なぞの出納帳
ンマニ伯爵
プロローグ
薄い藍色のアルバイト用警備服に身を包んだ小太りの中年男――モロー・デ・ヤンスは、広さ五十七平方メートルの楕円形をした部屋の中央に置かれた灰色のパイプ椅子にもたれたまま、四十八回目の誕生日時を迎えた。
天井から正面の壁にかけての方向に天の川銀河の3D映像が拡がっている。モローはいつものように口を半分開き、無限遠方に意識の焦点を合わせながらボンヤリとしていた。そうすると、退屈な日常の生活や仕事、勉強で少しずつ産み落とされ脳に溜まった垢やゴミが、視線のトンネルを通ってどんどんと虚空に吸い出されて消えていってくれるような気がするのだ。
満天の星空はいつも全てを包み込んでくれる。その中にで光る点の一つですら、自分にはどうすることも出来ない。そしてそれが一生かかっても把握できないほどに無数にある。その圧倒的な量感と絶望感が、自分の小ささや無能さを一瞬だけにしろ忘れさせてもくれる。
しかし今日は、代わり映えしない銀河の中に一点、いつもと違う部分があった。違和感がある。いつもと違うこと、それは凶兆だ。経験上、だいたいはそうなのだ。伊達に半世紀近くも生きてはいない。静寂と平衡を乱すもの、それはいつも災厄の形で降り掛かってきた。
その「凶兆」に不安を覚えながらも目のピントを合わせ、じっくりと注視した。するとそのモノの色が次第に判ってきた。暗い緑色だ。なおも視線を外さずにいると、それは次第に大きくなり、そして大まかな形が見える状態にまでなった。
立方体じゃないか。
それがじわじわと、そして意思を持つかのように、こちらに向かってまっすぐに近づいて来る。上半身を少し乗り出す。ずしりと身の重さを腰に感じる。眉間に皺を寄せるようにしながら、なおも目を凝らして見つめる。とはいっても最近、老眼対策として眼に植え込んだフレキシブル・メタマテリアルのメンテナンスがなおざりで、動くものに目のピントを合わせ続けるのが難しい。何度か目を擦りながらまたピントを合わせ直す。この状態でも今のところは衣食住、バイト、勉強といった日常生活の場面ではあまり支障が無い、しかし早めに直しておかないと、そのうち大好きなホロ映像メニューも充分に堪能出来なくなる日が来るだろう。
パイプ椅子の背にぐっと上半身を押し付けた。椅子はスッと後ろに素早く動き、緑色をした一辺二十センチほどの立方体が、目の前五十センチほどの場所に丁度浮かぶ位置で音もなく停止した。そしてそれに合わせるように立方体も静止した。
首を傾げるとその動きに反応して同じ方向に立方体が回転する。立方体の各面はすべて滑らかで不透明、そして微妙に金属光沢がある。様々な方向に回転させながらつぶさに観察するが、そこには何の情報も確認できない。
何となく、右手の人差し指を伸ばす。そして触れるか触れないかの距離までゆっくりと近づけてみた。
その直後、立方体はモローの指の接近を知覚したようにプルッと震え、その上方にオレンジ色の立体文字が浮かび上がってきた。
《ハッピーバースデー モロー 室長より》
ドッと緊張の糸が解れた。驚かせやがって。
出てきたメッセージを乱暴に人差し指ではじくと、文字がバラバラに四散し、また集まってきたと思うと別のメッセージが現れた。
《マクスウェル》
モローはニッと口角を上げながら、また文字を指ではじいた。文字は四方八方に散り、立方体の各平面が前後左右に分離して消えていく。そして空中に残った黒いカードを左の掌で受け止めた。
やった。さすが誕生日。室長サンクス。マクスウェル、ゲーット。
カードは左手に吸い込まれて消えた。
いつの間にか疲れも消えた。ひと呼吸おいてから立ち上がり、ゆっくりと前に歩き出した。足取りも軽い。動きに合わせて前の壁からホロテーブルが浮き出てくる。そこに左手を置くと正面の壁に赤く光る文字で《ログイン完了》と浮かび上がってきた。
「モローさん、仕事中に趣味はまずいッスよ。ジラソリウム工場出口のアラート見逃しとか、無いッスよね」
いつの間にか横にはバイト仲間の
「か、楓くんじゃないか。いや、これは。ちょっとログインしてみただけ。ゲットしたらとにかくまず、有効にしておかないと」
くそっ。サボってるとこ見られちまったじゃないか。
「でも、仕事の後まで放っておいても腐るモンじゃないッスよね、それ」
口の端を歪め、訝しげな笑みが混じったような表情を見せる楓。
「腐るよ腐る。形あるものは壊れ、形ないものは腐る。これこの世の真実」
わざと胸を張って説明した。こういうときは、こうするに限る。
「はいはい。さすがに年季の入った教養ッスねえ」両手を広げて肩をすくめる楓。
モローお得意の虚勢も、楓にはいつも効果が無い。
「そら、お前さんより二十六年も長く生きてんだ。多少は、な」
息を大きく吸い込むと、様々なしがらみを身体の外に捨てるように、ゆっくりと溜息をついた。
「大学課程のほうはどうッスか? こないだの試験は」
楓がいつの間にか銀色のカップを手にしている。琥珀色の液体が八割ほど入ったそのカップからは、静かに湯気が出ている。わずかにカフェラーゼの香りが漂ってきて、モローの鼻腔を撫でた。
「ああ、何とか合格点……と、言いたいところだが。なんと、だな」
「なんと?」
後ろを振り返ると、さっきまで座っていたパイプ椅子が音もなく寄って来た。すばやく絶妙なタイミングで腰を下ろしながら話を続けた。
「疲れて途中で試験用の回線切っちゃった」
「……ほんと、モローさんって疲れやすいッスね」
楓が笑みを浮かべながらカップの中身を一口すすり、眉をちょいと上げた。
「体力キャパ増強メニュー、またモローさんにプッシュしとくッスか?」
以前、小太りの体格を心配した医学生の楓に運動メニューを紹介された事を思い出した。
「ああ、あれは、ちょっと、な。若者向けだったろう」
左手をひらひらと左右に振りながら応える。
実際には、年齢というよりも基礎体力と根性の不足でスタートできなかった、いや、しなかったのだが。
「じゃあまた別のメニューを探して紹介するッスよ」
楓は空中で何かをいじっている。
「あ、いいよいいよ楓くん。君みたいな若いハイパー医学生向けのメニューは、俺みたいな中年には、ちょっと、いや結構、というかかなり、辛い」
「えーそんなあ。現代の医学生理学的に『正しい』とされていて、いつでもどこでも誰にでも出来る特製メニューッスよ。ほら、グローバル評価でも星八つッスよ。今これ、ちょっとやってみてくださいよ。こんな何も起こらない警備バイトでも、いざ何か起きたら大変ッスから」
空中に浮かぶ
何という圧迫感。健康の押し売りとは、このことか。
「や、やめなさい。中年は、体も心も、疲れてるんだ……」
楓の動作がピタリと止まり、視線を落として首を左右に振った。
「モローさん、高校課程終わってから十七年も経ってるじゃないッスか。もう二十五世紀になって二十年ッスよ。世紀末はもう、とっくの昔に終わってるッス」
小学課程十年、中学課程六年、高校課程八年、そして大学課程十七年。平均的な人の倍以上かかっている。しかし我ながらよくやってるもんだ。
無言のままの俺に呆れたのか、楓は両手を左右に大げさに開き、首を傾げて部屋を出ていった。
ふう、せっかく取れた疲れが戻ってきちまった。
モローは溜息をついて、また天井に浮かぶ銀河の奥に視線を戻した。
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