、表面をきれいに磨いていく。十何種類もある薬品は、使う量も順番も決まっている。終わったら監督に鏡を見せる。監督はレンズの着いた機械で鏡のできばえを見る。合格の場合もあるし、不合格の場合もある。基準は素人が目で見ても分からない。

 時間になり、仕事を終えて、また一斉に自転車に乗って寄宿舎に帰る。毎日これの繰り返した。

 ある日、学校が終わったあと、今まで口を利いたことのない子が話しかけてきた。

「あのさ、話があるんだけど。私の名はリサ」

 私は彼女の目を見たが、他の子と目つきが違うのが分かった。

「どんな話?」

「あなた、気づいているでしょ? ここの子達がみんなどうかしてるって」

 確かにそうだが、何かうかつなことも言えない気がする。私は黙っていた。

「知ってるんだ。自転車に乗っていてさ、あなた髪の毛が逆立っている。私もそうなんだよ」

「……どうかしてるとは思う。でも、何がどうって説明できないんだ。私の方がおかしいんじゃないかって」

「そんなことないよ。それでさ、見せたいものがある」

「何?」

「今夜、塔に行こう」

「そんな、見つかったら怒られちゃうよ」

「大丈夫。私は何度も行ってる」

 消灯時間の後、リサと私は待ち合わせた。彼女は肩から布のバッグを下げている。私達は月明かりの中、自転車に乗って塔に向かった。塔に着いて、中に入る。鍵などはかかっていない。

「別に泥棒もいないからね」

 彼女はそう言って笑った。塔の中は、暗くて何も見えない。彼女はバッグから小さなランプを出して、それを点けた。

「こっちだよ」

 そして行ったことのない階段を上ろうとする。

「ダメだよ。そっちへ行っちゃいけないって」

「大丈夫だって」

 彼女は鼻で笑って、階段を上っていった。私も仕方なくついていく。上の階は天井が高かった。広い通路を歩いていき、突き当たりの部屋に入った。

 そこは、一見何も無いような大きな部屋だった。見ると、部屋の真ん中から奥に向かって、天井から下がった重そうなカーテンがあって、それが部屋を左右に仕切っていた。

「ここは……何?」

「左右の壁を見てみて。カーテンで仕切られた左右の壁」

 奥の方の、左右の壁を見てみるが、別に何もないようだ。ただ、ランプの光が届いていないように見える。そして私は気づいた。

「鏡だ……」

「うん、私達が毎日磨いている鏡だよ」

 部屋の奥側の左右の壁に、鏡が一面に貼られている。その間をカーテンが仕切っている。

「何をする……ところなの?」

「鏡の最終試験だよ。あの仕切ってあるカーテンを開けると、左右が合わせ鏡になる。無限反射するんだ」

「それは、私も手鏡とかでもやったことあるけど、それが最終試験?」

「普通の鏡は光が減衰するから、別に無限反射しても何も起きないんだ。でも私達の磨いている鏡は特殊で、光が減衰しない」

「減衰しないと……どうなるの?」

 彼女は微笑した。

「そこのハンドルを回してみて、カーテンが開くよ」

 私は部屋の壁についている、鉄のハンドルを回した。カーテンが開いてゆく。そして開き切ったが、別に何も起きない。

「まだ、何も無限反射してないからね。でも、ちょっと見ててね」

 そう言って、彼女は部屋の中央に行くと、ランプを持った手を伸ばし、合わせ鏡になっている間に入れ、すぐに手を引っ込めた。何秒かして、辺りが明るくなってきた。明るさは加速度的に増していって、一瞬、部屋の中が眩しい光で満たされた。その後、元の暗さに戻った。私は驚く。

「えっ、今の光……どこから来たの?」

「光が無限に重ね合わさった結果」

「じゃあ、どうして消えたの?」

「そこまでは分からない。でもヒントはあるんだ」

「何?」

「1+2+4+8+...+∞=-1 つまりね、無限の重ね合わせは、最終的にそれ自身が消滅するんだ」

 繰り込み計算で成立する式だ。習ったことがある。

「その計算式は知ってるけど……ただ、無限の足し算の結果がマイナスなんて、信じられないよ」

「信じられないのが人間の脳で、世界の実相はこっちかもしれないよ」

「そうかなあ……」

「それより、お願いがある」

 彼女はランプを床に置いた。そして荷物も置いて、中からロープを出した。そして、それを自分の腰に巻き付けた。

「何をするの?」

「このロープの端を持って。私が今から鏡の間に入る。何が起きるか分からないから。何か異常なことが起きたら、ロープを引いて私を助けて」

「異常なことって?」

「分からないよ。とにかく異常だと思ったことがあれば、すぐに引いて」

「分かった」

 私はロープを両手に持った。彼女が部屋の中央から、向こうへと、鏡の間へと入っていく。しばらくは、彼女は左右を見ているだけだったが、やがて小さく笑い始めた。そして、笑い声がだんだん大きくなった。

「見える……見えるよ。全部が見える!」

「全部って?」

「そういうことか。あはははは……」

「ねえ、何が見えるの?」

「何もかもだよ。あはははははは……」

 彼女の笑い声は狂ったようにけたたましくなっていった。これはもう異常だ。私はロープを引いたが、恐ろしく軽かった。輪になったロープだけがこちらに飛んできていた。彼女は消えていた。

「リサ! ……リサ、どこへ行ったの?」

 部屋に声が響くだけだった。誰もいない。しかし次の瞬間、目の前に人が出現した。それは私そっくりだった。私は驚く。

「えっ……あなた、誰?」

 その人も、私も見て驚いていた。

「あなたは誰?」

「あなたこそ誰? リサはどこへ行ったの?」

「リサ? 何のこと? どうして私そっくりな人がここにいるの?」

「それはこっちが訊きたい。私はさっきからここにいる。いきなり出てきたのはあなただよ」

「あなたの方だよ。突然出てきて……」

 私は怖くなって、壁に駆け寄ると。ハンドルを回した。カーテンが閉じられてゆく。カーテンが左右の鏡を仕切った時、彼女は消えた。でも、リサはいないままだった。

「リサ! リサ!」

 何度呼んでも、リサはもう現れなかった。

 翌日、私は食欲のないまま、朝の食堂へ行った。すると、何事もなかったかのようにリサがいるのに気づいた。私は思わず駆け寄った。

「リサ! 無事だったんだ!」

 でも彼女は、私を見て顔をしかめるだけだった。

「あなた……誰?」

「誰……って、覚えてないの?」

「私はリサなんて名前じゃないよ」

 私は血の気が引く。嘘をついているとも思えない顔だった。彼女の周りの子も、あきれたような顔で私を見ている。私は思わず叫んだ。

「リサはどこに行ったの?」

 大人達が駆け寄ってきた。


(参考)

http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/varo/rv06.jpg

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