第130話 アルバイトのトラブル

 学業は順調だったけれども、ホテルのアルバイトの方では少し問題が起きていた。キッチンスタッフだった俺が、ホールスタッフに移るように命じられた。仕事内容を接客対応に変更すると言われたのだ。


 俺の受けたアルバイトの仕事内容の中には含まれていなかった。アルバイトである俺が異動させられる。異動させられるだなんて聞いていないと抗議すると、ホテルの偉い人に会議室まで来るようにと、呼び出された。




「なんとか、赤星さんにはホールに出てもらって外国人の接客対応をお願いできないですか?」

「できません。私は、キッチンスタッフとして雇ってもらいました。ホールスタッフには英語を話せる優秀な人も居ます。私じゃなくても大丈夫でしょう」


 高そうなスーツを着た年配の男性が、俺の目の前に座っている。その男性は、俺がアルバイトをしているホテルエミールの人事部で、レストラン関係の人材配置を担当している責任者らしい。


 そんな人が頭を下げてお願いしてくる。だが、俺は断固として拒否した。それは、アルバイトの内容には含まれていないから。


 ホールの仕事が忙しすぎてスタッフの手が回らないようなら、ヘルプとして手伝うことも必要だとは思う。だが、完全に異動させられるのは違うだろう。


 それを受け入れてしまうと、俺はずっと接客対応を任されることになるようだ。


 厨房から引き離されてしまう。たまに手伝うぐらいなら良いけれど、接客するだけなら意味がない。俺は、飲食業の経験を積みながら料理の腕を磨くことを目的にして働いていたから。


「君は語学に堪能なようだし、接客対応にも慣れているという報告を聞いているよ。外国人に対応できるスタッフはウチとしても大歓迎でね。それに見た目が美人だし、料理人のような裏方に徹してお客様の目に触れる機会が少ないのは非常に勿体ない。だから、ホールに出るべきだよ」

「無理です」


 俺を褒めて、何とかしてホールスタッフに引き出そうとするスーツ姿の彼。だが、彼の言葉は何も響かない。当然、意見は変わらず首を横に振って断った。説得しようとする男は、困った表情を浮かべる。


「それなら給料をアップさせる。君がその気なら、学校を卒業した後に正社員として採用するという約束も、しようじゃないか」

「いいえ。給料や待遇に不満があるわけじゃありません。私がこの職場でアルバイトしようと決めた理由は、調理の現場を体験するためです。それが出来ないのであれば、他の職場を探します」


 交渉しようとスーツ姿の大人は条件を出してくるが、そもそもを勘違いしている。俺はこの職場に、調理の現場を学ぶために雇ってもらった。それが叶わないのであれば、上からの指示だとしても拒否するだろう。


「待て! これだけ頼み込んでいるというのに、君は断るというのか?」


 俺が断るとスーツ姿の大人は、そう言って眉をひそめながら責めてくる。威圧的な態度。頼み込んでいるのに、なんて責めるようなことを言い出した。なぜ俺のほうが責められるのか、理解できない。それは、断るだろう。


「もちろんです。アルバイトの雇用契約と違うので、それを更新つもりなら拒否する権利があるはず」


 ホールスタッフとして働くなんて雇用契約には書かれていなかったはず。それは、ちゃんと確認済み。だから強気で拒否する。契約内容と違いますと何度も繰り返す。すると今度は、スーツ姿の彼は怒り出して、こう言い放った。


「ならば君は、明日から職場に来なくていい!」

「わかりました」


 そう言われてしまったなら、仕方ないな。彼の意見を受け入れる。他のアルバイト先を探して、別の場所で調理に関係する現場を体験できればいいから。


 別に、このホテルエミールのレストランという職場に固執しているわけではない。ここ以外に調理の仕事を体験できる場はあるから、レストランの仕事を辞めたとしても困ることもないだろう。


 話し合いが終わって、俺はすぐに会議室から出た。もう、この職場を辞めるという覚悟は決まっている。決定事項だ。


 アルバイト先の大人たちとは、良い関係を築けたと思っていたが。やはりここでも相性の合わない人と巡り合ってしまったな。なんとなく、この世界の俺は人間関係で上手くいかないことが多いような気がするな。


 小学校や中学校の頃のクラスメートの男子に、面倒事を放置する担任の先生。現在通っている専門学校を辞めさせようとしてくる先生に、実際に仕事を辞めさせられたアルバイト先の責任者。こんなに多く、相性の合わない人たちと巡り合っている。


 カレンや仲間の女子生徒など、良い人と出会えることも多いけれど。




 職場に置いている荷物を持ち帰らないと。調理道具とか持ち込んで使っていたから回収しておかなければ。職場から去るために必要な準備を思い浮かべながら、1人でホテルエミールの廊下を歩いていた。


 すると、俺の進む先に誰かが待ち構えていた。そこに居たのは、総料理長だった。どうしたんだろうか。


「どうだった?」

「ホテルの偉い人に、もう来なくていいと言われたので。アルバイトは、今日で辞めます」


 近寄っていくと、いきなり聞かれた。どうやら総料理長も俺が、ホテルの人に呼び出されたことを知っていたようだ。話し合いの結果を聞いてくるので、アルバイトを辞めることになったと伝える。


「そうか……」


 彼は俺の答えを聞き、顔を曇らせて寂しそうな表情を浮かべていた。そして俺に、こんな提案をしてくれた。


「赤星は、まだ学生だったな。卒業後、どうする予定だ? もしよかったら俺の知り合いの店を紹介しよう。その店の調理場で働かせてもらったりするのは、どうだ」

「大丈夫です。私の実家が料理店なので、そこを引き継ぐ予定もあるんで」


 総料理長が提案してくれる。その誘いは、本気で心配してくれているのを感じた。けれど、働く場所に困っているというわけでもない。今すぐ、次を決める必要もなかった。


 心配して仕事を紹介してくれようとした総料理長に感謝しながら、その誘いは断ることに。


「そうか、それなら良かった。まだ若いのに、あれだけ完成度の高い料理を仕上げることが出来るのは素晴らしい才能と腕前だ。この先も、料理人として頑張れよ」

「ありがとうございます」


 これから先も、料理人を続けていくつもりだった。その事を伝えると、総料理長はホッとした表情を浮かべて安心していた。俺の実力を認めてくれて、やり甲斐のあるポジションを任せてくれた人なので感謝を伝える。


 短い間だったけれど、経験を積んで料理の腕を磨くことが出来た。アルバイトして良かったと思う。


 総料理長から将来を応援されながら、見送られる。職場に置いてあった荷物を全て回収してから、アルバイトしていたホテルエミールのレストランから立ち去った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る