第五章 肉球はポップコーンの匂いなの(ワン)

 * * *


 はてさて。

 そんなこんなで。

 二人は野球部とチア部に入っておりました。この二つは、尋常学園曙高校の二大部活として知られていました。二大がんばる部活。二大たいへんな部活。二大遅くまで練習する部活。大抵は夜の八時が部活終了の定時。そこから後片付けをして。野球部はグランド整備をして。それらは下級生の役割。だから一年生の真姫さんと優弥さんが学校から帰るのは、いつも八時半とか九時近くになっていました。

 学校から、いつもの路地を通って。

 その路地は、真姫さんの通学路でもあり、優弥さんの通学路でもあり。真姫さんが少しゆっくり歩いていると、後ろから優弥さんが追いつく。そんなパターンでした。いつの間にか、優弥さんは前を歩く真姫さんに追いつくのが楽しみになりました。また、真姫さんも、後ろから追いついてくれる優弥さんを心待ちにするようになりました。二人で歩くのはほんの数分間でしたが、その束の間、二人は二人だけの時間を過ごすことができたのです。

 夜、誰もいない小さな路地で、二人だけの帰り道。

 二人は、その数分間でいろんなお話をしました。野球部のお話、チア部のお話、中学の頃のお話、自分の住んでいる町のお話、好きな芸能人のお話、友達のお話、勉強のお話、それから、犬のお話も。犬って、吾輩ですね。笑。吾輩も結構話題になっていたようです。

 二人きりの数分間。

 夜の路地。

 真姫さんはおとなしい優弥さんに一生懸命話しかけて、励まそうとしていました。おとなしい人。本当は弱い人。その人に勇気を持ってもらおうとしていました。懸命でした。

 一方、優弥さんは、励まされていました。実を申しますと優弥さん、こんなに励まされたことが無かったのです。お母さん以外の女性から。こんなにかわいらしい娘さんから。ナチュラルに。構えずに。緊張せずに。日常会話の中で。

 そう、優弥さんは励まされました。大いに励まされました。真姫さんのお陰で。だからどんどんやる気が出て、どんどん野球に熱が入っていきました。

 真姫さん、人を励ます才能があったんですね。さすがチアです。


 はてさて。

 そんなこんなで。

 秋が過ぎ、冬になって。そしてお正月がやってきて、二月になりました。

 今日は二月の十四日。

 そう。バレンタインデー。

 高校生になって初めて迎える、バレンタインデー。

 はてさて。

 はてさて。


 * * *


 公園まで来てしまった。

 ゆっくりゆっくり歩いたのに。

 松本さんが来ない。追いついてこない。

 私は気を揉んでいた。その日はバレンタインデー。バレンタインデーの日の部活終了後。学校から出て、いつもの路地の帰り道。

 松本さんはきっと。

 今頃。

 複数の女子に囲まれているに違いない。

 わたしが学校から出る時、門の付近に何人かいた。女子たち。あれがそれか。出待ち女子か。松本さんの出待ち女子か。十人くらい。

 さっきまで吹きさらしていた木枯らしが、少しおさまってきた。

 静かな公園。

 冬の公園。

 冬の匂いは冷たく張り詰めたキーンとしたかんじなんだけど、後にちょっと甘さが残る。その甘さはハッカの匂いに似ている。色は青。氷河の色。そこに微かに草の匂いが混じっている。枯草の匂い。茶色。

 わたしは仕方なく、公園に入って花壇の横のベンチに座って待つことにした。

 寒かった。

 ニットの手袋をしていたのだけれど、冷気が指先を凍えさせたのを覚えている。

 そう。その頃のわたし。その頃のわたしたち。

 わたしたちはまだ、恋人になるという約束をしていなかった。だからまだわたしは優弥のことを優弥と呼べなかった。呼べる資格が無かった。優弥はまだ「松本さん」だった。名字でしか呼べなかった。「さん」付けでしか呼べなかった。あの頃。

 寒い。

 わたしは手に持っていたカバンを両手で抱きかかえるようにした。この中に赤色の包みがあって、その中にチョコレートがある。わたしはチョコレートを買った。勇気を出して買った。先週の日曜日。デパ地下で。バレンタインデーに自分でチョコを買うのは、小学校の頃仲良くしていた男の子に買ってあげた時以来だった。小さ目の長方形の箱に六つのチョコレートが並んでいる、なんとかいうフランス人のパティシエがプロデュースしたものを選んだ。予算より少し高目だった。

 これは義理チョコじゃない。本命のチョコレートだ。わたしにとって。だけど、それをわかって欲しいというのとはちょっと違う。本命の相手に本命であることを伝えて、わたしと付き合って欲しいと告白する、そういうのとはちょっと違うんだ。

 その時、わたしはそんなふうに思っていた。

 わたしは応援したい。松本さんを。応援している。松本さんを。少しでも力になれたら。勇気付けられたら。そう思っている。真摯にそう思っている。普段のわたしは松本さんとはクラスメートだ。でも、クラスの中ではほとんどお喋りしたことがない。お喋りするのは帰り道のちょっとの間だけ。むしろわたしが思いを遂げるのは、球場のスタンドだ。スタンドで思いを遂げる。マウンドにいる松本さんに向かって。マウンドで闘う松本さんに向かって。スタンドのチアの、後ろから二番目のポジションから。ポンポンを振り、キックで足を上げ、声援を送る。力いっぱい送る。それがわたし。その声援は松本さんに届いている。そう思っている。信じている。それで満足だ。それがチアの本懐だ。そう思う。

 だけど今日はバレンタイン。チョコをあげる日。女の子から男の子へ。思いを伝える日。わたしは決心をしてチョコを買いに行った。伝えるんだ。わたしの思い。松本さんへ。松本さんを応援している気持ち。この気持ち。真面目な気持ち。伝えるんだ。そう思った。

 あっ。

 生垣の向こう側に細面の白い顔が見えた。松本さんだ。早足で歩いて行く。通り過ぎようとしている。

 わたしは立ち上がった。ベンチから立ち上った。

 あっ。

 ドサドサドサ。

 松本さんがわたしに気付いた。それと同時に、ドサドサ音がした。何か落とした? 生垣の向こう。松本さんが屈む。何か拾っている。

 わたしは慌てて路地に出た。松本さんが何か拾っている。それは包み紙。青や黄色、銀色や金色のもある。色とりどりの包み紙。地面に散らばっている。それはチョコレート? 誰かからもらってきたチョコレート? チョコレートたち?

 「神田さん」

 屈んだ状態でわたしの方を見上げて、松本さんが言った。ばつの悪そうな顔。

 「ごめんなさい。驚かせちゃった?」

 わたしはそう言って、アスファルトの上に散らばったチョコレートたちを拾い集めるのを手伝った。

 「ごめん。落としちゃって」

 「こんなに沢山。すごい。いっぱいもらったんですね」

 「うん」

 「ファンの人がいっぱいいるんですね」

 「うん。なんか、いっぱいもらっちゃって」

 三つ、四つ、五つ。拾う。拾い集める。

 「すごいですね」

 「今日、バレンタインデーだったんだね」

 「そうですよ。今日はバレンタインデー」

 「そうか。だからか。だからこんなに」

 「毎年もらってるんじゃないんですか」

 そう言ったら、松本さんの手が止まった。

 「ううん」

 「もらってないんですか」

 「うん」

 「いつもはもっと少ない?」

 「うん」

 「今年は沢山?」

 「うん。ていうか」

 「ていうか?」

 「ぼく、チョコレートもらったりしたの、これが初めてなんだ」

 「うそ」

 「ほんと」

 「え、だって」

 「ぼく、もてないんだ」

 「もててるじゃないですか」

 「もててない」

 「もててます」

 チョコは全部で十三個あった。十三個。十三人の女子から、十三個のチョコレート。

 これを「もててる」と言わずして、何を「もててる」と言えばいいのか。

 松本さん、自覚無さ過ぎです。

 わたしは仕方なく、カバンの中からショッピングバックを取り出した。学校の帰りにスーパーで牛乳買ってきてとか頼まれることが頻繁にあって、その時に備えて毎日カバンの中に入れて持ち運んでいる、簡易ショッピングバック。

 「これ、貸してあげます。こんなに持って帰れないでしょ」

 「あ、ありがとう。助かります」

 それで、松本さんとわたしは、拾い上げた十三個のチョコレートをショッピングバックの中に入れた。

 「はい」

 入れ終わって、わたしは改めて十三個のチョコレートでいっぱいになったショッピングバックを松本さんに手渡した。

 「神田さん、ありがとう」

 助かりました、という顔をして、松本さんはそう言った。そうして、去ろうとする。そそくさと立ち去ろうとする。

 待って。

 ちょっと待って。

 わたし。

 わたしはいったい何をしているのか。

 何のためにここにいたのか。

 何のために寒い中、この路地の小さな公園のベンチに腰掛けていたのか。

 「松本さん」

 ようやく声が出た。勇気が必要だった。その勇気を絞り出した。

 わたしは。

 あなたに。

 チョコレートを渡さなければならない。

 もてもてのあなたに。

 既に十三人の女子に先を越されて、十四人目となるわたしのチョコレート。

 それは不憫だ。

 わたしのチョコレートが不憫だ。

 でも。

 わたしはチョコレートを渡す。

 わたしはあなたを応援している。

 心から応援している。

 そのことを伝える。

 今伝える。

 十三番目だろうが、十四番目だろうが、構わない。

 そう思った。

 「なに?」

 松本さんが立ち止まって、振り向いてくれた。

 「あの」

 わたしはカバンの中から取り出す。わたしのチョコレート。赤い包み紙。小さ目の包み紙。これです。これがわたし。わたしのチョコレート。わたしの本命。

 「ぼくに?」

 そう言った。それは演技とかそういうことじゃない。ほんとうに意外だ。そういう顔をして。

 「はい」

 松本さんは手に持っていた荷物、学校のカバンやらショッピングバックやら何やらを一旦全て地面に置いた。そうして、深々と頭を下げながら両手で赤い包み紙を受け取った。わたしの手から。表彰式で校長先生から賞状を受け取る小学生みたいに。

 「やった」

 その姿勢のまま、頭を下げ続けたまま、小さな声で松本さんが言った。

 「はい?」

 「やった」

 「え?」

 「やった」

 三回、松本さんは同じことを言った。「やった」と言った。

 そしてそのまま、赤い包みを両手で持ったまま、松本さんは歩き出した。帰ろうとした。

 おいおい。カバンやら何やら、忘れてるし。


 ああ。

 懐かしい。

 このシーン。

 わたしと優弥の、記念すべき最初のバレンタイン。


 わたしの思いは伝わった。

 というか、伝わり過ぎた。笑。

 「神田さん。好きです。ぼくと付き合ってください」

 今誰かから教わってきたばかりですというような、古風で典型的なテンプレートのその台詞。松本さんがそれを言ってくれたのは、その次の日。バレンタインデーの翌日の、夜の帰り道だった。なんか、棒読みだった。笑。慣れてないんだ。勿論わたしだって、そんなこと言われ慣れてない。はっきり言うが、初めてだ。だからなんというか、棒読みだったけれど、浮かれた。心臓の辺りがくすぐられたみたいにムズムズむずがゆくなった。こんなこと本当に言われるんだ、と思った。ドラマみたいだ、と思った。これはまるでドラマみたいじゃないか。ドラマの主役になったみたいじゃないか。

 うれしかった。

 すごくうれしかった。

 すごくすごくうれしかった。

 のだけれども。

 「待ってください」

 わたしの口から出た言葉。

 「え」

 え、という口の形のまま、わたしを見つめている松本さんの顔が固まってしまった。

 「ごめんなさい」

 「え」

 「付き合えない」

 「え。な、なんで」

 「わたしはチアです」

 「う、うん。知ってる」

 「だから付き合えない」

 「え、なんで? だって神田さん、昨日チョコくれたでしょう」

 「はい」

 「だからあの、ぼくもあの、好きだし、あの」

 「待ってください。だめ」

 「だめ?」

 「それ以上言っちゃだめ」

 「え、なんで」

 「わたし、チアだから。応援するのが役目だから」

 「うん。わかる。わかるよ。でも、彼女じゃだめなの?」

 「だめなんです。彼女になったらだめなんです。応援できなくなってしまう」

 「どうして」

 「冷静でいられなくなるから。お互いに」

 「そうなの? そうなのかな」

 「松本さん」

 「ん?」

 「松本さんが好きです」

 わたしはそう言った。改めてそう言った。その気持ちは本当だった。本当だったからこそ。

 「うん」

 「好きだからこそ、ちゃんと応援したいんです」

 「うん」

 「松本さん、約束してください。わたしと」

 「約束?」

 「はい。約束です」

 「約束」

 「はい。わたしを甲子園へ連れて行ってください。松本さんは甲子園へ行く。わたしはそれを応援する。それが終わったら」

 「終わったら?」

 「お願いします」

 わたしは言った。

 そこでようやく松本さんの顔が緩んだ。安堵の表情が見えた。

 「いいの?」

 「はい。終わったら、付き合ってください。わたしたちの役目が終わったら。恋人になってください」

 「やった」

 そこで松本さんはまた「やった」と言った。その場で「やった」を繰り返した。今度は五回、「やった」を繰り返した。

 「約束ですよ」

 「うん。わかったよ神田さん。約束。約束ね」


 「松本さん、お願いがあります」

 その一週間後。夜の帰り道の路地。

 後ろから追いついてきた松本さんを見上げて、わたしは言った。

 冬の路地は冷え切っていて、キーンと冷えた空気とカラカラに乾いたアスファルトの匂いがしていた。

 「なに?」

 意表を突かれた顔。わたしは松本さんのこの顔が好きだ。

 「わたしたち、将来、恋人になるんですよね?」

 「うん」

 「ひとつ、前借りしていいですか?」

 「前借り?」

 「はい。前借りです。ひとつだけ前借り」

 「いいよ」

 「わたしを名前で呼んでもらってもいいですか」

 「名前?」

 「はい」

 「名前って、真姫さん?」

 「そうです」

 「真姫さん」

 「はい。さん無しで」

 「真姫」

 言ってしまってから恥ずかしそうな顔をした。ものすごく恥ずかしそうな顔をした。かーっと赤くなった、というかんじで。

 優弥。

 この時の優弥の顔、忘れない。

 わたしを初めて名前で呼んでくれた、この時の優弥。

 忘れない。


 そう。この時から、二人は名前で呼び合うようになった。勿論、二人でいる時だけだけれど。

 それは下校の時。この路地を歩く束の間のひととき。わたしは真姫になり、松本さんは優弥になった。

 最初の頃ぎこちなくて、なんか恋愛ごっこというか、おままごとというか、ごっこ遊びで恋人役をやっているようなかんじだった。名前を呼ばれるたびに、呼び捨てで呼ばれるたびに、胸がこそばゆくてムズムズしてニヤニヤ笑ってしまった。わたしだけかと思って聞いてみたら、優弥はこう言った。

 「うん。すんごいくすぐったい。もう超しあわせ」

 この時の顔。

 うれしそうな顔。

 いつもより大きくへこんだ、優弥の笑くぼ。


 恋人の約束からわたしたちが前借りしたのは、互いにさん付け無しで名前で呼び合う、ということだけだった。デートもしたことが無ければ、勿論キスなんてしたことが無かった。下校する時たまたま路地で一緒になることがあったけれど、それはあくまで「たまたま」であって、デートではない。「たまたま」、週に二~三回、下校のタイミングが一緒になったというだけだ。繰り返すが、これはデートではない。通学だ。通学に過ぎない。これは通学であって、デートではないのだ。デートは恋人になってからするものであって、甲子園を目指すエースとそれを応援するチアという関係のわたしたちにとっては、ご法度の行動である。ご法度をしてはいけない。わたしはあくまでチアであって、松本優弥選手を応援する立場だ。松本優弥選手のものになるとかならないとか。そ、そんなことは。ぜ、絶対に、あってはならない…。

 ものになる。

 松本優弥の、ものになる。

 ものになる、って。

 そこまで考えて、わたしは赤面する。

 我ながら赤面する。

 すごい。

 ものになる、って。

 すごい。

 ものになっちゃうんだ。

 恋人になるってことは。

 彼女になるってことは。

 ものになっちゃうんだ。

 優弥のものになっちゃうんだ。

 わたしは。

 神田真姫は。

 ああああ。

 すごい。

 恥ずかしい。

 でもアガる。

 気持ちがすんごいアガる。

 なりたい。

 わたしは。

 優弥のものになりたい。

 一日も早く。

 あああ。

 わたしは。

 優弥のものになる。

 優弥のものに。

 それはなんというか、ウズウズするかんじを含んでいる。

 官能的なんだ。

 何か官能的。

 それが何なのか、どうしてなのか、よくわからない。

 でも官能的。

 アガる。

 気持ちがアガる。

 ウズウズする。

 身体がウズウズする。

 身体の奥の方が。

 お腹の底の方が。

 ウズウズ。

 わたしの妄想は止まらない。

 いつもこんなふうに妄想してしまう。ベッドの中で。

 優弥のものになっているわたし。その状態をいろいろ妄想してしまう。恋人になったら優弥のものになっちゃうんだ。どうなっちゃうんだろう。どうなっちゃうんだろう。ワクワクが止まらない。ウズウズが止まらない。その状態を優弥の顔と一緒に妄想するんだ。マウンドにいる時の優弥の顔。真剣そのものの細い目。細い顎から滴る汗。そして、いつもわたしといる時のホッコリした顔。安心した顔。ふにゃっとした表情。口の端を上げて笑う笑い顔。頬に小さくへこむ笑くぼ。優弥。愛おしい。愛おしい人。わたしたちは約束した。やがてわたしはこの人の恋人になる。わたしは優弥のものになる。そして優弥はわたしのものになる。

 おお。

 おおお。

 そうか。

 これは衝撃的。

 優弥はわたしのものになるのか。

 わたしのものになっちゃうのか。

 えええ。

 すごい。

 そりゃすごい。

 革命的にすごい。

 すごいことだ。

 すご過ぎだ。

 などなどなどなど。

 妄想が妄想を呼び、興奮し過ぎて夜も眠れないよどうしようどうしようと思っているうちにグーグー寝ちゃって、いつの間にか朝を迎えているわたしなのであった。


 そうして。

 それから数か月が経っていた。

 水仙の匂いが過ぎ、梅の匂いが過ぎ、桜が咲いて、散って行った。

 わたしは二年生になり、後輩たちを迎えた。

 その頃には、わたしは、キックで足が上がらない後輩たちを前に、柔軟の指導ができるまでになっていた。運動音痴のわたしでも、努力すればできるのだ。努力というのはすごい。すごいことだ。考えてみれば。

 後輩たちにチアの精神を教えなければならない。わたしが一年生の時に教わった、あの教えだ。今度はわたしが教える。そういう役回りになっていた。

 新緑の季節。

 随分長くなってきた日もとっぷりと暮れて、いつものようにチアの練習が終わって。

 一年生が片づけをやってくれるので、少しだけ早く帰れるようになって。

 学校を出て、路地を歩く。

 新緑の季節は若竹の匂いだ。色も若竹の色。若さ溢れる緑色。そんな匂いを胸いっぱい嗅いでいた。嗅いでいたら優弥が追い付いてきた。

 「何の匂い?」

 この頃になると、優弥と匂いの話ができるようになっていた。毎日わたしが言うからだけれど、優弥も話を合わせてくれる。それがうれしい。匂いって、大事。

 「新緑の匂い」

 「新緑かー」

 「若竹の匂いなんだよ。色は若竹色。わかる?」

 「うん。わかる。気がする」

 「気持ちいいね」

 「うん。気持ちいい」 

 「優弥」

 わたしは優弥に話しかける。この頃にはもうすっかり優弥は優弥だった。松本さんでも優弥さんでもなく、優弥だった。優弥になっていた。わたしと二人きりでいる時、優弥は優弥になる。素直で、でも意地っ張りで。子供みたいに甘えん坊で、でも大人みたいな冷静な面もあって。優弥。優弥が優弥になる。素の優弥になる。飾らない優弥になる。

 「何?」

 「あのね、肉球の匂いって嗅いだことある?」

 「肉球? ないよ。嗅いだことない」

 「えー。ほんとに? ないの?」

 「ないよ。臭いの?」

 「食べ物の匂いなんだよ」

 「食べ物? 何か食べ物踏んづけたんじゃね?」

 「あはは。そうじゃなくて」

 「食べ物? ドッグフードとか何かそういう?」

 「ブー。外れ」

 「いや何かな。臭そうだけどな」

 「意外なものなんだよ」

 「意外? 意外ねえ…」

 「ケンケンの肉球、嗅いだことないの?」

 「ないよそんなの。臭そうじゃん。絶対臭いって」

 「あははは」

 「ねえ、答えは? 何?」

 「ポップコーン」

 「えー。うそ。絶対うそ」

 「ほんとだよ」

 「うそだ」

 「ほんと。今夜ケンケンの肉球嗅いでみて」

 「いいけど。でも絶対うそ。ポップコーン? ないない」

 そんな会話をしながら公園の横を通った。そうしたら、顔に水滴を感じた。雨だ。

 確かにさっきから雨の匂いがしていた。雨の匂いは竹の子の色をしている。竹の子の茶色。土の匂いを含んでいる。それから、何か脂っぽい匂いも含んでいる。この匂いは、わたしは好きだ。

 今朝天気予報で雨が降るなんて言ったっけ。言ったかな。わたしは傘を持ってない。優弥は? 優弥が持ってる訳ないか。

 降ってきた。

 あっという間に本降りになった。

 優弥とわたしは走り出した。路地を、駅に向かって。

 そうして、いつも別れる場所に来た。優弥はここを右に曲がる。右に曲がると優弥の家がある。わたしはここを真っ直ぐ。真っ直ぐ行くと駅がある。

 「じゃ優弥、おやすみ」

 「うんおやすみ。あ、真姫」

 「何?」

 「うち寄ってけば」

 「え? いいよ」

 「傘貸すよ」

 「いいよ。すぐ駅だし」

 「電車降りてから、また歩かなくちゃじゃん」

 「そうだけど」

 「いいから」

 「だって」

 「すぐそこなんだ」

 優弥が走っていく。

 仕方なく、わたしも優弥の後を追った。


 シャッターが下りていた。その上に消えかかったペンキで「松本サイクル」と書いてある。今はもうやっていないけれど、昔自転車屋さんだったんだ。そんなふうに思った。そのシャッターの横の勝手口みたいなところに、優弥が入っていく。ここが優弥の家。

 「ただいま」

 優弥がドアを開ける。そこが玄関だった。小さな玄関。廊下の奥から金髪の獣。のっそりと現れる。ケンケン。

 「ただいま、ケンケン」

 出迎えに来たケンケンにまず挨拶をする優弥。

 ああ。優弥の家。わたしは優弥の家の玄関に入る。金属の匂いがしているのは、自転車屋さんだからか。それと、甘い匂い。ほんのりと甘い。卵焼きの匂いのような。色は黄色。暖かな黄色。これが優弥の家。優弥の家の匂い。

 「あら優ちゃんおかえりなさい」

 向こうから女性の声。

 「母さんただいま。雨降って来ちゃって」

 「あらあらたいへん」

 お母さんだ。優弥のお母さん。エプロンかけて。小柄で丸いお顔。優弥は大柄で細いお顔なので、もしかして優弥はお父さん似なのかも知れない。そんなことを思った。

 「あら? お連れ様?」

 そこでお母さんはわたしに気付く。優弥のでかい身体の陰に隠れていた、小さなわたしに。

 「うんそう。貸してあげられる傘ある?」

 「あらあらあら。濡れちゃったわね。ちょっと待ってて。タオル持ってくるから。優ちゃん、上がってもらってちょうだい」

 そう言って、また台所に戻って行った。

 「上がって」

 玄関で先に靴を脱いだ優弥がわたしに言った。

 「うん。いや。いい。ここでいい」

 「そう?」

 「うん」

 そうだ。ここでいい。わたしたちはまだ恋人じゃない。恋人未満。尋常学園曙高校のエースのお宅に、彼女でもない女が上がる訳にはいかない。あくまでわたしは応援団の一人。スター選手の応援団の一人に過ぎないのだから。

 「はいタオル」

 お母さんがタオルを渡してくれた。いい匂いがした。石鹸の匂い。色は白。純白。優弥には青のタオル。わたしにはピンク。

 「まあまあこの度は本当に」

 わたしがタオルを借りて頭を拭いていると、お母さんのその台詞が始まった。

 「まあまあこの度は、本当に、ようこそいらっしゃいました」

 「こんばんは。初めまして。神田と申します。松本さんとは…」

 「まあまあまあ、神田さん、本当にようこそ。ようこそいらっしゃいました」

 「いえあの、こちらこそあの」

 「いつも優弥がお世話になっております。いつもいつも本当に」

 「いえあの、それはこちらこそ、あの」

 「優弥からお話を伺っております」

 「お話?」

 「母さん」

 そこで優弥の突っ込みが入る。それを軽く手で制すると、お母さんの台詞が続く。

 「そうですのよ。優弥はいつも神田さんのお話を。もうね、いつも、眩しい眩しいって」

 「眩しい…」

 「そうですのよ。神田さんが眩しいって。スタンドにいる神田さんが。眩しくって仕方がないって」

 「ちょっと母さん」

 あんたは向こうに行ってなさい、というようなことをお母さんが言った。優弥の代わりにケンケンがのっそりとこっちに来て、お母さんとわたしの間で尻尾を振っている。

 「やっぱりねぇ。眩しいわ。光ってる」

 お母さんが目を細める。

 「いえいえいえいえ」

 いえいえいえいえ。そそ、そ、そんな。わ、わたしなんか。

 「優弥をよろしくお願いします」

 お母さんの顔が真剣になった。真剣になったと思ったら、そう言いながら頭を下げた。

 「え、え?」

 そしてお母さんが玄関先に立っているわたしに近づいてきて、小さな声で耳打ちする。

 「優弥はあの通り、グズでのろまで気弱でモテない子でしょう? ごめんなさい違うわね。おっとり型で優しくて奥手の子でしょう? よく言えば。よく言えばよ。だから今までね、彼女のかの字も無かったんですの。彼女のかの字も。それがあなた。いつの間にかあなた。こんなにかわいらしい彼女が」

 「い、いえあの、わたし、まだ彼女じゃ…」

 「聞いてますの聞いてますの聞いてますのよ。神田さんはまだ彼女じゃない。だけど約束をした。恋人になる約束をした。って」

 「あ、は、はい」

 「ですよね?」

 「え、ええ」

 「ああよかった。ああよかった。ああよかった」

 言いながら、お母さんは胸の前で十字架を切る仕草をした。お母さん、おもしろい。笑。

 「六年前に亭主が亡くなりましてね、ここまで女手一つで優弥を育てて参りました。そのせいか、もう本当に気が弱くて、おっとりした子になってしまって。こんなんで世の中渡って行けるのかしらと。母親としましてはね、もう心配で心配で」

 「いえあの、そんなことないです」

 「そんなことない?」

 「はい。そんなことないです」

 「そんなことないですかね」

 「はい。決してそんなことは」

 ガッ。

 そこでわたしは手を握られた。タオルを持っているわたしの手。右手と左手を同時に握られた。

 「神田さん。よろしくお願いします」

 「いえあの、お母さま、こちらこそ」

 お母さまの両手に、更に力がこもる。

 「あらまああらまああらまあ。お母さまだなんて。あらまああらまあ」

 両手に両手が重なって、上下に振られる。お母さん、嬉しいんだ。丸顔の頬に笑くぼができてる。ああ。これは優弥の笑くぼ。似てるんだ。お母さんに。

 「おおおーーーー」

 その雄叫びは廊下の向こうの方から聞こえてきた。優弥の声だった。優弥の雄叫びだった。

 「すんげえ」

 と、その雄叫びは続いた。

 奥を見ると優弥が廊下に転がっていた。金色の毛むくじゃらの獣と共に。もつれ合っている。

 「ほんとだ!肉球!!ほんとにポップコーンの匂いする!!!!」


 優弥。

 懐かしい。

 これが初めての優弥の家、旧松本自転車店への訪問だった。そこは自転車の匂いと卵焼きの匂いのする家だった。そこには丸顔のお母さんがいて、金髪で大きなゴールデン・レトリバーがいて。優弥のこれまでの歴史と生活がそこにあった。優弥はここで育って、そしてここで今、生活をしている。優弥の家。

 わたしはこの後何回かここを訪れる。ケンケンに会うため、というのが一番の理由だった。ケンケンはいつもこの家にいて、ノッソリとわたしを迎えてくれた。ポップコーンの匂いがする肉球で。これは会いたい。会わざるをえない。笑。

 そして丸顔のお母さまはいつもわたしを笑顔で迎えてくれた。クッキーやポテチだけでなく、リンゴや漬物やお茶や石鹸まで持たせてくれた。紙袋に入れて。もってきなさい、って。

 その極めつけは焼き芋だった。冬の夜の帰り道。松本家の玄関先から焼き芋の匂いが漂っているんだ。焼き芋の匂いは牡丹色。何か守られている感じ。優しい守り神。そしてワクワクする感じ。なにか楽しみが来そうな感じ。食べなくても、匂いだけで既に幸せな感じ。そんな楽しみの匂いが漂っている。優弥が玄関を開けると、待ってましたとばかりにのっそり現れるケンケンと、その後ろに丸顔のお母さま。その手に、紙袋。持ってきな、って。ホイって手渡される。熱っ、てなる。中に焼き芋。ホクホクの焼き芋。凍えてかじかんだ手にアツアツの焼き芋。わああ、ってなる。わたしはその有り難い守り神をいただいて、焼き芋の匂いに包まれて、冬の道を歩いて帰るんだ。

 

 ああ。

 優弥。

 優弥のおうち。


 * * *


 はてさて。

 吾輩ですよ。ポップコーンの匂いを肉球からほんのり漂わせる吾輩です。笑。

 優弥さんのおうち、吾輩のおうちが出てきました。旧松本サイクル店ですね。

 駅の近くの自転車屋さんだったんですが、お父さんが亡くなって、自転車屋さんはシャッターが閉まったままになりました。なので、今ここに暮らしているのは優弥さんとお母さん、そして吾輩の、二人と一匹です。

 ちなみに、お母さんの名前は優子さんといいます。優しい子と書いて優子さん。一人息子の優弥さんはお母さんっ子で、反抗期も無くて子供の頃からずっと仲が良く、友達みたいな母子でした。でも優弥さんが大きくなってきて、部活などで出掛ける機会が多くなり、優子さんも寂しくなってきた頃だったようです。そこに真姫さんです。真姫さんの登場。もともと優子さんは女の子が欲しかったということもあって、とても歓迎されました。とてもとても歓迎されました。吾輩から見ていても、実の子の優弥さん以上にかわいがっているのではないか?と思えるくらいの勢いでした。ま、真姫さん、かわいいですからね。ほんとうに。犬の吾輩から見ても。笑。クリっとして。目がパッチリで。小さなお顔にはち切れんばかりのピッチピチの元気。なので、真姫さんがいらっしゃる日は松本家をあげて大歓迎。真姫さんのためにお菓子や漬物や石鹸や焼き芋が用意され、それをもらった時の真姫さんのうれしそうなお顔が、もう最高の楽しみ!という状態になっておりました。もちろん吾輩は吾輩の肉球のとっておきの匂いを嗅がせてあげて、真姫さんの堪能しているご尊顔を間近で拝顔致しておりました次第でございますが。ムフフフフ。

 ま、しかし、優弥さんと真姫さんは、ここに至ってもまだ「恋人ではない」と言い張っておりました。なんとまあ、強情な。笑。犬の吾輩から見ましても、そのように思いますね。いやほんとうに。


 はてさて。

 そんなこんなで。

 時が過ぎてゆきました。

 二人は「恋人未満」。

 優弥さんが甲子園へ行き、真姫さんがそれを応援する。

 その日が来るまで、二人は「恋人未満」。

 時が過ぎ、優弥さんと真姫さんは高校二年生になり、夏の甲子園大会地方予選を迎えます。

 尋常学園曙高校は優勝候補としてシードの一角におりました。

 優弥さんは二年生エースとして登板し、真姫さんはそれをチア列の中段、前から六番目のポジションに立って応援をします。

 順当に勝ち進んだ四回戦。

 まさかの敗退。

 尋常学園曙高校。よい試合だったんですが、一方の優勝候補の高校に惜敗を喫してしまいます。

 そうして、また、二人の「恋人の約束」は延期となります。

 来年の甲子園まで延期。

 それはとても残念でした。二人はとてもがっかりしました。

 でも乗り越えよう。

 二人で乗り越えよう。

 そう誓って、練習に励みます。

 優弥さんは日々ピッチング練習を。

 真姫さんは優弥さんの練習が見えるスタンドで、毎日チアの練習を。

 がんばろう。

 お互いがんばろう。

 そう誓い合っていました。

 そう誓い合っていた二人でした。

 そうして、あの日が来ます。

 あの日。

 あの春の日。

 路地の切れ目で子犬が道に飛び出した、あの日。

 はてさて。


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