第八章 野球部は男臭さで充満中(ムンムン)
わたしはユーレーだ。
ユーレーだけれど、足は生えているし、白装束でもないし、額に三角巾みたいなのもしていない。
ヒュ~ドロドロドロドロ~というかんじの効果音と共に、恨めしや~、って言いながら柳の木の下にうっすらと出てくるような青ざめた顔のユーレーは、きっとその昔、まだ科学が発達していなかった時代に、夏場に涼を取るために考えられた誰かの作り話に過ぎない、と思う。
ユーレーは、実はもっとぜんぜん普通の服装をしていて、スッキリさわやかな存在だ。考え方も身なりも、現代的でポップなんだ。
だって実際にここでこうして、このわたしがユーレーなんだ。
普通の服装で(わたしはセーラー服姿なんですけどそれが普通の服装なのであって、決してコスプレとかしてるという訳ではないんです)、スッキリさわやかで、現代的でポップなんだ。
ただし。
ユーレーは、この世の人や動物や物には一切さわれない。
感じることもできない。
物理的にも心理的にも、影響を与えることはできない。
見ていることしかできない。
それは残念だ。
とても残念だ。
残念ではあるけれど、そこで悩んでいても仕方がない。
前向きに捉えよう。
前向きに生きよう。
そう思った。
そう思うことにした。
いや。考えてみれば。
わたしはもう生きていなかった。死んでいるのだった。わたしは既に死んでいる。立派に死んでいる。笑。
なので、前向きに生きよう、という表現は正しくない。
前向きに死んでいよう。そういうかんじか。
なるほど。
まあいい。
前向きに生きる。わたしはそう決めたんだ。高校一年の時、チアに出会ってから。わたしは変わった。わたしはわたしを変えたんだ。
だからわたしは前向き。死んでも前向き。
それがわたしだ。
もしもわたしに、地縛霊になるまでの猶予期間があるんだとしたら。
前向きに、その時間を使おう。
そう考えることにした。
そう考えると、自由だった。
目の前に自由が広がった気がした。
ユーレーというのは、案外自由な存在なんだ。
中間テストも期末テストも実力テストも受けなくていい。
どんな大学に進学するべきか悩むことも無い。
日々の宿題も無ければ、くだらないいじめやスクールカーストの重圧に悩まされることも無い。
ああ。
そう考えてみると、自由。
何物にも悩まされることがない。
悩みからの解放。
わたしはただ、わたしの本望だけを思う。
わたしの本望。
見守ること。
応援すること。
優弥を励ますこと。
ユーレーは自由だ。
移動するのも自由。
空へ跳んで、自由に移動することができる。
はたまた、乗ろうと思えば、公共の交通機関にだって乗れる。
乗り放題。しかも無料。完全に無料。
電車だってバスだってタクシーだって、たぶん飛行機にだって乗れるだろう。
乗り物好きの人から見れば、夢のような存在であろう。
ユーレー。
そう考えてみると、すばらしいではないか。
ユーレー。
わたしは家へ戻った。
わたしの家。
神田家。
父と母、妹が住んでいる、郊外の一軒家。
玄関に入る。
家の匂い。わたしの家の匂い。
建てた当時の匂いが残っていて、まだ木の匂いがするんだ。白い木をカンナで削った時の匂い。色は、白とも黄色ともとれるような、綺麗で柔らかなプリンみたいな色。
ああ。この色。この匂い。なんだか懐かしい。
わたしの部屋は二階にあって、行ってみると、前と同じ状態で残されていた。
机も椅子もテーブルもベッドも、学生カバンも教科書もノートも、チアの服もポンポンも、そのままの状態でそこに残されていた。だからわたしは、ユーレーとして普通に家に帰り、普通に部屋に入り、普通に机の前に座ったり、自分のベッドでゴロンと寝転んだりすることができた。
違いは。
わたしの家の、以前との違いは。
一階の居間の一角に設けられた仏壇。
明るい色をした木材で作られた、小さ目の仏壇。
そこにわたしの遺影が収まっており、絶え間なく線香が炊かれていた。
そうして。
父と母と妹が、その仏壇の前で涙に暮れていた。
泣き暮らしているというかんじになっていた。
元気はつらつのお父さんと、茶目っ気たっぷりなお母さん、そしてしっかり者の妹。たのしく仲の良い神田家だったのに。
泣いている。
毎日。
泣き暮らしている。
ああ。
ごめんなさい。
お父さん、お母さん、それから綾香。
わたしは、申し訳ない気持ちになる。
本当に申し訳ない気持ちになる。
どこまでも申し訳ない気持ちになる。
無限に申し訳ない気持ちになる。
だけど。
申し訳ない気持ちになっても、状況は何も変わらない。
一切変わらない。
わたしがどんなに申し訳ない気持ちになっても、その結果わたしがどんな行動をしようとも、この世で起こっていることは何一つ変わらない。変えることができない。
そうだ。
ユーレーだから。
わたしはユーレーだから。
重苦しい。
重苦しい気持ち。
重苦しい気持ちに満たされてしまう。
その時、わたしの中で思い出されることがあった。
それは地縛霊の姿だった。
生ゴミのような腐臭を発しながら、涙を流して、苦しそうに道端に嘔吐し続けている、地縛霊。
その姿に重なった。
この重苦しさ。
この重苦しさが募っていくと、地縛霊になっていってしまうのではないか。
この重苦しさが地縛霊につながっているのではないか。
この重苦しさが、あの地縛霊の生ゴミ臭さの元になっているのではないか。
そうだ。きっとそうだ。そうに違いない。
寒気がした。地縛霊を思い出して。
あんなふうにはなりたくない。絶対に。
だからわたしは、しばらくは家に戻らないようにしようと思った。
家族には申し訳ないけれど。
本当に申し訳ないのだけれど。
受け入れてもらうしかないのだ。家族には。
この状況を受け入れてもらう。
わたしが死んでしまったことを受け入れてもらう。
そうして、気持ちを静めてもらうしかない。
たぶんきっと、それには時間がかかるんだ。
かなりの時間がかかるんだ。
そして、そのことには、わたしは係れない。
ユーレーになってしまった今のわたしには。
係わりようがない。
残念だけれど。
申し訳ないのだけれど。
でもそれは仕方ない。
仕方のないことだ。
そう思う。
そう思うしかない。
わたしは跳んだ。
空へ跳んだ。
夜の空は冷たい湿気を含んでいて、微かに雨粒の匂いがしていた。
ビュウと風が吹いて、わたしの頬の涙を飛ばした。
そうだ。
わたしが悔やんでいてはだめだ。
わたしが暗くなっていてはだめだ。
わたしが応援するんだ。
わたしが励ますんだ。
元気でいなくては。
わたしが元気でいなくては。
松本自転車店。
「お邪魔します」
わたしは再び、松本家の玄関を抜ける。
暗い廊下を通って、明かりの消えた居間の扉を抜けると、正面に見えるソファの向こうの壁に、写真が掛かっていた。
わたしの写真。
リサと一緒に写っている、チアのユニフォーム姿のわたし。
A4サイズに印刷されて、木目調の額縁に収まっている。
わたしはしばし、居間に佇んでそれを見上げる。
ご本尊、か。
気恥ずかしい。
とても気恥ずかしい。
でも、誇らしくもある。
そうだ。誇らしい。誇らしいんだ。
わたしは、そう思うことにした。
そう思うことに決めた。
そうして、わたしは居間を出て、その向かい側の部屋へ行く。
優弥の部屋。
電気が消えていて、常夜灯が灯っている。
優弥が寝ている。
ベッドで寝ている。
その手前。
手前の床の敷物の上。
大きな金髪の獣。
ケンケン。
ケンケンが寝ている。ベッドの傍の床に、優弥に寄り添うようにして。
そうか。優弥とケンケンは、こんなふうに一緒のお部屋で寝ているのね。
わたしは妙に感心し、彼らを起こさないように慎重にそっと歩を進め、優弥の寝ているベッドの傍まで行く。
優弥。
黒いジャージの上下を着て、水色の毛布にくるまって、横を向いて眠っている。
スヤスヤと寝息が聞こえている。
わたしは。
ドキドキした。
わたしはドキドキした。
ユーレーなのに。
ドキドキした。
だって。こんなの経験したことない。今まで。
男の人が眠っているのなんて、見たことない。
だからじっくり見てしまう。
優弥の寝顔。
切れ長の目に、睫毛が閉じられている。
こんなに長かったんだ。睫毛。
ゆっくりと胸が動いている。
呼吸に合わせて。
空気が肺に吸い込まれている。
ああ。
生きているんだ。
優弥は生きているんだ。
今ここで、優弥は生きているんだ。
わたしはそれを確かめるようにして、そっと優弥の横に添い寝する。
優弥の背中を抱くようにして。
ああ。
お日様の匂い。優弥の匂い。これが優弥。透き通るような、透明な黄色。
優弥。
初めて、わたしはこうして、ベッドで優弥を抱き締めた。
感触は伝わってこなかった。
ぬくもりも伝わってこなかった。
でも満足だった。
匂いだけがあった。
優弥の匂い。
胸いっぱいに吸う。
優弥の匂いで、わたしの胸をいっぱいにする。
優弥の匂い。
太陽の匂い。
幸せ。
幸せを感じた。
充実を感じた。
だって、大好きな優弥と一緒にいる。
ここで、こうして。
大好きな優弥を抱き締めることができている。
幸せだ。
わたしは幸せだ。
天国に行かなくてよかった。
ユーレーになってよかった。
そう思った。
グルルルル。
ケンケンが横で何か言った。
ね、あなた今、「そうだそうだー」って言わなかった?
もしかして寝言?
わたしはそれを聞いてクスクス笑ってしまった。
おかしかった。ケンケンの寝言。
でも、そのわたしの笑い声が優弥を起こすことはなかった。
優弥は変わらず、わたしの腕の中で熟睡している。
そう。わたしはユーレー。
感触も、声も、この世の人に伝えることはできない。
まあいい。
それは仕方ない。
わたしは気を取り直して、優弥のすぐ隣で添い寝を満喫することに決めた。
優弥の匂いに包まれながら。
優弥を抱き締めて。
そうだ。味わうべきだ。この状況を。
満喫すべきだ。この幸せを。
生まれて初めての、この経験を。
そう思うと、満足感がやってきた。
満足感が暖かくわたしを包んで、ゆったりと深い眠りの中へ落ちていった。
そんなふうにして、わたしの「ご本尊」としての生活が始まった。
いや。ご本尊なんてもったいない。
わたしはご本尊なんかじゃない。
でも、目指したい。松本家のご本尊を。
だから、取り急ぎ、そんなわたしを「ご本尊見習い」と呼ぶことにした。
ご本尊見習いは、朝から見守るべき対象者と行動を共にする。
優弥と行動を共にする。
優弥と一緒に過ごす。
優弥に密着する。
朝、優弥がトロンとした眠りから覚めて、ベッドからムックリ起き上がる時から。
カーテンを開けて、まだ薄暗い窓の外を眺め、隣で寝ていたケンケンの顎のあたりを撫でて、朝の挨拶をして。
お便所に行って、上着を着て、誰もいない朝の路地にケンケンを散歩に連れ出して。
アパートの窓から顔を出したおばちゃんに、お早うございますって言って。
家に帰ると、ホカホカの炊きたてのご飯が湯気を立てていて。
しらすと、大根おろしと、お醤油と、お味噌汁と。
卵焼き。
ああ。この匂い。
卵焼きの匂い。
わたしは優弥の隣にピッタリと密着して、朝ご飯を味わう。
松本家の朝ご飯。
朝ご飯の匂いを。
優弥は少し変わった箸の持ち方をして、白いご飯を口に運ぶ。
パクパクと音を立てて噛む。
豪快に動く顎。
ゴクリと飲み込む喉。
ああ。
優弥。
優弥が生きてる。
夢中で食べている優弥。
沢山食べている優弥。
生命力。
ほとばしっている。
「行ってきます」
食べ終わるのが早いか、学ランを羽織ってスニーカーをつっかけ、玄関を走り出ていく。
六時ちょっと過ぎ。
もうじき朝練が始まる時間。
走る優弥。
路地を走る。
長い脚が大きなストライドで地面を蹴る。
かなりのスピード。
追いつけないところだ。普通のわたしだったら。人間のわたしだったら。
でも今は大丈夫。ちゃんと追いつける。ユーレーだから。
わたしは地面を蹴る。わたしは密着する。走っている優弥に。
優弥の筋肉が躍動して、更にスピードが増す。
おもしろい。
こんなに早いんだ。優弥の足。
すごいすごい。
優弥すごい。
そんなもんじゃなかった。
優弥のすごさってやつは。
驚くのが早かった。
朝の通学で見せた優弥の走り。そんなもんじゃなかった。驚くのは早かった。まだまだ、ぜんぜん序の口だった。
尋常学園曙高校の裏山に、小さな寺がある。
その寺が野球部の朝練に使われる。
寺の階段だ。
かなり急な階段が二百段以上。
朝六時半きっかり。その階段のふもとに、ユニフォーム姿の曙高校野球部員総勢六十三名、それに加えて女子マネージャー三名、計六十六名が全員集合していた。
先頭は主将でキャッチャーの山田君。二番手にいるのが優弥。
「アケボノォォォォ」
山田君が絶叫し、朝練がスタートした。
見上げるほどの急な階段を一気に駆け上がる。
「イチニッサンシッ」
「ニイニッサンシッ」
「サンニッサンシッ」
大声で叫びながら階段を上がる。二年生以上は二段飛ばしだ。
わたしは優弥のすぐ横に付き従った。一緒に登った。
すごいスピード。すごいすごい。猛ダッシュ。
頂上に着くと、そのまま下る。下りは登りの倍以上のスピード。
「七十秒、七十五秒、八十秒、八十五秒」
坂の下では女子マネージャーの時間計測のカウントが続いている。女子マネージャーたちも真剣そのものだ。一往復九十秒以内に入らなければ、更に追加の階段上りが課せられる。手を抜く訳にはいかない。全力疾走する野球部員たちは、常に女子マネージャーたちの声に追い立てられている格好だ。
優弥の身体が躍動する。軽々と階段を越えてゆく。
まるで、人間じゃなくて、豹とかチータとか、何か他の動物に変身してしまったかのように。
すごい運動能力。
これはすごい。
すごいと思った。
優弥ってこんなにすごいんだ。
感心した。
こんな練習を毎朝やっていたんだ。
これが甲子園を目指すってことなのか。
わたしたちチアの練習もキツイけれど、そんなの比じゃない。
さすがだ。
曙高校野球部。
その練習の気合と激しさを、今わたしは初めて知った。
ユーレーになって初めて。
だが。
だがしかし。
それだけではなかった。
驚くのはまだ早かったのである。
急階段の上り下りを全速力で十本。
更にその後があった。
山田君がその巨体の背中に長身の優弥を背負った。
その状態で階段を駆け登っていく。
休憩無し。
息が切れたまま。
優弥を背負って、山田君が階段を駆け登っていく。
「アケボノォォォォ」
「イチニッサンシッ」
「ニイニッサンシッ」
「サンニッサンシッ」
六十三人の部員が次々それに続く。
登って、降りて、背負う人交代。
今度は優弥が山田君を背負う番だ。
「アケボノォォォォ」
優弥が叫ぶ。
「イチニッサンシッ」
「ニイニッサンシッ」
「サンニッサンシッ」
山田君はとても体格がよい。重量級のキャッチャーだ。細身の優弥よりも随分重いに違いない。それを華奢な優弥が背負う。優弥の足腰が悲鳴を上げる。でも揺るがない。優弥の足腰は揺るがない。細い骨は多分軋んでいるが、その周りの筋肉が弾力のあるバネみたいにしなって、山田君の重量を跳ね返すようにして、リズミカルに階段を登っていく。
強い。
わたしは思った。
優弥は強い。
細い顎に汗が滴っている。ぜぇぜぇと息が上がっている。ちょっと苦しそうだ。
でも他の部員はもっと息が上がっている。死にそうなかんじになっている。ついていくのがやっと、というかんじだ。それに比べると、優弥はまだ余裕があるようにさえ見える。
そのまま休憩無く背負いダッシュを続けざまに五本。
それで下半身の強化訓練は終了。そのまま駆け足で学校のグランドまで戻り、上半身の強化。腹筋、背筋、腕立てを、各三十回×五セット。
これで七時四十五分。朝練終了。
こんな練習を毎日やってたのか。朝、学校が始まる前に。
わたしは優弥の横に密着して、全てを見ていた。
疲れた。
わたしの方が疲れた。
優弥はこの朝練メニューをサラリとこなして、更衣室でワイシャツに着替えている。お疲れ、なんて、部員に声掛けたりして。笑顔で。色白細面のさわやかな笑顔で。
ああ。
こりゃ参った。
こりゃ惚れる。
女子は惚れる。
死ぬ前に告っといてよかった。いや違う。告られたんだった。告られといてよかった。そう思わずにはいられない。
だってイケメン。
優弥イケメン。
イケメン過ぎ。
あの強靭な肉体で俊敏な運動能力を存分に発揮した後、お日様に似たホカホカした匂いをさせながら、醤油顔の一重の目をクニュって曲げてすっごく優しくニッコリと微笑んで、頬に小さな笑くぼを作られた日には。
惚れる。
誰だって惚れる。
惚れない方がおかしい。
三名の女子マネージャーたちだって、皆優弥を見てる。
優弥の横顔。
頬に流れる汗。
目がハートになってるもの。
うんうん。そりゃそうだ。
わかる。そりゃ惚れる。
イケメンだもの。
ああよかった。
わたし。
こんな人に密着できる。
ご本尊になる対象者として、こんなにすばらしい人はいない。
なんてったってイケメンだ。
ユーレーになった甲斐があるというものだ。
ああ。
ユーレーになってよかった。
なんとまあ幸せな。
わたしって。
ほんとう。
さてそんなイケメン。野球部の朝練が終わると、お教室に入る時間。
八時十五分から始まる一限目の授業は、現国。
開始早々から熟睡。夢の中。睡眠時間。
教科書を机の前に立てかけて、その後ろで入眠。いやそれ、教科書の陰に隠れてないって。ミエミエだって。ミエミエの爆睡。
二限目は数学。同様に熟睡。
三限目の前に弁当。でかい弁当を取り出して口の中へ夢中で掻き込む。
三限目は地理。四限目は英語。
熟睡。
熟睡に次ぐ熟睡。
ああ。
仕方ないわよね。
早朝からあんなに追い込んでるんだもの。
夕方の練習までには休息を取っておかないと。
各教科の諸先生方もそれをわかっていて、敢えて優弥や野球部の人たちを不用意に指名したりしないのでありました。
ま、そういうのは前からわかってはいたけれど。
だけど、こうやってすぐ横に密着してみると、本当、よく寝る。
クークー寝る。
授業が始まった途端に。
授業=寝る時間だと、鼻から思ってる。
寝る子は育つ。
だからこんななに背が高く育ったのね。
わたしは優弥のすぐ横にいて、熟睡する優弥を起こさないようにした。
もっとも、起こそうと思ったところで今のわたしには起こしようもないのだけれど。
そんなふうにして、授業時間が過ぎていくのだった。
夕方がやってきた。
夕方の練習の時間。
夕方の練習は専門的だった。
わたしはよく知らなかったのだけれど、尋常学園曙高校の野球部を強くした立役者、石原清監督は、その筋肉質でワイルドな外見に似合わず(笑)、理論派で理知的で柔和で優しい人物であった。
わたしは野球のことはよくわからない。
でも、わからないなりに勉強した。
我が校、曙高校野球部はどうして強くなったのか。
石原清監督の指導方法とは何なのか。
秘密は「石原セオリー」にあった。
石原セオリーと言われている、石原監督が野球の理論を説いた語録のリストがあって、優弥たち選手はそれをまず頭で理解し、次に身体で覚えていくのだ。夕方の練習はまさにその石原セオリーを実践し、選手たちがそれを自分の身体に覚えさせていく、そういう訓練に相当するものであった。
選手たち全員のユニフォームの尻ポケットに、小ぶりのメモ帳が入っている。そこに書かれているのが石原セオリーだ。全部で百近くのセオリーがある。それを選手は石原監督から聞き取り、自分でそこに鉛筆でメモする。
例えばこんな感じだ。
・内野手の守備の定位置は、ゴロの打球を一塁で確実にアウトにできる位置である。
・ミスは必ず起こる。バックアップはどんな暴投が来てもよいように捕球体制を作れ。
などなど。
選手たちの手帳には、このようなセオリーがびっしりと書き込まれている。
まずこの石原セオリーを頭に入れることが重要なので、本格的に身体を使う練習に入る前に、座学が行われる。座学は、六月の梅雨の長雨の時期などに、教室で行われることが多い。
グランドでの守備練習は、様々な場面を想定し、その場面に合った石原セオリーを確実に実践できるように、身体に覚えさせていく。
ピッチャーに対してもそれは同じで、様々な場面、例えば、二塁にランナーを置いて、左打ちの強打者がツーアウトツーストライクとなった場面で、次にどんな球を投げるべきか? このような場合に、石原セオリーでは内角高めにボール球の速球を投げ、一球外すべし、と教える。こういったセオリーを身体で覚えさせるために、投球練習を行うのだった。
石原セオリーには、野球の全ての場面における理論があると言われている。野球の全ての場面において、正しいやり方と間違ったやり方が存在する。全ての場面において正しいやり方ができれば、その試合は勝てる。石原セオリーはそのように説いていた。だからまずその石原セオリーを頭に入れ、正しいやり方を頭で覚え、次に身体でその正しいやり方を実践できるようにする。全てのポジションにおいてそれが確実に実践できれば、どんな強豪が相手でも、必ず勝てる。
これが尋常学園曙高校の野球であり、訓練なのであった。
理論的だ。
合理的だ。
そこには、チームワークだとかリーダーシップだとか、助け合い精神だとかお互いに精一杯がんばろうだとか、そういった精神論の類は一切無かった。
野球とは、石原セオリーが実践できるか否か。それだけだ。
なるほど。
これか。
これが強さの秘密か。
わたしは、チア部にいた頃には理解できなかった、野球部の深い事情を知ることができた。野球部がどのように練習しているのか。野球部がどうして強くなってきたのか。その事情がようやくわかった気がした。
例えば一年生の秋の大会で、調子よく勝ち進んできた優弥が決勝戦でいきなり打ち込まれたことがあった。あの頃の優弥は、まだこの石原セオリーを頭に入れていなかったのだ。だから声援で石原監督の声が聞こえなくなった途端に、ボコボコに打ち込まれてしまった。石原セオリーが実践できなくなってしまったからだ。
なるほど。
そうして今。
三年生になった今の優弥は、石原セオリーのほとんどが頭の中に入っている。石原監督の指示をいちいち聞かなくても、自らの頭で石原セオリーに照らし合わせ、正しいか間違いかを判断することができる。そして更に、毎日の朝練を通じて、一年生の頃とは段違いに身体が鍛えられている。石原セオリーを実践するための身体作りが、ほぼ完成に近づいている。
おおお。
おおおお。
なるほど。
わたしは今隣にいる。
ピッチング練習をする優弥の、すぐ隣にいる。
優弥がすごい球を投げている。
バビューン、という風切り音がするのだ。優弥の投げる球。
すごいスピードで滑るように空を切る。球が沈むのではなくホップする。
そして抉るように、ズバッ、と、キャッチャーミットに鋭く突き刺さっていく。
外角低め。ギリギリいっぱい。ストライク。
投球練習をする優弥。
一球一球、石原セオリーを実践する優弥。
すごい。
既に何か貫禄のようなものを漂わせている。
優弥。
頼もしい。
わたしは思った。
わたしは改めて、感心した。
優弥。
甲子園、行けるかも。
今年の夏。
最後の夏。
約束果たせるかも。
甲子園。
優弥。
* * *
はてさて。
吾輩、ケンケンでございます。
松本家の「ご本尊見習い」となった真姫さん。
うちのご主人、優弥さんとの暮らしが始まりました。
真姫さんはユーレーですから、優弥さんに触ることも、お話することも、気配を感じさせることも、何もできません。
でも、人間の時には見えなかった優弥さんの日々の暮らしや、部活中の活躍などが見えるようになりました。真姫さんにとっては、それは新鮮なことでしたし、うれしいことでした。ユーレーにならなかったとしたら、体験できないことばかり。真姫さんはそこに歓びを見出していきます。ユーレーとしての喜びを。
そんなふうにして、時が過ぎてゆきます。
幸せの時が。
はてさて。
はてさて。
* * *
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