第十三章 夏の川原の匂いは緑色 藻の緑色 (ジワジワ)
青い空の向こうに入道雲があった。
今日も暑くなりそうだ。
台風が去ってから三日目の朝。
辺りは夏の川原のような匂いがしていた。
水の匂いの中に生臭さが忍び込んでいる、あの独特の匂い。
色は緑色。川の中に生えている藻の、緑色。
あれからすぐ、その日のうちに水は引いていった。
水が引くと、泥だらけの町が現れた。
家も、道路も、壁も、看板も、電柱も、車も、自転車も、ありとあらゆるものが泥にまみれていて、川原の匂いが漂っていた。まるで町全体が川原になってしまったかのようだった。
家に寝るところが無かったので、優弥とお母さまは公民館で寝泊りすることになった。
避難所となった公民館には近所の人がみんないて、おにぎりがあって、段ボールに入った毛布と衣類が支給されていた。
ありがたかった。
電気も水道もガスも復旧していないので、給水車からバケツに汲んだ水でタオルを湿らせて、泥で汚れた身体を拭いた。
とても情けなくて辛い状況だったけれど、よかったよかったと言い合った。
よかったよかった。死ななくて。
よかったよかった。助かって。
そんなことを言いながら身体を拭き、配給のおにぎりをいただき、毛布にくるまって眠った。
そして朝になると家に戻り、片付けをするのだった。
三日目の朝、優弥とお母さまも公民館から家に戻ってきた。
家の玄関は風を通すために開け放たれていた。
土足のまま廊下に上がる。廊下はまだ泥だらけだ。
優弥とお母さまがまず最初に向かったのは居間だった。
居間のソファの上にはビニール風呂敷が敷かれており、その上に泥だらけの獣がいた。
「ケンケン、おはよう」
優弥が言った。
ケンケンが反応し、少しだけ目を開け、少しだけ尻尾を振った。
そこにいたのはケンケンだった。でもケンケンのいつものフサフサの金色の毛は泥にまみれて固まってしまっていて、なんだか一回り小さくなってしまったように見えた。
「ケンケン大丈夫? 生きてる?」
お母さまがそう言って、買い物袋から半分になったおにぎりを取り出して、ケンケンの口元に持って行く。
駄目だ。ケンケンは食べない。食べようとしない。また目を閉じてしまった。
「ごめんねケンケン。おにぎりここに置いとくからね」
お母さまはそう言ってケンケンの頭を撫で、おにぎりを脇に置いた。
ソファの上には、お皿に入れたお水と、昨日のおにぎりがまだそのままそこにあった。
「ケンケン、水も飲んでないね」
優弥が言った。
「飲めないのかな」
お母さまも心配そうだ。
公民館は避難してきた人でごった返している状態で、とてもペットを連れていけるようなかんじではなかった。そういう事情もあったけれど、台風が去った後、ケンケンが身体の調子を崩し、歩けなくなってしまっていた。体重が三十キロを越えるケンケンを連れて行きようもなく、この家に置いて行くしかなかったのだ。
わたしは。
わたしはあれから、ケンケンと共に夜を過ごしていた。
ケンケンを一人にしないように。
ケンケンを孤独にしないように。
あの時。
ケンケンに吠えさせたのはわたしだ。
ケンケンはあの時、沢山の汚い泥水を飲んでしまった。
だから体調を崩したんだろうか。
わたしは責任を感じていた。
ケンケン。
ケンケンの長い金色の体毛は洗われることもなく、泥だらけのままソファの上に大きな身体を横たえていた。
何度か優弥とお母さまが配給のおにぎりを運んでくれたのだが、それも食べられなくなっていた。
ムンムンとする夏の熱気の中、水も飲めず、舌も出せずに、暑さに耐えていた。
ごめんねケンケン。
ごめん。
優弥とお母さまは家の後片付けをしなければならなかった。
学校の災害特別休暇は今日までとされていた。
だから今日、片付けを進めなければならない。
要るものと要らないもの、使えるものと使えないもの、救えるものと救えないものを振り分け、救えないものは外へ出す。
床の上に堆積した泥を掻き出す。
ポッカリと穴が開いたお店の屋根を塞がなければならなかったが、そのためのブルーシートなどの資材は手に入らず、屋根を塞ぐ目途はまだ立っていなかった。
「おはようございます」
台所でゴミを仕分けていると、玄関の方から声がした。女性の声だった。
「何かお手伝いできることはありますか」
優弥が玄関に出てみると、ジャージ姿の女の子が立っていた。
「オフクロ」
榊原さんだ。
榊原浩菜さん。
「おはよう、松本君。お手伝いしに来ました。私にできることはありますか」
「おおオフクロ。おはよう。ありがたい。上がって」
泥まみれの優弥が玄関先で手招きする。
「はい。お邪魔します」
家の中はびっくりする程泥だらけだったけれど、榊原さんは躊躇せず、泥まみれの家の廊下に足を踏み入れた。
「ごめんな。汚れちゃうけど」
「いいのいいの。汚れても大丈夫な格好で来たから」
「あらまあ。お友達?」
お母さまも出てきた。
「うん。榊原さん。うちのマネージャーの」
「榊原さん。榊原さんって、榊原さんでしょう?」
「はい。榊原です。榊原浩菜です」
「榊原さんって、あの丘の上の、榊原さんちの榊原さんでしょう?」
「そうです。榊原です」
「昔ちっちゃな頃よく優弥と遊んでくれた、あの榊原さんよね?」
「はい」
「あらまああらまあ。お久しぶりじゃないの。お久しぶりよね?」
「お久しぶりです」
「あらまああらまあ。こんなに大きくなって。すっかり大人になっちゃって」
「はい。お陰様で」
「優ちゃんも覚えてるわよね? 榊原さん」
「覚えてるよ」
「あなた幼稚園の頃よくお世話になったのよ。榊原さんに手を引いてもらって。公園で一緒に遊んでもらって。あの子がねぇ。あの子がこんなに大きくなって。まあまあまあ。ほんとうに。優弥がお世話になっております」
「いえ、こちらこそ」
「榊原さんがマネージャーなの? 野球部の?」
「そうだよ、母さん」
「優ちゃん、なんでそれを早く言わなかったのよ」
「言ってるじゃん。この前もさ、よもぎの大福もらってきた時あったじゃん。俺の誕生日の日に。その時とかもさ、これマネージャーの榊原さんからだよ、ってさ。言ったじゃん」
「ああ。よもぎの。よもぎの大福。あれね。あれ、ほんとおいしかった。できたてだったでしょう? モッチモチで。よもぎのいーい匂いがして。ほっぺが落っこちるかと思った。榊原さんありがとうね」
「いえいえ」
「あれはもしかして手作りなの?」
「はい。家で母と作りました」
「どうりでね。おいしい訳だわ」
「祖父がよもぎを摘んできてくれたんで」
「へえぇ。おじいさまが」
そこまで言って、お母さまは何事かを考え、そして思いついたようにこう言った。
「あらぁ。そうなのね。そうなのかぁ。もしかして。なるほど。あの榊原さんが、この榊原さんなのね。優ちゃんの野球部のマネージャーの榊原さんが、この優ちゃんと幼馴染の榊原さん。なるほど。そういうことだったのね。それをお母さんは今初めて知ったわよ。なんで最初からそう言わなかったのよ」
「だから言ってるって」
「ところで榊原さんのお宅は大丈夫だったの? 台風?」
「はい。家は大丈夫でした。停電とか断水とかはしてますけど」
「そうよねえ。たいへんだったわよねえ」
「でも、うちは水が来なかったので」
「そうよねえ。それはよかったわよね。やっぱり山の手のお宅はいいわよね。うちなんか川沿いだから。大水来ちゃって」
「大変でしたね。ほんとうに」
そんな話をしながら、三人が居間まで来た。
そして榊原さんが壁を見た。
居間の壁。
居間の壁には。
「あ、神田さん」
居間の壁には。
わたし。
わたしの写真。
洪水から優弥によって救われた、わたしの写真が掲げられている。
「そうよ。真姫ちゃん。知ってらっしゃる?」
お母さまがわたしを紹介してくれた。
「はい。知っています」
「うちのご本尊なのよ」
「母さん」
優弥が口を挟もうとするが、お母さまは口を挟ませない。
「今回ね、本当に危なかったの。死ぬところだったのよ。私たち。家の中にいて、水が入ってきちゃって。どんどんどんどん入ってきちゃって、天井まで水が来ちゃったの。どこにも逃げられなかったの。私たち。それでね、真姫ちゃんが助けてくれたのよ」
「真姫さんが?」
「そうよ。真姫ちゃんが。優弥がね、真姫ちゃんのこの写真と、それからわたしがね、お父さんのお位牌をね、こう、こうやって、天井にね、向けていたの。そしたらね、うちの犬のケンケンがね、吠えたの。ワンワンワン、って。すごく吠えたの。そしたらね、消防団の人がちょうど舟で通りかかって。犬の鳴き声が聞こえたって。それでね、屋根に穴を開けて、助け出してくれたの」
「そうだったんですね」
「そうよ。そうなの。だからね、真姫ちゃんのお陰なの。真姫ちゃんのお陰でね、命拾いしたのよ。私たち」
「そうなんですか」
「そうなのよ」
「さすがですね。神田さん」
そう言って、榊原さんが改めてわたしの写真を見上げた。
ああ。
榊原さん。
見つめている。
わたしを。
どんな気持ちなんだろう。
どんな気持ちでわたしの写真を見てくれているんだろう。
榊原さん。
家の中は、まるで田んぼみたいに泥が堆積してしまっている。これを掻き出さなければならない。具体的には、プラスチックの塵取りで泥を掬って、市が指定したビニールのゴミ袋に入れ、外へ出すのだ。
優弥と榊原さんの二人は、まずその作業を優弥の部屋から始めることになった。
「私が塵取りで泥を掬うから、松本君はビニール袋を広げて構えていてくれる?」
「うん。いいよ」
ガシガシ。榊原さんが塵取りで床を擦るようにして泥をすくう。塵取りはすぐに泥で一杯になって、優弥が構えていたビニール袋へガサガサと入れる。その繰り返し。
ビニール袋もすぐに泥で一杯になってしまう。優弥がそれを外に置きに行く。
優弥を待つ間。
榊原さんが部屋を眺める。
優弥の部屋。
初めて入ったに違いない、優弥の部屋。
泥だらけではあったけれど、優弥のプライベートな空間。
そこに榊原さんが一人。
榊原さんが目に留めたのは、タペストリー。
壁に貼ったタペストリー。
甲子園球場のタペストリー。
手を止めて、それをじっと見る榊原さん。
「甲子園タペストリー。いいでしょ。ベタで」
部屋に戻っててきた優弥が、榊原さんの後ろからそう言った。
「うん。素敵。ベタで素敵」
榊原さんもそう言って笑った。
珍しい、とわたしは思った。
榊原さんの笑顔。
丸い頬に地味にほうれい線ができる。
壁に掲げられたその甲子園のタペストリー。
泥水を被って汚れていた。
でもはっきりと甲子園と書いてある。
赤地に金色の文字で、甲子園、と。
それは、高校一年生の時に優弥が壁に貼ったタペストリーであり、優弥自身の決意であり、この二年と数か月間を懸けてきた、優弥の思いでもあった。
二人はしばし作業の手を止めて、その金色の文字を眺めていた。
わたしは。
わたしは思い出していた。
榊原さんの部屋。
よもぎ大福の、よもぎ色の匂いと共に、思い出される。
榊原さんの部屋。
そこに貼られていた半紙。半紙に書かれていた文字。
「いいね、甲子園」
タペストリーを見つめながら榊原さんが言った。
もう真顔に戻っていた。
「いいでしょ」
「うん。欲しい。私も」
「あげない」
「いいもん。買ってくるもん」
「甲子園でな」
「うん」
「今度甲子園行った時な」
「うん」
「行けるといいけどな」
「行くもん。絶対行くもん」
「絶対な」
「うん。絶対」
優弥と榊原さんの会話。
おぅ。
そうきたか。
榊原さん、そうきたか。
わたしは思った。
わたしだって。
わたしだって欲しい。
このタペストリー。
この甲子園のタペストリー。
わたしだって行きたい。
甲子園。
絶対行きたい。
わたしは優弥の隣にいた。
優弥のすぐ隣にいたんだ。
すぐ隣にいて。
わたしだって欲しい、と。
わたしだって行きたい、と。
そう思ったんだ。
そう思ったのに。
言えなかった。
口を挟めなかった。
優弥と榊原さんの会話に。
わたしは。
優弥の近くにいたんだよ。
榊原さんより、もっと近くにいたんだよ。
なのに。
言えない。
わたしの気持ち。
わたしのこの気持ち。
壁のタペストリーを前にして、佇んでいる二人。
違う。
違うよ。
二人じゃないよ。
三人だよ。
わたしも入れて、三人だよ。
優弥。
優弥はTシャツと短パン姿だった。
ほぼ全身が余すところなく泥だらけで、髪や頬にも泥が付いていた。
榊原さん。
榊原さんはジャージ姿だった。
そのジャージにもいっぱい泥が付いていた。
後ろで結ばれた髪にも泥が付いていたし、頬にも泥が付いていた。
わたし。
わたしは。
わたしはセーラー服。
二人には見えないけれど、わたしはセーラー服。
泥の付いていないセーラー服。
きれいなセーラー服。
わたしだけ泥の付いてない、きれいなセーラー服。
ああ。
優弥。
わたしは。
役に立てない。
あなたの役に立てないよ。
少しも役に立てないよ。
何か。
何かわたしの中で、残念な思いが立ち上がってきた。
悔しい思いが立ち上がってきた。
わたしは役に立てない。
優弥の役に立てない。
少しも役に立てないんだ。
負ける。
わたしは。
負けるんだ。
敗北感。
敗北感のようなもの。
わたしは。
負ける訳がない。
負ける訳がないと思っていたんだ。
わたしが負ける訳がないと。
優弥とわたしのこの関係が、他の何かに負ける訳がないと。
この宝石のような、宝物のような、ダイヤモンドのようなわたしたちの関係が、何か他のものに負けたりなんかする訳がないと。
わたしは思っていた。
思っていたんだ。
思っていたんだよ。
生きている時も。
ユーレーになってからも。
あの約束の日から。
優弥と約束を交わしたその日から。
優弥。
あなたとの約束。
覚えている?
固い約束。
恋人になる約束。
二人だけの約束。
だけど。
今。
わたし。
負けちゃった。
負けちゃったよ。
いやこれは。
勝ち負けじゃない。
勝ち負けなんかじゃないよね。
勝ち負けなんかじゃない筈だよね。
だけど。
勝てないじゃん。
わたし。
勝てないじゃん。
どうやったって勝てないじゃん。
負けるしかないじゃん。
そう思ったの。
それが敗北感。
わたしの中の敗北感の正体。
「ところでさ」
優弥が口を開いた。榊原さんに向かって。
「あさって、予定通りやるって?」
あさって。
優弥が聞いたのは、地方予選の試合のことだ。あさって、尋常学園曙高校の試合が予定されている。曙高校は第一シードなので、あさって行われる二回戦の試合が初戦となる。
「やるって。昨日キャプテンの山田君がSNSで確認のメッセージを送ってくれたの。松本君はまだ見れてなかったんだね」
「うん」
「野球場は無事で、うちの学校も相手校も、関係者は全員無事みたい。だから試合は予定通り実施するって」
「そうなんだ」
「今回の台風で、床上浸水して一番被害が大きかったのがこの辺りみたい。災難だったよね。我が校のエースが最大の被害を受けるなんて」
「参ったね」
「ね、松本君、身体は大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ」
「もう四日間、練習してないでしょう? 肩は大丈夫?」
「わからない。四日間も投げなかったことが、今までなかったから」
「そうよね。投げてないと肩がなまっちゃうんじゃない?」
「わからない。そうかもしれない。でも仕方ないよ。やるべきことをやるしか」
優弥がそう言った時だった。
「こんにちは」
玄関の方から声がした。
男の子の声だった。
一人じゃない。何人も。
「松本、いるか」
「あらまああらまあ」
お母さまが玄関に出た。
そこにいたのは山田君だった。巨漢で責任感が強いキャッチャーでキャプテンの山田君。山田君だけじゃない。尋常学園曙高校野球部。部員たち。十人以上いる。
「おばさん、僕たち、片付けを手伝いに来ました」
山田君は玄関に出てきたお母さまにそう言った。
「なので、その代わりと言ってはなんですが、松本君に投げてもらってもいいですか」
「投げる?」
お母さまが言った。
「そうです。ピッチングです。今朝から学校のグランドが使えるようになったんで。明後日の試合に備えて、我が校のエースにピッチング練習をしてもらおうと思いまして。それで我々、ここに来ました」
山田君。山田君の笑顔が光る。
「すごい。山田君。みんな。いい考え」
言いながら、榊原さんがお母さまの奥にいた優弥の更に奥から現れる。
「お。オフクロ。先行してたのかよ」
「うん。今朝からいたの。わたしご近所だから」
「あれ、そうだったか」
「そうよ」
「みんなありがとう。ぼくに投げさせてくれる?」
榊原さんの前で、優弥が言った。
「おう。松本に投げてもらう。そのつもりで俺たち手伝いに来たんだからさ。行ってくれ。日のあるうちに」
「ありがたい」
「榊原さんも一緒に行って、部室の鍵開けてやってくれ」
山田君がそう言った。
「はい」
榊原さんが答える。
うれしそう。
うれしそうな榊原さん。
わたしは。
一人だけ泥がついていないセーラー服姿のわたしは。
二人についていった。
Tシャツとジャージ姿で、泥だらけのまま学校へ向かう二人に。
泥だらけの道を、テクテクと歩いていく二人に。
夏の日の午後。
日差しは暑く照り付け、町中どこもかしこも泥だらけで、夏の川原の匂いがしている。
緑色。
緑色の匂い。
川の中の藻の、緑色。
肩を並べて歩いていく。
優弥と榊原さん。
言葉は無かった。
何も無かった。
歩いていく。
学校に向かって。
グランドに向かって。
甲子園に向かって。
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