マクスウェル

 モローは、バイト先から電磁浮遊ライドで数分の距離にある寮の部屋に住んでいる。

 警備室でのバイトが終わって帰宅し部屋に入るやいなや、前方にある灰色の壁に左手を伸ばした。ひとりで手前にせり出してきたホロテーブルに指先が接すると、テーブルの上にが出現し、様々な情報が流れるように表示され始めた。

「さてと。明日の試験は、っと」

 モローの独り言に反応して窓の情報がピタリと止まり、その一つが自動的に拡大された。それをしばしじっと見つめる。

 そして溜息をつくと、ホロテーブルの上で両手をゆるゆると動かした。いくつもの図表や文章の窓が空中に開かれ、それをくわっと開いた目で追う。しかし、ピンと来ない。目ではいるが、はいない。

 モローは目を半分閉じて上体を反らしながらたっぷりと鼻で息を吸い、体を縮めながら再び大きく重い溜息をついた。そして一呼吸おいて、面倒くさそうに右手でホロテーブルの上を薙ぎ払った。その動きに反応し、それまで様々なものが表示されていた窓が全て消えた。

 目を閉じ、首をグルグルと曲げた後に目を開く。そして、しばし宙を見る。また溜息をつく。

 左手の人差し指でホロテーブルの上を数回トントンと突くと、その上に高さ二十センチほどの小さな人型のフィギュアが出現し、じわじわと回転を始めた。なおも両手をゆるゆると動かすと、その上に赤く「初期設定終了」と出てきて、はずんで消えた。

 ……さてと。貰ったときは嬉しかったけど、実際に起動してみるとなんだか急に面倒になってきたな。ここから、マクスウェルをどう変型実体化させていくか。ちょっと時間と手間、かかるだろうなあ。

 ふう、と何度目かの溜息をついて後ずさりすると、スルリとパイプ椅子が腰の下に入ってきた。警備室のものと同じデザインだ。

 モローは両手を組んでタイミング良く前のめりに腰掛け、じっと「マクスウェルちゃん」を見つめた。

 灰色の全身、鼻しかない頭部、つるっとした身体。ディテールが無い。この中に、スターティングシードとしての「マクスウェル」のコア――最初期情報が入っているのだ。いわばこのフィギュアの「遺伝子」だ。

 さあ、これに「マクスウェル」をつけていくことになるか、あるいは何かを引いて結果的に「らしさ」を際立たせていくか。

 まあ、両方やりゃいいんだろうけどね。

 組んだ手をホロテーブルの上でやわらかく揉むように動かす。フィギュア周囲の空中に幾つかの窓が現れ、様々な文字やイメージが表示された。モローの手や口元、首の動きに合わせ、それらが変型、消滅、拡大、縮小、分裂、融合などを繰り返す。最初は面倒にも感じていたが、やっているうちに少しずつ気分がノッて来た。

 そこへ被さるように、大きくアラートが表示された。

 集中が途切れた。なんだろう。速報だ。

 両手で他の窓をに押し込むジェスチャをして、アラートが表示された窓を拡大した。

《ガリアリウム変性症の病原物質であるガリアリウムを作ったバイオテロリストのゲラソン・ミョーン捕獲》

 おお。あのガリアリウムを作った奴が捕まったのか!

 アラートの窓には、モローもよく知っている灰色の顔が映し出された。この顔は、バイト先の警備室入り口にも大きく表示されている。ゲラソンは暫く前から、このサケタマ県だけじゃなく、サケタマ県がある第八ワームホールエリアの全域で指名手配されていた。

 この数年、視認はもちろん生体パターン、バイオリッドパターンのスキャン網をもくぐり抜けてずっと潜伏あるいは逃亡していた奴だ。いったいどこで捕獲されたのだろう。

 モローはさらに窓を拡大する。しかし速報ではそこまで詳しいことは書かれていない。

 この第八ワームホールエリアが最初にガリアリウムに汚染され、被害が一番大きい。実行犯のゲラソンはとっくにこのエリアからは逃げているのだと皆が思っていた。

《これよりゲラソンの記憶へのインナーダイブを行い、ガリアリウムの生成方法と処理方法を調べ、またガリアリウム変性症の治療方法を確立する予定》

 そうか。やっとか。

 モローは静かに視線を外し、感慨にふけった。


 バイオテクノロジーを用いて改変した細胞から造った人工のヒューマノイドである「バイオロイド」と「人間」のハイブリッドである「バイオリッド」。そのバイオリッドにのみ影響する化学物質ガリアリウムが発見されたのは五年ほど前だった。当初は第八ワームホール周辺のエネルギー物質「ジラソリウム」を加工する工場の労働者に散見される脳の変性疾患として現れたため、工場での作業そのものに伴う職業病の一つだと思われていた。しかしその後、第八ワームホール周囲に住む公衆衛生クラスタの調査により、伝染病であることが判明。そしてその病原物質「ガリアリウム」が特定された。その物質は、高エネルギーを持つ励起ジラソリウムから放射される放射光を吸収してエネルギーとし、感染したバイオリッドの生体組織を壊しながら自律的に増殖していく。そして最終的には脳神経を破壊して死に至らしめる。

 その後、その物質を作成して工場に撒いたのは自身もバイオリッドであるゲラソンというテロリストだということが公表された。目的は不明。物理化学や医学生理学、生物工学、生化学、理論生物学、位相エネルギー神経学クラスタが総出で研究してもガリアリウムの分解や処理方法が判明せず、作成者本人を捕獲して情報を引き出す他にはこの被害拡大を防ぐことは出来ないといわれていた。


 ボヨンボヨンという個性的な音がした。音のほうに目を向けると、そこには別の窓が出現しており、楓の顔が映っていた。

〈モローさん、ゲラソン、捕まったッスね! うちらの警備室でも結構面倒な調査とか捜索、時々手伝わされてましたッスね。ようやく解放ッス〉

 安堵の表情だ。

「うむ、よかった。結構感染してた奴多かったよねえ。ほら、大統領も感染してたでしょ。確かここの近くのジラソリウム工場出身だったよね。もう潰れたけど」

〈感染だけなら結構いるッスよ。ジラソリウム工場に限れば感染者はもう全従業員の二割、うちの課程の教授陣のうち数人も感染してるッス。励起ジラソリウムの強い放射光受けると急激に増殖するけど、バイオリッドは自身がジラソリウム使うから、工場外でもじわじわ進行するんスよね〉

「楓くんはバイオロイド比率どんくらいだったっけ?」

〈七十二パーッス。モローさんは半々だったッスか?〉

「そうなのよ。丁度五十パーで、意外と珍しいんだよね」

〈人間多めッスね〉

「そこが脆弱だから、疲れやすいんだよなあ」

 モローは左手で掴んだカフェラーゼのカップを口元に近づける。

〈んなこと無いッスよ。純粋種だって、大半の人はモローさんみたいにいっつも疲れてないッスよ。まあ純粋種自体がレアっスが、ほとんどは普通に仕事してるッスから〉

 なんだよもう。いいじゃん人間部分のせいにさせてよ。

 モローはカフェラーゼを一口含むと、はたと姿勢を直した。

「そうそう、楓くん。今日、警備室長から誕生日ボーナスガチャでもらったマクスウェルのフィギュア、初期設定終わったんだけど、どういう方向に持っていったらいいだろかね?」

〈フィギュア、巷では流行ってるみたいッスけど、実はあまり知らないんスよ。マクスウェルって物理学者のマクスウェルッスか? 方程式の〉

「そうそう。でも、普通にやるとオッサンになるから、あえて『ちゃん』付けをしたりして、だな」

〈別にオッサンでいいじゃないッスか〉

「いやなあ。やっぱこれから実体化するのに、もっと趣向を凝らしたほうが、とか。ほら、かなり進行しちゃうと情報に物質が肉付けされ始めて、やり直すの難しくなるでしょ、これ。それにオッサンじゃあ……」

 モローはじっと楓の目を見つめる。

「まるで自分を見てるようで寂しいじゃないか」

 窓に映る楓は目を閉じて、口に銀色のカップを着けた。

〈じゃあオッサンのマクスウェルを一旦概念解体して、再融合させて作ればいいんじゃないッスか。オッサン成分だけフィルタリングして抜いて、マクスウェルの業績やら何やら記録に残ってるものから具体化したもので埋めるんス。それならマクスウェルで、なおかつオッサンじゃないものを作れるッス〉

「でも業績を具体化、っつうてもなあ」

〈モローさん、十七年も大学生やってますでしょ。心当たりいろいろ探してみるといいッスよ〉

 余計なお世話だよ、ほんともう。

「えー楓くん。ここはハイパー医学生の楓くんの頭脳を拝借できない?」

〈せっかく自分で作れるものゲットしたのに勿体ないッスよ〉

「まあそうなんだけどさ。貰った時は嬉しかったんだけど、いざスターティングしようと思うと、なんだかちょっと面倒になってきちゃって。それにほら、ゼロからっていうより、自分以外の人が作った初期要素の混沌をかきわけて自分好みに……っていうのも楽しそうかな、と」

 モローが銀色のカップの横を指でクルクルと撫でると、冷めていたカフェラーゼから湯気が再び出てきた。

「あとさ、実は、明日試験があって。これ落とすと最初から再履修なんだよね。このゼミ、制限いっぱいの二年近くかけたからさ。できればやっぱ取っときたいんだよ。で、フィギュアいじってると、どうしても勉強に身が入らないんだよね。だからさ」

〈そうッスか。今度こそ頑張って単位取って下さいッス。フィギュアの序盤の方向づけは、やってみるッス。ちょっとこっちからも繋がせてもらえれば、適当に混ぜて最初のほうだけやってみるッスよ。お好みは『非・オッサン』で良いッスね〉

 窓の中で楓がサムアップした。

「まあ、それでちょっとやってよ。好きなだけ詰め込んでいいからさ。最初の一パーセントだけでいいから」

〈いいんスか? 知らないッスよ。それに初心者なので適当ッスよ。だいたい、ホロフィギュア育成はスターティングが一番大事って聞くッスけど〉

「いいんだよ。だからだよ。その後の調整がまた楽しいのよ。ちょっと今年はセレンディップ気分なのだよ」

 適当な言い訳をする。

〈了解ッス。じゃ〉

 フッと楓の顔が表示された窓が小さくなって消える。

 目の前でゆっくり回転しているマクスウェルを見ると、もうほんのりと色づいてきたように見える。

 早いな。さすがハイパー医学生の楓くん。

 さてと、勉強でもするかあ。やる前から疲れてきたけど。

 と、その時、視界がぼやけ、内臓が突然「空っぽ」になった感覚に襲われた。

 気づくとここは入り口ホールだった。下の階じゃないか。ホールのソファにケツが収まってる。ふかふかだ。俺のパイプ椅子とは違う。これ作るのにはかなりエネルギー食いそうだ。そうじゃない! なんだこれ!

 見上げる。ホールの天井に幅一メートル、長さ五メートルほどの楕円形の大穴が開いていた。そこは自分の部屋だ。ホールの壁面にも直径一メートルほどの大穴が開いている。

 異常事態だ!

 慌てて自室に駆け戻る。見ると、部屋の壁にも直径一メートルほどの大穴が開いている。おそるおそるそこから覗き込むと隣に住むバイト仲間、ンマムニの顔があった。

「ンマムニくん、大丈夫? これ、何だろね?」

「ちょっとわかんないです」

 ンマムニは青ざめた顔でビクビク震えている。

 純粋種はほんと脆弱だ。やっぱり俺が疲れやすいのは人間成分多めなせいだよ。これで確信した。

 穴からンマムニの部屋を覗き込むと、向こう側の壁にも同じような穴が開いていて、外が見えている。

「怪我とかは?」一応尋ねておく。

 ンマムニは、ぶるぶる震えながら「大丈夫です」と答えた。

 首がブルっとなる。目の前に簡易インジケーターが表示された。指を動かすと見慣れた初老のバイオロイドの顔が現れた。バイト先の警備室長だ。

〈やばいよやばいよ。モローくん、今すぐ来てほしいんだ。緊急事態だ〉

 いやこっちだって緊急事態だ。ソファが無かったらケツが壊れてた。いや、そうじゃなく。

 しかし緊急召集がかかるなんて。よっぽどのことだろう。そっちが優先だな。

「わかりました。向かいます」

 モローはンマムニとともにホールに下りてライドを呼ぶと、いつもの警備室に向かった。ライドの中でもンマムニはぶるぶる震えていた。

 しかしこいつ、こないだ入ったばかりの新人とはいえ、これで仕事になるんだろうか。


 警備室には、室長の他に、すでに楓の姿があった。素早いな。

「お疲れッス」楓が声をかけてくる。

「疲れてるよ」モローが応える。

 室長が口を開く。

「リアルで来てもらって申し訳ない。ちょっといろいろとやっかいな事になった」

「なんでしょか」ンマムニが問う。

「厄介でしかも結構秘密だ」

「結構?」

 なんだか緊張が薄れる。

「こいつだ!」

 薄れた緊張を引き締めるかのように、室長の張りのある声が響いた。指は壁を指している。入り口に表示されている見慣れた指名手配窓。赤い大きなバツ印が上から描いてある。

「え、ゲラソンですか。ちょっと前に捕獲された、って言ってましたよね」

 先ほど見たアラートを思い出しながらモローが尋ねる。

「そうだ。昨日サケタマ県警が捕獲し、さっき一般に公表された。その数時間後、つまりさっき、謎の……いやそうでもない。でも、ああいいか。でもなあ。どうしよう」

 室長は眉間に皺を寄せて言葉を途切れさせ、じっと考え込んでしまった。

「し、室長! 緊急事態って言ってたッスよ!」

 楓が慌てて室長の注意を呼び覚ます。

「そ、そうだ。そう。端的にいうと、ゲラソンが逃げた」

 警備室がシーンとなった。

「げ、ゲラソンて。捕獲されて県警に留置されてたんですよね。それ、どうやって」

「それがわからん。というか、公式発表もされてないし、県警に訊いても教えてくれない」難しい顔で応える室長。

「え、じゃあどうして逃げたって……」

 室長は言いにくそうに顔を歪めて、消え入るような声を出す。

「そ、それが、実は、あの、ま、麻耶さんから直接」

「ま、麻耶先輩ッスか! また何かやらかしたんスか!」

 楓が叫ぶ。モローもいつの間にか口をあんぐり開けていた。

「そ、そうとは言ってない。が、麻耶さんの説明によれば、その、状況的に、ひょっとしてというか、その可能性が否定できないというか、そんな感じがしないでもなくて、っていうか、多分というか、ほぼ確実に、いや、明らかに確定というより、もはや事実」

 そこへ大きな窓が出現し、緑色の髪の毛をした少女の顔が映し出された。

〈お久しぶりです皆さん〉

「ま、麻耶さん!」

 室長の言葉に、少女が一瞬不快な表情になった。そしてしっかりとした口調でゆっくりと、皆をたしなめるように言葉を発した。

〈マーヤ〉

 そ、そうだった! 

 皆モローと同様に、何かを思い出してるようだ。ンマムニだけが不思議そうな顔だ。

「……マーヤ、お久しぶりです」

 反射的に挨拶してしまった。

〈そうそう、それでよろしくってよ〉

 満足げな表情をする麻耶。室長は緊張した表情で脂汗を流している。

 一呼吸おいて麻耶が続けた。

〈さて今回は、ちょっと困ったことがありまして〉

 あちゃー。麻耶先輩の困ったこと、って、なんか凄く嫌な予感がする。

 前に先輩が衛生学の臨時講師をした時も、別のワームホール領域にいる衛生クラスタを呼びに行くとか言って次元の裂け目に落っこちて、それを助けるのに楓や室長も含めておおわらわ、サケタマ県警まで巻き込んだのだった。お陰で取れそうだった単位を二つ失った。痛かった。あれは痛かった。

 周囲を見回すと、やはり皆、同じ思いを抱いているようだった。そもそもこの警備室を企画設計、運用開始したのが先輩だ。だから何かというと警備室が協力させられる。つまり似たような厄介ごと、関わると何か嫌なことが起こるようなことを、新人のンマムニを除けば室長含めこの警備室メンバーは皆経験している。というかンマムニは今回初めて経験することになるだろう。

〈私、ここ五年間はいくつかのジラソリウム加工場で産業医をしていまして。そこで発生する環境中の有害物質を虚数空間に捨ててしまえないかな、って思って次元位相転移装置につける外部デバイスを作ってたら、その実験中に、そのう〉

 なんか物凄く嫌な感じ。

〈装置が暴走というか、調整効かなくなっちゃいまして。ちょっとばかり、ビームがドバーッと出て、その、ゲラソンの留置カプセルを貫いてしまいまして〉

 麻耶がぺろりと舌を出した。

 皆が一瞬にして固まり、しばし無言の時間が流れた。

 県警を含め、このワームホール域の主たる機関が総力を上げて何年も掛けて捜査し、またこの警備室でもそのお手伝いをしながらもようやく捕獲された、バイオリッド史上最悪のテロリスト。まさに現代文明の敵ゲラソン。

 それを、に、逃して。

〈で、そう。多分方向的に、これって私が設計したマーヤ寮の方向かな、なんて。まあマーヤ寮はいいんだけど。さらにその先にサケタマ県警があったなんて、ちーっとも想像してなくって〉

 そのマーヤ寮に住んでるんだよね。我々は。

〈大丈夫。生体には直接影響が出ないから。危なくないように作ってあるから〉

「でも麻耶先輩」たまらずモローが声を上げる。

 また麻耶の顔がキッとなった。

〈マーヤ〉

「……マーヤ、マーヤ寮の、うちの床が抜けて落っこちて、壁にも大穴が開いてしまったんですよ」

〈そ、そうか。そうだった。そこまでは読めなかった。ゴメンナサイ!〉

 麻耶が目を閉じて申し訳無さそうに手を擦り合わせ、拝むポーズをした。

 しゃあないなあ。麻耶先輩は何故だか許してしまう。だからみんなが苦労するんだけど。いやいやそんなこと言ってる場合ではない。

〈そう、だから、ちょっとゲラソンを捕まえないといけなくなっちゃって〉

「なるほど。でも、県警が捕まえるんじゃないッスかね」

 麻耶は楓に向けてさらに申し訳ない表情をする。

〈いやその……県警本部長がおブチ切れで。『お前が捕獲して来なけりゃお前を消す!』とか息巻いてて。まあ、それは仕方ないかなとも思うんだけど。このままゲラソンからガリアリウムの情報が得られないんじゃ、私達バイオリッドもいずれガリアリウム変性症で全滅だし〉

 さらりと怖いことを言うねえ。まあ事実だけど。

 どんどん広まっている感染症だから、そのうち自分も、とはモローも思っていた。不思議と実感はないのだが。

〈あと最近産業衛生関連の法律が変わって、励起ジラソリウム扱う工場の産業医は専門医資格も取らなきゃならなくなったの。それ取るのに、今と違う環境での実務経験が三年必要なんだけど、ゲラソン捕まえたら特例で専門医くれるって〉

 なんつー個人的な。

〈それで、ゲラソンが逃げた痕跡を調べたいんです。それには、その、警備室の高性能マシンでの探索が……〉

 麻耶が警備用に設計したスーパーAIのことだ。

「ああ、それだけですか。そういうことでしたら、いくらでもどうぞ。何をやらされ……いやお手伝いすることになるかとヒヤヒヤしてました」

 室長が心底ホッとした顔になった。

〈ありがとう!〉

 窓の中の麻耶が笑顔で飛び跳ねている。

 それを見ながら、モローは嫌な予感がしていた。

 多分これだけじゃ済まない。

 なんだかまた疲れそうだなあ。

〈じゃあ、ちょっとそっち行きますね!〉

 やれやれ。仕方ない。創設者様が来ることは、誰にも止めることはできない。

 麻耶の顔が表示されていた窓が消えると、警備室の人間は各々滑り出してきたパイプ椅子に座り、全員が銀色のカップを手にした。しかし口をつける者はいない。先ほど安堵したように見えた室長すら固い表情でカップを持ったまま、じっと何かを考えて、そしてその考えの内容にまた不安を覚えて、といったループから抜け出せないでいるようだった。

 室内には次第に芳しいカフェラーゼの香りが広がっていった。


「お待たっせー」

 灰色のスーツを着た少女が入ってきた。地味な服に明るい緑色の髪が映える。

「麻……いやマーヤ、お久しぶりです!」

 室長が声を上げると他の三人も立ち上がり、そして室長とモローが深々とお辞儀をした。

「いやあ皆さんお変わっりなく。あ、モローくん、卒業は出来た?」

 来ていきなり痛いところを突く。

「あと三単位です。あのときの、マーヤのアレがなければ今ころは……」

「三単位! ならあと四、五日で取れるじゃん! がんばれ!」

 十三歳で医者の資格取った自分と比べないでよ。

「さて、早速だけど時間がないの。ホロテーブル、オーン!」

 麻耶は両手をぐるりと振り回した後、ピタッと止めてポーズを取った。

 いつもながらキメキメだ。しかもそこだけ声優声が妙にはまっている。

 他のメンバーはバラバラと麻耶の後ろから囲むように集まり、麻耶を眺めている。

 麻耶がホロテーブルの上で手をやわやわと動かすと、あちこちから様々な映像や文字が出現して集まったり分裂したりを繰り返した。

 とてもモローの目で追うことは出来ない。それに麻耶は時々「チッ」とか「リーン」と聴こえる音声を口走っているが、可聴帯域外の音波も混じっているようで、音声ショートカットなのか何なのかも判別不能だ。

「麻耶先輩は、相変わらず凄いッスねえ。僕が十三歳のときに高校課程の同じゼミを一瞬だけ取ったんスけど、僕が二時間掛かった課題を十歳の先輩が四秒で終わらせたのを見て、やる気無くしたんスよ」

 こそりと楓が耳打ちしてくる。

 微妙に自慢を混ぜ込んでるな。しかし麻耶先輩は別格だ。こんなハイパー医学生ですらやる気を無くす。自分なんてとてもとても。何をやってるのかはもちろん、言ってることのほとんどが解らないこともたびたびある。

 室長やンマムニも同様のようで、しばらく感心して眺めていた後はまた灰色のパイプ椅子に腰を下ろして銀色のカップを口に付けたり雑談したりしている。

「どうせ観ててもわかんないですよねえ」

 モローは室長の隣に椅子を移動すると、こそこそ話を開始した。楓はまだ麻耶のダンスを目で追っている。

 あいつ、解るのか? それとも意地か。

「モローくん、プレゼントはどうだったね」やや落ち着いた顔の室長が訊いてくる。

「あ、ありがとうございます。というか、自分のレベルじゃちょっと引けないガチャの景品なので、嬉しかったです」

「そうか。それはよかった。成長してるかい?」

「いやそれは、まだちょっとだけでして」

 頭を掻く。それを聞いて室長はまた別の話題を振る。

「そういえば、大学課程全終了したら、どうするの?」

 モローは黙ってしまった。

 そう。そこだ。実は何も考えてなかった。

「えー、と。とりあえず仕事を」

 モローの答えを聞いた室長の顔がほころんだ。

「じゃあさ、ここのバイト厚くしようよ。レベル五アップとか」室長の目と口がカパっと開いた。

「それじゃあ専属の副室長じゃないですか」

「いいじゃないの。減るもんじゃなし。ここもさ、全部でこの四人しかいないじゃん。それに俺もそろそろ辞めたいしさ。だからさあ」

 室長の目つきがギラギラしてきた。

「いや、勘弁してくださいよ。それじゃすぐ室長になっちゃうじゃないですか。これでも中年なんです。体も心も疲れてるんですから」

 そう言いながら視線を室長からカフェラーゼのカップに移し、中身を一口すする。

 こういう疲れそうな話は避けるに限る。

「ち、ちょっと。あ、やっばーい!」

 声の方を見ると、ホロテーブルの前で麻耶の動きが止まっていた。

「どうしたんスか?」

 楓が表情を曇らせながら訊いた。

 嫌な予感がする。

「逃げたゲラソンの吐息と汗のバイオリッドパターンを推測してやっと痕跡見つけたからそれをトレースしたんだけど、このジラソリウム加工区域の廃工場でトレース不能になってるの」

 覗き込んでみると、以前この警備室でも請け負っていた、少し離れたところにある廃工場の地図だった。

「ここ、ちょっと前にワームホール周期に共鳴して膨大な励起ジラソリウムの放射光が一箇所に照射される事故があったのね。それで空間が不安定になって亜空間に向けて亀裂が発生しそうで危険だから廃工場になったんだけど、ここは法律でトレーサー侵入禁止になっててトレース出来ないの」

 そういえばそんな事故あったっけな。

「え、じゃあどうしますか」カフェラーゼを持ったまま室長が問う。

「入れないなら、中で作ればいいじゃん!」

 な、中って!

「それなら違法じゃないでしょ?」

 麻耶はまた踊るように両腕を動かし、次々と追加の窓を開いていった。

「ちょっとモローくんと室長、サポートして!」

「ほいな」

 室長の軽い返事に、モローはため息をつきながら椅子から立ち上がった。麻耶を挟んで室長と反対側でスタンバイする。

 やっぱりこうなるのね。

「同期するわね」

「はい」「了解」

 モローの脳内にザザッと信号が送られてきた。同時に両手が踊り、ホロテーブルの上をひとりでに素早く動く。室長を見ると同じように同期して踊っていた。

 数分後、フッと腕の動きが止まった。

「さ、できた」

 麻耶の言葉と同時に、モローと室長は両手をガクッと落とした。モローはすぐに椅子を寄せて座る。

 ふう、疲れた。

「え、いま何をやったんスか?」楓が訊く。

「三本の量子ビームを工場の干渉させて安定化し、仮想物質を組み立ててバーチャルドローンを作って追いかけさせたのよ」

 楓の口が開きっぱなしになった。

「そ、それって、可能なんですかね?」モローが尋ねた。

「え? だって、出来たじゃん」

 麻耶がじっと見つめる窓には、確かに工場内部と思える映像が映し出されていた。

 なんだこりゃ。どういう技術だ。

 他の皆も呆気に取られて無言のまま画面に見入っている。

 さらに麻耶はまた両手をリズミカルに動かしながら複数の窓を開き、各方向をチェックしている。

「痕跡再確認……あ、ゲラソン! いた!」

 窓の一つが拡大された。窓の中央にぼんやりと虹色に光る球体があり、その手前に一瞬、人影らしきものが映って、そして消えた。

 麻耶の動きが止まった。そして画面をじっと見つめると、そのままその場にへたり込んでしまった。

「ま、マーヤ!」

 モローは椅子から下りて麻耶に駆け寄った。

「どうしたんですか、マーヤ」

 麻耶が床にへたり込んだまま口と目をぱっくりと開き、宙を見据えたまま放心している。

 周囲にわらわらとメンバーが集まってくる。皆、不安げな表情だ。

「ゲラソンが、あ、亜空間に……落っこちちゃった」

 えーっ!?

「亜空間に……ッスか。それじゃあ……」

 楓が青ざめた。

「そう。ゲラソンは、もうこの世界にはいない」

 ちょ、ガリアリウム変性症治療の最後の砦が!

「そうだ! こんな事もあろうかと!」

 麻耶は立ち上がると、またホロテーブルの上を数分操作した。

「これでよし!」

 出てきた窓に左手を近づけた。窓が一瞬緑色に光った。

「何するんですか?」モローが問う。

「何って、行くのよ」

「どこに」

「どこって、亜空間に決まってるじゃない。前に職場巡視の最中に何度か亜空間に落ちて危ない目に遭ったの。それで、亜空間内ナビコンの試作品を作ってたのよ。それを埋込み型の次元位相転移装置に組み込んだから、それを使う日が来たってこと」

「そ、そんなことが出来るんッスか!」

「私は医学と工学と宇宙物理学と次元位相情報学の横断博士持ってんのよ。バカにしないで」

 そう言うと麻耶は右手に持つ緑色のカードをモローに渡した。

「これ、モローくんに組み込むから、ナビよろしく」

「ちょ、ナビって、ちょ!」

 そう言うやいなや麻耶は警備室を走り出て行った。

「あーッ! い、いやっ! ま、待っ……」

 モローが手渡されたカードを見ると、もう掌にほぼ吸収されてしまっていた。

「ひい」

 腰から下の力が抜けて、その場にへなへなと座り込んでしまう。

 やっぱりこうなったじゃんよ……。

「も、モローくん。今回は、モローくんが主役だなあ」

 室長が笑みを浮かべて座り込むモローの肩を叩いた。

 なぜかホッとしているようにも見える。

「そ、そんな、みんな一緒にお願いしますよ!」

「もちろんッス。全バイオリッド文明の存亡がかかってるんッスから!」

「お願いします!」モローはよろよろと立ち上がって勢いよく頭を下げた。

 ってか、なんで俺が頭を下げなきゃならないんだ!

 と、その時。

「頼もう!」

 突然の大声に、全員が飛び上がって後ろを振り向いた。

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