第十章 よもぎの匂いはよもぎ色 深く誠実な緑色 (はい)
* * *
はてさて。
吾輩であります。ケンケンであります。
それではここで少し、自分語りなど。
吾輩、ケンケンの自分語りですね。
ケンケンの自分語りコーナー。
いえーい。
ドンドンドンドン。
コホン。
えと。
吾輩、当年とって十二歳、学名をカニス・ルパス・ファミリアリス、通名をゴールデン・レトリバーといいまして…って、もう皆さんご存知ですよね。
いやまあ、老犬なんですよ。年寄りの犬。犬年寄り。
人間で言えばですね、もう百歳をとうに越えちゃってるかんじです。
ジジイです。いつお迎えが来てもおかしくない。もう寿命。ヨボヨボです。
最近は足腰が弱ってきちまいましてね、歩けるのは歩けるんですけども、うまく走れませんのです。夜も眠れず昼寝ばかりして、いつも眠たい顔しておりますし。目がパッチリとは開きませんし。ショボショボしてますし。耳は垂れてますし。垂れ切ってますし。あ、それは生まれた時からだったか。笑。
老いぼれなんすよ。
老いぼれなんで、俊敏には動けないんすよ。
仕方ないんすよ。
寄る年波ってやつには勝てないんすよ。
ですから、なんといいますか、真姫さんの印象の中ではですね、モッサリとか、モッタリとか、ムックリとか、ムッツリとかですね、なんかそういう、ナマケモノ的な?動作の印象が強いようなかんじですよね。
そういうの、軽く落ち込みます。
吾輩も犬ですからね。犬たるもの、モッサリとかムッツリとかは駄目だと思う訳ですね。思うのは思うんですけれどもですね。なかなかそうできないというか。自分ではそのつもりはないんですけれどもね。でもなんか人からそんなふうに言われちゃうとですね。ちょっと軽く落ち込んでしまう自分がいる訳です。
わかります? この気持ち。犬心。
ま、もう慣れましたけれどもね。そういうのも。
いえね、吾輩もね、昔はそんなんじゃなかったんですよ。信じていただけないかもしれませんけども。
あ、信じてないでしょう。
ほんとに信じてないでしょう。
ひどいなあ。
吾輩はですね、本当はですね、モッサリとかマッタリとかそんなんじゃなくてですね、もっとこう、シュッとしたと申しますか、ビッとしてキュッとしたと申しますか、そういうかんじの犬だったんですよ。精悍な犬だったんですよ。いや真面目に。本当ですよ。本当。
吾輩が松本家にもらわれてきたのはですね、かれこれ十二年前です。
ああ。もう十二年にもなるんですねぇ。
懐かしいなぁ。
懐かしい。
十二年前、吾輩は子犬でした。生まれたての子犬。目が見えるようになって、一か月くらいだったでしょうかね。その頃に、優弥さんのお父さんの松本要(かなめ)さんが、知り合いのブリーダーさんから、吾輩をもらってきたのです。生まれたての吾輩。まだヨチヨチ歩きの吾輩。赤ちゃんの吾輩。
これがまた超かわいかったんですよ。いえ、自分で言うのもなんなんですけどもね。もうね、超かわいい超かわいい超かわいい超かわいいって、三百回連続くらい言われ続けてましたよ。みんながみんなそう言ってましたよ。みんなって、要さんと優子さんと優弥さんですけどね。松本家みんな。全員言ってましたよ。そのくらいかわいかったんですよ。吾輩。はははは。
あ、知ってます? 吾輩、血統書が付いてるんですよ。こう見えても。
なんか、お爺さんがアメリカのチャンピオンで、お婆さんはイギリスのチャンピオンで、チャンピオン同士の国際政略結婚で、吾輩のお母さんが生まれ落ちたらしいです。すごいですねぇ。ま、そのお祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、吾輩は会ったことないですけどね。一度も。でもすごかったんでしょうね。立派だったんでしょうね。きっと。
ま、そんな血筋をもった吾輩であります。
血筋は隠せませんね。吾輩の言動や所作に、血筋の良さが滲み出ちゃうんですね。だからモテましたよ。若い頃は。お散歩なんかしてたらですね、注目されちゃったりして。女子から。ははは。照れる。
ま、吾輩もちょっと本気出せばですね、チャンピオンになれると思いますね。本気出せば。ですけども。はは。
コホン。
えー、そんな訳で。松本家に来た吾輩でありますが。
その頃はまだ優弥さんが四歳。よく一緒に遊びました。家の中で飼われていたので。居間の絨毯の上をゴロゴロ転げ回ったりなんかして。まあ実際その頃は優弥さんがまだお子様でしたので、今のように「ご主人」という認識はあんまり無かったですね。吾輩にとってのご主人は要さんでした。優弥さんのお父さんですね。優しいお父さんでした。自転車が好きな人でしてね。松本自転車店は先代、お爺さんの代から営まれていたようですけどね。優弥さんを小さな自転車に乗せましてね、要さんと吾輩と三人で、よく川沿いの遊歩道を自転車でお散歩したもんです。懐かしいなぁ。
それで要さんが亡くなりまして。
そこから、三人暮らしになりました。お母さんの優子さんと、優弥さんと、吾輩ですね。松本家の屋根の下に、三人暮らし。あ、三人じゃないですね。正確には。二人と一匹です。二人の人間と、一匹の犬。
それまで吾輩のお散歩の係は要さんだったんですけど、要さんが亡くなって、その代わりに優弥さんがお散歩を担当してくれることになりまして。吾輩、デカい犬ですんで、小学校の頃の優弥さんには、ちょっとお散歩をするのが大変でした。なにしろ吾輩、当時の優弥さんよりデカかったですからね。自分よりデカい犬をお散歩することになって、どっちがお散歩されてるのかわからない、そんなかんじでした。
吾輩、やんちゃでしたからね。若い頃。こう見えて。
お散歩の道中、いろんな匂いを嗅ぎたくなっちゃうし、オシッコもしたくなっちゃうし、ウンチだってしちゃうし、他の犬がお散歩してたりすると構って欲しくなっちゃうし、そうするとグイグイ引っ張っていっちゃって。優弥さん、グイングイン引っ張られちゃって。たぶんですけど、きっと、尋常学園曙高校のエース、松本優弥の基礎体力を作ったのは、吾輩ですね。えっへん。
ま、そんな吾輩です。
昔はやんちゃでしたけど、今ではすっかり落ち着いた吾輩です。
いろんなことがありました。
いろんなことがありましたが、幸せでした。
松本家で飼っていただいて。
吾輩、幸せな人生でした。
いえ、人生、じゃありませんね。犬生、っていうんでしょうか。
幸せな犬生でした。
完。
おしまい。
* * *
いえいえいえ。
まだ終わってません。笑。
これからですよ。これから。お話はこれからです。
えー、さて。
はてさて。
吾輩、ここでもうお一人、登場人物を紹介しなければなりません。
この物語、「匂わせ女ユーレー奇譚」の登場人物ですね。
遅れての登場になりましたけれども、とっても重要な登場人物です。
女子なんですけれども。
その人の名は、榊原浩菜(さかきばらひろな)さん。
彼女、尋常学園曙高校野球部の、マネージャーです。
女子マネージャー。
学年は、優弥さんと一緒。
ですから、今年優弥さんと一緒に三年生になった、野球部の女子マネージャーさんです。
実は、浩菜さんと優弥さんとの関係は、真姫さんと優弥さんとの関係よりも長いのです。
というのも、浩菜さんは優弥さんと同じ町、この松本自転車店のある同じ町に住んでいまして。同じ幼稚園と小学校と中学校に通う、同級生だったんです。幼馴染というやつですね。
中学校の頃まで、優弥さんはほんとうに目立たない子供でしたからね。
その頃もずっと、浩菜さんは優弥さんを見ていたのです。
まだ背が低くて、幼くて、気が弱くて、皆の後をついてまわるだけの、青白いモヤシみたいな細っこかった頃の優弥さん。
中学一年の時友達に誘われて野球部に入ったけれど、万年補欠で、友達のバッティング練習用のピッチャーでしかなかった頃の、優弥さん。
その頃もずっと、優弥さんを見ていました。
じっと見ていました。
ただただ、見ていました。
そうして、浩菜さんは尋常学園曙高校へ進学します。
優弥さんと同じ高校。
そうして、浩菜さんは野球部の門を叩きます。
優弥さんと同じ部活。
そうして、今に至ります。
浩菜さんがどんな気持ちなのか。詳しいことは吾輩にもわかりません。
というのも、浩菜さんは大人しい人で、行動や態度で自分の気持ちを示すようなわかり易いタイプの人ではないからです。
そうなんですが、吾輩は思うんですけれど、少なくとも、優弥さんに気がありますよね。
そうでなければ、わざわざ同じ高校に進学して同じ部活に入ったりしませんよね。
浩菜さんは口数が少ない人です。
口数が少なくて、いつもうつむいているような人です。
明るい人か暗い人かと言ったら、暗い人です。どちらかといえば。
自分の気持ちを発言したり明るく行動したりするのが苦手なんだと思うんです。
だからみんな、吾輩を含めてですけど、彼女の気持ちがわからない。
でも、浩菜さんはよい人なんです。
その証拠に、みんなから慕われています。
特に野球部のみんなから。
いつも必ず朝一番に来て、部室の鍵を開け、ボールやベースを用意し始めるのは浩菜さんです。一年生の時から、三年生になった今でも。そして夜の練習の最後に、ボールやベースの数を数えて確認し、部室に仕舞って、鍵をかけるのも浩菜さん。三年生になって、後輩の女子マネージャーが二人も入ってきたのに、です。
浩菜さんには、何と申しますか、使命感のようなものがありました。私が役に立つ、という使命感。
尽くす女、と言いましょうか。
うーん。この表現は、ちと古いですね。なんだか昭和の頃の演歌にでも出てきそうなかんじになってしまいました。
言い直しましょう。
誠実で献身的な人。
これでどうでしょうか。
浩菜さん、誠実なんです。
とにかく、誠実。
誠実で真面目なんです。
自分の仕事をきっちりこなす。
こなすだけではなく、気を利かせて、こなす。
例えば、ボールが汚れてきたら、選手が練習を始める前に一つ一つ綺麗に掃除しておく。そうすれば、選手たちが次にそのボールを使う時に気持ちよく使える。
また例えば、部室を毎日掃除しておく。夜の練習が終わる前に、綺麗に掃き掃除をしておく。そうすれば、練習が終わって部室に帰って来た選手たちが、気持ちよく休憩し、着替えをすることができる。
そういうことができる人なんです。
それを、何かもの凄く努力してやっているとかではなく、さりげなくやってしまう人なんです。
まさに縁の下の力持ち。尋常学園曙高校の、縁の下の力持ち。
そして選手を笑顔で迎える。
浩菜さん、あまり笑わない人なんです。
普段の浩菜さんは、あまり笑わない。
でも、練習が終了して、部室の前で選手たちを迎える浩菜さんは違います。
笑って選手を迎える。その選手が調子がよくてアゲアゲで帰ってきても、もしくは、その選手が失敗をしてへこんで帰ってきても、浩菜さんは笑顔で迎える。
おかえりなさい。口には出しませんけれども、そういう笑顔なんです。選手たちを迎える浩菜さんは。
そんな浩菜さんなので。
誰が言い出したかわかりませんけれど、野球部の中で、浩菜さんはこんなふうに呼ばれています。
オフクロ。
まさに、この愛称は浩菜さんをよく現していると思います。
誰か特定の人のための存在ではなくて、みんなのための存在。
誰か特定の人の恋人という存在ではなくて、みんなのために存在する、尋常学園曙高校野球部の「オフクロ」。
見た目がオフクロっぽいという声も一部ありますけれども。笑。
いえ、吾輩はそんなこと思いませんよ。
かわいらしい人です。榊原浩菜さん。
はてさて。
そんな訳で。
今日は、実は特別な日です。
優弥さんのお誕生日。
優弥さん。高校三年生。十八歳のお誕生日。
お誕生日がやってきました。
めでたい。
おめでとう。
パチパチパチ。
はてさて。
はてさて。
* * *
夜の練習が終わった。
選手たちが部室に帰ってきて、片づけをしている。
日が長くなって、ついさっきまでまだ空に明るさが残っていた。
でももう夜の八時をまわって。
グランドを照らしていた白い照明が消えると、外はすっかり真っ暗になった。
六月。
まだ梅雨入りしたという知らせはない。今年は梅雨入りが遅いんだろうか。
近くの田んぼに水が入って、ケロケロと呑気に蛙が合唱し始めている。
田んぼの匂いと、グランドの土の匂いがしている。育っている稲の若緑色と、土と砂の黄土色。そのハーモニー。
わたしは部室の外で優弥が出てくるのを待つことにした。
部室の中の状況は、だいたいわかっている。前に、見せてもらったことがあるから。
ユーレーは便利だ。どこに入り込んでも、何を見ても、咎められることがない。セクハラだとかヘンタイだとかスケベだとか、糾弾されることがない。ユーレーは見えないから。透明人間みたいに、この世の人間からは見えないから。
けれど、自分が見たいものと見たくないもの、という区別はある。ユーレーにだって。
野球部男子の部室のお着換えシーンは、「見たくないもの」に分類される。
埃っぽくて汗臭くてムシムシしてムンムンして。
良く言えば、生命力に溢れている。
悪く言えば、ウザい。過剰。気持ち悪い。生命力に溢れ過ぎ。
この頃になるとわたしは、「見たくないもの」を上手に避けて、「見たいもの」だけに集中して、優弥と一緒の時間を気分よく過ごせるようになっていた。
ところで。
今日はいつもと違う。部室の外の状況。ただならぬ雰囲気。尋常ならざる気配。
ばらばらと女子数名。部室の外に。
手持無沙汰になっていて、手元でスマホを見ながら、まだかなー、まだかなー、ってかんじでこちらをチラチラ伺ったりなんかして。
そうなんですよ。野球部の皆さんは、夜の練習終わるの、遅いんですよ。知らなかったでしょう? こんなに遅いなんて。にわか女子ファンの方々。
ううむ。
しかし多いな。女子。
数えてみることにした。
えっと、部室の外側に六名。校門の内側に八名。それから、校門の外側に十五名。
このうち、校門の外側にいる女子は、他校の女子。他校の制服を着てる。わざわざやって来たのかしら。他の高校から。他の町から。やれやれ。ご苦労様なことだわ。
という訳で、本年、全部で、合計二十九名。
ちなみに、昨年は十三名だった。しかも全員曙高校女子だった。
確実に増えている。自校だけでなく、他校へも広がっている。
出待ち。
出待ち女子。
優弥の出待ち女子。
手に手に、何か持っている。包み紙。箱。手紙のようなもの。などなど。いろいろ。
プレゼントなんだね。優弥への。
今日は優弥のお誕生日だから。
みんなソワソワしてる。
女子たち。
優弥のことが好きな、女子たち。
優弥のファン。
ファンの子たち。
まだかなまだかな、って思ってる。
部室の扉が開くのを待ってる。
今か今かと待ってる。
ようやく、部室の扉が開いた。ぞろぞろと出てくる野球部員。
優弥が出てきた。着替え終わって。学ラン姿で。
わぁ、ってかんじでざわめき立つ女子。部室の外の出待ち女子六名。
一緒に出てきたキャッチャーの山田君や他の野球部員には目もくれず、優弥の所に一直線。
他の部員が優弥を見る。おいおいおい、ってかんじで後ずさり。でも彼ら、もう慣れっこなのね。こういうことに。だからスッと道をあける。女子たちのために。自分が脇に寄って。中央にいる優弥への道を。優弥へ進む道を。優弥へと進む、メイン・ストリートを。
出待ち女子。面白いもので、こういう時も年功序列なんだ。下級生が後ろへ回って、まず上級生から。三年生の女子二名がアタック開始。
「松本君、お誕生日、おめでとう」
「あ、ありがとう」
続いて二年生の女子三名。
「松本さん、お誕生日おめでとうございます」「おめでとうございます」
「ありがとう」「ありがとう」
そして最後に一年生の女子一名。
「松本さんおめでとうございます」
「ありがとう」
「あの、が、が、がんばってください」
そんなかんじ。
もうこの時点で優弥の両手はいっぱいだ。小さい箱から大きな包み紙まで。
小さい箱はきっと、日焼け止めとかリップクリームとか。優弥のお肌や健康状態を気遣う女子らしい心配りとかなんとか。そんなかんじ。
大きい包みは、これはきっと、ぬいぐるみ。
誰が吹聴したのか知らないけれど、優弥は犬が大好きってことになっていて(まあそれは本当のことなんだけれど)、犬のぬいぐるみがプレゼントされる。
優弥、あんたは何か? アイドル歌手か何かか?
そう思う。
そう思わずにはいられない。
ふむ。
優弥。
優弥は今や、昔みたいにナヨナヨしてなくて(ナヨナヨしてる頃の優弥もかわいかったのだけれど)、肉体的にも精神的にも逞しく成長し、長身で色白の小顔に筋肉質の肉体を備え、貫禄さえ見せる、尋常学園曙高校を背負って立つイケメンエースピッチャーなのだ。
モテる。
そりゃモテる。
モテると思う。
モテるのは仕方ない。
仕方ないけど。
だけど。
だけどさ。
わたしがここにいるっていうのにさ。
将来の恋人を誓い合った仲のわたしがここにいるっていうのにさ。
んもー!
んもーー!
んもーーー!
何よ。
デレデレ。鼻の下伸ばしちゃってさ。
デレデレじゃん。
超デレデレしてんじゃん。
何よ!んもー!!
って、言いたくもなる。
言いたくもなるでしょう?
わかるでしょう?
わかりますよね?
わたしのそんな気持ちをよそに。
優弥はそのまま校門へと進んだ。
校門の内側と外側には、総勢二十三名の女子が待機していた。
優弥は次々に女子たちのアタックを受けた。
誕生日アタック。
プレゼントアタック。
十人を過ぎた頃から完全に両手で荷物を持ち切れなくなり、優弥は持ち切れないプレゼントを校門のたもとに置いた。アタックを受け、プレゼントを受け取り、礼を言い、そのプレゼントを校門のたもとに置き、次のアタックを受ける。次々に受ける。アタックを受ける。
校門のたもとに次々に積み上がっていくプレゼント。色とりどりの袋と箱たち。プレゼントの山。
そうして、帰っていった。
女子たちが返っていった。
自分の思いを果たして、帰っていった。
「おめでとう」と言い、「がんばってください」と言い、ある者は握手をしてもらい、ある者は写メを撮っていった。
出待ち女子たち。
出待ち女子軍団。
みんな去っていった。
全員帰っていった。
そして誰もいなくなった。
主将の山田君も、同輩も、後輩も、男子野球部員全員含めて、誰もいなくなった。
シーンとしていた。
蛙の声だけが聞こえていた。
ケロケロケロ。
遠くで。
ケロケロ。
遠くの田んぼで。
ケロケロケロ。
ね、どうすんの?
どうすんのこれ?
どうやって持って帰るの?
そう思った。
そう思った時だった。
「はい」
買い物袋が差し出された。
「松本君、使っていいよ」
「オフクロ、いや、榊原さん」
「オフクロでいいよ」
そう言って、榊原さんはちょっとだけ笑った。
榊原さん。
榊原浩菜さん。
榊原さんは持ってきた買い物袋に荷物を詰め始めた。
荷物。校門の前に置かれた、二十九個の荷物。
ん。
ちょっと待て。と、わたしは思った。
思い出していた。わたしは思い出していた。
バレンタインデー。
バレンタインデーの日。
高校一年生の時の、初めての、バレンタインデーの日。
あの時も優弥は沢山のチョコレートをもらった。
そしてそれを袋に入れた。
わたしが持っていた袋に。
わたしの買い物袋に。
「思ったより多かったね」
プレゼントでパンパンになった買い物袋が三つできた。それを見て、榊原さんが言った。
「うん」
「すごいね。毎年すごくなるね」
「うん」
「松本君、すごい人気者だから」
「そんなことないよ」
二人が歩き始める。
パンパンの袋を、優弥が二つ持ち、榊原さんが一つ持って。
遠くの田んぼでケロケロ蛙が鳴く道を。
肩を並べて。
そうか。この二人、帰る方向が一緒なのか。
榊原さんって、優弥と同じ中学の出身なんだっけ。
それに、二人は同じ部活だ。部活が終わる時間もおんなじだ。
だけど、この二人が一緒に帰るところを見たことがない。
今までずっと。高校三年生になるこの日まで。
なんで?
なんでなんだろう。
「お誕生日おめでとう」
歩きながら、榊原さんが言った。
「あ、ありがとう」
「松本君、十八歳になったんだね」
「うん。オフクロはもう十八歳なんだっけ?」
「そうよ。もう十八歳」
「何月が誕生日なんだっけ?」
「四月。私の方が年上ね」
「そうだね。月上だね」
街灯が灯る大通りに出る。
今日は路地を歩かないんだ。
少し間があった。
会話が途切れた。
「あのね、私からもプレゼントがあるの」
榊原さんが言った。
「そうなの?」
「うん」
「どこ?」
「この袋の中に入れちゃった」
「えー」
「ごめんなさい。わからなくなっちゃうね」
「うん」
「後で家に帰って見てみて。たいしたものじゃないの。ハンカチなんだけど」
「うん。ありがとう」
「あの、気にしないでね。みんなにあげてるから。野球部員のみんなに」
「うん。知ってる。でもありがとう」
それだけだった。
それで終わりだった。
二人の会話。
あとは無言。
無言だった。
そのまま大通りを歩いていって、曲がり角まで来た。ここで優弥はこの曲がり角を曲がらなければならない。
「はいこれ。持てる?」
榊原さんが、自分で持っていたパンパンの買い物袋を一つ、優弥に手渡した。
「うん。なんとか。ありがとう、オフクロ」
「うん。よかった。松本君、元気になって」
「元気だよ。ぼくは。いつも」
「うん。よかった。ほんと、よかった」
「ん? なんで? 何かあった?」
「ちょっと心配だったから」
「心配?」
「うん」
「何が心配?」
そう聞かれて、榊原さんは少しの間考えていた。
答えるべきか、答えないべきか。たぶん、それを考えていたんだろう。
そうして、決心したように、こう言った。
「神田さんのことがあったから」
「神田さん」
「うん。神田さん。神田真姫さん。亡くなったでしょう」
「うん」
「ごめんなさい。思い出させちゃった?」
「大丈夫」
「大丈夫じゃなかったでしょう」
そう言った。
榊原さんがそう言った。
驚いた。
強い口調だった。
驚いたのはわたしだけじゃなかった。
優弥も驚いていた。
「え」
そう言ったまま、何も言えなくなった。
沈黙。
沈黙が訪れた。
そうして、更に決心したように、榊原さんが口を開いた。
「松本君、神田さんのこと、好きだったでしょう」
「え、あ、」
「神田さんと付き合っていたでしょう」
「え、いや、あの」
「いいの。隠さなくてもいいの。誰も知らないし、私も誰にも言わない。だから隠さなくていいの」
「ぼくたちは、まだ付き合ってはいなかった」
「そう。そうかも知れない。でも、好きだったでしょう。神田さん。神田真姫さん」
「うん」
「かわいかったもんね。神田さん」
「うん」
「あのね、松本君、私ね、」
榊原さんが顔を上げた。
優弥の目を見た。
わたしには伝えたいことがある。榊原さんの目が、そう訴えていた。
「私ね、うれしかったんだ」
そう言った。
榊原さんがそう言った。
「うれしかった?」
「そう。うれしかったの。松本君と神田さんが接近して。お互いに心を開いて。打ち解け合っていったのが。松本君、奥手だったでしょう? 誰にも心を開かないというか。開けなかったというか。特に女子には心を開けなかったでしょう? ずっとみんなの後ろにいて、騒々しい男子たちの陰に隠れていて、前に出て来れなかったでしょう?」
「うん」
「神田さんにもらったでしょう?」
「もらった?」
「うん」
「何を?」
「勇気」
「勇気?」
「そう。勇気。松本君は神田さんに、勇気をもらったでしょう? 勇気。前に踏み出す勇気。前に進む勇気。前に向かって歩いて行く勇気」
「うん。そうかも」
「松本君、変わったでしょう?」
優弥を見つめる榊原さんの目の中に、確信があった。
確かなもの。
確信。
榊原さんの確信。
「だからね、私、うれしかったんだ。それを見てて。神田さんに勇気をもらって、前に踏み出す松本君を見てて。変わっていく松本君を見てて」
「うん」
「すごくステキになったんだ。松本君。それから、神田さんも。すごくステキだったんだ。キラキラして。まるでドラマの中の主人公みたいに。輝いてた。余りにも輝いているから、私眩しくて。眩しかったけど、応援したい。そう思ってた。松本君、幸せそうだったから。神田さん、超かわいかったし。そんな二人を応援したい。そう思ってた」
「うん」
優弥がうなずく。
「それでね、それで。その後、事故があったでしょう。それで、神田さんが亡くなってしまったでしょう」
「うん」
「だからね、心配だったんだ。私。松本君が。立ち直れなくなっちゃうんじゃないかって、思ったんだ」
「オフクロ、あのね」
優弥が口を開いた。
「あのね、オフクロ」
今度は優弥の番だった。
優弥が語る番。
優弥が榊原さんを見下ろした。
改めて榊原さんを見た。
「変だって思わないでね」
優弥が切り出す。
「神田さんはね、まだいるんだ。神田さんは死んじゃった。死んじゃって、もういない。いないけどね、いるんだよ」
きっぱりと言った。
そして更に、こう続けた。
「わかるかな、オフクロ。神田さんはね、真姫ちゃんはね、いるんだ。ぼくと一緒に。いるんだよ。ずっといるんだ。ここにいるんだ。今ここに。一緒にいるんだ。ぼくと一緒に。真姫ちゃんは」
迷いのない言葉。
優弥の言葉。
そう。
それはほんとうだ。
ほんとうにいるんだ。
わたしはいるんだ。
ここにいるんだ。
榊原さんは。
それを聞いた榊原さんは。
一瞬、何かを受け止めるような表情をした。
何かを。
重要な何かを。
榊原さんから返事は無かった。
その代わりに、手がやってきた。優弥のところに。差し伸べられるみたいに。
榊原さんの手。
プクッとして柔らかい、肉球みたいな手。
その手がやってきて、優弥の手に重ねられた。
荷物でパンパンになった袋を持っている優弥の左手に、重ねられた。
優弥は、たぶん、こんなふうに両手を重ねられたのは、初めてだっただろう。
手。
榊原さんの手。
暖かいだろう。
柔らかいだろう。
決して力強い訳ではなかった。でも、弱々しい訳でもなかった。
そっと添えるようにして。
包むようにして。
優弥の手に重ねられた。
二人はそのまま無言だった。
その格好のまま。
手を重ね合わせたまま。
無言のまま、時間が過ぎた。
「ありがとう。オフクロ」
ようやく、優弥が言った。
それを聞いて、榊原さんはゆっくりと重ねた自分の手を離した。
「わかった」
榊原さんは言った。
「松本君。私、応援してる。応援してるね」
「うん」
それで終わった。
二人のその会話は、それで終わりだった。
「あ、ちょっと待って」
そう言って、榊原さんは持っていたカバンを地面に置いて、そこから何かを取り出そうとしている。袋に入ったもの。
いい匂い。
これは、よもぎ。
よもぎのいい匂いが漂ってくる。
「はいこれ。大福。よもぎ大福」
ほい、と、榊原さんがその袋を優弥に手渡した。
「おっと」
「昨日ね、うちで作ったの。よもぎ大福。沢山作っちゃったもんだから。あげる」
「すげえ」
「すごいでしょう」
「うーん。いい匂い」
「よもぎの匂いね。わたし、大好きなんだ」
「うまそう。ありがとう」
ああ。
いい匂い。
ほんとうにいい匂い。
よもぎの匂い。
よもぎの匂いはよもぎ色。濃い緑色。深い緑色。
「じゃ」
そう言って、榊原さんが手を振った。バイバイ、というかんじで。
優弥が踵を返す。
きっぱりと踵を返す。
榊原さんはまだそこにいた。
そこにいて、動かなかった。
榊原さんは見ていた。
去っていく優弥を見ていた。
優弥の背中を見ていた。
榊原さんが笑おうとした。
笑顔を作ろうとした。
でも何か、うまくいかないみたいだった。
笑おうとしてうまく笑えない、ちょっと複雑な表情になった。
その後わたしは、松本自転車店へは行かなかった。
榊原さんの家へ行った。
帰宅する榊原さんについていった。
川から少し離れた小高い丘の上に立つ、二階家の古い家だった。
「ただいま」と言って榊原さんが居間へ入って行ってしまったので、「お邪魔しまーす」と言って、わたしは榊原家の二階にある榊原さんの部屋に勝手にお邪魔することにした。
見たくなったんだ。榊原さんの部屋を。
初めてだった。ユーレーになってから。同級生の女子のお部屋にお邪魔するのは。
誰もいない、静かな部屋。
電気もついていない、暗い部屋。
そこは和室だった。
畳の匂いと、古い木材の匂いがしていた。色は渋茶色。
それから、なんとなくさっき嗅いだよもぎの匂いが漂っていた。昨日家でよもぎ大福を作ったと言っていた。その匂いが残ってるんだ。いい匂い。
和室には木の机と、小さなベッドが入っていた。
でも、ピンクのシーツとか、ハート形のクッションとか、そういうものは無かった。
お星さまのカーテンとか、ミッキーマウスのぬいぐるみとか、アイドルグループのカレンダーとか、そういうのも無かった。一切無かった。
わたしは暗い部屋の中で目を凝らした。
シンプルな部屋。
男の子みたいな部屋。
するとそこに。
暗い中で浮かび上がってくるものがあった。
白い紙に、黒い文字。
書初めの半紙。
毛筆の太い文字。
榊原さんは書道をやっているのか。
すごい達筆だ。
力強い。
そこに書かれているのは三文字。
甲子園。
その達筆の周りに。
写真だ。
壁に。
壁一面に写真が。
写真が貼ってある。
わたしは少し驚いて、壁に寄ってそれを見た。
沢山。
沢山の写真。
壁一面に。
和室の壁一面に。
それは、尋常学園曙高校野球部の写真だ。
たぶん、榊原さんは、マネージャーとして写真を撮る係もやっているんだ。
たぶん、自分で撮った写真を引き伸ばしてプリントアウトして、それを壁に貼っているんだ。
みんなで写った写真。一人一人写った写真。
それから、各選手のプレー中の写真。
バッティングしてる写真。捕球した瞬間の写真。ヘッドスライディングの写真。などなどなど。
そして、ピッチングの写真。
投げている男。
ピッチャーズ・マウンドに立っている男。
松本優弥。
優弥の写真。
優弥のピッチング。
優弥の汗。
顔の、ドアップの写真。
実物より大きく引き伸ばされた、超アップの写真。
額に大粒の汗。
優弥の細い目が、相手の打者を見つめている。
眼球の中に映っている相手の打者の姿まで見えてくるような。
真剣勝負をしている、優弥の写真。
いい写真。
すごくいい写真。
さすが榊原さん。
尋常学園曙高校野球部マネージャー。
ああ。
榊原さん。
榊原浩菜さん。
あなた。
やっぱり。
優弥が好き。
優弥が好きなのね。
榊原さん。
あなたは優弥が好き。
優弥が好きで、尋常学園曙高校へ入学して。
優弥が好きで、野球部のマネージャーになって。
そして、マネージャーの役目を果たす。
今までも役目を果たしてきたし、これからも役目を果たしていく。
優弥だけでなく、全ての野球部員のマネージャーとして。
曙高校野球部のために。
その役目を果たす。
仕事をこなす。
心を込めて、マネージャーの仕事をこなす。
そして。
そしてその上で。
優弥を心配する。
優弥を応援する。
優弥を励ます。
そして甲子園を目指す。
共に甲子園を目指す。
すごい。
すごいマネージャー。
榊原さん。
そんなことを思っていると、トントンと階段を上がってくる音がして、ガラガラっと木製の引き戸が開いて榊原さんが自分の部屋に入ってきた。晩ご飯を食べ終わったんだ。天井の蛍光灯ランプの紐を引っ張る。
ポチッと音がして。
明るくなった。
和風の蛍光灯の照明が何度か瞬いて、白い光が部屋を満たした。
写真。
写真が浮かび上がった。
壁の写真。
壁一面に。
沢山の写真。
曙高校野球部員たち。
優弥。
優弥が沢山。
榊原さんは学生カバンを机の横に掛けて、甲子園という文字の前を横切っていった。
その先に窓があった。
榊原さんが窓を開ける。
外からジージーとオケラの鳴く声が聞こえてきた。
でもそれ以外は静かだった。
シンとしていた。
月が出ていた。
薄い月。
下弦の月。
何を見ているのだろう、と思った。
榊原さんが窓の外を見ている。
じっと見ている。
その先。
この方向。
これは。
この先にあるのは。
松本自転車店。
優弥の家。
優弥の家か。
この方向は。
榊原さん。
榊原さんは。
中学の頃からこうしていたのか。
こうして、見ていたのか。
優弥を見ていたのか。
ずっと見ていたのか。
いや、もしかすると。
もっと前からかもしれない。
小学校の頃からか。
幼稚園からか。
この窓から。
ずっと。
優弥を。
わたしは榊原さんの横に立った。
そして窓の向こうを見つめた。
榊原さんと同じように。
窓の向こうにある、松本自転車店。
でも、家はよく見えなかった。
暗かったし、優弥の家は平屋だから、他の家の陰に隠れて、ここからだと見えないんだろう。
でも榊原さんは見ている。
見つめている。
暗闇を。
暗闇の中の、優弥を。
わたしは優弥の家を探すのを諦めて、隣の榊原さんを見た。
その瞳。
まっすぐ。
見ている。
まっすぐに見ている。
暗闇を。
見つめている。
その瞳。
熱があった。
熱を持っていた。
そして、何か強いものがあった。
強さがあった。
思いの強さ。
そして更に。
優しさ。
そこに優しさがあるのだ。
優しさを秘めているのだ。
ああ。
わかる。
そう思った。
わかる。
わかるよ。
わかる。
その気持ち。
優弥を思っている。
榊原さんは優弥を思っている。
その気持ち。
わかる。
痛いほどわかる。
だってわたしも同じだから。
わたしも優弥を思っているから。
榊原さんと同じだから。
「お邪魔しました」
わたしは言った。
榊原さんはまだ窓の外を見つめていた。
わたしは榊原さんの手を握り、肩を叩き、ギュウと思い切りその小さな身体を抱き締めてあげたくなった。
だけどそれはできない。
ユーレーのわたしには。
「ありがとう」
見せてくれてありがとう。
あなたのお部屋を。
あなたの心の中を。
わたしは畳を蹴った。
わたしの身体が宙に跳んだ。
窓の向こう。
暗闇に向かって。
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