第九章 カレーの匂いは真っ黄色。リンゴとハチミツトロ~リ溶けてる。(ゴックン)

 ほれ。ケンケン。これどう? この匂い?

 わたしはケンケンの鼻先で両方の手のひらを開く。

 ピクッ。

 動いた。ケンケンの鼻が動いた。

 わたしは見逃さない。ケンケンは反応してる。匂いに反応してる。わたしの持ってきた匂いに。

 ウフフフ。これはね、カレーの匂いだよ。いい匂いでしょ? カレーの匂いは黄色。真っ黄色。ギラギラしたどぎつい黄色。テカってる黄色。でもね、すっごく美味しそうな黄色なの。スパイシーな黄色なの。

 お隣の家がね、今晩カレーだったの。だからわたしはお隣の家に不法侵入して勝手にお勝手に上がり込み、鍋の中に両手を突っ込んで手のひらで包み込むようにして運んできたの。匂いを。

 フッフッフッフ。

 わかったぞ。

 わたしは自らを讃えた。

 これは発見だ。すごい発見だ。大発見だ。

 こうすると運べるんだ。

 匂い。

 わたしはユーレーだ。

 ユーレーは、この世のものにさわれない。この世のものを動かせない。

 さわろうとすると、スカッとすり抜けてしまう。米粒一粒だって髪の毛一本だって一ミリたりとも動かせないのだ。ユーレーは。触覚が機能しないのだ。ユーレーは。

 それはそう。そうなんだけれど。

 わたしは匂いを感じることができる。

 触覚も味覚もゼロ、無感覚だけれど、視覚と聴覚と、そして嗅覚だけは生きている。

 これはどうも、ユーレーの中では特異体質ということのようだ。と、ユーレーの先輩のミヤジさんが語っていた。実際ミヤジさんは嗅覚無いみたいだし。匂いを全く感じないみたいだし。ミヤジさんちょっと(かなり)生ゴミ臭いし。

 でも、わたしは匂いを感じるし、その感覚がむしろ前よりも鮮明になってきている気がするし。嗅覚が鋭くなった気がするし。生前より。

 それでわたしは考えた。

 もしかしてわたし、この世の人たちと、一緒に匂いを感じ合うことができるのでは?

 もしかしてわたし、匂いを共有できるのでは? この世の人たちと。この世に住んでいる、生きている人間の人たちと。

 これはそのための実験だ。

 匂いを共有するための実験。

 匂い。

 匂いといえば。

 犬。

 犬だ。

 犬は匂いに敏感だ。犬は人間よりも数倍敏感な嗅覚を持っていると言われている。警察犬がその嗅覚を使って犯罪捜査で活躍するくらい、匂いに敏感なのだ。

 犬。

 犬と言えば。

 金髪の。デカい老犬。モッサリ歩いてベロンと舐める。ゴールデン・レトリバー。

 ケンケンだ。

 と、そのような経緯で、ケンケンが実験台として選出された。

 そして今、わたしはその実験をしている。

 このような実験は、世界初であろう。わたしの知る限りにおいて。

 実験に使用する匂いは、ありふれたものだと面白くない。そう思って、少し外に出て探そうとしたところ、速攻で見つかった。カレーだ。カレーの匂い。隣の家。隣の家からカレーの匂いがしている。

 そうして、わたしは松本家の隣の家に不法家宅侵入し(ユーレーにとってはお茶の子サイサイである)、両手で包み込んでカレーの匂いを持ってきた。ケンケンの鼻先まで。

 そうしたら。

 反応してんじゃん。ケンケン。

 鼻ピクッて動かしてんじゃん。ケンケン。

 絶対匂ってるんじゃん。ケンケン。

 実験成功じゃね?

 おおおお。

 世界初じゃね?

 うおおおお。

 カレー、匂い強烈だからな。辛くて甘くて黄色くて。リンゴとハチミツ入ってるな。あれはきっと。トロ~リ溶けてるな。たぶん。

 ケンケンがモッサリと首を動かして眠そうな目でわたしの方を向き、ベロンと舌ベロを出した。舐めてみようとしてるのか。でもケンケンの舌は宙を舐める。再び鼻をヒクヒクさせ、グウ、と言った。

 ハハハハ。いい匂いでしょう?

 ありがとうケンケン。上出来。

 

 何もできないと思っていた。

 わたしは。

 ユーレーになってしまって、何もできないと。

 でも。

 匂いが共有できる。

 匂いがシェアできる。

 すごい。

 これはすごい。

 すごい発見だ。

 共有したい。匂いを。

 シェアしたい。いい匂いを。

 もちろん、優弥と。

 これはたぶん、唯一の方法だ。

 ユーレーのわたしができる、人間の優弥との、唯一の共有方法、コミュニケーション方法だ。

 ううむ。

 わたしは考えた。

 いろいろ考えた。

 どんな匂いがいいだろうか。優弥とシェアする匂い。優弥に嗅いでもらう匂い。

 それはやっぱり、いい匂いがいい。

 いい匂いで、思い出してもらうのがいい。

 いい匂いを嗅いで、わたしを思い出して、ああ懐かしい、って言ってもらうのがいい。

 ということは。

 例えば、梅の匂いか。路地の公園で匂っていた、梅の花の匂い。

 もしくは、キンモクセイの匂いか。これも路地の公園で匂っていたんだ。秋の日に。わたしたちが最初にお話をした、あの秋の日に。

 そうだ。路地だ。路地に匂っていた花々の匂いだ。路地には思い出がある。優弥との思い出。あの路地で、わたしたちはいろんな話をしたんだ。路地に咲いていた花々の匂いと共に。

 そうだ。路地の花の匂いだ。路地の花の匂いをシェアしよう。優弥と。

 でも。

 でも今、季節は春を過ぎ、夏へ向かおうとしている。

 梅もなければ、キンモクセイもない。

 ううむ。

 そこでわたしは閃いた。電気が光るみたいに閃いた。そのアイディアがわたしの頭の中にやってきて、光り輝いたのだ。これが漫画だったら、ピカーン、という効果音が付くことだろう。

 そうだ。

 百円ショップだ。松本家の近くに、百円ショップがある。

 その百円ショップにフレグランスのコーナーがあるじゃないか。

 そこに行けばキンモクセイの香りがあるじゃないか。

 そこに行けばキンモクセイの匂いが手に入るじゃないか。

 おおお。

 偉大なり。

 偉大なり真姫ちゃん。

 偉大なりアイディア王。アイディアキング。


 夜の十一時を過ぎようとしていた。

 そろそろ優弥がベッドに入ろうとしている。

 優弥は野球の練習が終わって家に帰ると、バクバク晩ご飯を食べた後テレビを見ながら少しスマホのゲームをしたりなんかして、ケンケンとお散歩へ行った後カラスの行水みたいに短時間でシャッとお風呂に入ると、もうこの時間だ。寝る時間になっている。お前宿題しないのか、と最初の頃思ったんだけれど、宿題なんかしない。教科書なんか開かないしノートにも問題集にも触らない。それどころか、カバンに触らない。学生カバンに触らない。お前明日の学校の用意は?と最初の頃思ったんだけれど、用意なんかしない。だってカバンには最初からほとんど何も入ってない。鉛筆が三本くらい入っているペンケースと、明日の朝お母さまが作ってくれるであろうドデカ弁当が入る。それだけだ。それ以外の教科書もノートも問題集も辞書もプリントも何もかも全て、学校に置いてある。置きっぱだ。置きっぱ。すばらしい。ここまで来るとすばらしい。すばらしい潔さ(いさぎよさ)。俺は勉強なんかしない、と。俺は野球しかしない、と。男気すら感じるこの潔さ。勉強しないとバカになっちゃうわよ。いいじゃんバカでも。バカがどうした。バカで悪いか。そう言い張ってはばからない潔さ。すばらしい。(そう思わないとやっていけないのです。こちとらユーレーなんで。文句も言えないし。注意もできないし。汗)

 えー。

 それで。

 いよいよアイディア王真姫ちゃんの画期的発明を実行に移す時が来た。

 頃合いを見計らって、わたしは床を蹴る。ケンケンが寝そべっている優弥の部屋の床を蹴って、天井とトタン屋根を抜けて、直接夜の空に舞い上がる。

 外は少し蒸していて、夜の匂いがしていた。

 優弥の家のすぐ側に川が流れている。その川から蒸気が上がってきているんだ。川の匂いがしている。川沿いに遊歩道があって、そこに柳の木が生えている。大きな柳の木。濃くなってきた緑の葉をたたえて、ひっそりと静かに佇んでいる。夜の匂いと川の魚と水草の匂い、それから、緑の木々たちの匂い。それらの匂いのハーモニー。色は藍色。深い藍色。もうじき夏が来る。夏が始まる。何かの予感を秘めている、この匂い。夏の予感。夏への予感。ワクワクせずにはいられない、この匂い。

 川沿いの通りに、百円ショップがある。わたしは迷わずそのお店の上に飛び降りていった。颯爽と屋根をすり抜けて、音も無く着地。厳重な警備をいとも簡単にすり抜け、不法家宅侵入成功。諜報部員か忍者か。はたまた大泥棒か。頬かむりをしてきたらもっとサマになったかもな。などなど思いつつ、早速フレグランスのコーナーに行く。いろんなフレグランスが並んでいる。わたしはこのフレグランスのコーナーが好き。いろんな匂いが並んでいるから。いろんな匂いを嗅げるから。

 あった。

 キンモクセイ。

 わたしはその小瓶のパッケージに鼻を近づけてみた。

 クンクン。

 お。確かに。これはキンモクセイ。

 でも、ちょっと安っぽいかんじは否めない。

 だけど、そんなことは言ってられない。贅沢は言ってられない。

 わたしはその小瓶に指を突っ込んで(と言っても触ろうとしただけで突っ込めちゃうのですけど)、指先で匂いをキャッチするようにしてみた。指を取り出し、匂いを嗅いでみる。

 クンクン。

 お。

 いける。

 キンモクセイだ。

 わたしは一人、真っ暗な百円ショップのフレグランスコーナーの一角で小躍りした。

 指を小瓶に差し込んで、更に匂いを集める。それを両方の手のひらの中に入れる。そうして、わたしは百円ショップの床を蹴る。夜空を飛んで、優弥の部屋に戻る。

 ちょうど、優弥がベッドに入ったところだった。

 グッド・タイミング。

 ほら。

 優弥。

 キンモクセイの匂いだよ。

 わたしはわたしの手のひらを、優弥の鼻先に持っていく。

 どうかな?

 匂うかな?

 グウ。

 反応したのはケンケンだった。ベッドの横の床で寝ていたケンケン。

 ムックリと起き上がって、グウ、と喉を鳴らした。

 こちらの方をジロリと見て、鼻を動かす。ヒクヒク動かす。

 おおケンケン。わかる? わかるでしょう?

 ひとしきりヒクヒクさせた後、鼻を動かすのをやめて、ゆっくり首を動かして床の上の絨毯に顎を載せ、目を閉じてしまった。

 ケンケン、眠いんだね。

 で。

 優弥は。

 肝心の優弥は。

 優弥の反応は。

 優弥の鼻は動かなかった。(そうだ。犬みたいにヒクヒク、人間の鼻は動かないのが普通だ)

 だから、わたしの匂い共有作戦が成功したのかどうか、はっきりとはわからない。

 わからないのだけど。

 優弥はタオルケットの中から手を伸ばして、ベッドサイドに置いてあったスマホを取り上げた。

 画面を立ち上げる。SNSを立ち上げる。

 わたしとの会話だ。

 わたしとの会話を読む。

 SNSの画面を遡って。スクロールさせて。

 わたしとの会話。

 付き合い始めた頃の。

 一年生の秋の。

 キンモクセイが匂っていた頃の。

 あの頃の。

 ああ。

 優弥。

 思い出してくれたんだ。

 わたしとの思い出。

 キンモクセイが匂っていた頃の。

 あの頃の思い出。

 たのしかったね、あの頃。

 なかなか真姫って呼べなかった。呼び捨てで呼んでくれなかった。

 モゾモゾとくすぐったい感じがして、恥ずかしくて。

 でも勇気を出して呼んでくれた。

 真姫、って。

 すごくうれしかった。

 すごくうれしかったんだよ。

 優弥の指が動いて、画面をスクロールさせていく。

 出てきたのは写真。

 わたしの写真。

 優弥が写真を見てる。

 わたしを見てる。

 じっと見てる。

 涙。

 涙が。

 涙が溢れてくる。

 枕に零れ落ちる。

 優弥。

 ごめん。泣かせちゃった。

 優弥。

 でも、ありがとう。

 思い出してくれて。

 ありがとう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る