第四章 キンモクセイは甘い匂いで夕焼け色(ジーン)

 * * *


 はてさて。

 ケンケンでございますよ。

 『匂わせ女ユーレー奇譚』、第四章でございます。

 ユーレーになってしまった主役の真姫(まき)さん、というところまでが描かれた第三章でございましたが、第四章は真姫さんと恋人の契りを結ぶはずだった松本優弥(まつもとゆうや)さんのお話から始まります。吾輩のご主人でございますね。優弥さん。優弥さんは今でこそ尋常学園曙高校を背負って立つエース。左投げ左打ち、ポジションは投手で打順は五番の、まさにチームの大黒柱なのでございますが。身長は百八十五センチ体重七十キロのスラリとした長身で、面長のお顔は野球部なのに色白で、典型的な醤油顔。目は細いけど切れ長で睫毛が長く、鼻は高くて顎が小さく、面長なのに小顔という、典型的なモテタイプのイケメン男子高校生。なんでございますが。

 それがですね、実はですね、ここだけの話、昔はそうでもなかったのです。というお話です。


 * * *


 吾輩のご主人、松本優弥さんは尋常学園のある町に生まれました。町を横切る川の近くの、駅からほど近い住宅街にある自転車屋さん。そう。優弥さんのお宅はその昔、自転車屋さんだったのです。

 優弥さんは自転車店を営むお父さま松本要(まつもとかなめ)と専業主婦のお母さま松本優子(まつもとゆうこ)の間に、第一子として生まれ落ちました。

 その生い立ちは幸せに包まれておりました。生まれた時は二千五百グラムしかない小さ目の赤ちゃんでしたが、生まれた時から美形だったのです。

 初孫でなおかつ美形でしたので、周囲の関係者全員が優弥さんをかわいがりました。寄ってたかってかわいがりました。なので、優弥さんは甘えん坊に育ちました。甘えん坊でおっとり型。いつも皆の一番後ろにいて、えっと、えっと、って言ってるような子でした。えっと、って言ってる間に物事が決まっていて、それに従って遊んでいる。そんな子供でした。

 レストランでメニューを決めるのも、サンタにプレゼントを頼むのも、今日着ていく服を決めるのも、何部に入部するのか決めるのも、いつも一番遅いのです。遅いと言いますか、自分で決められないのです。

 中学の頃野球部に入るのだって、仲良しの男の子が決めたことでした。優弥さんはその仲良しの男の子の後に着き従っただけです。そしてその仲良しの子のバッティング相手として、ピッチャーになりました。もちろん補欠です。でも優弥さんはそういうことをあまり気にしない子供でした。補欠でも、仲の良い子の相手ができれば、それで幸せだったのです。そういう子供でした。

 おっとり型。超が付くほどの、おっとり型。

 そんなご主人、優弥さんでしたが、ある時転機が訪れます。それは、尋常学園曙高校野球部の名監督、石原清(いしはらきよし)先生との出会いでした。

 優弥さんが高校に入学した年、その年に、若き石原監督も曙高校に初めて赴任してきました。そうして、赴任したての石原監督は、仮入部で顔を出した入学したての優弥さんに、ピッチング練習をさせました。それで、その時に優弥さんの才能を見抜いたのです。優弥さんの左腕の「しなり方」が普通じゃないと思った、と、石原監督は後に当時を振り返っています。

 ちなみに、中学二年の頃まで165cmしかなかった優弥さんの身長は、高校一年の春には175cmとなり、その後高校二年の春には185cmに達しており、まだまだ成長中であります。よく背骨がバキバキ音を立てて成長するなんていう人がいますが、まさにそれでした。目を見張るような成長ぶり。そして、この身長の増加が優弥さんの左腕の長さを更に伸ばすことになり、更なる「しなり」を生んだという訳です。

 これが優弥さん持ち前の慎重さ(「おっとり型」を言い換えると「慎重さ」とも言えるのですね)と組み合わさって、慎重に外角低めのコーナーを突く左腕の剛速球投手となっていきました。

 優弥さんは一年生の夏の大会から尋常学園曙高校の実質のエースとなり、地方大会をなんと準決勝まで勝ち進むことができたのです。これは、前年までせいぜい三回戦止まりだった曙高校にとって、まさに快挙でありました。

 そして一年生の秋。春の選抜甲子園大会の代表を選ぶ秋の地方大会。合計七試合を、優弥さんの左腕が投げ抜きました。

 迎えた八試合目。決勝戦。

 あと一勝で甲子園の代表を勝ち取れるという、この試合。

 県営球場にはテレビ局が入り、初めての決勝戦進出に、尋常学園曙高校全校生徒及びその父兄、はたまたOBやOGが、大挙して球場のスタンドに詰めかけることと相なりました。

 大声援。

 その大声援が災いします。

 こんな大声援を経験したのは初めてでした。優弥さんにとって。

 大声援がどよめきとなって球場全体に木霊しています。

 こんなことは初めてでした。

 声が聞こえない。石原監督の。

 指示が聞こえない。石原監督の。

 優弥さんは緊張していました。

 とても緊張していました。

 とてもとても緊張していました。

 石原監督の指示が聞こえなかったら、投げようがないじゃないか。

 そうです。優弥さんは既に名実共に尋常学園曙高校のエースでした。エースでしたが。でもその実態は、石原先生の指示通りに投げていただけだったんです。石原先生の指示通りに動いていただけだったんです。

 優弥さんは「おっとり型」です。「超おっとり型」です。その「超おっとり型」の源泉は、臆病なメンタルなんです。この優弥さんの臆病なメンタルだけは、いかに石原名監督といえども、変えることができなかったんです。

 試合開始のサイレンが鳴ります。

 そのサイレンもよく聞き取れないくらいの歓声。大歓声。

 試合開始のサイレンと共に投げた初球。

 ボール。キャッチャーの構えから大きく外れる、ボール球。

 どうした優弥。三年生キャッチャーの声も、マウンドまで届きません。

 二球目。

 ど真ん中。ストライクを取りに行ってしまいました。高目。ど真ん中。

 カキーン。金属音。

 大きく空を見上げて。高く上がった打球はそのままバックスクリーンの前まで飛んでいきます。

 ホームラン。

 特大ホームラン。


 そのシーンをスタンドから見ている人がいました。

 青地に白のミニスカート。金色と赤色のポンポン。右足も左足も、キックは綺麗に頭の上まで真っ直ぐに天高くスカッと上がるようになっていました。

 その人はチアの最後列、十五人×二列縦隊の後ろから二番目にいました。チア選抜メンバー三十人中、一年生に割り当てられたわずか三人の枠を、ビリ二位で辛くも勝ち取った女性。それが神田真姫さんでした。この時はまだ吾輩のご主人、松本優弥さんと知り合いになっていない時の、神田真姫さんでした。

 でも実は、二人は曙高校一年二組で、クラスが一緒でした。ですが、お互いに住んでいる世界が違うと思っていました。この日まで。

 片や、真姫さんは、松本さんは長身でイケメンの曙高校野球部エースのスーパースターで曙高校全女子の人気者で、わたしなんかと全然違う世界に生息しており、わたしなんかと全然係わりあいがある訳がない。これまでだって全然無かったし、これからだって全然ある訳ない。そんなふうに思っていました。

 片や、優弥さんは、神田さんは明るくてかわいくてスタイルもよくて今を時めくチアリーダーで曙高校全男子の人気者で、俺みたいな雑魚男子なんかと係わってくれたことなんか無かったし、これからだって絶対係わってくれる筈がない。そんなふうに思っていました。


 マウンドには脂汗を流す優弥さんがいました。

 スタンドには必死にポンポンを振る真姫さんがいました。

 二人が出会います。

 明日。

 皆さんが知ってる、あの路地で。


 * * *


 はてさて。

 そんな訳で。

 お待たせしました。次の日です。

 高校野球秋の地方大会決勝戦の、次の日ですね。

 吾輩のご主人、尋常学園曙高校野球部の一年生エース、松本優弥さんが、手痛い敗戦を喫した、あの試合の次の日。

 結局、決勝戦はボロ負けでした。13対3。七回コールド。

 優弥さん、打たれに打たれて。

 まるで中学時代のバッティング練習用のピッチャーだった時代に逆戻りしてしまったかのように、ボロボロに打ち込まれて。

 満員のスタンドからの大歓声も届かず。と言いますか、その大歓声が仇になり。

 神田真姫さんの決死のチアリーディングも空しく。

 あと一勝だった選抜甲子園への出場権を、その寸前で逃してしまった訳であります。

 その、次の日。

 お話はあの路地から始まります。

 はてさて。


 * * *


 土曜日の朝。

 その日学校はお休みだった。けれどチア部の練習があって、わたしは学校へ向かっていた。

 いつもの路地。

 大通りから数えると、二本向こう側の路地。

 この町の中心には川が流れているのだけれど、その川から数えると、一本手前の路地。

 この路地を歩くのが、わたしは好きだった。

 中学時代にひどいいじめに遭って、そのせいで人の多い通りを歩くのが苦手というのもあるかも知れない。でもそれ以上に、排気ガスの匂いが苦手だ。特にトラックやバスなどの大型車両が撒き散らす排気ガスと粉塵。色は黒。真っ黒。真っ黒くろすけの色。大通りで排気ガスを浴びせられると、わたしは自分の鼻を塞がなければならない。そうしなければ耐えられない。匂いが鼻から身体に侵入して、肺の中から真っ黒くろすけになってしまう。どちらかの手が空いている時だったらよいけど、両方の手が塞がっている時なんか悲惨だ。そういう時は息を止める。息を止めて匂いを吸い込まないようにする。苦しい。苦しいけど仕方ない。そうしないとたぶん、わたしは生きていけない。

 それを思うと、路地はいい。車が通らないから。トラックもバスも通らないから。おまけに人もあまり通らない。人に会わなくてよい。人に会わなくてよいというのはかなりの利点だ。誰かいるとその人に気を遣わなくてはいけなくなる。その人に合わせてお喋りをしなくちゃいけなくなる。その点、路地はいい。人がいないので、思い切り匂いを嗅いで色を感じて、空想に耽ることができるから。

 今日もわたしは電車を降り、雑踏の匂いのする駅を抜ける。わたしはこの雑踏の匂いが嫌いではない。いろんな人の匂いが入り混じっている。色は錆色。錆びたトタンの色だ。

 そして駅前の道を渡って、路地に入る。瓦屋根の古い家や昔建てられた長屋みたいなアパート、槇の木で作られた囲いのある小さな庭、草履が無造作に脱いである勝手口、などなどが、軒を連ねている。

 ああ。

 ご飯の匂い。

 どこかからご飯の匂いがしてる。ご飯が炊ける匂い。古い電気釜でご飯が炊かれている。これだ。これがわたしの一番好きな匂い。色は白。真っ白。真っ白白。グツグツとご飯が炊かれている。お釜から上がっている蒸気が見えるよう。もう幸せ。一気に幸せ。ツヤツヤのご飯。ホカホカのご飯。グツグツと沸騰して、お水を吸い込んで、ツヤツヤでホカホカになる。ああ。幸せ。これが幸せ。あとそれから、トースターで食パンが焼ける匂いも好きなんだ。実は。でもやっぱりご飯には負ける。ご飯が炊ける匂いには。どんな匂いも敵わない。

 ああ。次に匂って来たのはジャガ芋。ジャガ芋が煮えてる。お味噌汁かな。白味噌の匂い。甘くて、ホクホクして。色は薄い茶色。薄ーい茶色なんだ。この匂いも大好き。あと、ここにえんどう豆とか入るともう最高だ。最高の匂いのハーモニーになる。

 ・・・。

 食べ物ばっかりだ。

 土曜日の朝のこの時間。ちょうど皆さん朝ご飯時なんだな。焼き魚の匂いもしてる。これはアジかな。アジの開き。お醤油かけて。ううん、美味しそう。

 あ。

 匂ってきた。

 キンモクセイ。

 この先に公園があるんだ。ブランコもトイレも無い、ベンチが置いてあるだけの小さな公園。そこにキンモクセイがある。キンモクセイだけじゃない。冬は水仙、春は梅、夏は百合、そして秋はキンモクセイ。すばらしい。パーフェクトだ。この公園の作者はわかっている。季節がどんな花の匂いで彩られるかを。もしもわたしが県知事とか市長とかだったら、この公園の作者にパーフェクト賞を差し上げ、副賞としてペアでハワイ旅行を贈呈したい。ハワイに行って、ぜひハワイの香りと謳われるプルメリアの「アロハの香り」を堪能してきてほしい。

 キンモクセイ。

 秋になると匂ってくるこの花の匂い。独特の匂い。甘酸っぱい匂い。この匂いは懐かしい匂いなんだ。優しい匂いなんだ。包み込んでくれる匂いなんだ。色は金色に近い橙色。夕焼けの色。夕焼けの縁側。秋の日の夕焼けの縁側。昔わたしはじいちゃんの家に住んでいて、そこにキンモクセイがあったんだ。小学校から帰ってきて、縁側で過ごす。じいちゃんがいて、居間で水戸黄門を見てる。涼しい風が吹いてきて、キンモクセイの匂いを運んでくる。真姫ちゃん、寒くないかい? おじいちゃんが言う。うん。大丈夫。寒くないよ。

 グウ。

 グウ、と言った。

 公園の小さな花壇。その向こう。

 グウ。

 鳴き声か何かか。

 そう思って向こうを見た。花壇の向こう側。

 おお。

 でか。

 でかい犬。

 白に近い金色の毛。ゴールデン・レトリバー。

 キンモクセイの匂いに気を取られていた。犬に気付かなかったなんて。わたしとしたことが。

 目が合った。こっちを見てる。じっと見てる。飼い主はどこへ行ったんだろう。ロープで手すりに繋がれている。

 あなたもキンモクセイの匂いが好きなの? キンモクセイの匂いを嗅ぎたいの?

 そう思った私は、両手の掌を合わせて空間を作って、そこにキンモクセイの花の匂いを閉じ込めて、犬の近くまで運んであげた。犬はのっそりと向きを変えて鼻先をこちらに向け、クンクンと鼻を鳴らした。でも無表情だった。表情一つ変えずに、ペロンと大きな舌を出して私の手の指を舐めた。そしてまた匂いを嗅いだ。私も負けじと匂いを嗅いだ。その犬の匂い。犬特有の獣の匂いと、何か甘い匂いがした。卵焼きの匂いのような。この子は家の中で飼われてるんだろうか。美味しそうな甘い匂いをさせている。わたし好きなんだ。この卵焼きの匂い。

 「ケンケン」

 呼ぶ声がして、ひょっこりと細っこい顔が現れた。生垣の向こうから。

 おお。

 おおお。

 知ってる。

 この人知ってる。

 この人。

 長身でスマートで色白で醤油顔の。

 我らが尋常学園曙高校の一年生エース。

 松本優弥さん、ではありませんか。

 「あ、すみません。こらケンケン、舐めちゃダメ」

 松本さんの声。

 優しい声。

 優しいトーン。

 ゆっくりした話し方。

 拍子抜けするくらいに。

 「あ、いえ、いいんです。私が舐めてもらってたんで。どちらかというと」

 「犬は、好きですか?」

 「え、はい、あの、とっても」

 「すみません。こいつ、不愛想で」

 「あの、松本さん、ですよね。あの、わたし、同じクラスの…」

 「神田さん、ですよね?」

 「そうです。そうそう。神田です。神田真姫です」

 「確か、チアでしたよね」

 「そうです。チアです。チアやってます。今日もチアの練習で、今から登校する所なんです」

 「そうなんですね」

 「松本さんの家は、この辺なんですか?」

 「うん。この近所」

 おお。

 そうなんだ。

 松本さんの家。この近所なんだ。学校から近いんだ。

 わたしは何だか妙に納得をした。だから松本さんはここにいたんだ。ここで犬の散歩をしていたんだ。なるほどなるほど。そうかそうか。

 松本さんの声は、優しい声。ゆっくりした、おとなしい話し方。

 こんなにおとなしい人だったんだ。と、その時わたしは思ったんだ。ちょっと拍子抜けするくらいに。

 それで。

 そこで会話が途切れてしまった。

 犬の、そう、ケンケンが、わたしの手を舐めるのをやめて花壇を見ている。

 じっとしている。おとなしい犬だ。

 「あの」

 言おうかどうしようか迷ったけれど、言うことにした。

 「あの。残念でした。昨日」

 昨日の試合。決勝戦。残念だった。ほんとうに。

 松本さんがそのわたしの言葉を聞いた。

 そしてうつむく。顔が曇る。

 「うん」

 なんとか、そう言った。

 絞り出すようにして、そう言った。

 ああ。

 残念だったんだ。ほんとうに。

 「あの、元気出してください」

 「うん」

 「あの、落ち込まないで、ください」

 「うん」

 「応援しています」

 「うん」

 「わたし、応援していますから」

 「うん」


 優弥。

 思い出す。

 あなたを思い出す。

 今でもはっきりと覚えている。

 優弥。

 これがわたしと優弥の、初めての会話。

 この時の優弥の、俯いた顔。

 「うん」しか言わなかった。

 「うん」しか言えなかった。

 優弥。

 わたし、背が低いから、はっきり見えたんだ。

 優弥の顔。

 うつむいた優弥の顔。

 下から見えたんだ。

 優弥。

 落ち込んでいた。

 苦しそうだった。

 青ざめていた。

 こんな顔、今まで見たことがなかった。

 優弥の、こんな顔。

 この人、弱い人だったんだ。

 そう思った。

 わたしは、いつもマウンドにいる優弥を見ていた。

 でも、マウンドにいる優弥は弱い人には見えなかった。

 マウンドにいる優弥は強い人に見えていた。

 尋常学園曙高校を背負って立つ優弥。

 颯爽とマウンドに立つ優弥。

 期待を背負ってマウンドに立つ優弥。

 強い優弥。

 でも、そうじゃなかった。

 強い人じゃなかった。

 ここにいるこの人は、強い人じゃない。

 弱い人。弱い人なんだ。

 それがわかった。

 今初めてわかった。

 この人、もしかして立ち直れないかもしれない。

 そんなふにも思った。

 心配した。心配だった。

 応援してあげなければ。この人を。

 だけどその時、わたしがこれ以上、優弥にしてあげられることはなかった。

 単なるクラスメートのわたしが。単なる知り合いのわたしが。

 だから。

 だからわたしは。

 チアに打ち込むことにした。

 これまでも、わたしはチアに打ち込んできた。

 でも、この日を境に、私の気持ちは切り替わった。

 わたしは応援する。

 尋常学園曙高校野球部。

 真剣に応援する。

 野球部。

 その中でも、優弥を。

 特別に応援する。

 松本優弥を。

 わたしが応援しなければ。

 わたしが応援してあげなければ。

 優弥を。

 松本優弥を。


 * * *


 はてさて。

 吾輩でございます。

 ケンケンでございます。

 読者の皆様、改めまして、こんにちは。

 ようやく吾輩、登場しましたね。

 よかったよかった。

 今後ともよろしくお願い致します。

 それから。

 ようやく二人が出会いましたね。

 主役の神田真姫さんと、吾輩のご主人、松本優弥さんですね。

 二人はこんなふうにして出会ったのです。

 よかったよかった。

 あ、ちなみに。

 優弥さん、ほんとにほんとに、超落ち込んでたんですよ。この時。

 初めてだったんですよ。優弥さんにとって。今回の経験。

 野球で負ける経験は今までもあったんです。でもそれは、そんなに重要な試合ではなかった。試合に勝っても負けても、そんなに重要な意味を持たなかった。曙高校にとっても、優弥さんにとっても。

 でも今回は違いました。背負っているものが違いました。昔は何も背負っていなかった。背負っていなかったし、期待もされていなかった。でも今回は、曙高校野球部に入部して石原清監督に大抜擢され、メキメキ実力を上げ、わずか半年でエースとなって迎えた、地方大会決勝戦。優弥さん、自分でも意識していませんでしたが、ものすごく大きな期待と、ものすごく大きな責任を背負ってしまっていたんです。一夜明けて次の朝がこの日です。背負っていたものの大きさをようやく実感し始めたのが、この日の朝だったんです。

 普段なら朝から練習に行くはずの土曜日。でも今日は練習が無い。ぽっかり空いた土曜日。なぜか。昨日負けたからですよ。打たれたからですよ。自分が打たれてチームが負けたからですよ。だから今日の練習は無し。悔しいとかそういう気持ちは、まだ無かったかも知れません。というのも、優弥さんは甲子園に絶対に行きたいと思っていた訳でもなくて、言ってみれば無欲だったんですよ。この日まで。無欲でやっていたら勝ち上がってきちゃったんですよ。これは多分、ひとえに石原清名監督の采配のお陰なんでしょう。でも、勝ち上がってきた。そうして、期待も高まってきた。もしかして? もしかして? 甲子園? 甲子園に行けるかも? って。皆の期待が高まった。新聞の地方欄にも大々的に掲載された。尋常学園曙高校、遂に甲子園初出場なるか!?って。関係者全員が期待した。そしてスタンドへ詰めかけた。皆で大歓声を送った。それで打たれた。ガンガン打たれた。結果は大負けです。コールド負けです。そのコトの大きさ。その実感が、ジワジワ迫って来た。そんな朝だったんです。

 実はこの時、優弥さんもあることを決意します。

 がんばろうと。

 乗り越えようと。

 背負おうと。

 曙高校野球部を、背負っていこうと。

 改めて決意したんです。

 それは真姫さんが作ったきっかけでした。

 この時、優弥さんは真姫さんの目が見れませんでした。顔を伏せて、下を向いていた。足元を見ていた。真姫さんに「応援しています」と、何度も言われた。言ってくれた。こんな自分に。こんな情けない自分に。真姫さんが。チア部の一年生で、輝いている真姫さん。その真姫さんが言ってくれたんです。これは大きかった。優弥さんにとって。優弥さんは勇気を貰ったんです。真姫さんから。真姫さんが優弥さんの背中を押してくれたんです。落ち込んでいた優弥さんを、この時、真姫さんが救ってくれたのでした。

 という訳で、真姫さんと優弥さん、こんなふうにして、お話をする間柄になりました。これまでもお互いに知り合いで、クラスメートでした。だけど、お互いに住んでいる世界が違うと思っていた二人です。近くて遠かった二人です。そんな二人が接近していきます。

 はてさて。

 はてさて。


 * * *

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