二 祝言の夜

「――兄上? どおしたの、兄上?」


「…!?」


 芽郎左は、そんな妹の声で不意に我に返った。


 見れば、目の前には白粉おしろいに真っ赤な紅を引いて美しい化粧を施し、眩ゆいほどの白無垢に角隠しをかぶった妹の十六夜いさよが怪訝な顔をしてこちらを見つめている。


「高砂や~この浦舟に帆を上げて~この浦舟に帆を上げて~」


 徐々に聴覚が戻ってくると、がやがやと騒めく仄暗い大座敷の中には、酔っぱらった誰かの謡うそんな能の曲『高砂』の一節が心地よく響いてる。


 そうだ。自分は今、妹の婚礼の席にいるんだった!


 心がどこか違う所へ飛んで行ってしまっていた芽郎左は、今更ながらにそのことを思い出した。


「どうしたの、兄上? そんなぼうーっとしちゃって?」


「ん、あ、いや、なんでもない。いや~めでたい。めでたい。ささ、どうぞ、婿殿」


 妹に問われた芽郎左は、右手に酒の入った赤い漆塗りの屠蘇器とそきの重みを感じ、やはり今更ながらではあるが妹の婿へ酌をしに来たことを思い出すと、誤魔化し笑いを浮かべながら義弟の杯へ酒を注いだ。


「ありがとうございます。どうぞ、兄上様も今宵は存分に飲んでください」


 綺麗に月代さかやきを剃り上げ、髷も形良く整えた美男子のその婿は、律儀さのよくわかる声でそう言うと、返杯に屠蘇器を持って芽郎左へも酒を勧める。


「あ、いや、酒はちょっとやめとくよ。この後、少々約束があってね」


 だが、彼は手のひらを前に出してそれを拒み、屠蘇器に入った白酒の如く、どこか言葉を濁す感じでそう答えた。


「約束? まあ! かわいい妹の婚礼よりも大事なご用がおありなの? まさか、女子おなごの所へ行くんじゃないでしょうね? あの剣術馬鹿の兄上がいつの間にそんないい人を……?」


「い、いや、誤解だよ。ぜんぜんそんなんじゃないから。相手は男の友人だし……てか、剣術馬鹿は余計だ。その友人との大事な約束があるんだよ……そう。古い友人とのね……」


 何やら大きな勘違いをし、目を真ん丸くして詰め寄る興奮気味の妹に、首をぶるぶると横に振って即座に否定する芽郎左だったが、最後の方はどこか感慨深げな色をその瞳に浮かべ、月明かりに白く浮かぶ庭の桜の木を振り返って見やった。


 満開の桜を照らす今宵の月は十五夜の満月……偶然にも妹の婚礼と重なってしまったが、今夜は一年前に芹野貞蔵と約束を交わした、まさにその日なのだ。


 芽郎左と貞蔵は、同じ花形月影はながたつきかげ流の剣術道場に通う門弟仲間だった。


 門弟の内でも図抜けて筋の良かった二人は次第に頭角を現し、いつしか道場で一、二を争う腕前にまで上達すると、互いに互いを好敵手と認め合うとともに唯一無二の親友ともなったのである。


 だが、そこは最強を求めて競い合う者同士……袂を分かつ時は遠からず訪れた。


 よる年並から後継者を考えた師である花形風月斎が、二人の内のどちらかに一子相伝の奥義を伝えることとなったのだ。


 そして、その実力は拮抗し、どちらとも優越つけ難きところ、悩んだ末に師が選んだのは芽郎左の方だった。


 親友とはいえ、選ばれなかった貞蔵がそのまま道場に残ることは彼の誇りが許さない。満開の桜が咲き誇る一年前の十五夜の夜、芹野貞蔵は道場を芽郎左に託し、自分は武者修行へと旅立って行ったのである。


 ある約束を、芽郎左と交わして……。


 あれから一年。月日が経つのは早いものだ……貞蔵はもう、あの野辺に立つ一本の桜の大樹の下で待っているのだろうか?


 婚礼が終わってから向かうつもりでいたが、長いこと待たせるわけにもいかぬだろう……そろそろ、こちらも行かねばなるまい。


 そう思った芽郎左は、屠蘇器を妹の膳の上に置くと、微かな衣擦れの音をさせておもむろに立ち上がった。


「あ! 兄上、旗色が悪くなったからって逃げるんですか? 花形月影流の後継とは思えぬ卑怯な振る舞いですわ」


「違う。かわやだよ、厠。すぐに戻る」


 口数の減らない勝気な妹に、芽郎左は苦笑いを作って嘘を吐くと、そのまま婚礼に浮かれ騒ぐ大座敷をこっそそり抜け出そうとする。


「男の友人…………ああ、衆道しゅどう(※男色)の方ですか?」


 そんな義兄の芽郎左を見上げ、若干天然らしき妹婿が少々遅れてから納得というように呟いた。


「いや、それも誤解だからね――」

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