第9話 【摩擦車】は廻り出す
目が覚める。
まだ外は暗い。
固有魔法の試行錯誤をしているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
青い月明かりに照らされて、寝室は凍りついているように見えた。
今日は、金色の月の方は昇っていないようだ。
────いや、おい。
部屋の向こうに、黒装束を着込んだ人影が一瞬見えたぞ。
足音がどんどんこっちに。
近づいてくる。
心臓が高鳴る。
これは恋?
……いや、ふざけてる場合じゃない。
俺になにができる?
ここで俺は、戦える?
思考、思考、思考。
寝起きの、鉛の如く重い頭を少しずつ覚醒させていく。
息を殺す。
薄目で向こうの様子を見る。
人影はもう、すぐ側までに近づいてきていた。
近い。
汗がじわりと滲み出す。
身体が小さく震えている。
────怖い。
やがて、彼はベッドの隣で懐から何か長いものを取り出した。
それは、青い月の光を受けてなお、銀色に輝いていた。
「────ぅぁあああああアアアアア!!!?」
我慢できなくなり、喉の奥から叫んで、布団を思いっきり投げ飛ばす。
相手は俺の絶叫に怯んだのか、布団にそのまま覆われて、もがいていた。
「ハッ、ハァッ……!」
ベッドから降りて、寝室の入り口近くに置いていた革袋に素早くすり寄る。
────足がもつれて、上手く進めないっ。
ほとんど這い寄るようにして、そこに辿り着く。
革袋の中を、手当たり次第にまさぐった。
黒装束に視線を向けると、すでに布団の拘束から解き放たれて、こちらに向かってきていた。
やばい、やばいっ!!
革袋の中から、それを必死で引きずり出す。
相手は間合いに俺を入れ、腕を振りかぶった。
ギッ、という音が、小さく鳴った。
────間に合った。
手には、まだ鞘に入ったままの短刀が握られていた。
宝石の装飾が相手の得物と噛み合って、
……ヤベェ、リアル鍔迫り合い、初めてだよ。
鍔迫り合いって、こんなに重いんだ。
重い、やめたい。
でも、やめたら死ぬ。
ここで初めて、相手の得物を捉えた。
刃渡り60cmほどの、片手剣。
こちらの得物は、30cmほどの使ったこともない短刀。
リーチでも経験でも、圧倒的にあちらが有利。
少しずつ、氷のような思考が溶けてきた。
同時に、怒り。
「なんで、こんなことになってるんだ」という、行き場のない憤怒。
────まずは、生き残る案を考えるために時間を稼ぐ。
「……お、お前ッ、名前はァ!?」
「……知る必要はない。
貴様は此処で、死ぬのだから」
黒装束の男の、地を這うような声。
────クソッ、会話の通じないタイプかよ。
相手の名前を聞いたのを、遺言にはしたくないな。
距離をとったのは、相手が先だった。
一瞬で、後方に3
相手はこちらの様子を伺っているようだ。
その隙に、革袋を鷲掴みする。
“生存”という目的のため、思考を駆動する。
何か使えるものはなかったか?
革袋でも宿屋の部屋でも、何でもいい。
────考えろ。
俺が生きるためにできることを。
────思い出せ。
生き残るために使えるものを。
考えろ。
思い出せ。
静謐な時間。
月を背後に佇む黒装束の姿は、まるで死神。
その気になれば、いつでも俺を間合いに入れられる距離。
死神の鎌は、既に俺の首にかけられている。
────だったら、こっちも鎌をかけてやる。
「────漆黒の力、隻眼の悪魔、受け継がれる血の因縁……」
俺の詠唱に、男が身構える。
言葉を続ける。
紡ぎ出す。
「……ドロローサへの道、イチジクのタルト。
今、顕現せよッ!!」
そこまで言って、俺はくるりと踵を返した。
……適当にそれっぽい単語をつらつら並べただけだ。
この詠唱には、何の意味もない。
ただの時間稼ぎ。
だが、使えるものは思い付いた。
即興になるが。
一拍置いて、男が追ってくる。
でも、遅い。
「貴様は此処で死ぬのだからァ!??
ブッ、ブフホッ!
ヒッ、ヒッ、ヒィッ!
貴様は此処で死ぬのだからァア!!」
先程の男の台詞を連呼する。
生き残るという意志を、露悪的に見せつけてやる。
煽りながら、玄関まで全速力で駆ける。
スイートルームを借りて命拾いした。
部屋が狭ければ、ここで死んでた。
「────ッ! 糞餓鬼がァ!!」
男が感情を露わにして追ってくる。
……煽り耐性、なさすぎか?
異世界に来てからなぜか身体の調子がいい俺と、黒装束の男の足の速さは五分五分。
でも、二人の距離はほんのちょっと。
扉を開けているうちに、後ろからバッサリだ。
でも、これでいい。
玄関の扉を開けるフリをする。
────そして、思いっきり靴箱の扉を開いた。
ザクッと、男の剣が靴箱の扉に深く突き刺さった。
扉の向こうで、男の顔が驚愕するのがうっすらと見えた。
これで、もっと隙ができた。
逃げ切るのに、おそらく十分の。
「隙、好き! 大好き! じゃあな! バイビィィイ!!」
勝利を確信した俺はこれまで以上に煽りまくる。
安らかな眠りを妨げた男への、ほんの仕返し。
鍵が壊されている扉を、俺は素早く開けた。
「────は?」
扉を開いて、絶句した。
先ほどの男と同じような、黒装束が3人。
「しくじったか」
それだけ言って、先頭の男は剣を振るった。
────あぁ。
油断してたのは、俺のほうだったか。
致命的な一撃が、ゆっくりと首の方に向かってくる。
この世界にやって来たときも、こんな感じだったっけか。
時間が引き延ばされていく。
とろけていく。
トラックに轢かれたときのことを、嫌でも思い出した。
アレは、辛かった。
あの黒猫は、結局助かったんだろうか。
俺を轢いたおっさんは、どうなっているだろうか。
あぁ、痛いのは嫌だな。
死ぬのは、もっと嫌だ。
────俺は生きていて、良かったんだろうか。
それが許されていないから、こうなっているんじゃないか?
死。
────いや、まだ、だ。
俺はまだ、生きてる。
死んでない。
許されようが。
許されまいが。
生きる。
────生きてやる。
思いっきり、膝を縮ませる。
かがみ込む。
髪の毛が数本飛んだのを感じた。
剣は頭の上を通り過ぎていく。
────いける。
見えないけど、感じ取れるッ!!
男の顔に微かな驚愕の色。
直ぐに、次の剣撃が迫ってくる。
そのまま右に思いっきり転がる。
縦に振り抜かれた二撃目を避けた。
感覚のみで。
膝を擦り剥く。
患部が熱を帯びてくる。
────そんなの、どうでもいい。
もう二人の黒装束も見かねたのか、剣を抜いて戦闘態勢に入った。
……来い。
「来いよッ……!!」
脳味噌がどくどく揺れ動く。
滾るアドレナリンが世界を加速させていく。
俺は右の手のひらを3人に向けた。
意識を、これまでにないほどに研ぎ澄ませる。
心臓が全身に血を運ぶ。
肺が痙攣するように震える。
────馬鹿馬鹿しいが、こんな場面になってはじめて、俺は自分がれっきとした動物であることを思い出した。
「……あいつの詠唱はフェイクだ。
臆する必要はない」
息を切らしながら、遅れてもう一人の黒装束がやってくる。
これで4人。
今更一人増えたところで、状況は変わらない。
俺の煽りに怒りを剥き出しにしたようなヤツなら、なおさら。
……戦力外。
固有魔法には、名前がある。
昨晩、俺は漠然と思い当たる単語を口にしているだけだった。
名前が分からないのなら。
────固有魔法に、名前を新しく付けてやればいい。
直感で分かった。
────これは成功する。
ファンタジーに論理は要らない。
ファンタジーは現実を超えていく。
ファンタジーは現実をブチのめす。
────軽音部の友達が言っていた、最高にカッコいい単語を想起する。
俺の固有魔法に、お誂え向きの。
黒装束が全員、一斉に向かってくる。
でも、遅ェんだよ。
もう遅い。
右手に血が集まっていくような感覚。
火で炙っているように、熱い。
その熱さが、成功を確信させてくれる。
俺の固有魔法の名前は────。
「────【
────刹那、世界が“ズレ”た。
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