第16話 おおかみこどもと雨と雷
細い雨が頬を濡らす。
それが、やたらと冷たく感じた。
ゴブリンの血の匂いに寄せられてきたのか。
格上の魔物、シルバーウルフが目の前に佇んでいた。
野球ボール大の目玉がごろごろと動いて、俺とサチコを交互に見た。
凍てつくような、蒼白の瞳が向けられる。
弱肉強食。
食物連鎖。
それはギルドに行ったときから分かっていた。
────分かっていた、つもりだった。
身体が震える。
膝が笑う。
摺り足でしか、動けない。
数十秒か、数分か。
ようやく、サチコの隣に到着する。
シルバーウルフは、今だ微動だにしないままだ。
────よし、逃げよう。
これ、本当にランクCの魔物か?
3
サチコを抱き寄せて、視線を逸らさずに一歩ずつ後退りしていく。
刺激しないように。
音を立てないように。
元の世界でクマに出会ったなら、同じような動きをしていただろう。
今すぐ走り出したかったが、それが死に直結することを理性が訴えていた。
────刹那、全身の産毛がそば立つ。
「ひっ……!」
サチコを右側に放り投げ、咄嗟に【
俺たちがいた位置を、残酷な美しさを持つ白銀の爪が通過していく。
……当たっていたら、簡単に紙屑みたいにへしゃげてただろうな。
想像して血の気が引いた。
シルバーウルフは既にこちらに向き直って、鮮血のような色の舌を覗かせている。
ゴブリンが見せたような戦意。
ゴブリンとは比べ物にならない殺気。
完全に、向こうはやる気だ。
────俺も、やるしかない、か。
何かが切り替わるような音が頭の中で鳴った。
瞬間、全身に充満する闘争心。
サチコを拾い上げて、木の幹を盾にして走る。
それと同時に、シルバーウルフに【
「────ッ!? ハァ!??」
────重い。
これまでの比でない程、魔力が喰われた。
頭にズキンと鈍痛が走る。
その痛みがたちまち増していく。
しかも、シルバーウルフの足は十数cmほどしか地面に埋まっていなかった。
頭が、割れそうだ。
このままでは、耐えられない。
魔法を解除すると、彼はすぐに地面の拘束から抜け出してこちらに向かってきた。
「サチコ!!」
呼びかけに応じて、サチコは俺たちとシルバーウルフを隔てるように、樹々の影から黒い壁を何枚も展開した。
壁がすべて完成するのを待たず、木の後ろに回り込む。
寸刻も持たずに、ガラスの割れるような音が聞こえた。
クソッ、やっぱり影が薄いと、そのぶんサチコの魔法の力も落ちるのか。
だが、隠れるほどの時間はできた。
巨大な木の後ろで息を潜めて、生き延びる策を考えよう。
────考えようとした、その時だった。
寒々しいものを感じて、思いっきり前に転がり込む。
金切り音を立てて、俺の頭のあった場所を何本もの牙が通過した。
ガキンと、歯と歯が噛み合っている。
否が応でも、ギロチンを連想した。
コイツ、木の幹ごと、俺に齧り付くつもりで。
生暖かい鼻息が、髪にかかる。
……大丈夫。
牙が幹に食い込んで、ヤツはまだ動けない、大丈夫。
心の中でお題目のように「大丈夫」を唱える。
サチコを抱いたまま、急いで濡れそべった地面を蹴った。
水の跳ねる音と同時に、巨木のひしゃげるような音が後ろから聞こえてきた。
事態は膠着していた。
木に隠れることを繰り返して、俺たちは生き延びている。
まだ、なんとか。
シルバーウルフは何度も樹幹に頭を打ち付けた。
木の破片が口内に刺さって、口元が赤く濡れている。
だが、彼は諦めずに、ずっと俺たちを追い続けてきた。
雷が俺たちを照らす。
イチ、ニ、サン、ヨン、ゴ、ロク。
────雷鳴。
雨は止まない。
むしろ、勢いは強くなっている。
ぬかるんだ足場が、ただでさえ消耗した体力を奪う。
徐々に、より体力のあるシルバーウルフが有利な状況になりつつあった。
────ここらで、決めるしかないか。
作戦は、一応思い付いていた。
シンプルで、簡潔。
だが、運任せのひどいギャンブル。
それに、サチコに自分の命を預ける策でもある。
数日前に助けただけの黒猫に、まさか自分の命を託すことになる日が来るとはな。
……いや、一緒に王都を脱出して、ここまでやって来たじゃないか。
もはや、一蓮托生の仲だ。
幸運の象徴に、俺の命を賭けてみよう。
シルバーウルフが来ないうちに、サチコに作戦の内容について語った。
彼女は静かに俺の話を聞いた後、ローブの中から抜け出した。
雨に濡れるのにも構わず、サチコは俺が伝えた持ち場に向かっていった。
……了解、してくれたんだな。
さあ、一緒に生き残ろうか。
胸の内で、サチコにエールを送った。
────でも、まずは俺が頑張らないとな。
あえて木の幹から出るようにして、俺は姿を少しだけ覗かせた。
シルバーウルフの視線が俺を射抜く。
間を置かず、ヤツはこちらに飛びかかって来た。
体力が削られているのは、シルバーウルフだって同じだ。
速攻で決めないと、エサとしての割が合わなくなるのは理解しているのだろう。
シルバーウルフの脚が動いたのを確認した瞬間に、俺は拳を握りしめた。
────【
一瞬で、俺は木の幹の後ろに隠れる。
先程姿を見せたのは、固有魔法の発動によるものだ。
既に俺が消えたところに、シルバーウルフは滑り込んできた。
足場が雨で悪くなり、ブレーキがうまく効いていない。
美しい爪にも、うっすらと血が滲んでいる。
イチ、ニ、サン。
雷の落ちる音。
近い。
シルバーウルフの視線がこちらに向く前に、すぐさま隣の木を【
……クッソ重い。
シルバーウルフよりは、マシだが。
痛む頭を押さえながら、片脚で幹を蹴りつける。
メキメキと荒々しい音を立てながら、シルバーウルフに木が倒れ込んでいく。
根っこが俺の魔法で細切れになったからか、簡単に木は倒れてくれた。
ここまでは、想定の範囲内。
シルバーウルフは倒れてきた木とぶつかり、身動きがとれずにいる。
千載一遇のチャンス。
────ここで、決められるんじゃないか?
スモールソードを片手に、【
スライディングをしながら、そのまま彼の喉笛目掛けて剣を斬り上げた。
「ギァッ……!」
シルバーウルフから小さな悲鳴が上がる。
「は、はッ……」
渇いた声が出る。
刃の先に、真紅の血が少しだけ付いていた。
しかし、強靭な毛皮が邪魔をして、まったく刃を通していない。
笑えるくらい、ダメージを与えられなかったな。
ゴブリンとの戦いで刃がなまくらになったというより、この狼の毛皮があまりにも強靭すぎるのだろう。
それと、俺の力量不足。
────来る。
動きを止めた俺に、丸太のような腕が向かって来た。
軽自動車にぶつかられたような衝撃。
視界が白黒に交互に切り替わる。
痛みが駆け巡る。
数秒間地面を転がって、ようやく身体が止まった。
……急いで剣身でガードしたのに、この威力か。
思考の間もなく、二撃目。
シルバーウルフの追撃。
隆起する四肢。
全速力での突進。
剣を構えようとして、肩に痛みを感じた。
────肩が外れかけてる、あの一撃で。
意に反して、腕が、上がらない。
「────ガァッ……!」
そのまま、守りを固めることもできず攻撃を受けた。
骨が軋む。
視界がかき混ぜられる。
痛みが届くより先に意識が飛んだ。
暗転。
意識を取り戻す。
草むらの中で、俺は目覚めた。
血の巡りが悪い。
頭が痛む。
微睡む。
目の前には、既にシルバーウルフが大口を開けて立っていた。
「煩わしやがって」とでも言いたげに、鼻にシワを寄せて。
地獄の門のような口が開かれる。
────脳天目掛けて。
光る。
イチ、ニ。
始原の太鼓が鳴る。
まだ。
まだ終われない。
────刹那、黒い何かが飛んできてシルバーウルフの頭を少し揺らした。
役目を終えて、俺の足元に転がってきたものを見る。
巨大な、黒い槌。
サンキュー、サチコ!!
歯を思いっきり喰いしばって、無理やりにでも意識を覚醒させる。
シルバーウルフの両隣にあった木に【
もうすぐ、もうすぐ。
空から、
動きを止めたシルバーウルフに向け、ありったけの力を込めて【
ズボッと、ヤツの四脚がぬかるんだ地面に埋まる。
ダメージは期待できない。
足止めで十分。
もうすぐだ。
もうすぐッ!!
数字を数える間もなく、真っ白な光が森の中を駆け巡った。
光が収まる。
勝負は、決した。
────シルバーウルフの胸に、漆黒の槍が突き刺さっていた。
彼の背中に、刺々しく槍の先端が飛び出ているのが見える。
胸から背中にかけて、槍が貫通していた。
彼は痛みによろめく。
屈強な前脚が崩れる。
瞳孔を縮小させている。
近くに雷が落ちてくるのを、俺とサチコはずっと待っていた。
サチコを全方位が木に囲まれた場所に待機させ、どこに雷が落ちても影が操れるようにしておいたのだ。
サチコの位置までシルバーウルフをおびき寄せ、影による攻撃が必ず命中するように足止めすることが俺の役目だった。
光が強ければその分、影も濃くなる。
落雷による光は、シルバーウルフの命を刈り取るのに十分な影を生んだ。
運否天賦の作戦だったが、勝ったのは俺たちだ。
……いや、まだ終わっていない。
彼の瞳には、まだ闘志が宿っている。
脚の筋肉が強張るのが見えた。
────シルバーウルフが動くより先に反射的に身体を突き動かし、影の槍を両手で掴んだ。
危険を感じたのか、シルバーウルフは暴れまわる。
いとも容易く俺の身体は振り回され、木に打ち付けられる。
星が飛ぶような衝撃。
それでも、両手は槍から離れなかった。
【
【
【
魔法の発動と解除を死ぬ物狂いで繰り返す。
その度に、シルバーウルフから鮮血が迸る。
泥だらけの地面を赤く。
赤く、染め上げていく。
────やがて、彼は力を失い、地に倒れ伏した。
俺は槍から強張った両手を外し、シルバーウルフの頭部に近寄る。
「……」
もう、シルバーウルフから戦意は感じ取れなかった。
どこか諦めるような、穏やかな海面のような瞳が向けられている。
……そんな眼で、こちらを見るなよ。
先に仕掛けて来たのは、そっちだろうが。
弱肉強食、だろうがよ。
どこか祈るような気持ちで、俺は狼のこめかみに剣を突き立てた。
肉の焼けるような音が続く。
スライムやゴブリンとは異なり、その亡骸が地面に溶けきることはなかった。
両手を合わせてから、傷口に刃をあてがい胸を切り開く。
戦いのときとは違い、シルバーウルフの毛皮や肉を簡単に裂くことができた。
そのうち、剣先が胸の奥に硬いものを探り当てた。
それを素手で掴んで、力づくで抜き取る。
────血に濡れながらも、碧く輝く魔核。
ゴブリンのものとは比べ物にならないほど大きい。
彼の瞳の色に、よく似ていた。
「キャン! キャンキャン!」
突然、どこからか、仔犬のような鳴き声が聞こえた。
まっすぐ、こちらに向かってくる。
草むらから、1匹の中型犬のような動物が飛び出てきた。
シルバーウルフにそっくりな、銀の体毛。
彼は甲高い声を上げながら、シルバーウルフの骸に擦り寄った。
自分の体が、血溜まりの赤に濡れることもいとわないで。
彼は、何度も、骸を持ち上げようとしていた。
そのたび、シルバーウルフの体は地面に沈み込む。
「……もう、行こう」
その光景から目を背けて、歩き出す。
横目で、サチコが付いて来るのが見えた。
もう、何も聞こえない。
雨の音が、狼の子供の声をかき消した。
必死で掴み取った勝利は、苦かった。
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