第十一章 男の子 椎の実のような青臭さ(うっぷ)
景色が流れていった。
わたしは跳ぶ。
夜の空を。
優弥の家へ。
松本自転車店へ。
優弥の所へ。
あっという間に見えてきた。
とても近いのだ。
榊原浩菜さんの家と、優弥の家。
同じ町内。
榊原さんは優弥と同じ町内に住んでいた。
そして優弥を見ていた。
きっと、小さな頃から。
今に至るまで。
高校三年生の、十八歳になるまで。
わたしが優弥と知り合う前から。
ずっと前から。
わたしが死んだ後も。
これからも。
「ただいま」
誰も答えてはくれなった。でもわたしは帰った。優弥の家。
優弥の部屋は暗かった。でも優弥はそこにいた。ケンケンはいなかった。ベッドの上に優弥だけがいた。寝そべっていた。寝そべって、スマホを見ていた。
わたしの顔。
わたしの写真。
優弥はベッドサイドにスマホを立て掛けるようにして、スマホの画面でわたしの顔写真を見ていた。
暗い中で息が荒い。
小刻みに動いている。
優弥の手。
優弥の腰。
ああ。まただ。
わたしは思った。
男の子がする、男の子ならではの行為。
最初これを見た時、ちょっとびっくりした。
こんなことするんだ、と思った。
優弥でもこんなことするんだ。
ちょっと衝撃的だった。
あんなに優しくて、そして奥手の優弥が。
しかもこんなに激しいんだ。とも思った。
こんなに激しく動かすんだ。
こんなに激しく擦るんだ。
痛くないのかな。
わたしは、見てはいけないものを見てしまったような気がして、席を外した。
優弥は三日か四日に一回くらい、こういうことをした。
それが標準的なのかどうか、他の人と比べたことがないからわたしにはわからない。
でも、いつも三十分くらい席を外せば終わっていた。
わたしが帰ってくると、優弥はケロッとしてスマホゲームをしているか、ぐっすりと寝入っていた。
決まって、ゴミ箱から変わった匂いがするんだ。
秋の林の中の椎の実の匂いのような。青臭い匂い。
変な匂い。
不思議。
でも、これが優弥の匂いなんだ。
そう思った。
やれやれ。
そういうのにも、もう慣れた。
という訳で、今夜もわたしは席を外した。
三十分くらい夜の風にあたってこようと思った。
夜の風といっても、わたしは風を感じないのであたりようもないのだけれど。
この町の真ん中にはゆったりとした川が流れていて、遊歩道があった。川と、柳の木と、遊歩道。それがこの町のシンボルだった。遊歩道にはいいかんじの灯りがところどころに灯されていて、いい雰囲気を作っていた。
深夜になると歩いている人はもういない。
人がいないので、その分ユーレーが目立つ。
生ごみの匂いをさせて、地縛霊となってしまったユーレー。
そんな地縛霊は、何故だか街中にいることが多かった。
地縛霊を見ると、切なくなる。
哀しそうで、苦しそうだから。
見えるけれど、何もしてあげることができない。
だからわたしは、なるべく地縛霊のいない森の方に向かって跳んだ。
街と森の境目に、火葬場がある。
そこは犬バスがいることが多いと、ミヤジさんから教わった。ユーレーの先輩のミヤジさん。
わたしは、これまで何度か犬バスを目撃した。
確かに犬バスはそこにいた。火葬場の駐車場。
犬バスは獣の匂いをさせて、何本もある足と長い尻尾を丸めるみたいにしてうずくまり、大きな身体を休めていた。
背中に背負った客室の中にぼおっと灯りが灯っており、その中に何人かお客さんが座っていることもあった。おじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん。多分昨日か今日亡くなって、今から天国へ向かう人たち。
ここに来て、この犬バスに乗せてもらえばいいんだ。そう思った。
そうすれば天国へ行ける。
わたしは。
そんなことを思っていると、火葬場に着いた。
今日は犬バスはいなかった。
ひっそりしていた。
わたしは駐車場に降りる。
天使みたいに。
フワリと。
「よう」
声を掛けられた。
生ゴミの匂い。
これは。
「お久しぶりです」
わたしは言った。
ミヤジさん。
ミヤジさんだった。
「なんだよ。お前」
ミヤジさんは言った。
「はい?」
「お前まだいるんじゃん」
「はい」
「天国行くって言ったじゃん」
「はい。言いました」
「行ってねぇじゃん」
「行ってないです」
「なんで」
「だって」
「だって?」
「友達がいるんです」
「友達?」
「はい」
「友達って、男け?」
「はい」
「好きなのけ?」
「はい。恋人になる約束をしてました」
「そうか。そりゃ残念だったな」
「その友達が甲子園を目指してるんです。それで」
「ほう。高校球児か。それで?」
「その応援を」
「応援? 応援のために天国行かないのか? 応援って言ったって、何もできないだろ?」
「はい」
「見てることしかできないだろ?」
「はい。わかっています。それでもいいんです」
「馬鹿」
「馬鹿って」
「馬鹿じゃん」
「ミヤジさんだって天国行ってないじゃないですか」
わたしは右手の指で鼻を押さえた。ミヤジさんが歩いてきたからだ。
ドドメ色。
生ゴミとドブの匂い。
明らかに強くなっている。ドドメ色が濃くなっている。
「行ったんだよ」
「え? 行ったんですか」
「ああ。行ったんだ」
「だって。ここにいるじゃないですか」
それで、わたしはミヤジさんから話を聞いた。
ミヤジさんの話。
ミヤジさんは、彼女だったミヤコさんの自殺の原因になったレイプ犯が、警察に捕まるのを見ていた。ミヤコさんのレイプ犯でありミヤジさんを殺した殺人犯でもあるグループは、警察によって特定され、一網打尽に逮捕された。それを見届けて、ミヤジさんは犬バスに乗った。
「そこまではよかったんだ」
と、ミヤジさんは言った。
「犯人は捕まった。これで天国へ行ける。天国へ行って、天国にいるミヤコに報告できる。そう思ってな、俺は犬バスに乗ったんだ。そこまではよかった。そこまでは。そうだろ?」
「はい」
「問題はそこからだ。犬バスに乗るとな、天国へ近づくにつれて、見えてくるんだよ。先に天国へ行った人がな、見えてくるんだ」
知ってる。
それは知ってる。
わたしも見た。
じいちゃんだった。
雲の間からじいちゃんが手招きしてくれたんだ。
「知ってます。わたしも見ました」
「え? そうなの? そこまで行ってたの?」
「はい」
「誰かに会ったの?」
「会ったっていうか、見たというか。おじいちゃんでしたけど。わたしの」
「てことは、雲の上まで行ったんだな。そこまで行ってたのか。そこまで行って、どうやって戻って来たんだよ」
「飛び降りちゃったんです」
「馬鹿か」
ミヤジさんが頭を抱えるようにした。
よほどの馬鹿なんだろう。わたしは。
「だって」
「ま、俺もなんだけどな。実は」
「え。どうして」
「天国で俺に会いに来てくれた人がな、母親だったんだ」
「お母さん」
「ああ。母親。俺が小学生の頃に生き別れになっちまってな。今時さ、生き別れってさ、なかなか聞かないだろ? でもほんとなんだ。生きてるのか死んでるのかもわからなかった。男ができていなくなっちまってな。小学生の俺には探しようもなかった。父親もとうの昔にいなくなっちまってたし。そこから俺は一人だった。孤児院で一人だった。その母親が会いに来たんだ。死んでたんだな。死んで天国へ行っちまってたんだ。いきなり天国で泣きつかれて、ごめんねごめんねって言われてもな」
「それで降りちゃったんですか。犬バス」
「違ぇよ。そうじゃねぇ。そんなことはどうでもいい。どうでもいいんだ。母親なんて」
「じゃどうして」
「ミヤコじゃなかったんだよ。会いに来たのが」
「あ」
「ミヤコが会いに来なかったんだよ」
「ミヤコさん」
「ああ。ミヤコが来なかった。会いに来なかった。犬バスに乗った俺に。てことは。てことは、だ」
「てことは」
「ミヤコは天国にいない。ミヤコは天国に行ってない」
「てことは、もしかして」
「ああ。そのもしかしてだ。もしかして、ミヤコはまだここにいる。この世にいる」
「ミヤコさんも、ユーレーに」
「ああ。そう思う。だから降りたんだ。そう思った時点で俺は降りた。犬バスを飛び降りた」
「ミヤジさんはユーレーのミヤコさんを探すことにした」
「そうだ。俺はミヤコを探す。この世のどこかにいるミヤコを探す。ミヤコを探し出して、犬バスに乗せる。早く。早くしないと。地縛霊になっちまう。ミヤコが地縛霊になっちまうんだ」
「ミヤジさん、あの、ミヤコさんが天国に行っているという可能性はないんですか」
「無い。無いと思う。犬バスに乗った俺に会いに来なかった時点で。それは無い。無いと思う。いや。あるかもしれん。可能性はあるかもしれん。でも限りなくゼロに近い。ゼロじゃない。ゼロとは言い切れない。だけどな、」
「だけど?」
「もしミヤコがまだこの世にいて、ユーレーになっていて、俺だけ天国へ行っちまったとするだろ? そしたらな、もうミヤコを救う術は無いんだ。天国へ行っちまったらな、この世を見ることすらできなくなる。天国へ行っちまったらな、待つしかなくなるんだ。この世の人やユーレーが、天国へ来るのをただ待つしかなくなるんだ。ただ待つだけ。ただただ待つだけ。いつか来てくれるんならいいよ。いつか来てくれるんなら。ミヤコが。だけどな、もし来なかったら。ミヤコが来なかったら」
「来なかったら…」
「来ない、ってことは、まだミヤコはこの世にいるってことだ。この世にいるってことはな、ミヤコはユーレーか、地縛霊か、そのどちらかだってことだ。地縛霊になっちまったとしたらな、もう救えない。俺にはもう救えない。地縛霊は何百年も、何千年も、身体が溶け落ちるまで地縛霊であり続ける。天国へは行けねぇ。てことは、俺が天国へ行っちまったら、もうミヤコには会えねぇ。もう二度と。ミヤコに会えねぇ」
そうか。
そうなのか。
ミヤジさんが天国へ行ってしまったら、もう二度とミヤコさんに会えなくなってしまうのか。
それはきつい。それは過酷だ。ミヤジさんにとっては耐えられない状況なのかもしれない。
ミヤコさんはたしか、ミヤジさんよりも前に亡くなっている。半年前か。一年前か。ということは。ミヤコさんの救出が急がれる。早くミヤコさんを見つけ出して、犬バスに乗せなければ。ミヤコさんは地縛霊になってしまう。
「今日は犬バス来なかったな」
ミヤジさんが言った。
「はい」
「このところ毎晩見に来てるんだ。もしかしてミヤコが乗ってるんじゃねぇかと思ってな」
「あの、ミヤジさん」
「ん?」
「ミヤコさんの、その、特徴はありますか? ミヤコさんはどんな人ですか? わたしもユーレーに会うので、注意して見てみるようにします」
「ああ。髪が長くてな、色が白くて。細くてな」
「美人さんですか」
「まぁな」
「女優とかで誰かに似てるとかって、ありますか」
「女優か。女優。女優で言うと。そうだな。大原麗子かな。大原麗子の若い頃」
「大原麗子?」
「知らねぇか」
「ごめんなさい」
「不幸せそうな、青白い顔した痩せ細った女だよ」
「そんな言い方…」
「ミヤコは悪くねぇ。ミヤコは悪くねぇんだ。俺がいけねぇ。俺がいけねぇんだ。俺が。俺が足りなかったんだよ。俺が幸せにできなかったんだ。俺が悪りぃんだ。俺が不甲斐ねぇんだ。俺が」
ミヤジさんが、何かヨタヨタとしている。年寄りの酔っぱらいみたいに、足元が覚束ない。
「大丈夫、ですか」
「いててて。痛ぇ。痛ぇんだよ。足が」
わたしは足を見た。ミヤジさんの足。
足が。細くなっている。枯れた木の枝みたいになっている。裸足だ。靴を履いていない。足の先が枯れ木のように干からびている。
「ミヤジさん、足が」
「俺ぁもう思うように跳べなくなってきちまった。足が痛くてなぁ。情けねぇ。ほんとに情けねぇ。俺ぁなんにもできなかった。生きてた時も、死んでからも。情けねぇ。情けねぇ」
ミヤジさんは繰り返した。
情けねぇ。
情けねぇ。
何度も繰り返した。
何度も。
こんなふうにして、地縛霊になっていくのか。
そう思った。
そう思ったが、どうしようもない。どうすることもできない。
「ミヤジさん、わたし、もう行きますね」
「情けねぇ。情けねぇ」
「ミヤコさん、探すようにしますね」
「情けねぇ。情けねぇ」
わたしは地面を蹴った。
ありがとう。後ろから、そう聞こえた。
ミヤジさんの声。
夜の闇が、またわたしを包んだ。
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