三 白洲の上

 一方、少し時を遡って、その日の夕刻……。


 芽郎左が約束を交わした友人・芹野貞蔵も、ほど近くにある白楠しらくすという町で思いもよらぬ大きな誤解を受けていた。


「武州浪人、芹野貞蔵。剣術修行のため諸国浪々中の身とな……」


 一面、暖かな橙色に染められた代官所の白洲、大小二本の刀も取り上げられ、敷かれた粗末なゴザの上に丸腰で正座する貞蔵に対して、その前方、一段高くなった屋敷の縁側から紋付袴姿の侍が厳めしい口調で問い質す。


「いかにも嘘臭い肩書だな。昨今、この近隣の村々では侍崩れの野党が出没しておる……その方、その野党の一味であろう!」


「大きな誤解にござる! それがしはまこと花形月影流の印可(※修了証)を得た廻国修行中の剣客。となり町の花形道場に問い合わせていただければ、すぐに真実と知れまする!」


 身に覚えのない盗賊の疑いをかけられ、貞蔵は思わず身を乗り出して大声で抗議する。


「ええい! 控えよ!」


「おとなしくせい! 盗人の分際で!」


 だが、左右に控える下っ端役人が手にした長棒をすぐさま突き出し、首元を抑え込まれた貞蔵は地べたに這い蹲ることとなってしまう。


「うぐぅっ…」


 その理不尽極まりない無礼な仕打ちに、貞蔵は奥歯をギリギリと噛みしめながら、縁側に立つ神経質そうな初老の士を上目遣いに睨みつけた。


 だが、彼の身の内を支配する怒りは無実の罪を着せられたことよりも、かように嫌がらせが如き足止めを食らわせる、不合理な天の采配に対しての憤りの方が強い。


 やはり一年前に交わした芽郎左との約束を果たすため、諸国武者修行の旅より久々に帰還した貞蔵であったが、すぐとなりにある天領(※幕府領)の町・白楠しらくすまで来たところで、この地の代官・出羽仁左衛門でわにざえもんによって捕らえられてしまったのである。


「フン。花形道場といえば、江戸にまでその名が聞こえた名門の流派。その方のような下賤の輩に印可を授けるなど到底信じられぬ……大方、この印可状もそなたが作った偽物であろう。嘘を吐くならもちっと上手い嘘を吐くべきだったな」


 貞蔵の訴えなどまるで聞く耳持たず、代官は彼の提出した印可状をひらひらとぞんざいに扱いながら、むしろその容疑をさらに強めてゆく。


 折節、ちょうどこの界隈で野党が騒ぎを起こしていたこともその原因ではあったが、それ以上に彼を不利にさせたのはその容貌である。


 着ている物は薄汚れて裾が擦り切れ、猛禽が如く鋭い両の眼に、左頬には古い刀傷まで刻まれている……長い諸国行脚の武者修行の旅は、彼の容姿をすっかり無頼の者へ変貌させてしまっていたのだ。


 その上、代官の出羽が非常に疑り深く、人の言を一切信じぬ性格であったことがますます貞蔵の身を窮地に立たせた。


 そうと事前に知っていれば代官所での弁明は考えず、こうして無抵抗に連行されたりなどしなかったものを……と、己の正々堂々とした振る舞いが今更ながらに悔やまれる。


「ま、急ぐこともあるまい。ゆっくりとその身に訊いてやる……牢に放り込んでおけ」


「ハッ!」


 疑り深い性格の割に、自身の考えには微塵も疑いの余地を挟もうとはしない代官・出羽仁左衛門は、侮蔑するように貞蔵を見下ろすと牢長屋へ引き立てて行くよう部下に命じる。


「已む無しか……」


 だが、代官の発したその言葉が、貞蔵に決意を固めさせた。


 芽郎左と約束したのは今日の夜だというのに、こんなところで牢に入れられたりなどしては約束の時刻に間に合うどころの話ではない。


「おい! 立て…うわっ!」


「な、何をする…うぐっ!」


 彼を立ち上がらせようと、首元を抑える棒の力を役人たちが緩めた瞬間、その棒を掴んだ貞蔵は目にも止まらぬ早業でそれを奪い取り、逆に自らの武器として二人を殴り倒してしまう。


「ついに本性を現しおったか! この下郎め……ひっ!」


 続けざま、驚いた代官が咄嗟に腰の脇差へ手をかけるよりも早く、烏天狗が如き跳躍で一気に距離を詰めた貞蔵は、袖に隠し持っていた小柄こづか(※細工用小刀)の切先を代官の首筋へ押し付けていた。


「動くなよ。代官を死なせたくなければおとなしく従え」


 それを見て、背後に控えていた祐筆ゆうひつ(※書記)も慌てて腰を浮かすが、殺気を帯びた鋭い眼光を向けて貞蔵はその動きを封じる。


「俺の刀を持って来て、そのまま逃してくれればそれでいい。誰か呼ぶような真似をしたら代官の喉笛に穴が開くと思え」


「貴様、そのようなことをして無事に…うぐっ…」


「代官の一人や二人殺すくらい、今の俺にとっては大事の前の小事。悪いが俺は本気だ。こんなところで油を売っている暇はないんでな……」


 そして、口を開こうとした代官の首にわずか血が滲むくらいに刃を食い込ませると、蛇に睨まれた蛙が如く中腰のまま固まった祐筆に、改めてそれが脅しでないことをドスの利いた声で伝えた――。

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