四 約束の刻

「――ハァ……ハァ……」


 夜風に波打つ、蒼い海原のような静かな草叢を、荒い息遣いの芽郎左は急ぎ足に進んでいた。


 遥か遠くを眺むれば、大海に浮かぶ島のように一本の桜の木がぼんやりと白く光って見える。


 厠に行くフリをして婚礼を抜け出そうとした芽郎左であったが、途中で参列者の親戚に捕まってしまい、うまいこと巻いて脱げだすのに随分と時間がかかってしまった……。


 思いの外、長いこと待たせてしまい、これではまたあの頃と同様、「おまえは相変わらずのんびりしたやつだな」と、貞蔵に嫌味を言われてしまうだろうか?


 そんな眉根をしかめる旧友の顔を無意識にも思い浮かべながら、その懐かしさに口元を綻ばせて芽郎左は先を急ぐ。


「……ハァ……ハァ……おや、まだ来てないのか?」


 だが、昨年同様、煌々と光る満月の下、白い綿雲のようにこんもりと花のついた大樹の根元まで辿り着くと、すっかり待ち惚けているものと思い込んでいた友人の姿は意外やどこにも見当たらなかった。


「………………いや、すっぽかされたか」


 何処とも知れず廻国修行へ出た剣客が、一年も前の約束を守るために帰って来る保証はどこにもない。


 その、今にも零れ落ちそうに咲き乱れる桜をぼんやりと見上げながら、そう思い直す芽郎左であったが。


「……ハァ……ハァ……」


 ちょうどその時、自分と同じように息を切らしながら、うねる草叢を掻き分けて人影が現れた。


  頬に傷はあるし、ずいぶんとやさぐれた身なりにはなっているが、それは見紛うべくもなき、よく知った友人のそれである。


「…ハァ……ハァ……すまぬ。待たせたか?」


 その懐かしい顔が、上がった息を整えてから口を開いた。


「いや、今来たばかりだ。こちらこそ待たせたかと心配したよ」


 どうやらお互いに遅刻する事情があったらしい……芽郎左は一瞬でも相手を疑った自分を密かに恥じつつ、どこか愉快そうに顔を綻ばせながらそう答えた。


「しばらく見ぬ間に随分と変わったね」


「そういうおぬしはまるで変わらないな」


 変貌した友人の姿をまじまじと眺め、続けてそう投げかける芽郎左に貞蔵は真逆の言葉で返す。


 二人のその変化の違いは、この一年の過ごし方の差を……否。花形月影流の奥義継承者に選ばれた者と選ばれなかった者の運命の差を如実に物語っていた。


 お互いの姿を一目見れば、この一年、相手がどのように暮らしていたのかは聞くまでもなく知れる。


「多くは語るまい……では、さっそく約束を果たしてもらおうか。この一年、それだけを楽しみに日々精進を重ねてきたのだからな」


 それ故に貞蔵は、久々の友との再会に旅の土産話をすることもなく、すぐさま本題を切り出すと体を半身にして刀の鯉口を切る。


「ああ、無論そのつもりだ。そのためにわざわざ妹の婚礼を抜け出して来たのだからね……」


 対して芽郎左の方も、鞘ごと大刀を少し前に引き出すと、柄に右手をかけて半身に構える。


 不意にお互い厳しい剣客の顔に変わり、その眼に冷たい殺気を帯びた二人の周囲には、彼らを中心にピンと琴糸のように張りつめた空気が一瞬にして広まった。


 不思議とそれまで吹いていた夜風もピタリと止み、まさに「明鏡止水」の例えの如く、深海の底のような静寂がその草原を支配する。


 蒼白一色に染められたその世界には音もなく、まるで時が停まったかのような、一枚の山水画のような世界がそこには存在した。


「………………………………」


 そして、無限とも、一瞬とも思われた時間の後。


 どちらとも知れず、微かに藁草履の地面を擦る音でその均衡が崩れた瞬間、月光に浮かぶ二つの黒い影が刹那の内に交錯した。


 お互い、先刻まで居た位置の入れ替っている二人であるが、貞蔵はその手に抜き放った白刃を掲げ、芽郎左の方は柄に手をかけたまま、その刃は鞘の中に納まっている。


 わずかの後、斬られた芽郎左の左袖が、ふぁさりと微かな音を立てて静かに草の上に落ちた。


「フッ……」


 その手ごたえに、勝負あったとばかりに貞蔵は口元を不敵に歪める。


「……? …………うっ!?」


 だが、少しの時間差を置き、貞蔵の腹に一筋の水平に引かれた線が浮かび上がったかと思うと、その細い線から上下にじわじわと、真っ赤な鮮血が衣の上に広がり出した。


 背を向けていても、それを承知しているかのようにキン…と澄んだ音を夜気に響かせ、芽郎左は切っていた鯉口に刀を押し戻す……眼では捉えられぬほどの速さであったが、抜刀した芽郎左の剣は貞蔵の身を横一文字に斬り裂き、再び雷電いかづちが如き速さで鞘の内に戻していたのである。


「約束は果たしたぞ、我が友よ……」


 振り返ることもなく、背後の友人に対して芽郎左は静かに言う。


「その切断の速さ故、斬られた者は気付くこともなく、また、血潮も噴き出すことなく遅れて傷口から滲み出る……なるほど。伝え通りのまさに〝不知しらずの剣〟……友よ、流祖伝来の奥義、約束通りしかと見せてもらったぞ……」


 同じく振り向きもせず、次第に開いてゆく腹の傷を観察するかのように訥々と答えると、貞蔵はどこか嬉しげな微笑みをその顔に浮かべ、崩れ落ちるかのように草叢の上へ倒れ込んだ。


「………………」


 一方、そんな旧友の方をようやく振り返った芽郎左は、とても淋しそうでもあり、その反面、何やらいたくさっぱりともした複雑な表情をその顔に湛えている。


 と、その時。


 それまで凪いでいた草原に一陣の風が吹き、限界にまで咲き誇っていた桜の白い花弁が紙吹雪のようにして夜空に舞った。


「貞蔵、この桜もそろそろ散り際のようだ……」


 昨年同様、蒼白い十五夜の月の下でひらひらと花弁が降り注ぐ中、散り始めた桜の大樹を惜しむように見上げながら、まるで今は亡き旧友に語りかけるようにして、芽郎左はぽそりと独り呟いた。


                         (花散る下の約束 了)


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花散る下の約束 平中なごん @HiranakaNagon

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