間章1

名前はまだ無い

 その者は猫だった。

 誰にも名付けられぬままの黒猫。

 彼女はどこで生まれたか、自分でもとんと見当がついていない。

 ただ、時々昔を振り返っては「子供の頃はよく暗い所で鳴いていたな」と思うばかりであった。



 彼女の生涯は、冬のある日に一変してしまった。


 日課として、縄張りを周っていた時だった。

 生来聴こえない片耳のせいだろうか。

 昨日、久々に食事にありつけて、気が緩んでいたせいか。

 近づいてくるトラックに、彼女は気づかなかった。


 迫る死の象徴。

 同じ地域に住む仲間が、これにやられてきたのを何度か見たことがあった。

 彼らは、今の私と同じような光景を視界に入れて、この世を去っていったのだろうか。

 そのようなことを思いながら、生き延びるため四肢を動かそうとした。

 最後まで、最後まで。


 ────突然、肢体が浮いた。


 いや、何かに持ち上げられている。

 人間だ。


 彼女を庇うようにして、その人間はトラックに立ち塞がった。

 短めの茶色い髪が揺れるのが見えた。


 ────その時だった。

 なぜか、芯から体が暖かくなったように感じた。

 これまで感じたことのないようなものが、心のうちから溢れてくるような。

 ……いや、確か、一度だけ、昔、同じようなことが。

 

 束の間の思考さえ許されず、鉄塊は人間にぶち当たった。


 人間を超えて、黒猫にも衝撃が突き抜ける。

 不思議と、痛みはなかった。

 身体が勢いよく、遠い場所へ持っていかれるような。

 

 視界が白一色に包まれる。

 光が迸る。

 何処かに連れて行かれていく。


 焦りや不安を置き去りにして、彼女は意識を失った。




 ────固有技能【ブバスティスの賢神】を獲得しました。



 聞き覚えのない声で、彼女は覚醒した。

 視界を染める赤と白。

 見たことがない場所。


「目が覚めましたか?」


 人間の、女の声。

 ……違う、重要なのは、そこじゃない。


 ────人間の言葉が、意味を成して頭に入ってくる。

 それは、黒猫にとって初めての経験だった。


 思考が冴え渡っている。

 漠然と世界を眺めて、反射的に体を動かしてきたこれまでとは明らかに違う景色。

 目に見えるものすべてに、意味があるように思えた。


 黒猫が動揺していると、女の声に反応してか、隣で何かが立ち上がった。

 金髪の男と、黒髪の男。

 二人の人間。

 

「……ここは……どこ……?」


「……」


 男たちは彼女と同様に、現状が掴めていない様子だった。


 黒猫は身構えて、周りを見渡した。

 隣には、未だ目を覚さないままの茶髪の男がいた。

 ────あのとき、トラックから助けようとしてくれた人間だ。


 彼の影にいるおかげか、黒猫はまだ見つからずにいた。

 でも、いずれこのままでは人間たちに見つかってしまう。


 人間に捕まえられたっきり、帰ってこなかった同族のことをふと思い出した。

 どうにかして、逃げないと。

 焦燥感が全身を震わせる。


 そのときだった。

 形容し難い違和感。

 まるで、これまで体を幾重にも縛っていた枷が外れたような。

 何か、新しいことができるようになったような、体の軽い感じ。


 ────この違和感の正体は、何?

 黒猫が自問したところ、目の前に光る板が現れた。

 そこには、疑問の答えが載っていた。


 固有魔法。

 影を操ることができる。

 身体能力の向上。


 ────これが、文字が読めるということなんだ。

 彼女がこれまで、ただの線の絡み合いだと思っていたものが、急に読み解けるようになっていた。

 新しいことだらけで混乱しそうだったが、人間がいる手前、そういう訳にもいかない。

 少し躊躇ってから、黒猫は茶髪の男の影に潜り込んだ。



 影の中は、ちょうど世界をモノクロにして、白と黒を反転させたような場所だった。

 元の世界で影のあったところが、白く仄かに輝いている。


 あそこから、外に出られるのかな。

 直感的な発想。

 そのようなことを考えていると、茶髪の男がゴロゴロとカーペットの上で転がり出した。

 

 なに、してるんだろう。

 黒猫は思ったが、その後の彼の行動を見ている限り、あまり注目していても時間の無駄だとそのうち悟った。

 そして、人の目が届きなさそうな白い影を物色し始めた。




 白い影から飛び出て、先ほどの空間から逃げることに成功した。

 幸いにも、彼女は誰にも見つかることはなかった。

 

 神殿の中を、同じように影潜りながら進んでいく。

 その最中にも、目に入るものすべてに関する知識が頭に取り込まれていく。


 【ブバスティスの賢神】は【翻訳】【鑑定】【思考加速】の三つの技能が統合された固有技能だ。

 これにより、彼女は猫であっても、人間の言語を解したり、抽象的な思考が可能になっていた。

 もっとも、この固有技能の出所については、彼女はまだ知らない。


 【ブバスティスの賢神】の効果で、あらゆる情報が流動食のように脳内になだれ込んでくる。

 黒猫は吐き気に近い倦怠感を感じつつも、走ることを止めなかった。

 鎧を着込んだ人間の目をすり抜け、風の流れ込んでくる場所を目掛けて一直線に駆けていく。

 

 走りつつも、頭の片隅で、茶髪の男に何か引っかかるものを感じていた。

 ────確か、何処かで出会ったような。

 【ブバスティスの賢神】の助けを得てなお、思い出せそうで思い出せない。

 記憶が喉につっかえるような違和感も、彼女にとって初めての感情だった。


 ついに黒猫は神殿の入り口を飛びだし、石畳に足を踏み入れた。

 「魔獣だ、魔獣だ」と、彼女を見る人間たちが口々に言った。

 これまで耳にしたことのない単語の連呼に気色悪さを感じた黒猫は、人の群れを掻い潜って路地裏に入っていった。



 ここまで来れば、誰も追ってこないだろう。

 黒猫がホッと一息つき、脚を休めた。


「あっ! 可愛い子みっけ!」


 いきなり、彼女は後ろから体を抱きかかえられた。

 突然のことに驚き、黒猫は暴れようとする。

 だが、しっかりと脇の下を掴まれていて、逃げ出すことができない。


 ────そうだ、固有魔法で。

 黒猫は建物の影を手繰り寄せ、巨大な黒い塊を作り上げた。

 影はどんどん集まっていき、膨大な質量を兼ね備えた鈍器と化した。

 その形は、まさに黒い槌。

 

「えっ!? もうっ、危ないよっ!」


 そう言って、声の主が影に手をかざした途端のことだった。

 


「私は何もしない、危害を加えたりなんかしない。

 だから……ねっ?」


 そう囁かれながら、体を抱かれたままゆっくりと揺らされる。

 自然に声を耳が受け入れ、安らかに鼓膜を鳴らす。


 黒猫はすっかり、落ち着いてしまった。

 それでも懐疑心を失わず、自分の体を持ち上げている者の姿を目に入れた。

 

 透き通ったガラス玉のような大きな瞳。

 肩までの深く青い髪。 

 美しくも、これまで見たことないような容姿の人間の少女だった。


「ふぅー、やっと大人しくなってくれたね」


 息を吐きながら、少女は黒猫を抱いたままレンガの壁にもたれかかった。


「君は、どこから来たの?」


 少女の問いかけに、黒猫はどう反応すればいいのか分からなかった。

 そのままジッとしていると、「そっか、わからないよね」と優しく声をかけられた。

 少女の白い指が黒猫の喉を撫でる。

 嫌いな人間に触られているというのに、安らかな心地よさを感じる。

 黒猫はそのまま眠ってしまいたくなった。


「さっきまで、誰かに追われてたの?」


 独り言のように言葉を続ける少女に対し、黒猫は尻尾を大きくしならせた。

 「イエス」の合図。


「……じゃあ、安全なところに連れて行ってあげよっか?」


 黒猫は驚いた。

 なんの得があって、そんなことを。

 茶髪の男といい、この少女といい、どういう理由で手を差し伸べてくれるのだろうか。

 理解できない感情。

 心の隅がむず痒くなるような感覚。

 黒猫はそんな彼らの行いに、どこか嫉妬を感じていた。

 

「よし、じゃあ決定ね!」


 黒猫を抱き直すと、少女はどんどん何処かへ歩みを進めていった。




 黒猫は内心焦っていた。

 周囲の建物が、見るからにボロ屋ばかりになっていたからだ。

 とても、少女の言う「安全なところ」のようには思えなかった。


「おう、アンネ嬢」


「アンネカお姉ちゃん、おはよう!」


 禿頭の筋肉質な男と、幼い女の子。

 彼らから向けられた挨拶に、少女は笑顔で応じていた。

 どうやら、かなりこの街の住民にこの少女は親しみを持たれているらしかった。

 

「みんな、良い人でしょ?」


 黒猫の不安を見透かしたように少女が言った。


「ここなら、きっと大丈夫。

 ────あっちは、綺麗すぎるから」


 一瞬、少女の顔に寂しそうな表情が浮かぶも、すぐに笑顔に戻った。



 少女は黒猫を地面に下ろして、その小さな額に手をかざした。

 暖かな光が溢れる。

 悪意は感じなかったので、黒猫はなすがまま、少女の魔法を受け入れた。


「……【精霊の加護】」


 少女が小さな声で語りかけるように言った。

 

「これは、ちょっとだけ運が良くなる魔法。

 おまじない程度の力しかないけど、きっと、あなたを助けてくれる」

 

 黒猫は少女を静かに眺める。

 人間は好きじゃないが、悪くない気分。

 黒猫の中で人間に対する考えが変わりつつあった。


「……そろそろ行かなきゃ。

 きっと、良い人に連れて行ってもらえるから。

 それまで、ほんのちょっとの我慢だよっ!」


 青髪の少女は、そのまま黒猫頭を軽く撫でた後、どこかに行ってしまった。

 少女の手の温もりが残っている。

 そのぬくもりに、鉄に熱が伝わっていくようなじんわりとした速さで、黒猫の心はほぐされていく。


 黒猫はなんとなく背伸びをして、空を眺めた。

 街を照らす太陽は黄色くて、どこか快活に笑っているような気がした。

 

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