第2話 星の狩人
月に一度、妻は引きこもって自分の部屋から出てこない。別に仲が悪いというわけではなく、始めからうちは夫婦別室での生活だった。部屋から出てこない時は妻は仕事も休んでいて、家のことも何もしない。たいてい月に一日か二日そんな状態だ。食事を作って部屋に持って行くと、別に怒られはしないが、ほとんど眠っていた。いつ起きているのか、しばらくしてまた部屋に入ると、食事がなくなっていたりする。
いわゆる月のものだろうと思うが、自分が人から聞く話とずいぶん違う。機嫌が悪くなったりという話も聞くがそんなことはない。人それぞれなのだろう。
その日の夜中のこと、ふと目が覚めた。僕は朝まで目が覚めないたちなので、何が起きたのだろうと思った。別に何もない。僕は再び眠ろうとしたが、隣の妻の部屋で何か物音がしている。起きているのだろうか。それにしては、聞こえるのは何か雑音のようなものだ。テレビの砂嵐のようなノイズの音が、聞こえては途絶える。
僕は自分の部屋を出て、隣の部屋の前に立った。妙な雑音がまだ聞こえる。僕はノックした。
「起きてるかい? 何している?」
返事がないので、僕はドアを開けた。雑音だと思っていたのは波の音だった。波の音のレコードでもかけて眠っているのか。僕は中に入った。暗闇だった。僕は裸足の足の感触に驚いた。砂だった。砂浜を歩いているようだ。
「おい、部屋に砂を撒いたのか?」
僕は、二、三歩進んだ。目が慣れてくる。そこは部屋ではなかった。本当の砂浜だった。驚いてあたりを見回すと、後ろにドアはなかった。夜の砂浜で、波が打ち寄せている。どこにも人がいない。部屋に映像でも投影しているのかと思い、手を伸ばして歩いていくが、壁には当たらない。
「おおい! どこ行ったんだ?」
さらに目が慣れてくる。妙に赤っぽい砂浜だ。それもそのはず、上を見上げると、星がたくさん瞬いていたが、全て赤い光を放つ星だった。あまりきれいな赤い色でもない。赤というより赤暗いと言った方がいい。
ふと、遠くに光が見えた。青白い光、それは小さく揺れていた。その光に照らされ、人影が見えた。きっと妻だ。僕は人影に向かい走っていった。
近づくに連れ、それがどんなものか分かってくる。やはり妻だった。黒い、魔女のような服を着ている。片手にかごを下げている。かごの中に青白い光。よく見ると、それは月だった。僕は妻に話しかけた。
「おい、何してるんだ? それは何なんだ? 月のように見えるけど……」
妻は黙って歩いている。険しい表情だった。苦しそうと言ってもいい。しばらく歩いてから、妻は口を開いた。
「どこにしよう……だんだん分からなくなってくる」
「何が?」
妻は空を見上げた。赤暗い星ばかりが広がる空。そして再び前を向いて歩く。
「月を捕まえるのも……年々難しくなってきた」「月を捕まえる?」
「これよ」
見ると、もう片方の手に虫取り網を持っていた。つまりその網で捕まえて、今かごの中にいるということか。
「月を捕まえてどうするの?」
妻は答えず、立ち止まった。
「ここかな……」
妻は網を地面に置いた。そしてかごを両手で持つと、思い切り揺すった。月の光が強くなっていった。
「おい、何やってるんだ」
妻は黙って、揺すり続ける。光がさらに強くなり、まともに見ていられない。そして妻はおもむろにかごの扉を開けた。月が飛び出して、空に昇っていった。そして遙か真上まで行くと、いきなりそれは弾けて、一瞬、空も地面も明るくなった。次の瞬間、月もろとも光は消えていた。しかしさっきと様子が違う。砂浜は赤っぽくはなかった。
「あっ……」
空の星が、どれも月と同じ、青白い光になっていた。それは若々しく、力強い。何となく僕は納得した。
「なるほど……こうするためか……」
そして妻の方を見るが、妻は地平線近くのある一点を見つめていた。そこには赤暗い星が星がいくつか残っていた。
「あれは……」
「前はあんなことはなかった……でもだんだんそうなる……」
僕は何か言おうとしたが、その瞬間に妻も砂浜も何もかも消えて、僕は妻の部屋の前に立っていた。部屋の中から、何の物音もしなかった。僕は部屋にも戻って、再び眠りについた。
翌朝、部屋から出てきた妻に、この話をした。
「それがつまり『月のもの』というわけなんだね」
妻は半分笑いながら顔をしかめた。
「はあ? それはあなたが考えたものでしょ? ずいぶん変な夢を見たんだね」
夢だろうか。部屋の中が砂浜になるはずがないので、やはり夢だとは思うのだが、でも僕は確かに見たのだ。
月を捕らえたかごを下げて、赤暗い星の広がる砂浜を歩く、魔女のような妻の姿を。
(参考)
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/varo/remeluna.jpg
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