第十二章 海の匂いの台風の雨 潮風の青色(ザアザア)

 * * *


 はてさて。

 吾輩、ケンケンであります。

 そんなこんなで、数か月が過ぎてゆきました。

 あっという間でした。

 夏の大会が近づいていました。

 高校三年生の優弥さんにとっては、甲子園へ行く最後のチャンスです。夏の大会に向けて、ひたすら練習をがんばっていました。

 真姫さんはそれを見ていました。一番近くにいて、応援をしていました。

 優弥さんの仕上がりは順調のようでした。練習試合で強豪校を相手に危なげなく勝てるようになり、県予選では文句なく第一シードになると目されておりました。また、優弥さんは甲子園を目指す注目の速球投手という評判になっており、地元の新聞のスポーツ欄に載ったりもしていました。

 真姫さんはそれを見ていました。一番近くで見ていました。筋肉と骨が悲鳴を上げる毎朝の鍛錬も、石原セオリーを身体に叩き込む夕方の訓練も。朝起きてから夜眠るまで、ずっとずっと一番近くで優弥さんを見ていました。そう、まさに密着していました。

 そんなふうに密着して熱心に応援する真姫さんでしたが、その真姫さんの存在には、誰も気付いていませんでした。応援されている優弥さん本人も、一緒に暮らしているお母さんの優子さんも、その他、お友達の皆さんも、誰も。

 でも、それでもいいと、真姫さんは思っていました。気付かれなくても構わない、と。誰かにわかってもらったり、認められたいという訳ではない、と。ただ応援するんだ、ただ優弥さんを応援するんだ、と。そんなふうに思っていました。

 朝練に出かける優弥さんが、居間に飾られた真姫さんの写真を仰ぎ見て、よし、いくぞ、という表情をすることがありました。また、夜の練習でバテてきた優弥さんの背中を真姫さんが押してあげるようにすると、馬力が出るようなかんじになって、練習を乗り切れたというようなこともありました。そんな時、真姫さんの心が温かくなりました。優弥さんの役に立っている。微力ではあるけれど、優弥さんの励みになっている。それがうれしくて、真姫さんの励みにもなりました。

 優弥さんがベッドで眠りにつく時、真姫さんは必ずそばにいて、背中から抱き締めてあげるようにしていました。そんな時、眠りに落ちる優弥さんの顔が、ほんのりと緩むことがありました。ほんのりと緩んで、右頬に小さな笑くぼができるのです。真姫さんはそれを見ながら眠りにつきます。

 幸せだ。

 本当に幸せだ。

 そんなふうに思いながら眠るのです。


 はてさて。

 そんな日々でした。

 そんな日々が繰り返されておりました。

 この日までは。


 この日。

 夏の高校野球地方予選の尋常学園曙高校の試合が次の週末に迫った、七月初旬のこの日。

 大変なことが起ころうとしていました。

 台風です。

 季節外れの台風が来ようとしていました。

 観測史上最大の超大型台風が、今夜遅く、本州を直撃します、と、テレビのニュースキャスターが言っています。東京都内の鉄道全線は運行停止、高速道路も閉鎖。不要不急の外出は控えてください。危険地域にお住まいの方は、早目の非難をお願いします。命を守る行動をお願いします。と、繰り返しています。

 今日は午後から雨でした。本州付近にはまだ梅雨前線が留まっており、南からやってきた超大型台風が梅雨前線を押し上げて刺激した格好になり、ザアザアと激しい雨が降ってきました。優弥さんは室内練習場で簡単にピッチング調整を行った後、この日は早目の帰宅となったのですが。傘なんてさしてもささなくてもどっちでも変わらないくらいの激しい雨で、ずぶ濡れで帰ってきました。学ランもズボンも、革靴もカバンも、洗濯機の中に入れて回したのでは?というくらい、ぐっしょりびしょびしょでした。

 最近は結構台風やゲリラ豪雨といった異常気象が続いておりますね。なので、市町村はハザードマップというやつを用意しています。町のどのあたりが危険か、はたまた、危険ではないか、そういうのを示した地図ですね。それは各市町村のホームページなどで確認することができるのですが。

 それによりますと、優弥さんの家、旧松本自転車店、この付近は「赤」です。「赤」というのは、「危険」ということを示しています。

 もっとも、松本家ではその事実を台風が過ぎ去ってから知ることになるのですが…。汗。

 この町には川が流れています。そんなに大きな川ではありません。逆川(さかがわ)という名前で、二級河川です。この川には堤防があるのですが、堤防はある程度の高さがあって、でも、そのこちら側、松本自転車店側は、堤防より低いのです。ということは、川の水が堤防の高さを越えなければ大丈夫なんですが、もし水が堤防の高さを越えたとしたら大変です。松本自転車店があるこの地域は、どんどん水が溜まってしまうでしょう。これがハザードマップが「赤」ということの所以なのですが。

 ちなみに、歴史を遡れば、かつて一回だけ、この堤防が決壊したことがあったそうです。昭和三十四年の伊勢湾台風。この地域の被害は甚大だったのだそうです。犠牲者も沢山出たといいます。今回の台風は観測史上最大と言っていますから、もしかするとその伊勢湾台風よりも大きいんでしょうか。

 不安です。

 不安の夜を迎えました。

 折からの雨。

 豪雨。

 よくバケツをひっくり返したような雨、と言ったりしますが、まさにそれ。まさにそれです。さっきまでザアザアというかんじだった雨が、ドドドド、というかんじになってきました。おまけに風です。ゴウゴウと吹いてきました。風がガタガタとシャッターを揺らし、なんだか家全体が揺れているようなかんじ。ドドドドと轟音を伴って、滝のような雨が屋根と壁を打ち付けています。

 吾輩は優弥さんと優子さんと一緒に、居間でテレビを見ておりました。テレビにはずっと天気図が映っており、日本全体が隠れてしまいそうな大きな渦の形をした台風が、今まさに本州に上陸する、というところでした。

 フッと、テレビの画面が消えました。

 そして、居間の電気も消えました。

 停電です。

 もうテレビが見れなくなってしまいました。

 こうなるともう寝るしかありません。なにしろ真っ暗です。

 まだ夜の十時過ぎでしたが、松本家は就寝ということになりました。

 心配していてもしょうがない。もう寝よう、と。

 スマホのライトを照らして、お部屋のベッドまで移動。

 今日はもう就寝です。

 吾輩も優弥さんのお部屋の絨毯の上の定位置で就寝です。


 はてさて。

 はてさて。


 * * *


 優弥が寝返りを打った。

 汗をかいている。

 暑いんだ。

 でもこの雨じゃ窓を開けられないし、停電で扇風機も使えない。真っ暗だし寝るしかないんだけれど、これじゃ眠れないよね。

 わたしはいつものように優弥と一緒にベッドに入って、優弥を背中から抱きしめるようにしていた。少しでも安心してくれるといい。そう思っていた。わたしも眠れなかったけれど、でも少しうとうとしていた。

 その時だった。

 「優ちゃん!」

 居間の方からお母さまの声がして、飛び起きた。

 「優ちゃん、来て。水が」

 水?

 優弥がスマホのライトを点けて、自分の部屋を出た。

 水だ。

 廊下が水浸しになっている。

 「母さん、水だ。浸水してきてる」

 居間に行くと、お母さまが懐中電灯を持ってうろうろしている。

 「優ちゃん、長靴取ってきて。長靴」

 優弥が玄関に長靴を取りに行くと、玄関のドアの下からゴボゴボと音を立てて水がどんどん入ってきているのが見えた。

 「はい、長靴。母さん、大丈夫?」

 「うん。大丈夫。ね、これって、もしかして逆川が決壊しちゃったのかな」

 「わからない。でもこの勢いで水が来てるってことは、そうかもしれない」

 「すごい雨だもんね」

 「うん」

 「避難した方がいいかな」

 「避難って、公民館まで?」

 「うん。たぶん」

 「だって母さん、うちにここまで水が来ちゃってるってことは、外の道はうちより一段低いから、もう腰くらいまで水が来てるよねきっと」

 「泳いでいかなくちゃ。水着あったかしら」

 「冗談言う余裕あるんだ」

 「ね、優ちゃん、大事なものをテーブルの上に上げるわよ。手伝って」

 そう言って、お母さまは床や押し入れに置いてあったものをテーブルの上に上げ始めた。掃除機とか、電気按摩器とか、お米の袋とか、ケンケンのエサとか。冷蔵庫は無理よねえ、なんて言っている。

 わたしは一旦この場を離れ、外の様子を見に行くことにした。

 水浸しになった床を蹴って、天井を抜ける。

 こういう時ユーレーは便利だ。雨が降ろうが槍が降ろうが風が吹こうが雷が鳴ろうが構ったことではない。全てがわたしの身体をすり抜ける。

 なんだか海の匂いがしている。これが台風の匂いか。潮の匂い。色は青。台風が海から潮風を運んでくるからだろうか。

 海の匂いがする土砂降りの雨の中を上空まで上がって、わたしは下を見下ろした。

 暗くてよくは見えなかった。

 でも、たいへんなことが起こっているということはわかった。

 川が溢れ出していた。

 どこまでが逆川だったのか、その境目がわからなかった。

 川沿いに大きな柳の木があった筈だけど、もう見えない。風で倒されてしまったのか、川に流されてしまったのか。

 とにかく、水が町に溢れ出している。

 逆川が決壊したんだ。

 水が町に溢れ出して、どんどん水位が増している。

 これは大変だ。

 大変なことになった。


 優弥に知らせなければ。そう思って、優弥の家へ帰った。

 家に帰ると、居間のテーブルの高さまで水が来ていた。テーブルがプカプカ浮いてしまうかんじになっている。

 「ああ。こんなことなら二階家にしておけばよかったわ」

 腰上まで水に浸かって、お母さまは途方に暮れていた。

 「いま後悔しても遅いよ母さん」

 「だって。あの頃はね、貧乏だったのよ。平屋のこの家を建てるのだって大変だったんだから。優ちゃんが生まれてくる前ね」

 「今だって貧乏じゃん」

 「そうだけど」

 「待って。母さん。あのさ、うちにもさ、二階あるよね」

 「あ、もしかして、それってロフトのこと?」

 「そうそう。お店の二階」

 「お店のロフトね」

 そんなところがあったのか。

 この数か月間居候をさせていただいているわたしも、知らなかった。

 玄関の横の扉の向こうにかつて自転車屋さんだったお店があって、優弥が二階と言っていた場所はその奥にあった。ロフト状になっており、梯子が付いている。そこは平屋に仮設された半二階で、優弥の頭より少し低いくらいの高さにロフトの床があって、畳一畳半くらいの広さがある。

 優弥とお母さまは腰まで来ている水の中をジャブジャブと移動し、うんしょうんしょと戸を開けて(水が入ると扉は重くてなかなか開かなくなってしまうんだ)、お店の奥まで来て、まずお母さまがロフトへ続く梯子を登った。

 ケンケンが泳いで二人の後をついてきて(ケンケンって泳ぎが得意なのね。わたし初めて見た。泳ぐでかい犬。ほんとに犬かきなんだ。すっごいかわいい)、梯子を登れないから下から優弥に押し上げてもらって、ようやくロフトに登ることができた。

 そんなふうにして、二人と一匹はロフトに上がることができた。

 さすがに、ここまでは水が来ていない。

 ケンケンがブルブルっと胴震いして水を弾き飛ばす。

 わぁっ、こらーケンケンー、なんて、怒られてる。

 「おお。しかし久しぶりに来た。ここ。なんかなつかしー」

 「優ちゃんここ好きだったもんね。幼稚園の頃。秘密基地だとか言って籠っちゃって」

 そこは金属と油の匂いがしていた。自転車のチェーンとかサドルとか、そういったものが袋や箱に入っていて、そこに置かれていた。きっとここは自転車屋さん時代の倉庫だったんだ。ロフトに登ると天井がすぐ近くにあって、立ち上がることはできず、座っているしかなかった。

 ドドドドド。

 雨が激しく屋根を叩いている。

 滝の中にいるようなかんじだ。

 「まだ降るのかな、雨」

 ビショビショになってしまった寝巻きの裾を絞って水滴を落としながら、お母さまが言った。

 「台風は通過したと思うから、もうじき止むんじゃないかな」

 優弥もTシャツを脱いでギュウギュウ絞りながら答える。

 寒い季節でなくてよかった、と思う。これが寒かったら、二人とも凍えてしまう。

 「ね、優ちゃん。大事なものをここに上げよっか」

 「そうだね。救えるものは救わないと」

 「えっと」

 「お父さんと、自転車だよね」

 「そうね」

 優弥はTシャツを脱いだ状態の上半身裸の姿で、梯子を下りた。水かさは増していて、胸まで来ている。居間まで水の中を歩いて行って拾い上げたのは、テーブルの上に避難させていたお父さまのお位牌。それをロフトにいるお母さまに手渡して、続いて向かったのはお店のシャッターの横。お母さまがロフトから懐中電灯で照らしてくれたのは、壁にかかっている緑色の自転車。細い骨組みと細いタイヤ。ロードバイクと言われるやつだ。これを優弥が壁から外して、頭の上に掲げ持ち、うんしょうんしょとロフトまで運ぶ。

 「優ちゃんありがとう」

 「うん」

 「ああよかった。お父さん無事だった」

 お母さまが言った。

 きっとこの緑色の自転車はお父さまの宝物で、お父さまの形見なんだろう。

 「あっ」

 優弥が言った。

 「何?」

 「真姫」

 「真姫ちゃん?」

 「真姫、忘れてた」

 「あ」

 優弥はお母さまの手から懐中電灯を受け取ると、ザブンと水の中に入った。水が深くて、もう優弥の顎のあたりにまで達しようとしている。

 優弥。優弥は取りに行ってくれるんだ。わたしを。わたしの写真を。

 ザブザブと水を掻き分ける。水の中を進む。いろんなものが浮いている。ビニール袋とか、靴とかスリッパとか、椅子とかテーブルとか。それらを掻き分けて掻き分けて、居間に入る。居間の壁。水面の上。わたし。わたしの写真。

 「よかった。助かった。真姫」

 優弥。

 優弥が取り上げてくれた。

 私の写真。

 優弥が救ってくれた。

 私の写真に水がつかないように頭の上に掲げながら、優弥がロフトまで戻ってきた。

 「ああよかった。真姫ちゃん、無事だったのね」

 「うん。無事だったよ。母さん受け取って」

 わたしの写真がロフトの上にいるお母さまに手渡される。そして優弥が全身から水を滴らせながらロフトへ上がった。そこにはお父さまの自転車があって、ロフトのほとんどが自転車に占領されてしまっていた。二人と一匹はロフトの片隅で身を寄せ合った。お母さまの手には、お父さまのお位牌とわたしの写真があった。とても狭かったけれど、それでも、この松本家で唯一浸水していないこのロフトに家族全員で集まることができて、お父さまも来てくれて、優弥もお母さまもケンケンも、なんだか少し安心したような顔をしていた。

 「あ、優ちゃん、なんか小雨になってきたかんじしない?」

 「うん。そう思う。台風、通り過ぎたかな」

 確かに、さっきまでドドドドと轟音をあげていた滝のような雨粒の音が小さくなってきていた。

 それでようやく聞こえるようになった。

 サイレンが鳴っている。

 サイレン。

 外でサイレンが鳴っている。

 市の放送が流している、サイレン。

 ウー、ウー、ウー。

 ウー、ウー、ウー。

 ウー、ウー、ウー。

 嫌な音。

 不穏な音。

 不吉な音。

 もしかしてずっと鳴っていたのか。

 雨の音で聞こえなかったのか。

 何度も何度もひとしきり繰り返して鳴った後、サイレンの音が止んだ。

 何か言っている。

 放送で何か言っている。

 避難してください。避難してください。避難してください。

 木草ダムが放流を始めました。木草ダムが放流を始めました。木草ダムが放流を始めました。

 「えっ木草ダムが?」

 「放流?」

 木草ダムというのは逆川の上流にあるダムだ。逆川を遡っていくと、ダムがある。市街地から車でだいたい三十分くらいだろうか。大きくて静かに水をたたえるダムがある。わたしは昔小学校の頃、遠足でそこに行ったことがある。のどかな公園があって、そこでバーベキューができるんだ。秋になるとモミジの紅葉が綺麗なんだ。深い森の匂いがするんだ。森の匂いがして、小鳥がさえずっていて、静かで、大好きなんだ。そのダムが放流? 放流ってことは、いっぱいになっちゃったということか。あのダムが? あの大きなダムが? いっぱいになる? そんなことがあるんだろうか。

 「ね、優ちゃん、ダムが放流を始めたってことは、まだ今から水が増えるってことかな」

 「うん。そうかもしれない。逃げた方がいいかも」

 「逃げるって、優ちゃん」

 お母さまが足元を懐中電灯で照らす。

 そこは茶色の泥水でいっぱいだった。いろんなものが泥水の上にプカプカと浮いている。まだ水はロフトの床までは来ていない。でも足元のお店はほぼ水没し、そして水はもうすぐロフトの床に達しようとしている。これだと背の低いお母さまは水に入ったら足がつかないかもしれない。

 「泳いでいかないと。水着取ってこないと」

 「かなり深いかも。母さん泳げるっけ」

 「平泳ぎだったらできるわよ」

 「玄関、開くかな」

 「ね、待って」

 お母さまが優弥を引き留めた。

 「随分小雨になったと思わない?」

 耳を澄ませてみる。

 雨はまだ止んでいない。でも確かに、雨の音が小さくなっている。

 「優ちゃん、雨も止んできたし、きっともうすぐ水が引くと思うの」

 「そうだといいんだけど」

 「だってさ、こんな泥水の中、泳ぎたくないじゃない」

 「そうだね。ぼくもそう思う」

 「だいち危険じゃない? 水の中に何があるかぜんぜん見えないし。割れたガラスとか棘とか釘とか、きっとあるわよね。でも見えないじゃない。ぜんぜん。すごく危ないじゃない」

 「うん。そう思う」

 「だからさ、もう少しここにいましょう。ここにいて、もう少し様子を見ましょう」

 「うん。そうだね」


 床上浸水した水は優弥の顎くらいまで来ている。外へ出たらもっと深いし、玄関のドアだって水没寸前で開くかどうかわからない。

 わたしはロフトの床を蹴って屋根を越え、外へ出た。

 東の空が明るくなってきている。

 雨はもう小降りになっている。

 だけど。

 水がすごい。

 茶色い泥水が流れている。

 優弥の家の周りは川そのものだ。

 優弥の家の屋根の周りに、渦を巻いて川が流れていく。

 茶色い泥水の川。

 もし優弥とお母さまが玄関のドアから外へ出られたとしても、この泥水の川の流れの中を泳いで別の場所まで移動するというのは、難しいんじゃないか。

 怖い。

 わたしは改めてそう思った。

 怖い。

 これは命に係わる。

 命が危ない。


 少し上空まで上がってみた。

 上に上がると視界が広がった。

 辺りはまだ暗かったけれど、暗い中でも状況が見えてくる。

 今わたしの眼下に広がっている光景は、夜寝る前に見た光景よりも、相当ひどくなっていた。

 もはや町が川だった。

 どこに逆川が流れていたのか、本来の逆川がどこにあったのか、もう全くわからなかった。

 町全体が川なのだ。

 町が泥水の茶色い川になっている。

 その川の中に、家の屋根があり、電信柱があり、看板や信号機があった。

 車の屋根が動いて見えるのは、車が流されているのだろう。

 瓦礫が次から次へと押し寄せるように流れてくる。

 ひどい。

 ひどい状況だ。

 みんな逃げれたんだろうか。

 

 優弥の家から少し離れると、小高い丘になっているところがある。

 榊原浩菜さんの家がある丘だ。

 ここまでは水が来ていない。

 泥の川は小高い丘を避けるようにして流れていく。

 よかった。榊原さんの家は無事だ。

 わたしは榊原さんの家のそばまで行ってみた。

 あの窓が見えた。二階の、榊原さんの部屋の窓。

 窓際に人影があった。

 榊原さんだ。

 佇んでいた。

 優弥の家の方角を見ていた。

 心配そうな顔をしていた。

 そう。そうよ榊原さん。優弥がピンチなの。優弥が危ないのよ。優弥の命が。

 わたしはそれを伝えたかったが、ユーレーのわたしには伝えようもない。

 わたしはもう一度空を見た。

 雨はもう上がりそうだ。

 東の空が更に明るくなってきた。

 でも。

 水は引いていない。

 丘のふもとまで来ている水は、少しも引いていない。

 引いていないどころか、さっきよりも増してきているかんじがある。

 いや。

 かんじ、ではない。

 増している。

 確実に増している。

 これはどういうことか。

 もう雨が上がってきたのに。

 雨が上がってきたのに、これ以上水位が上がるとはどういうことか。

 木草ダムか。

 木草ダムを放流したからか。

 木草ダムの水が流れ込んできているのか。

 ともかく。

 優弥が危ない。

 優弥とお母さまとケンケンが。

 これ以上水位が上がったら、溺れてしまう。

 おうちの中で溺れてしまう。

 なんとかしなければ。

 なんとか。

 なんとか助けなければ。


 「よう」

 その時だった。

 声を掛けられた。

 この匂いは。

 この生ゴミの匂いは。

 「何してんの」

 「何って、洪水が」

 「わかってるよ」

 「助けないと。優弥を」

 「どうかしたか」

 「優弥がおうちの中にいて、このまま水位が上がったら、中で溺れちゃうんです」

 「そうか」

 「そうか、って」

 「もしかして、助けられるとでも?」

 「助けないと」

 「助けないと?」

 「死んじゃう」

 「死ぬのか」

 「優弥が死んじゃう」

 「行くのか」

 「はい」

 「待て」

 「え?」

 「待てと言っている」

 ミヤジさんの細い目が、わたしを見ていた。

 明け切らない空の、薄闇の中で。

 前髪の間から。

 「その優弥君って子は、死ぬんだな」

 「違います。死にません。絶対死にません。わたしが死なせません」

 「待て。考えろ。死んだらどこへ行く?」

 「は?」

 「優弥君は死んだらどこへ行くかと聞いてるんだ」

 「死んだら? 死んだら、天国…」

 「そうだ。天国だ。優弥君は天国へ行く」

 「優弥は、天国へ…」

 「そしてお前さんはどこへ行くんだ」

 「わたしは」

 「お前さんも天国へ行くんだろうが」

 「天国…」

 「希望だ」

 「希望?」

 「希望だよ。希望。今お前さんの目の前に、希望の光が射し込んきてるじゃねぇか。わからねぇのか」

 「希望の光」

 「そうだ。希望の光だ。お前は今から天国へ行く。犬バスに乗っていく。優弥君という子も、天国へ行く。犬バスに乗っていく」

 「あ」

 「二人で犬バスへ乗って、天国へ行けるじゃねぇか。仲良く。一緒に」

 「でも」

 「死は一瞬だ。死んでみてわかったろ? 死は一瞬。苦しいのも一瞬だ。一瞬で終わる。それが過ぎれば、あとは犬バスに乗るだけだ」

 「だって」

 「犬バスに乗りさえすれば、その先は天国だ。天国で暮らせる。お前さんの大好きなその優弥って子と、ずっと一緒に暮らすことができるんだ。この先ずっと」

 ああ。

 そうか。

 そういうことか。

 それを言いたかったのか。

 ミヤジさんはそれを言いたかったのか。

 「駄目」

 わたしは言った。

 「駄目です」

 わたしの口から。

 「そんなことは駄目」

 言葉が出る。

 「絶対駄目です」

 言葉が。

 わからない。

 なぜだろう。

 自分でもわからない。

 でも、言葉がわたしの口から出てくる。

 「駄目です。駄目。助けないと。わたしは優弥を助けないと」

 「馬鹿だな」

 ミヤジさんが言った。

 「馬鹿。馬鹿です。馬鹿でもいい」

 わたしは跳んだ。

 ミヤジさんの元から空へ跳んだ。

 東の空が明るくなっていた。

 足元では泥水の水位が更に増していた。

 まずい。

 溺れてしまう。

 優弥が。

 「匂いだ」

 下の方からミヤジさんの叫び声が聞こえた。

 匂い?

 「お前さんがこの世に唯一係われる力は、匂いだ」

 唯一係われる力。

 わたしが。

 この世に。

 「匂いだ。匂いを使え。匂いを使うんだ」

 匂い。

 匂いを使う。


 優弥の家の上まで来た。

 水が増えている。

 増水している。

 泥水の水面が屋根に届こうとしている。

 わたしは屋根をすり抜け、ロフトのある屋内に侵入した。

 「母さん、もっとこっちに来て」

 「優ちゃん」

 ロフトにはまだ優弥たちがいた。

 二人と一匹が、まだロフトにとどまっていた。

 水がロフトの上まで来て、彼らの首のところまで達していた。

 優弥とお母さまとケンケンは、ロフトにひざまずいてようやく水から顔を出していた。

 お母さまがお父さまのお位牌を掲げるようにして、水に浸からないようにしていた。

 その横で優弥がわたしの写真を持っていた。水に浸からないように掲げていた。

 その上にはすぐに天井があった。

 水は引かない。

 増している。

 わたしは優弥のすぐ横にいた。

 優弥の顔のすぐ横にいた。

 息がかかるくらいのところにいた。

 ここに優弥の顔がある。

 でもさわれない。

 優弥にさわれない。

 優弥。

 優弥が死んじゃう。

 どうしたら。

 わたしはどうしたら。

 「匂いだ」

 その声がリフレインした。

 ミヤジさんの声。

 匂い。

 「匂いだ。匂いを使え。匂いを使うんだ」

 匂いを使う。

 わたしは思い出していた。

 匂い。

 わたしは匂いを使うことができたんだ。

 匂わせることができたんだ。

 キンモクセイの匂いを、匂わせることができたじゃないか。

 わたしはロフトの床を蹴って空に上がった。

 外はもうすっかり明るくなって、朝を迎えていた。

 匂いだ。

 一直線に百円ショップに向かって跳んだ。

 百円ショップは屋根を残して完全に店舗が水に浸かっていた。

 構わず店内に侵入。

 大量の商品の袋が水の上に浮き、水中に漂い、水底に沈んでいた。

 どこだ。

 フレグランスのコーナーはどこだ。

 泥水の水中で、わたしはフレグランスの棚を見つけた。

 あった。ここだ。

 キンモクセイの匂いは。

 キンモクセイの匂いが封じ込められている小瓶は。

 どこだ。

 棚に引っかかって浮遊している小瓶の袋を見つけ出す。

 そしてわたしはその小瓶に指を突っ込む。

 キンモクセイの匂いを指にからめる。

 よし。

 これでいい。

 わたしは百円ショップの床を蹴り、再び空に向かって跳ぶ。

 上空にはヘリコプターが飛来していた。

 新聞社か何かの取材用のヘリコプターか。

 優弥の家に向かうところで、オレンジ色の蛍光色のベストを着込んだ人たちが見えた。

 舟だ。

 消防団の人たちが蛍光色の救命胴衣を着て、舟に乗っている。

 救助に来てくれたのか。

 あの舟に気付いてもらえれば、優弥たちは助かるかも知れない。

 希望が見えてきた。

 わたしは優弥の家に向かって落下し、屋根を素通りしてロフトへ突っ込んだ。

 ロフトでは優弥とお母さまとケンケンが、水から顔を出している。

 その顔の先、あと数センチで天井が迫っている。

 優弥。

 気付いて。

 わたしは優弥の鼻先へわたしの指先を差し出した。

 優弥。

 キンモクセイの匂い。

 匂うでしょう?

 今よ。

 気付いたら声を出すの。

 大声を出すの。

 助けを求めるのよ。

 駄目だ。

 たぶん優弥は匂っている。

 この匂いを感じている。

 だけど声を上げない。

 今声を出さなければいけないのに。気づかない。

 優弥。

 気付いて。

 優弥。

 駄目。

 駄目だ。

 気付かない。

 あっ。

 ケンケン。

 ケンケンの鼻が動いた。

 すぐ隣にいるケンケンの鼻が。

 そうだ。

 ケンケン。

 ケンケンだ。

 わたしはケンケンの鼻の穴に思いっ切りわたしの指を突っ込んだ。

 ケンケン。

 匂うでしょう。

 キンモクセイ。

 匂うでしょう。

 匂ったら吠えなさい。

 吠えるのよ。

 ケンケン。

 吠えろ。

 ケンケン。


 ワンワンワン。


 吠えた!

 そうよケンケン。

 あなたは利口な犬。

 もっと吠えろ。

 もっと吠えなさい。


 ワンワンワンワンワンワン。

 ワンワンワンワンワンワン。

 ワンワンワンワンワンワン。


 ケンケンが鳴くと喉まで来ていた泥水が口の中に入ってきた。

 ゲホゲホと咳込んでしまう。

 わたしは再度わたしの指をケンケンの鼻の穴に突っ込んだ。

 キンモクセイの匂いがしている、わたしの指を。

 口に入ってくる泥水をガブガブと飲み下しながら、それでもケンケンは鳴いた。


 ワンワンワンワンワンワン。

 ワンワンワンワンワンワン。

 ワンワンワンワンワンワン。

 

 ガツッ。

 屋根の上から何かが当たる音。

 ガツガツガツッ。

 舟だ。

 舟が来てくれた。

 舟の舳先が屋根に当たっているんだ。

 「いるのか。この下に。誰かいるのか」

 ワンワンワンワンワンワン。

 「います! ここにいます! 屋根の下にいます!」

 優弥が叫んだ。

 「助けて。助けて。助けてください」

 お母さまも叫んだ。

 「わかった。今から屋根を上から突いて壊す。危ないから下がっていなさい」

 上の方からおじさんの大声が響いてきた。

 「はい。わかりました」

 優弥が答えるのと同時に、屋根が突かれ始めた。

 ガシ、ガシ、ガシ。

 光。

 光が差し込んだ。

 「もう大丈夫だぞう」

 屋根の上からそう言った。

 間延びした声だった。

 オレンジ色の蛍光色の救命胴衣を着たおじさんが見えた。

 外の光が眩しかった。

 お日様が出ていた。

 青空だった。 

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