第七章 優弥の家はいい匂い 卵焼きの匂いでしょ?(ぱくぱく)

 * * *


 はてさて。

 吾輩、ケンケンでございます。

 という訳で。

 真姫さんがお亡くなりになりまして、お葬式が執り行われました。

 尋常学園曙高校二年生、チア部の中核として活躍されていた真姫さんは結構な人気者でしたので、沢山のご学友が参列され、葬儀場は学生で溢れんばかりでした。

 突然の悲しみに打ちひしがれる中で、皆さん涙を流され、口々に別れを告げておられました。

 その参列者の中に、吾輩のご主人の優弥さんと、そのお母さまの優子さんもおりました。

 学生服を着た優弥さんは、真姫さんのクラスメートとして。喪服の黒いワンピースを着た優子さんは、真姫さんのクラスメートの母として。

 そうです。優弥さんと真姫さんは、まだ恋人ではなかったのです。恋人の約束を交わしてはいましたが、まだその約束は果たされていませんでした。クラスの子たちも、野球部の部員たちも、それから、チア部の部員たちも、誰も二人のそういった関係を知りませんでした。約束が果たされるまでは二人は恋人ではないのですから、それまでは、二人の関係をなるべく知られないようにしていたのです。優弥さんは曙高校を背負って立つエースとしてがんばっていましたし、真姫さんはチア部の中核としてがんばっていました。甲子園に行くまでは、二人は恋人ではない。約束が果たされるまで、特別な関係ではない。二人は、単なるクラスメート。それが二人が決めた関係であり、二人のご学友の間での認識でもありました。

 それで、真姫さんが死んでしまったのです。

 約束が果たされる前に、死んでしまったのです。

 ですから、優弥さんと真姫さんとの関係はクラスメート。恋人ではなく、単なるクラスメート。真姫さんは優弥さんの単なるクラスメートとしてお亡くなりになったのです。

 優弥さんは同じクラスの子たちに交じって真姫さんのお葬式に参列しました。優弥さんの目からも、涙がこぼれておりました。沢山こぼれておりました。ですが、優弥さんのすぐ傍で、それよりも激しく、クラスメートの女子たちが泣いていました。真姫ちゃん真姫ちゃんと。真姫さんの名前を連呼して。泣きじゃくっていました。

 そして、更に、そのクラスメートの女子たちよりももっと激しく動揺し、悲しんでいる人がいました。優弥さんの隣にいました。それは優子さんでした。

 こんなに慟哭している母を、優弥さんはその時初めて見ました。

 自転車屋さんを営んでいたお父さまが亡くなったのは、優弥さんが小学校二年生の時でした。癌でした。優弥さんは、その時のことを今でもはっきりと覚えています。勿論、母優子さんは泣いていました。でも、こんなじゃなかった。こんなに動揺してはいなかった。お父さまの病気が進行し、数か月前から告知されていましたので、死期の覚悟ができていたということもあったのかもしれません。また、息子がまだ子供だったということもあり、自分が動揺などしていられなかったという事情があったのかもしれません。多分、当時、それらの事情が重なっていたんだと思われますが。とにかく、お父さまが亡くなった時は、優子さんは今よりももう少ししっかりしていたと、優弥さんは思っていました。

 でも、今。

 優子さんが泣いています。ずっと泣いています。家を出る前から泣いていました。会話ができないくらい泣いていました。ようやく、なんとか優弥さんと一緒に葬儀場に着いて。参列者の列に並び、棺に入った真姫さんのご遺体のお顔を見るやいなや。泣き崩れて。その場で泣き崩れて。動けなくなってしまいました。地面に伏すようにして。腰が立たなくなってしまいました。

 こんな優子さんを見るのは初めてでした。

 それだけ、優子さんの思いが強かったのでしょう。真姫さんへの思いが。そしてこの事故が突然だったのでしょう。だから優子さんの心が衝撃を受けたのでしょう。強い強い衝撃だったのでしょう。

 それは、優弥さんにとっても衝撃でした。真姫さんの事故も衝撃でしたが、お母さんがここまで取り乱してしまっているのも衝撃だったのです。

 お母さんが腰を抜かしている。目の前で、立てなくなってしまっている。これまでとても頼りになったお母さん。頼りにしてきたお母さん。気丈なお母さん。そのお母さんが、何か正体を無くしてしまったような状態になっている。

 優弥さんは床に伏した優子さんを抱き上げるようにして起こして、肩を貸してなんとか歩かせ、そのまま葬儀場を後にしました。そうするしかなかったのです。

 そうして、家まで帰ってきました。なんとか辿り着きました。泣きじゃくる優子さんをタクシーに乗せて、帰って来たんです。優子さんは黒いワンピース姿のまま、泣きながら居間へ入っていってしまいました。

 そして、優弥さんが腰を下ろします。

 ようやく、自分の部屋のベッドの上で、腰を下ろします。

 放心してしまったように。

 目は開いています。でも、何か遠くを見ているかのようです。

 吾輩はそれを眺めています。

 吾輩は優弥さんと同じ部屋にいます。

 優弥さんのすぐ近くにいます。

 でも、眺めていることしかできません。

 吾輩ができることは何もありません。

 試しに、吾輩の右前脚を優弥さんの鼻先に差し出してみました。

 ご主人は肉球の匂いが大好き。

 ですからそれは、吾輩からのささやかなプレゼントのつもりでした。

 クンクン。

 いつものようにご主人の鼻が反応します。

 ほら。

 ポップコーンの匂いでしょ。どうです? いい匂いでしょ?

 ああ。

 でもだめでした。

 ブワッと、大粒の涙が溢れ出してしまいました。

 ご主人の目から。

 ああごめんなさい。すみません。

 思い出してしまいましたか。

 真姫さんのこと。

 真姫さんとの思い出。

 肉球の思い出。

 ごめんなさい。

 すみません。

 もうしません。

 ああ。

 吾輩、向こうに行ってますね。

 やれやれ。

 あーあ。

 はてさて。

 はてさて。


 * * *


 という訳で。

 わたしはユーレーになってしまった。

 期せずして。

 思いがけず。

 わたしはユーレーになってしまった。

 ユーレーになったんだけれど。

 ユーレーには何もできない。

 この世の人や物や動物に対して、何もできないし、影響を与えることもない。

 ユーレーは天国へ行くしかない。

 それしか選択肢はない。

 天国へ行かないと、地縛霊になってしまう。

 だから天国へ行くしかない。

 天国へ行くには、犬バスに乗せてもらうしかない。

 だから犬バスを探せ。犬バスに乗れ。

 ミヤジさんはそう言った。

 たぶん、それは正しい。

 火葬場が狙い目だ。犬バスに会える狙い目だ。

 ミヤジさんはそう言った。

 たぶん、それも正しい。

 わたしは、足が地面に突き刺さって抜けなくなってしまう前に、ユーレーから地縛霊に変わってしまう前に、一刻も早く犬バスを見つけて、乗せてもらわなくてはならない。

 そうだ。そうしよう。それしかない。

 それで。

 その前。

 その前に。

 もう一度。

 もう一度会いたい。

 優弥。

 わたしの恋人になる筈だった優弥に。

 そうだ。そうしよう。そうするべきだ。

 決めた。

 優弥。

 どうしてるかな。わたしの優弥。

 地面を蹴った。

 思い切り。

 わたしはジャンプした。

 行こう。松本自転車店。

 優弥に会いに。

 わたしは跳んだ。

 高く跳んだ。

 ビョーン、とジャンプした。

 眼下に森が広がる。郊外の森。丘陵地帯。

 風は感じなかった。髪の毛はなびくんだけれど、肌に風を感じない。スカートはヒラヒラするんだけれど、足に冷たさを感じない。不思議だ。

 感じるのは匂いだけだった。

 冬の森の匂い。乾燥している中にも湿り気がある。その湿り気の中に、きっと胞子が眠っている。シダ植物の種。緑の元となる胞子たち。森の中の胞子たち。色は渋い緑色。眠っている胞子の色。

 わたしはこんなふうに匂いを感じる。

 その感覚は前より豊かになっている気がする。

 生きていた頃より。

 生前の感覚より。

 でも風を感じない。重力も感じない。それは不思議だ。

 でも仕方ない。

 風や重力の抵抗が無いから、どこまででも跳べるのだ。

 だから会いに行ける。優弥に会いに。電車やバスを使わなくても。

 それは便利だ。

 そうだ。そう考えよう。

 わたしは冷たさも感じない。

 でも仕方ない。

 冷たくないから、こうしてセーラー服姿でも寒くないのだ。

 それだって便利じゃないか。上着買わなくてもよいし。

 そうだ。そう考えよう。


 わたしは空へ上がった。

 大きくジャンプした。

 森を越え、市街地に入る。

 気をつけてみると、沢山いた。

 ユーレーの人たち。

 匂いがきついのだ。

 すえた生ゴミの匂いがする。

 特に、地面に足がめり込んでしまった人たち。

 地縛霊。

 すごい腐臭を放っている。

 中には、人間離れした姿になっている人もいる。

 ドロドロに溶けて、頭や首、肩の判別がつかなくなった地縛霊が目玉だけキョロキョロさせている。彼は(彼女なのかもしれない)きっともう何十年も、もしかすると何百年も、あそこであのまま溶け続けているんだろうか。

 その匂いは、今までわたしが経験したことのない匂いだ。何年もバケツの中で捨て置かれた生ゴミの匂いを更に何十倍も凝縮すれば、こんな匂いになるのだろうか。色はドドメ色。強烈なドドメ色。国道沿いや郵便局の前、ショッピングセンターの前などに多い。何人もいる。わたしはその上空を鼻を塞ぎながら通り過ぎる。

 声も聞こえる。

 言葉になっていない。だから意味は分からない。ううう、とか、むむむ、とか。呻き声だ。悲鳴に近い人もいる。

 悲しそうだ。

 皆悲しそうだ。

 ある者はうつむき、ある者は頭を抱え、ある者は地面に突っ伏して呻いている。

 地獄。

 子供の頃何かの本で見たことがある。この光景。地獄。

 これがほんとうの地獄なんじゃないか。もしかすると。

 わたしはそう思った。


 松本自転車店と書かれたシャッターは今日も閉まっている。

 静かな春の日の昼下がり。

 着いた。

 優弥の家。

 松本家の外側は金属の匂いがしてる。それと、少しばかりの油の匂い。機械油。これは自転車の匂いなんだ。既に、なんだか懐かしい。この前来たばかりなのに。

 優弥は帰っているだろうか。

 午前中はわたしの葬式に参列してくれていたんだ。お母さまと一緒に。でも火葬場には行かなかった。火葬場には親族しか行かなかったから。

 わたしはドアの横にあるボタンを押した。玄関ブザーのボタン。スカッ。指がすり抜ける。ボタンの向こう側に。そうか。そうだった。わたしはユーレーだった。ボタンは押せない。取っ手を握ってみた。ドアの取っ手。握れない。スカッとすり抜けてしまう。そうだ。こんなふうに触れないんだった。この世の物に。わたしは。

 それでわたしは意を決して、松本家の玄関ドアに正面からぶつかっていく。ぶつかる直前に思わず思い切り目を閉じてしまう。生きていた頃の癖だ。ぶつかる衝撃に備えて身構えてしまうんだ。ドアにぶつかったら痛いかな?と思ってしまうんだ。でもユーレーになった今、そんな癖は全く無意味で、わたしはスカッとドアをすり抜けて玄関の中へ入ってしまう。衝撃も感触もぶつかる音も何もない。扉が硬かろうが厚さが厚かろうが関係が無い。スカッと。スムーズ。ノンストレス。音も無く簡単に家宅侵入終了。

 「こんにちは」

 玄関で声に出して言ってみる。一応。

 だけど勿論反応は無い。聞こえないんだ。この世の人には聞こえないんだ。わたしの声。ユーレーの声。だけどわたしはご挨拶をした。無断で侵入した訳ではない。一応、お断りをした。礼は尽くした。返事がなかっただけだ。聞こえなかっただけだ。そんなふうに思うことにして、靴を脱ぐ。

 「おじゃまします」

 玄関を通過。

 ああ。甘い。ほんのり甘い匂い。卵焼きの匂い。黄色。鮮やかな黄色。これこれ。この匂い。優弥の家の匂い。わたしは胸いっぱいにこの匂いを嗅ぐ。匂いで胸が満たされる。黄色。幸せな黄色。好き。この匂い。

 優弥は家に帰っている。何故なら玄関に優弥の靴があったから。黒い革靴。大きな靴。学生服の時に履く靴。優弥は足が大きいんだ。わたしは大きな足の人が好き。なんだか頼れるかんじがするから。

 優弥。

 優弥がいる。この廊下の先の優弥の部屋に。

 わたしは、今まで、優弥の部屋にお邪魔したことがなかった。この廊下から奥に、あがったことがなかった。だから初だ。初体験だ。男子の部屋。ドキドキだ。

 優弥。

 優弥に会ったら。

 わたしは、謝らなければならない。

 優弥との約束を果たせなかったこと。 

 優弥が甲子園へ行く。わたしはそれを応援する。チアとして応援する。

 優弥は優弥の壁を超える。そして地方大会を勝ち抜き、甲子園への切符を勝ち取る。尋常学園曙高校を甲子園へと導く。

 わたしの応援を得て優弥は自らの限界を超え、目標を達成する。そしてそれをもって、わたしはチアの本懐を遂げる。

 そういう約束だった。

 そうなる筈だった。

 そうなるために、二人でがんばる筈だった。

 でも。

 それができなかった。

 できなくなった。

 わたしは死んでしまった。

 死んでユーレーになってしまった。

 だからもう応援できない。

 約束を果たせない。

 申し訳ない。

 申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 謝らなければならない。心から。

 そう思っていた。

 そう思いながら、優弥の部屋の前まで来た。

 優弥。

 部屋のドアは閉まっている。

 わたしは一瞬立ち止まり、そしてそのドアを抜ける。


 男の子の部屋。

 六畳の洋間。

 四角い学習机があり、その前に黒い簡素な回転椅子があり、小さ目の本棚があり。

 床に無造作に学生カバンが置いてあり。

 甲子園の小さなタペストリが一つだけ、机の前の壁に貼りついている。

 飾りつけも何もない、素っ気ない部屋。

 シングルベッドがひとつ。

 そこに優弥がいた。

 優弥が座っていた。

 何もしていなかった。

 もう泣いていなかった。

 ぼーっとしていた。

 抜け殻みたいになっていた。

 わたしはその隣に行って、腰かけた。

 ドキドキしていた。

 こんなふうに二人で腰かけるなんて。

 ベッドに。

 初めてだった。

 優弥。

 優弥の匂い。

 思い切り吸い込む。

 お日さまの匂い。

 お日さまの匂いがするんだ。

 透き通った黄色。

 それは優弥の匂い。

 なるほど。

 この優弥の匂いは、このお部屋の匂いなんだ。

 よく干してもらったお布団。

 ぬくぬくと安心する、優弥の匂い。 

 「優弥」

 わたしは話し掛ける。

 「優弥、ごめんね」

 わたしの声。

 「わたし、約束果たせなかった。ほんとうにごめん。わたし、応援できなかった。チアできなかった。あなたを最後まで。あなたが甲子園に行くまで。ごめん。ほんとうにごめん」

 わたしの声。

 そこには、ただわたしの声。

 ただわたしの声だけがあって。

 知ってる。優弥には聞こえない。わたしの声。

 この世の人間には聞こえない。わたしの声。

 いくら好きでも。

 いくら好きな人でも。

 聞こえない。

 聞こえないんだ。

 じっとしていた。

 わたしは。

 しばらく、そのままじっとしていた。

 そのままの状態で時間が過ぎていった。

 わたしは傍にいた。優弥の傍にいた。寄り添っていた。


 やがて優弥はベッドの上に転がっていたスマホを拾い上げ、画面を開いた。

 わたしは優弥のすぐ隣でスマホの画面を見ている。優弥と一緒に見ている。普通だったらこんなに近寄れない。普通。もしもわたしが生きていたら。こんなに近寄れないし、画面だって覗けない。でも。でも今は違う。わたしはユーレーで、優弥のすぐ側にいる。一緒に画面を見てる。

 優弥がSNSを立ち上げる。そこには沢山の未読のメッセージが赤い数字で示されている。それらを無視して、優弥が開くページ。メッセージの会話のページ。わたしとの会話。わたしとのページ。

 「優弥、終わった? 先行ってるね」

 そんなふうに、わたしは書いていた。

 そこで会話が途切れている。

 そこで会話が終わっている。

 そうだ。あの日。数日前の、あの日。

 チアの練習が野球部より早く終わって、わたしは一足先に帰路についた。野球部の練習が順調に終われば、優弥が帰ってくる筈だ。あの路地を。梅の匂いで満たされたあの公園のある、あの路地を。だからわたしはメッセージを入れた。会いたかったんだ。優弥。

 優弥が見つめている。スマホの画面。SNSのメッセージ画面。わたしの最後のメッセージ。わたしの最後の言葉。

 しばらく見つめた後、優弥は画面を動かす。メッセージを遡っていく。過去に。わたしたちの過去に。優弥が読んでいる。わたしの過去のメッセージ。わたしが送った、優弥へのメッセージ。

 「優弥、がんばってね」

 わたしは、そう書いていた。

 「来週土曜日の練習試合、チア部で応援することに決まったよ。チア部と吹部で応援行くからね。相手の高校はうちよりデカいチア部と吹部がいるから。アウェーの試合だけど、絶対負けないから。応援は絶対負けないから。だから優弥、がんばってね。負けないで。優弥。祈ってる」

 「うん。がんばるよ。真姫。マウンドから真姫のこと見てるし、声も聞いてるからね。俺絶対負けない」

 ああ。

 これは先々月の練習試合の時のメッセージ。

 相手の高校は隣の県の甲子園常連の強豪校で、チア部も吹部も曙高校の倍くらいの人数だった。私たちは大型バスで駆けつけたんだけれど、相手校は地元だけあって、すごい声援だった。多勢に無勢だった。正直、応援では敵わなかったと思う。でも、優弥は負けなかった。気持ちで負けなかった。しかも冷静だった。毎回ランナーを出したけれど、沈着冷静なピッチングでピンチを切り抜けた。ランナーを背負っても、落ち着いて外角低めに球を集め、内野ゴロに打ち取っていった。そうして、最強と謳われた打線を一点に抑えて、その強豪校に勝った。

 これはうれしかった。ムチャクチャうれしかった。

 「優弥!すごい!すごい!すごい!おめでと!!」

 「うん。ありがと。真姫の声聞こえたよ。おかげで落ち着いて投げれた。ありがと」

 これが試合の後の会話。懐かしい。

 優弥は更にSNSの画面をめくる。画面がスクロールしていく。沢山のメッセージ。沢山の会話。沢山のわたしたち。

 「ねね、マシュマロってどんな匂いか知ってる?」

 わたしは、そう書いていた。これは、去年のホワイトデーの前の日のメッセージだ。

 「ごめん」

 「何が?」

 「マシュマロがよかった?」

 「ううん。大丈夫」

 「クッキー買っちゃった」

 「買ってきてくれたの!」

 「うん。もちろん。明日持ってくね」

 「わーいわーい」

 「帰りにね」

 「うん」

 忘れてるのかと思った。ホワイトデー。だってぜんぜんメッセージくれいないんだもん。だからちょっと先手を打ってみたんだ。そしたらもう用意してくれてた。ホワイトデーのクッキー。買ってくれてたんだ。

 ホワイトデーのその日。わたしたちは学校の帰り道、あの路地の公園で会った。まだ桜は硬いつぼみの状態で、全く咲く気配がなかった。肌寒い風が吹いていた。優弥は初めてのホワイトデーのクッキーを渡してくれた。表彰式で小学校の校長先生が、優秀な児童に特別な賞状を渡す時みたいに。両手で、うやうやしく。

 「クッキーありがと」

 「いえいえ」

 「おいしいよー」

 「いえーい」

 おうちに帰って青い包み紙を開け、クッキーを食べた。食べながら、わたしはこのメッセージを送ったんだ。

 甘くてホクホクのクッキー。バターの甘ーい匂いと、セサミの香ばしい匂いが混じってる。

 わたしはクッキーの匂いを胸に吸い込む。

 思い切り吸い込む。

 ああん。

 しあわせ。

 そうして、わたしはひとつづつ、噛み締めるようにして食べた。

 だって、これが、わたしが初めて貰ったホワイトデーの贈り物だったんだ。

 優弥、ありがとう。そう思ったのを覚えている。心からそう思ったのを覚えている。

 ああ。懐かしい。

 高校一年生だった頃。一年前のあの頃。


 優弥が更にSNSのページをスクロールさせる。

 更に過去に遡っていく。

 「神田さんですか。松本です」

 優弥のメッセージ。

 これが、最初のメッセージ。

 わたしたちのSNSの会話に刻まれた、一番最初のメッセージ。

 忘れもしない。一年生のバレンタインデーの三日後。わたしたちはSNSのIDを交換した。交換してすぐに、わたしのスマホに来たメッセージ。

 「はい。神田です」

 「松本です。よろしくお願いします」

 まだぎこちないメッセージ。

 「今後の試合の予定を教えてください。応援に行きますので」

 「了解」

 この頃。

 そう。わたしたちはまだ恋人じゃない。恋人になる約束をしただけだ。だからメッセージがぎこちない。

 この数日後、わたしは恋人の約束の前借りをする。名前で呼んでください、という前借りを。

 「神田さん、連絡です。来月の27日に練習試合が決まりました」

 「了解です。応援に行きます。場所はどこですか?」

 「市営球場です。たぶん九時頃からです」

 「あの、お願いがあります」

 「はい」

 「名前で呼んでください。名字じゃなくて」

 「そうだった。ごめん」

 「呼んで」

 「え? 今?」

 「はい」

 「真姫」

 「はい」

 「これでいい?」

 「いいです」

 「了解」

 「わたしも呼んでいいですか」

 「いいよ」

 「優弥」

 「はい。って、照れるね」

 「はい。照れますね」

 そう。

 この時。

 初めてだった。

 初めて、名前で呼んだ。

 お互いに、初めて。お互いの名前を漢字で書いて、呼び捨てで名前を送り合った。

 去年の二月。これが最初。懐かしい。


 更に、優弥が画面をスクロールさせていく。何かを探すようにして。

 画面上には、長い長い会話。二人のメッセージ。二人が送り合ったスタンプたち。

 ようやく手を止める。

 写真。

 わたしの写真。

 写真を見たかったんだ。

 優弥は、写真を見たかったんだ。

 わたしの写真。

 野球の試合が終わった後、チアが終わって、リサと一緒にスタンドで撮ったスナップショット。この日は優弥が投げて曙高校が勝ったので、二人とも晴れやかな顔をしている。笑っている。夕日を浴びて。よい笑顔。我ながら。さわやかな笑顔。

 画面が揺れている。

 優弥のスマホを持つ手が震えているんだ。

 泣いている。

 優弥。

 じっと見てる。

 わたしの写真を見てる。

 泣いている。

 ああ。

 ごめんね優弥。

 わたしは思った。

 わたし、あまり写真が無かった。この写真を含めて、二~三枚しかない。あまり写真を撮られるのが好きじゃなくて、写真を残せなかった。中学の頃、写真を踏みにじられたことがあって。その記憶が残っていて、写真がちょっと怖いんだ。写真を撮られるのが。写真を撮られなければ、踏みにじられることもない。そういう暗い感情があって。わたしはほとんど写メを撮らない。だから、優弥にもあんまり写メを送ったことがないんだ。

 ああ。

 考えてみたら。

 優弥と一緒に写ってる写真が無い。

 一枚も無い。

 なんてこと。

 撮っておけばよかった。優弥と一緒に。今にして思えば。

 恋人の約束を果たしたら撮ろう、約束を果たしたら写メ解禁、なんて思ってた。この頃。

 ストイックだったんだ。わたしは。わたしたちは。一緒に写メを撮るのなんて、恋人のすることだと思ってた。だから撮らなかったんだ。わたしたち。

 ああ。残念。

 一枚も無いなんて。一枚も二人一緒の写真が無いなんて。

 画面が震えてる。

 スマホが震えてる。

 泣いてる。

 優弥が泣いてる。

 わたしの写真を見て。

 泣いてる。

 優弥。

 ああ。

 ごめん。

 ごめん優弥。

 泣いてる。

 優弥が泣いてる。

 声を出さずに、泣いてる。

 そうして、ひとしきり泣いた後、優弥はベッドに寝転がると、そのまま眠ってしまった。

 涙も拭かずに。

 スマホを抱きかかえるみたいにして。

 わたしの写メを抱きかかえるみたいにして。

 わたしは優弥の横に行った。

 そして自分の身体を横たえた。

 優弥の隣に。

 シングルベッドの片隅に。

 ああ。

 優弥。

 ここにいる。

 わたしはここにいる。

 あなたの傍にいる。

 ここにいるよ。


 もう、辺りは暗くなっていた。

 優弥が起きた。

 ベッドから起き上がって、自分の部屋を出る。

 どこに行くのだろう。

 わたしも優弥の後についていく。

 廊下の向こう側の部屋。引き戸を開ける。

 そこは居間だった。

 居間も暗かった。

 のっそりと暗闇から現れた動物。

 獣の匂い。

 金髪のデカい犬。

 ゴールデン・レトリバー。

 ケンケンだ。

 ケンケンは数回しっぽを振って、のっそりと優弥の元に来る。優弥はケンケンの顎のあたりを撫でてあげる。再びしっぽを振るケンケン。

 「ああ。ケンケン。ケンケン。久しぶり。わたしだよ。わたし」

 そう言ってみた。

 鼻が動いた。ケンケンの。ケンケンの鼻が。ピクっと。

 そうして、目が動いた。ジロリ。

 ケンケンはわたしの方を見た。

 わたしの顔を見た。

 じっと見た。

 「ケンケン、わたしだよ。わたし。真姫だよ。真姫」

 わたしは優弥の横でジタバタと飛び跳ねるようにしながら、そう主張してみた。ケンケンならわかってくれるのでは。このわたしの存在に気付いてくれるのでは。匂いで感じてくれるのでは。そういう期待があった。淡い期待があった。

 だけどそれだけだった。ケンケンの視線はゆっくりとわたしから外れ、また優弥へと戻って行った。

 やっぱりだめなんだ。ケンケンもこの世の動物だから。ユーレーのわたしには気付かないんだ。残念。


 優弥が居間を歩いていく。

 そこは卵焼きの匂いだった。甘い卵焼きの匂いの居間。プックリした鮮やかな黄色。わたしの好きな匂い。

 その匂いの先にモコモコしたソファがあって、そこに女性が座っていた。

 優子さん。優弥のお母さま。

 お母さまは暗闇に溶け込んでいた。真っ黒のワンピース姿だったから。喪服。お葬式から帰ってきて、着替えずにまだ喪服のままでそこに座っていたんだ。

 「母さん、大丈夫?」

 優弥が言った。

 「優ちゃん」

 お母さまの口から、ようやくその言葉が漏れてきた。

 「もう六時になったよ。大丈夫?」

 「うん。ごめんね、優ちゃん」

 「ん?」

 「なんか取り乱しちゃって」

 「うん。大丈夫?」

 「なんていうか、まだ信じられないんだけど」

 「うん」

 「真姫ちゃん、ほんとうに死んじゃったのね」

 「うん」

 「信じられないんだけど」

 「うん。ぼくも」

 「そうよね。あなたも。信じられないわよね」

 「うん」

 優弥はお母さまの隣に行って、そっとソファに腰かけた。

 夕闇は更に深くなっていた。

 冷たい夜の闇が、静かに二人を包んでいる。

 「あんなに元気な子だったのに。あんなにいい子だったのに」

 「うん」

 「美人薄命とか、天は二物を与えずとか、そういうことなのかねぇ」

 「うん」

 優弥がうなずく。

 何度もうなずく。

 「優ちゃんから知らせを聞いた時にね、真っ暗になってしまったのよ。目の前が。真っ暗に。ほんとうに真っ暗に」

 「母さん、電気つけようか」

 思いついたようにそう言って、優弥はソファを立つと、居間の電気をつけた。

 天井の蛍光灯が灯って、二人の上にチリチリと白い光を振り撒いた。

 その眩しさに目を細めながら、優弥はまたお母さまの隣に戻る。

 「ああ。もう。どうしたらいいのか。どうしたらいいのかねぇ。どうしたらよかったのかしら。どうしたら」

 「母さん、真姫ちゃんはね、車に撥ねられたんだ。ぼくの目の前で」 

 「そうよね。そう。真姫ちゃんは車に撥ねられた。あなたの目の前で」

 「うん」

 「そこにあなたがいた。あなたがいても、どうにもならなかったのね?」

 「うん」

 「止められなかったのね?」

 「うん」

 「無理だったのね?」

 「うん。無理だった。止められなかった。車も、真姫ちゃんも」

 「そうよね。つらいわよね。あなたが。あなたが一番」

 「うん。つらい。つらいけど、ぼくが一番つらいかどうかはわからない。真姫ちゃんは人気者だったから。みんな真姫ちゃんを好きだったから」

 「そうよね。そう。いい子だった。真姫ちゃん」

 「うん」

 「お母さんね、真姫ちゃんに会うの、楽しみだったのよ。何回かあなたが真姫ちゃんをここに連れてきてくれたでしょう。それが楽しみだったの」

 「うん」

 「あの子の顔見てると、なんだか元気が出るの。わかる? あの子、うれしそうな顔するでしょう。私と会うと、うれしそうな顔してくれるの。ニッコリとね。キラキラした笑顔で。うれしそうに笑ってくれるの。そうするとね、なんかね、こっちまでうれしくなってきちゃうの。不思議よね。顔を見ただけで。心があったかくなるのよ。ほんと不思議。ああいう子っているのね。ほんと。天使みたいに。それがあの子。あの子の魅力だった」

 「そうだよ。母さん。真姫ちゃんはチアだったから。すばらしいチアだったから。人を応援して、人を元気づける。そういう人だったから」

 「そうね。あなたも真姫ちゃんに元気づけてもらってたんでしょう。だってあなた、変わったもの。真姫ちゃんに出会ってから」

 「そう?」

 「そうよ。だってあなた、前はもっと子供だった。お子ちゃまだったもの」

 「そうかな」

 「そうよ。あなた、自分で何か決めて、自分でそれをする。そういうの、苦手だったでしょう。昔から。いつも誰かの後ろにいて、誰かに決めてもらって、決めてもらった通りに行動してたでしょう。文句も言わずに」

 「うん」

 「まぁ、それがあなたのよいところでもあるんだけど」

 「そうかな」

 「かわいいじゃない」

 「そうか」

 「そうよ。母さんから見るとね、かわいいのよ。物足りないところでもあるんだけど」

 「だよね」

 「うん。でも最近、あなた変わったわ。できるようになったでしょう。自分で決めて、自分でそれをがんばる。そういうのが。できるようになったじゃない」

 「そうかな」

 「そうよ。そう思わない?」

 「うん。まあ」

 「すごいなって思ってたのよ。あなたの変化。このところの、あなたの成長。それでね、考えてみるとね、それもこれも真姫ちゃんのお陰だなって思ったの」

 「そうなんだ」

 「そうよ。絶対そう。あの子のお陰。真姫ちゃんの力」

 「あのね、母さん」

 「ん? 何?」

 「変だと思わないでね」

 「変? 何が?」

 「今から言うこと」

 「いいわよ。思わない。変だなんて思わない」


 それから、優弥はこう言った。

 優弥は、こう言ったんだ。


 真姫ちゃんは死んじゃった。死んじゃったんだけれど。

 でも、なんていうか、まだ死んでないんだ。

 真姫ちゃんはまだ死んでない。そういう気がするんだ。

 よくさ、肉体は死んでも魂は生きてるとか、そういうのあるじゃない?

 なんか、そういうかんじ?

 真姫ちゃんは確かに死んでしまって、お葬式も済んで、いなくなってしまった。

 もう真姫ちゃんはいない。

 だからつらい。

 真姫ちゃんがいなくなってしまったのはつらい。

 ものすごくつらい。

 つらいんだけれど。

 でも、なんというか、ほんとうにはつらくないんだ。

 これ、不思議なんだけれど。

 ほんとうにはつらくない。

 だって真姫ちゃんはいる。

 一緒にいる。

 ぼくと一緒にいる。

 一緒にいて、見てくれてる。

 ぼくのことを。

 見守ってくれてる。

 なんていうか、近くで。前よりももっと近くで。

 そういうふうに思えるんだよ。

 前よりももっと近く。前よりも距離が縮まって。前よりも接近して。

 真姫ちゃんはいなくなってない。

 真姫ちゃんは遠くへ行ってない。

 真姫ちゃんは一緒にいる。

 ぼくのすぐ傍にいる。

 だから。

 だからね。

 ぼくは思うんだ。

 ぼくは甲子園へ行く。

 真姫ちゃんと一緒に。

 真姫ちゃんとの約束を果たす。

 真姫ちゃんとの約束を果たして、真姫ちゃんを甲子園へ連れていく。

 真姫ちゃんと一緒に甲子園へ行く。

 そして、晴れて、真姫ちゃんと恋人になるんだ。

 そういうふうに思えたんだ。

 母さん。

 ぼく、おかしいかな?


 「ね、優ちゃん」

 「何?母さん」

 「私はあなたのこと、おかしいとは思わない」

 「よかった」

 「真姫ちゃんのこと、早く忘れなさい、とか、言わない」

 「よかった」

 「なんでだと思う?」

 「なんで?」

 「なんかね、すごくわかるの。わかる気がするの。あなたの言うこと。聞いていて、全然違和感が無いの。そうだ、そのとおりだ、そうに違いない、って思うの」

 「よかった」

 「さすが優ちゃんね」

 「そうかな」

 「そうよ。あなたはお父さんの息子。さすがね。さすが、要(かなめ)さんの息子」

 「お父さん。話題に出たの、久しぶり」

 「要さんは最高だったのよ」

 「ははは。知ってる」

 「最近話題に出なかったけどね」

 「はははは」

 「優ちゃん、お腹空いた?」

 「うん」

 「うどんでも食べよっか」

 「うん。いいね、うどん」

 「ね、ところで優ちゃん」

 「何?」

 「真姫ちゃんの写真無いの?」

 「ある。ことはあるけど」

 「二人で撮った写メ?」

 「そういうのが無いんだよ」

 「あら残念。なんで撮らなかったのよ。撮らせてもらえなかったの?」

 「だって。まだ恋人じゃなかったし」

 「そっか」

 「でも、真姫ちゃんの写真はあるよ」

 「お。いいじゃん。それ、プリントアウトしよ」

 「いいよ」

 「カラーでね。A4サイズくらいに引き延ばして」

 「うん」

 「それでね、額に入れるの。黒い縁じゃない額ね。明るい上品なやつ。それで、ここに掲げよう」

 お母さまがすっくと立ち上がって振り向き、ソファの後ろの壁をズバッと指差す。それは居間に来ると最初に目に入る、正面の壁。

 優弥が早速スマホの画面を立ち上げて、SNSの中にあったわたしの写メをお母さまに見せる。

 「こんなのどう?」

 「あー。いい。これ。いい。すごい。すごくいい。輝いてる。真姫ちゃん」

 スマホの中でわたしが微笑んでいる。リサとわたし。チア姿のわたし。夕日を浴びて笑っている。ピチピチのわたし。最高の笑顔のわたし。

 「コンビニでプリントアウトするね」

 「うん。そうして。早くね。思い立ったら吉日だから。うどん食べたら行ってらっしゃい。あとそれから、額もね。A4サイズの。取り急ぎ百円ショップで買ってきて。きっといいのあるから」

 「うん」

 「この写真はいいわねぇ。すばらしい。笑顔。元気づけられる。真姫ちゃん最高」

 「うん。そう思う」

 「今日から、我が家のご本尊」


 ユーレーは何もできない。

 この世の人や物や動物に対して、何もできないし、影響を与えることもない。

 ユーレーは天国へ行くしかない。

 天国へ行かないと、地縛霊になってしまう。

 だから天国へ行くしかない。

 天国へ行くには、犬バスに乗せてもらうしかない。

 だから犬バスを探せ。犬バスに乗れ。今すぐに。

 ミヤジさんはそう言った。

 先輩ユーレーのミヤジさん。

 わたしは、そのミヤジさんの言葉を思い出していた。

 そのミヤジさんの言葉は正しいのだろう。そう思った。

 わたしはユーレーだ。

 ユーレーにできることは何もない。

 この先このままユーレーで居続ければ、地縛霊になっていく。

 足に根が生え、濃縮した生ゴミのような臭気を発して、道端で嘔吐し続ける地縛霊。

 地縛霊になるか。

 天国へ行くか。

 ユーレーにはその二択しか、選択肢が無いのだ。

 だったら天国へ行く。天国へ行く道を選ぶ。

 天国へ行くために、一刻も早く犬バスを見つけて、乗せてもらう。

 それが正しい。

 それが正しいのは間違いない。

 間違いないのだ。

 そう思った。

 わたしはそう思った。

 でも。

 でも、わたしの中に、残っている台詞があった。

 それはミヤジさんの台詞だ。

 ミヤジさんはこう言ったのだ。

 「何年もやってるな。ユーレーを」

 何年もやっている?

 ユーレーを?

 何年もユーレーをやっていて、ミヤジさんはまだ地縛霊になっていないではないか。まだ足が地面にめり込んでいないし、まともに話ができるし、空にジャンプだってできるではないか。そして彼は、まだこれから犬バスを探して天国に行くつもりでいる。

 てことは。

 大丈夫なのではないか。しばらくは。

 ユーレーのままで。

 しばらく、猶予があるのではないか。

 地縛霊になる前に、ユーレーのままでいられる期間があるのではないか。

 地縛霊にならずに、ユーレーのままでいられる猶予。

 ユーレーのままでいて、天国へ行くまでの猶予期間。

 なるほど。

 てことは。

 わたしは。

 もしかして。

 しばらくはこのままでいいのではないか。

 しばらくはこのまま、ユーレーのままでいられるのではないか。

 しばらく、というのは、おそらく、何年か。

 だって、ミヤジさんは何年もユーレーをやっていると言ったのだ。

 だから、少なくとも、一年は。

 一年はこうして、ユーレーのままいられるのではないか。

 ということは。

 わたしは。

 優弥を見続けることができる。

 ここでこうして。

 優弥のすぐ傍で。

 優弥と同じ場所、同じ時間にいて。

 優弥を見守り続けることができる。

 優弥を応援し続けることができる。

 誰よりも近くで。

 誰よりも親密に。

 誰よりも詳しく。

 誰よりも熱心に。

 甲子園へ行く優弥を。

 甲子園のマウンドを踏む優弥を。

 わたしとの約束を果たす優弥を。

 わたしは見守る。

 わたしは励ます。

 わたしは応援する。

 優弥を。

 優弥。

 おおおお。

 そうか。

 おおおおお。

 それか。

 おおお。

 きた。

 熱いものがきた。

 わたしの心に。

 熱いものが。

 湧き上がってきた。

 込み上げてきた。

 人はこれを勇気というのだろう。

 勇気。

 そうだ。

 応援すること。

 それは本望だ。

 わたしにとって。

 わたしの本望。

 応援すること。

 大好きな人を応援すること。

 優弥を励ますこと。

 その本望を果たすことができる。

 チアとしてのわたし。

 チアとしてのわたしの本望を完遂することができる。

 一年あれば。

 それは幸せ。

 幸せではないか。

 よかった。

 ああ。

 よかった。


 「ご本尊」と、お母さまが言った。

 「我が家のご本尊」と。

 「今日から我が家のご本尊」と言ってくれたんだ。

 ご本尊、なんて。

 ご本尊になるなんて。

 勿論、到底わたしには無理なことだけれど。

 でもうれしかった。

 うれしかったんだ。

 そんなふうに言ってくれて。

 ご本尊だなんて。

 我が家のご本尊だなんて。

 もしも。

 もしもわたしにチャンスをくれるなら。

 もしも、わたしが地縛霊になる前に、ユーレーとして優弥やお母さまを見守るチャンスをくれるなら。

 わたしは精一杯、優弥やお母さまを応援したい。

 優弥やお母さまを元気にしたい。

 優弥やお母さまを励ましたい。

 優弥やお母さまを見守りたい。

 そう思った。

 ご本尊に一歩でも近づきたい。

 そう思った。

 そう思ったんだ。


 * * *


 はてさて。

 皆々様。

 吾輩、ケンケンでございますよ。

 いやはや。

 そんな訳で。

 真姫さんが松本家を訪れてくれたのです。

 お葬式の後に。

 ま、誰一人として真姫さんには気付いてませんでしたけれども。

 でも訪れてくれたんです。

 ありがたいですね。

 ありがたい。

 え? 吾輩は気付かなかったのか、って?

 スルドイ。

 スルドイご指摘ですな。

 さて、どうでしょう。

 それは、ヒ・ミ・ツwww


 それで。

 とにもかくにも、真姫さんは決意したのです。

 もう少しユーレーでいようと。

 ユーレーでいて、優弥さんを見守ろうと。

 それが真姫さんの本望であると。

 いやはや。

 幸せですねぇ。

 誰がって?

 優弥さんですよ。吾輩のご主人。

 こんなに思われて。

 こんなに慕われて。

 幸せ者です。ご主人。

 という訳で。

 優弥さんと真姫さんの二人暮らしが始まります。

 人間の優弥さんと、ユーレーの真姫さん。

 どうなりますことやら。

 はてさて。

 はてさて。


 * * *

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