第三章 お線香の匂いは乳白色の空の雲(チーン)
お線香の匂い。
白檀っていうんだろうか。
この匂いは白色だ。乳白色。空に浮かぶ白い雲。その向こうからお釈迦様が手招きしてる。そんな白色。
わたしの家。
ここはわたしの家。
わたしは、わたしの家に帰って来た。
私の家からお線香の匂いがしてる。
白い色。乳白色の匂い。白檀の匂い。
玄関先には黒い縁取りの飾り付けがしてある。「神田家」の看板。
玄関の引き戸は開け放たれており、黒い革靴と黒いパンプスで軒先まで埋め尽くされていた。
「ただいま」って言おうとして、言えなかった。中から声が聞こえたからだ。
「お姉ちゃん」
泣いている。綾香か。妹の綾香か。
今帰って来たよ。ただいま。心配かけてごめん。
軒先で靴を脱いで玄関を上がったら、居間の外の廊下まで人が座布団を敷いて座っていた。黒い服。黒いネクタイ。喪服。
これは通夜というやつか。いわゆるひとつの。通夜。あらあらあら。もしかしてわたしの通夜? 間違って通夜開催しちゃった? ごめんごめん。今帰ったから。すんません。ご心配おかけしまして。申し訳なし。
居間からはみ出して廊下の最後列に座っているのはおばさんだった。わたしの母の妹。毎年毎年お年玉をくれる。優しいおばさん。わたしはそっと忍び足で後ろからそのおばさんに近づいた。驚くかな。驚くだろうな。でも、うれしい驚きだから。哀しい驚きじゃないから。だからきっと笑ってくれる。笑って許してくれる。「なーんだー」なんて言って。「なーんだー、真姫ちゃん、生きてたんだー」とか言って。
「お、ば、さん」
おばさんの耳元で囁いてみた。気付かない。おかしい。反応が無い。無反応。
「おばさん」
今度は声を掛けつつ肩を叩いてみた。
あっ。
あれ?
もう一度。おばさんの肩を叩く。
「おばさん!」
あ、あれ。
叩けない。肩を叩けない。叩けないというか、触れない。おばさんを触れない。通り抜けてしまうんだ。わたしの手。おばさんの身体を。まるでどこかの映画で見た透明人間みたいに。スカッと。音も無く。
そこでわたしは初めて居間の奥を見た。写真。笑ってる。わたしが笑ってる。黒い縁取り。その下に。お布団。寝ている。わたし。わたしが寝ている。お布団で寝ている。
知り合いでひしめき合っているわたしの家の一階の居間。知り合いがいっぱい座布団の上に正座してる。その間を縫って、わたしは前に向かった。いや、それが。もう、「縫う」必要がなかった。「避ける」必要がなかった。ぶつかってもぶつからない。ぶつかろうとしてもぶつかれない。わたしの足先が、わたしの脛が、わたしの膝が、正座している知り合いの喪服の背中を突き抜けていく。
あああ。
お母さん。お母さんが手拭いで顔を覆っている。お母さん。お母さん。わたし。わたし。真姫。真姫だよ。真姫。帰って来たよ。お母さん。真姫。帰って来たよ。
お父さん。お父さん。お父さんが泣いてる。涙も拭わずに。泣いてる。ボロボロ泣いてる。お父さん。真姫だよ。真姫。ただいま。帰って来たよ。お父さん。泣かないで。真姫。真姫だよ。
綾香。妹の綾香。声を出して泣いてる。綾香。ごめんね。綾香。お姉ちゃん、ここにいる。あなたと一緒。あなたと一緒にいるのに。
あああ。
お葬式はその二日後に行われた。
お葬式。
わたしのお葬式。
どうしようもなかった。
なんともならなかった。
わたしはここにいるのに。
わたしのお葬式が執り行われる。
どういうことなの? 理不尽この上ない。そう思った。
しかしわたしは、ただ単に指を咥えてこの理不尽を受け入れていたという訳ではない。この二日間、わたしはわたしなりに努力をしてみた。
昔双子のコメディアンがいて、幽体離脱~というギャグをやっていた。一人が身体の役で、同じ姿形のもう一人が幽体の役としてそこから離脱するという一発ギャグだ。わたしはそれをユーチューブで見たことがあった。まさにそんなかんじで、わたしはここにいて、わたしの身体はそこにあった。幽体離脱だ。だとしたらもしかして、戻れるんじゃないか。そう思って、やってみた。祭壇の前に寝かされて白い布が被せられている私の身体。そこに戻ればいいんだ。わたしはわたしの身体と同じところに寝転んでみた。でもそれだけだった。何も起こらなかった。ピッタリ合えばその瞬間に身体に戻ったりとかできるのでは?などなども考えて、やってみた。なにしろ暇だったから。話し相手もいないし。スマホもできないし。メッセもゲームもできないし。次から次へと訪れる弔問客を眺めているだけだ。だからやってみた。わたしはわたしの身体とピッタリ同じようにポーズを合わせて、そこに寝転んでみた。でも何も起こらない。わたしはわたしで、そこにある身体は身体だった。身体というのは遺体である。遺体は遺体のまま。わたしはわたしのまま。何も変わらない。変化しない。
昨日の夜は遂に親族だけになり、お父さんとお母さんと綾香だけになった。もう何も言葉もなかった。涙も枯れ果てたというかんじだった。余りに辛気臭かったので、わたしはわたしの死体の所に寝転がり、そこから上半身を起こして「幽体離脱~」と言ってみた。これがほんとの幽体離脱。はははは。神田真姫渾身のギャグ。笑った。ひとしきり笑った。笑ったのはわたしだけだった。
ジャスミンの匂いがしている。
色はコバルトブルー。明るい色。甘く誘われるような、ちょっと物憂げな匂い。
町の大きな催事場。お葬式はいつもここで行われる。催事場はジャスミンの花の匂いで満たされていた。
今日は土曜日なので、制服を着た学生の皆さんが列を作ってくれた。わたしはすることがなく、手伝うこともなかったので(というか、手伝いたくても手伝えなかったのですが)、式の冒頭からわたしの遺体の側にいた。遺体の側にいて、遺体に挨拶に来てくれる人たちを眺め、大抵は褒めてくれるので(遺体をけなす人はあまりいないのです)、「そんなことないですよう」とか「生前はおせわになりました」とか言っていた。
お葬式は神式で、神主に続いて親族、親族に続いて親戚、親戚に続いて知り合いが、何か葉っぱみたいなものを台の上にお供えするのだ。長い列に並んだ人々が次々に葉っぱをお供えしていって、それが一通り終わると、棺が出棺されることになった。遺体を焼き場に持って行くのだ。どうしようかと思ったが、どうしようもなかった。どうしようもないということは、この時点で既にわかっていた。わたしは既にこのわたしの遺体とは違う存在であり、この遺体がお葬式の末に焼き場で焼かれるだろうことはわかっていたが、だからどうしろと言われてもどうしようもないのだ。死ぬというのはこういうことか。こういうことなのか。
泣くに泣けない。
笑うに笑えない。
怒るに怒れない。
なすがまま。
そうなるしかない。
焼かれるしか。
私の遺体は。
焼き場で焼かれるしか。
「最後に、お花を供えてあげてください」
司会の人が言った。
参列してくれていた人は椅子から立ち上って、わたしの遺体の周りに来た。
「真姫ーーーー」
絶叫してくれたのは、リサだった。リサはチアリーディング部の同級生だ。尋常学園曙高校のチアリーディング部は、チアリーディングの大会に出場しない。純粋に応援のためだけにチアをやる。だから私たちチアリーディング部にとって晴れのひのき舞台は高校野球だ。高校野球の応援だ。その応援でチアのコスチュームを着てスタンドに立てるのは三十人。その中で一年生の枠は三人。リサとは一年生の時からこの枠を競って切磋琢磨した。なんだか、もう懐かしくなってる。不思議だ。
思えばこのわたしがチアだ。チアになったんだ。きっかけは入学式だった。入学式の時、校歌を歌って、校長先生が挨拶して、教育長だか市会議員だか誰かが挨拶をして、その後だった。舞台の上に現れた。チアのコスチューム。尋常学園曙高校。白地に青。鮮やかな赤と金色のポンポン。ズラっと並んだ。いきなりだった。
「アケボノ―――――ッ」
センターが絶叫した。二拍子の勇ましい曲が流れ出した。これが応援歌。曙高校第一応援歌。ザッ、ザッ、ザッ。一斉に音を立ててポンポンが踊った。右、左、右。上、下上。足が上がる。高く上がる。一斉に上がる。キックというやつだ。これがキックという技だ。チアの技。すごかった。キック。先輩たちのキック。気合だった。ものすごい気合。
「フレーーーッ、フレーーーッ、入学生ッ」
それは応援だった。新入生に対する応援。尋常学園曙高校の新入生に対する、チアリーディング部の先輩たちの。
すごい。
息を呑んだ。
これだ。
わたしは思った。
その日のうちに、わたしはチア部に行った。思い立ったら吉日。善は急げ。鉄は熱いうちに打て。わたしはわたしの中にそのチアの応援の気合の衝撃が残っているうちに、チア部の門を叩いた。勢いのあるうちに。怖気づかないうちに。弱気になる前に。
そして、そこにいたのがリサだった。リサの方が先だった。わたしより。さすが。さすがリサ。チア仲間であり、ライバル。私の一番の親友。
「真姫」
「真姫ちゃん」
「真姫」
そのリサの周りにチア部の人たちがいて、わたしの棺を囲んでくれている。同級生。先輩。それから後輩。皆仲間だった。よい仲間だった。息の合った仲間だった。本当は最後にチアを見せて欲しかった。曙高校のチアリーディングを。だけどそんなこと叶う筈もない。これはお葬式だ。お葬式にチアなんてない。お葬式に応援なんてない。死にゆく者に対して。応援なんて。何を応援するというのか。だから、応援の時には絶対に気合で負けない曙高校チア軍団も、今日はしんみりするしかない。わたしのために。みんなしんみり。残念。ごめんねみんな。ごめん。
リサたちの後ろ。他の高校の制服が見える。もちろん知った顔だ。知った顔の子たち。近所の中学校から近所の高校へ進学した子たち。中には、泣いている子もいる。印象は薄い。印象の濃い子は、やっぱり泣いていない。泣いてなんかいない。
わたしはいじめられていた。この子たちに。中学生の頃。結構ひどいいじめだった。よく登校拒否にならなかったものだと思う。我ながら。
上履きが無くなってるとかプールに捨てられてるとかそういうのは毎日だったので、わたしは上履きを下駄箱へ置かなかった。毎日袋へ入れて家へ持って帰っていた。修学旅行の班分けはわたしだけ一人班だった。卒業アルバムの集合写真にはわたしの写真が無い。帰宅部だったこともあって、部活動の写真も無い。あだ名は「ウザ子」「ウザ菌」「ウザ菌ウザ子」。
どうしてそうなってしまったのかわからない。でも何か原因があったのだろう。わたしをいじめていた主な子は女子だった。なんか、女子プロレスラーみたいな勢いと体力のある子で、その子がクラスの中心だった。男だったらジャイアンと呼ばれていたに違いない。どうしてこんな子が中学校のスクールカーストのトップを取れるのか。その子は巨体で長身でパワフルで、バレー部のエースアタッカーだった。バレー部を率いて押しも押されぬ地位を築いていた。バレー部軍団が中学を支配していた。それはまあ一言で言えば地方都市の中学校によくあるヤンキー支配であり、力による絶対的な支配だった。わたしは抗えなかった。わたしだけじゃない。みんな抗えなかった。それで、その子がわたしを嫌ったのだ。だから他の皆もわたしを嫌った。そういう構造だった。
例えば授業でわたしが発言したとする。そうすると皆でその女子プロレスラーの子の顔を見るのだ。周りの全員が、女子も男子も全員が、その子の顔を見る。そうして、その子の口が動く。「ウ・ザ・キ・ン」。口に出してはいない。声を出してはいない。発言してはいない。口が動くのだ。口だけが動くのだ。女子プロレスラーの口の動き。それを全員が見る。そしてその後、全員の口が動くのだ。わたし以外の全員の口が。「ウ・ザ・コ」。
それでもわたしは学校へ行った。中学へ通った。お母さんが毎朝無理矢理家からわたしを押し出したからだけれど。それでも行った。休まず行った。休まずに中学に通った。
ああ。思い出す。あの人たち。
女子プロレスラーの後ろにいた、あの人たち。
お葬式の参列者の中に女子プロレスラーはいなかった。最後にどんな顔するのか見てみたいとも思ったけれど、そんな必要はない。来なくて結構だ。だってこれはわたしのお葬式だ。わたしが主役。もうわたしはあの頃のわたしじゃない。「ウザ菌」でも「ウザ子」でもない。
そう。それで、わたしは高校へ進学するのだ。皆とは違う高校へ。町から離れた高校へ。遠い町にある私立高校へ。
尋常学園曙高校。
我が母校。
ここでわたしはリセットする。これまでのスクールカーストを。わたしは生まれ変わる。新しい自分に。
とにかくわたしは明るい自分になる。今までの自分とは違う。今までの自分は暗かった。どうしても暗くなっていた。友達もいなかったし、部活も帰宅部だったし、先輩もいなかったし、後輩もいなかったんだ。ひとりぼっちだったんだ。もともと明るくはなかった。もともと暗かったわたしだけど、もっと暗くなった。暗黒時代。黒歴史。それがわたしの中学時代。
わたしは変わる。
わたしを変える。
そう決意した尋常学園曙高校の初日。桜咲く入学式。
その初日に出会ったのがチアだったんだ。
チア・リーディング。
チアなんて。
チア・リーディングなんて。
中学までのわたしだったら、天と地がひっくり返ったとしたって、絶対にやらなかっただろう。絶対に。
だってあんなミニスカートだよ。
だってあんなに足上げるんだよ。
そんなの無理じゃん。
絶対無理じゃん。
そう思っていた。だからわたしは、入学式の後、そんなわたし自身をチア・リーディング部が練習している体育館へ連れていくのに、とても苦労した。わたしは体育館へ行こうとした。でもわたしの足が行きたくないと言っていた。足が動かないのだ。足がすくむのだ。勇気がないのだ。でもわたしは行かなければならない。体育館へ。チア部へ。わたしは。わたしを変えるんだ。絶対。変えるんだ。
とにかくわたしは連れてきた。わたしを。足の重いわたしを。体育館の前まで。体育館の扉の前まで。
体育館の匂いがしていた。古い体育館だったので、古い匂いだった。古い木の匂い。古いカビの匂い。その匂いは嫌いじゃない。おじいちゃんの家の匂いに似ているから。色は緑色。苔のような緑色。そこに下駄箱の体育館シューズの匂いが混じる。足の裏の匂い。汗の匂い。
「イチ・ニイ・サン」
「ニイ・ニイ・サン」
声がしてる。扉の向こうから。チアの声。チアの掛け声。
すごい。すごい声。すごい勢い。
どうしよう。やっぱ無理。わたしには無理。絶対無理。違う部活にしよう。違う部活を考えよう。そう思っていた。気後れしていた。怖気づいていた。
そこで扉が開いた。
それがわたしの人生の扉だった。
開けたのがリサだった。リサが先に来ていた。同級生のリサ。わたしより先にチアの練習を見に来ていた。
「新入生?」
「見学に来たの?」
「いらっしゃい」
「入っておいでよ」
「歓迎」
「おいで」
扉の奥の舞台の周りにいたチア部員たちが、わたしを見つけてくれた。そして口々にそう言ってくれた。大きな声だった。びっくりするくらいに。大きな声。
ああ。
この場面。
何度も何度も思い出す。
このシーン。
わたしが変わる。
わたしが変わっていく。
「チアリーダーは、選手や観客を応援し、励まし、元気付ける役です」
「真のチアリーダーは、そのために自らの努力を惜しまないのです」
「誰かを応援し元気付けるというのは、それだけで素敵なことです」
「がんばって、と声援を送るだけなら、誰にでもできます。真のチアリーダーは、自らが身体を鍛え、技術を磨き、そして、精神的にもチアリーダーであるべきです」
「人前で演技をするからには精一杯トレーニングをして、プロフェッショナルな演技をするのは当然のことです」
すごい。
これがチア精神。
尋常学園曙高校の、チア精神。
榊原先輩。
わたしが入部した時、榊原先輩が三年生で、部長だった。
これが榊原先輩の最初の言葉だ。
仮入部したジャージ姿のわたし。そのわたしとリサを含む数人(まだ入学して二日目だったので仮入部の人は数人しかいなかったんです)の新入部員は、その冒頭で榊原先輩から薫陶を受けた。薫陶(くんとう)。曙高校伝統のチア精神に関して教えを受けること。それはまさに薫陶を受けるということそのものであった。
わたしも、リサも、感銘を受けた。
だってこんなに潔い(いさぎよい)、こんなに魅力の溢れた、こんなに気合の入った決意を聞いたことがあるだろうか。
そう。これは決意だ。チアとしての。決意なんだ。
しかも美しい。
この決意を語る時の榊原先輩。
決然として。
美しい。
キラキラして。
美しい。
美しいんだ。
これ。
これだ。
これ以外に無い。
わたし。
わたしの生きる道。
体験入部初日。その榊原先輩の歴史的薫陶の三十分後。
「まず足を上げてみて」
そう言われた。榊原先輩直々に。
わたしは足を上げた。右足。足の付け根くらいまでしか上がらない。
「もっと」
榊原先輩が言う。
わたしは更にがんばって足を上げた。おヘソくらいまで上がった。それがせいぜいだった。
私の隣にはリサがいて、リサも足を上げていた。必死の形相。でもリサも足を上げるのは初めてだったらしく、わたしとそんなに変わらない高さだ。
「身体が固い。ストレッチ」
榊原先輩が指示する。
そこからだった。そこから、わたしのチア人生が始まった。
リズムに合わせて足を真っ直ぐ上に高く上げる動作。これをキックと言う。チアの基本動作。それができなければチアではない。それができるようにならなければチアになれない。そのためには、身体が柔らかくなければ。そのためにはストレッチだ。二年生の先輩がマンツーマンで付いてくれた。私たちは足を思い切り広げるだけ広げて、床に座る。先輩と同じ動作をする。でも無理。先輩すご過ぎ。ピンと膝が伸びて、ピッタリと足が全部床に着く。吸い付くみたいに。すごい。すご過ぎ。
「無理です」
わたしは言った。だってほんとに無理。足が痛い。これ以上無理。
「弱音吐かない」
間髪を入れずその先輩が言った。わたしは黙る。黙るしかない。
「弱音吐いちゃだめ。弱音はね、チアの敵。弱音吐いたら全部弱音になっちゃうの。弱音吐いたら乗り越えられなくなっちゃうの。乗り越えるのよ。不可能を可能にするの。それがチア。いい? 乗り越えるのはチアじゃない。選手。選手が試合で不可能を乗り越えるの。不可能を乗り越えて勝つの。それを応援するのがチア。チアが不可能を乗り越えなくて、選手が乗り越えられると思う? チアが弱音吐いてて、選手が勝てると思う?」
これが全文だ。全文来た。このまま来た。「無理です」と言った途端に。この全文が来た。先輩の口から降って来た。先輩の口から浴びせられた。
そうだ。わかる。その通りだ。試合の主役は選手で、選手が必死で不可能を可能にし、限界を超えるのだ。それを応援するのがチア。チアが先に弱音吐いてどうする。弱音を吐きたいのは選手だ。チアじゃない。チアが弱音を吐いてたら、選手が限界を超えられる訳がない。そうだ。その通りだ。これ。この考え方。これがチア精神。尋常学園曙高校チア・リーディング部の、チア精神。
もう弱音は吐かない。わたしは誓った。弱音は吐かない。絶対に。
わたしは生まれ変わる。わたしはもう昨日までのわたしじゃない。今日からのわたし。新しいわたし。
ああ。
懐かしい。
榊原先輩が、リサのすぐ後ろにいる。
来てくれたんだ。榊原先輩。先輩は東京の大学に進学した筈だ。だから東京から来てくれたんだ。髪を伸ばして薄化粧してる。耳にはピアス。女らしくなってる。ほんのりとお化粧の匂い。懐かしい匂いと混じって。榊原先輩。泣いてる。何も言わずに。涙を溢れさせている。
すみません。先輩。お忙しい中を。参列してくれて。わたし、死んじゃったんです。ほんとにすみません。ごめんなさい。わたしは詫びた。榊原先輩に。わたしを変えてくれた榊原先輩に。何度も詫びた。頭を下げた。でもそれは伝わらない。わたしの姿は見えない。現実の世界にいる人たちからは。
優弥。
松本優弥。
わたしは優弥の姿を探した。来てないのかと思った。でも違った。優弥はいた。一番後ろ。一番後ろの席に座っていた。優弥。長身の優弥が椅子の背もたれに隠れていた。うずくまるみたいに。背を丸めて。
わたしは優弥の側に行き、隣の席に座る。
優弥。お日さまの匂い。優弥の匂い。黄色。目玉焼きの色。でも今日は湿ってる。水の匂いと混じってる。お日さまの匂いと、水の匂い。両方。ああ。優弥。優弥が泣いてる。泣いてくれてる。グッと堪えようとして。背中を丸めて。下を向いて。でも堪え切れずに。泣いている。背中を振るわせて。泣いてる。涙がポロポロと。優弥の目から、優弥の頬っぺたから、零れ落ちている。水の匂い。しょっぱさを含んでる。涙の匂い。これが優弥の涙の匂いなんだ。
ごめんね。優弥。約束守れなかった。
約束した。優弥とわたし。約束したんだ。
優弥は甲子園へ行く。尋常学園曙高校野球部。優弥は甲子園へ行く。ピッチャーとして。地方大会を勝ち抜く。そして甲子園へ行く。チア部を、わたしを、甲子園へ連れていく。
わたしは優弥を応援する。甲子園で。スタンドで。応援する。チアで応援する。曙高校野球部を。優弥を。
優弥は日本一に挑む。限界を超える。勝つ。勝ち抜く。
わたしはチアをする。チアの限界を超える。チアの本懐を遂げる。
そして。
それが終わったら。
晴れて、それが終わったら。
恋人になる。
わたしたちは。
認め合う。
互いに。
結ばれる。
約束。
それが約束だった。
ごめん。
優弥。
ごめん。
わたしは手を重ねた。隣にいる優弥の手の上に。包み込むように重ねた。
でも実感がない。手の感触が伝わらない。手の暖かさが伝わらない。それは残念だ。ものすごく残念だ。これ以上ないくらい残念だ。
わたしは更に隣に座っている優弥を抱き締めた。思い切り抱き締めた。
でもだめだ。感じない。優弥を感じない。感触が伝わらない。優弥の体温が伝わってこない。
優弥。わたしは思った。気付いて。優弥。
抱き締めた。何度も。優弥。
でもだめだ。だめだった。気付かない。優弥は気付かない。
わたしだよ。優弥。わたし。真姫だよ。真姫。真姫がいるよ。真姫がここにいるよ。
何度も言った。何度も。耳元で。何度も何度も。大きな声で。
だめだ。優弥。だめ。だめだ。
ごめん。
ほんとごめん。
優弥。
ごめん。
* * *
はてさて。
どもども。
またもや吾輩、ケンケンでございます。犬でございますよ。この物語の語り部です。
第三章、いかがでしたか。まだ吾輩の出番はありませんでしたけれども。
主役の神田真姫(かんだまき)さんが交通事故で死んでしまいます。恋人の約束をした吾輩のご主人、松本優弥(まつもとゆうや)さんの目の前で。息絶えてしまう。永遠のお別れ。そうして真姫さんはバスに乗ります。手足と尻尾のあるバス。犬バスでございますね。この世とあの世、すなわち現世と天国を結ぶ片道切符しかない犬の姿をしたバス。人は亡くなると皆この犬バスであの世へ行くのです。天国へと。旅立って行くのです。でも真姫さん、そこから飛び降りてしまった。いや普通はね、普通の人でしたらね、そんなことしないんです。だけど真姫さんは飛び降りてしまった。犬バスの片道切符を放棄してしまった。天国への。だから真姫さんはもう天国へは行けない。この世に残ってしまった。だけど、肉体へは戻れない。どうやっても戻れない。肉体は既に死んでいる。遺体となってしまっている。だから戻れない。
こういう状態を、世の中広く一般に「ユーレー」と申します。
そうです。ユーレーになってしまったのです。真姫さん。
という訳で『匂わせ女ユーレー奇譚』、第三章はここまででございます。
はてさて。どうなりますことやら。
第四章をご期待ください。
* * *
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