勇03 弱肉強食

 彼女は反射的にロープから手を放して、剣の柄を利き手で握りしめる。目を凝らして、異常がないか周囲に視線を巡らしたところ、一点の箇所だけ海が大きく泡立っているのを確認した。

 "間違いない、この前兆は――あいつしかいない!"


「船長さん、急いで船を出して! クラーケンがくるわ!」


 貿易ガレー船に向かって、精一杯に呼びかけたが、すでに遅かった。

 イカの足に似た分厚い鋼の触手が、貿易ガレー船の両サイドの横腹に絡みつく。先端の吸盤でしっかりと船体を吸いあげて、重たい本船をぎしぎしと持ち上げていった。船舶はゆっくりとせり上がり、その余波で海面が膨れ上がって、反動による荒波が押し寄せてきた。


 波に飲み込まれる寸前、勇者は≪飛翔≫の呪文を唱えた。

 背中に翼が生えたような勢いで、空中に浮かびあがると同時に、彼女が今まで乗っていた小舟は、大波によって転覆した。


 "しまった、荷物が! まあ、括りつけてあるから、あとで引き揚げればいいわよね。あっ、トンボ忘れてた"ピクシーの入った瓶詰めは、ぷかぷかと海面を遊泳していた。そのなかで、トンボは彼女に向かって、口汚く罵りながら、じたばたと暴れている。"あの悪賢くて抜け目のない妖精なら大丈夫だろう。それよりも、船上の人たちを何とかしないと!"


 上空から見下ろすと、漕ぎ手の水夫たちはコンテナに逃げ込んだり、マストの柱にしがみつきながら怯えていた。船長さんは孤軍奮闘、勇を鼓して、手投げ爆弾が大量に入ったバスケットを運搬していた。

 翼を折り畳むように、優雅にデッキに降り立った勇者は、塩水で絡まった長髪を梳きながら、船長さんにクルーを艀に下船させるよう促した。


「無駄よ。クラーケンにそんな玩具は通用しないわ。いまは攻撃よりも、お仲間の避難を優先するの。さもなければ、みんな死ぬわよ?」


「そんなこたぁわかってる。だが、この船は俺たちの船だ! こいつぁ俺たちの魂なんだよ! 俺には愛船を見捨てて逃げるなんて薄情な真似はできねぇ!」


 船長さんは、手投げ爆弾を抱え込みながら、強情に言った。


「その心意気は立派だけど、もう手遅れになりそうよ」


「なにっ?」


 巨大な触腕に両端を挟まれて、貿易ガレー船はミシミシと嫌な音を立てていく。あと数秒後には、船はひしゃげて、全員がお陀仏になりそうな勢いだった。

 いまのところ海上に現れているのは、二本の触腕だけ。攻撃しようにも、本体の頭部は、まだ海中に潜伏しているのだろう。このままだと貿易船は、二本の触腕に持ち上げられて、このまま中空で破壊されてしまう。そして、船が壊れて乗組員が海に落ちたタイミングで、クラーケンはわたしたちを小魚を摘まむ要領で、食べ尽くしていく。


 そんなヴィジョンが見えたとき、遠方から海蛇のような黒いシルエットが、波を逆巻きながら、海中を進んでこちらに向かってきた。"なんてこと……まさかの巨大モンスター二体目の登場ね。これは泣きっ面に蜂だわ"

 敵の増援に、船長さんは運んでいた手投げ爆弾をぼろぼろと落とした。そして、情けなくも勇者の体にしがみついて、泣き喚いた。


「いやだぁ、おれぁ死にたくねぇよぉ! 港町で妻と娘が待ってるんだぁ!」


 船主が匙を投げたため、その恐怖はほかの水夫たちにも伝播していく。


「おいおいおいおい、勘弁してくれぇ!」


「こんなことになるんだったら、故郷で家族と暮らしてりゃよかったのによぉ!」


「もうだめだあ……おしまいだあ……!」


 屈強な海の男たちが、べそをかく子供のように、甲板に突っ伏して、口々に泣き言を漏らしはじめる。しかし、勇者だけは、内心でくすぶる興奮を隠せなかった。"これよこれ! 主人公は絶望的な状況を乗り越えてこそ、主人公だわ。神様はわたしを見ていてくださった! さぁ、もっと来て! クラーケンの三匹目も、四匹目も、五匹目も、なんなら嵐だってきてもいいわ!"


 勇者は両手を広げて天を仰ぎ、心から神に感謝した。ピンチが極まれば極まるほど、彼女の胸は高まるのだ。勇者であれば、危険は向こうからやってくる。これこそ、勇者冥利に尽きるというものだ。


 しかし、二匹目の黒いシルエットは、人間たちの味方をするような動向を見せた。そいつは、人間の乗る大型船そっちのけで、どういうわけか海中に潜むクラーケンに突進して、凄まじい猛攻をしかけた。


 次の瞬間、海面におびただしいほどの黒い墨が分散して、黒ずんだ墨はグラデーションのように赤い血色へと変わっていった。二本の触腕が引っ込んで、持ち上げられていた貿易船が、水飛沫を巻き上げて海面に着水する。船上にいるだれもが、何が起きたのかを把握できずにいた。


 ほどなくして、クラーケンとは別の、鎧を思わせるカミソリのように鋭い鱗が、おもむろに海面から浮上してくる。

 それは荘厳たる海竜――海の悪魔と恐れられる厄災"レヴィアタン"だった。クラーケンとは比にならないまさしく海の主。そいつは、頭部をもたげると、船の甲板を見下ろし、美しい宝石のような慈愛に満ちた瞳を向けて、しっかりと、勇者の存在を捉えた。


「ご主人様、お怪我はございませんか?」


 レヴィアタンの巨大な鋭い歯の間から、歌うような淑女の声が、空気を震えさせて響き渡る。その声を聴いて、勇者は激しい憤りを隠せず、その感情は言葉に現れてしまった。


「ああ……レヴィー? あなただったの? やってくれたわね……。わたしの甘酸っぱい思い出をまたひとつぶち壊して……。どうしてここにいるわけ? それに、アジトはどうしたのよ?」


 勇者の口から堰を切ったように威圧的な質問が飛び出る。

 なにをかくそう、レヴィーは彼女の旧来からの仲間だっだ。普段は見目麗しいベールをまとった乙女の容姿をしていたので、さっきはちっとも彼女だと気づかなかった。トンボと同じく、元魔王軍四天王のひとりで、わたしに永久の忠誠を誓い、現在はトンボと対をなす勇者の左腕として君臨している。


「ご安心ください、アジトの管理は他の者たちに任せておりますわ。ご主人様には申し訳ございませんが、トンボひとりの同行では、いささか心許なかったため、お忍びでこっそりと後をつけさせて頂きましたの」


 勇者は肩をがっくりと落として大きなため息をついた。


「あのねぇ、レヴィー。この旅は、わたしとトンボだけで楽しむって言ったでしょ? まったく、ここからがいいところだったのに……。でもまあ、助かったわ。あなたのおかげで、わたしはともかく、無辜の水夫たちがクラーケンに食べられずに済んだもの」


 勇者が視線を向けると、船の水夫たちは、呆然と口を開けたまま硬直していた。

 海獣レヴィアタンと対等か、それ以上の立場で会話している人間を見たら、そういう反応になってしまうのは当然のことである。


 こういう展開は、あまり勇者の好みではなかった。図らずも知り合いに伝説の生物がいますよ、と自慢をしてしまうことが。これじゃあ、ほかの権力を誇示する勇者と同列ではないか。自分は、そういう手合いと同等にはなり下がりたくないと、彼女は決心してレヴィーをアジトに置いてきたのである。


「……いい? 助太刀も、これっきりにして。海の悪魔が四六時中わたしの護衛に徹していたら、新しく冒険をはじめた意味がないわ。問題をぜんぶ武力で解決してしまったら、冒険譚が味気ないものになっちゃうでしょう?」


 勇者がたしなめると、レヴィアタンのギザギザの黒い墨のついた歯が隠れて、その鱗だらけの顔がしょんぼりとした。


「も、申し訳ございません。で、では、人間の姿であなた様に帯同するというのは……?」


「ダメよ、たとえかりそめの美女の姿に変身したとしても、あなたの魔法はすべて天災級のクラスでしょ? 目的地であなたの自損事故が多発する未来が見えるもの。残念だけど、同伴は許諾できないわ。諦めてちょうだい」


「そんな……寂しくなります、ご主人様。あなたが去ってから、アジトは抜け殻同然です。ほかの仲間たちはになって、禁断症状が発症しております。ですがらもしも、我々の援助が必要となれば、いつでも心に念じてください。全軍を率いて、ただちにそちらへ駆け付けますゆえ……!」


「わかったわ。心に留めておくことにする。それじゃあね」


 レヴィーは、意気盛んに鼻から黒い煙を噴き上げると、海底に潜って、沈んだクラーケンの処理に向かった。久々の大物の引き締まった生肉を、存分に味わうつもりらしい。

 勇者は再びため息をついて、船員たちを振り返った。すると、彼らはまるで怪物を見るかのような目で彼女を見、ヒッと押し殺したような悲鳴を上げた。


「もう大丈夫よ。わたしの仲間の……レヴィーがクラーケンを倒してくれたわ。怪我はない? 立てるかしら?」


 勇者が一人の水夫に手を差し伸べると、腰を抜かした彼は、ぶるぶると震えあがって首を縦にぶんぶん振る。他のクルーたちも、同様に彼女から逃げようと這う這うの体だった。そのなかで、義理を重んじる船長だけが、勇み立って、おずおずと前に進み出てくる。


「ね、姉ちゃん。ああ、その、本当に勇者だったんだな。実は……ちょっぴり疑ってたんだ。すまなかったな!」


 満面の笑みを浮かべて、冗談交じりに後頭部を撫でていたが、彼の頬と声はかなり引き攣っていた。


「いいえ、こちらこそ、ごめんなさい。面倒ごとに巻き込んでしまって申し訳なかったわ。そもそも、わたしが例の国の海域まで連れて行くようお願いしなければ、こんなことには……」


「いやいやいやいや、前々から、ここを航路にしようと考えていたからな。あんたのおかげで、この海域で俺たちが命を落とす心配はなくなったわけだ。結果オーライってやつさ。ははは!」


 船長さんは挙動不審にぶんぶん首を振った後、豪快に笑いだす。

 その後、勇者は水夫たちと、ぎこちない告別の挨拶を交えてから、黙々と出航の準備をはじめた。その間も彼らの顔は一様に引き攣ったままだった。

 勇者は≪飛翔≫で宙に浮いたまま、転覆した小舟をひっくり返して、波間にたゆたう、ピクシー入りの瓶詰めを引きあげる。


『よかったね、勇者さん。レヴィーが助太刀に来てくれて』


「……最悪だったわ。レヴィーのわたしに対する愛は異常よ。まさか、わたしの命令に背くなんてね。ていうか、本来わたしの防護はあんたの役目でしょ? なんで拱手傍観を決め込んでたわけ?」


『防護なんていらないでしょ? 勇者さんは護られるのが嫌いだって、僕知ってるから。それに、どっちみち、この瓶が邪魔で、出られなかったしねぇ』


 トンボは、わざとらしく両手をグーにして、開けてくれーと叫びながら、瓶詰めを叩いた。


 "ふん、なにが出られないだ。魔法を使えば、いつでも簡単に瓶詰めを破壊できるくせに。かわいくないやつ!"


 ひとまず、生意気な妖精は置いておいて、勇者はずぶ濡れの背嚢を、あったか~い《熱風》の魔法で乾かした。ひと通り下準備が整ったところで、勇者は貿易ガレー船の甲板を振り仰ぎ、船上の人々に別れを告げる。


「船長さん、改めて、命を救っていただき感謝するわ!」


 彼女の声を聴いて、船上の男たちは、びくっと体を上下させた。


「あ、ああ、いいのさ、いいのさ! 海は広いし、大きいしな。それじゃあ、勇者さま。旅の無事を祈ってるぜ」


 船長さんは、活力を少しく取り戻したものの、明らかに動揺している声色で、ぎこちなく手を振った。

 彼を含め、緊張で強張ったクルーたちが、甲板から身を乗り出して、『勇者! 勇者!』と連呼する。その声には、恐怖と自棄が混ざっていた。

 やがて、貨物ガレー船はゆっくりと回頭していき、数分後には霧の彼方へと消えていった。


 港に着いたあと、彼ら水夫たちは「クラーケンと勇者」の物語を地元の酒場で吹聴し、とある有名な吟遊詩人が「航海は緑髪の女勇者とともに」という唄をつくるのだが、これは勇者が知る必要のない後日談だった。

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