第二章 犬バスは獣の匂いで灰色です(ワン)

 うとうとしていた。

 これは何の匂いだろう。

 銀色だ。ステンレスの匂い?

 それから、木の匂いも。木にニスが塗られている。そのニスの匂い。刺激的。

 獣の匂いもしてる。むせるような。灰色。毛皮の色。

 揺れてる。乗り物に乗っているんだろうか。

 そこで目が覚めた。

 私はバスに乗っている。バスに揺られている。大型のバス。

 辺りは暗い。窓の外を見た。夜景。街の明かりが遠くに流れていく。

 え?

 このバス、空飛んでる?

 そういえば斜め上を向いている。急坂を上がっていく時みたいに。

 私は窓から、バスの足元を覗いてみた。

 そこに道は無かった。

 そこに大地は無かった。

 はるか下の方に、街の光。

 えええええ。

 飛んでる。

 このバス。

 飛んでる。

 し、か、も。

 バ、バ、バ、バスの下に。何か動いてる。何かがワサワサ動いてる。

 こ、これは。

 足?

 犬の足?

 昔のアニメに猫のバスが出てきたけど、これって犬のバス!?

 そうか。それでか。それで獣の匂いがしてるんだ。灰色の。毛皮みたいな。

 って、いやいやいや。

 いやいやいやいや。

 ありえないから。

 夢だから。


 「よい景色ねえ」

 後ろから声がした。

 よい匂い。椿の花のような。上品な。懐かしい。赤色。

 振り返るとおばあさんだった。お婆さんが後ろの席に座っていた。

 「冥途の土産になるわねえ。今日がよいお天気でよかったわ」

 「め、冥途」

 「あらあなた、随分お若いのね。あなたも、今夜?」

 「今夜、って?」

 「今夜ご臨終?」

 「ご、ご臨終」

 「あら、ガイダンス受けてないの? 急だったのかしら」

 「ガイダンス?」

 「そうよ。ガイダンス。天国行きの」

 えええ。

 えええええ。

 「て、天国」

 「そうよ。天国。あの世とも言うわね。この世から旅立って、あの世へ行くの。そのためのバス」

 「ちょ、ちょっと待ってください。聞いてないです。わたし。そんなの聞いてないです」

 「あらそう? おかしいわね。皆聞いてると思うんだけれど」

 見回すと、他にも人が乗っている。二十人くらいだろうか。おじいさんやおばあさん、おじさんやおばさん。子供もいる。誰も取り乱している人はいない。おとなしく乗り合わせている。皆落ち着いて外を眺めたりしている。

 窓外は雲になった。犬バスが雲まで上昇したんだろうか。ぼーっと光ってる雲がある。そこに誰かがいる。誰かが顔を出している。

 「あら、あなた」

 後ろでおばあさんが言った。

 「お久しぶりねえ。あなた。あの頃のまんま。変わらない。あなた。お迎えに来てくれたの?」

 旦那さんなんだろうか。おばあさんの。お迎えに来た? って、天国から?

 見ているとわたしの目の前の雲も光り出した。そこに誰かが見えてくる。渋い匂い。煙草の匂いが混ざってる。熟して茶色がかった柿の橙色。これは。この匂いは。じいちゃんか。源蔵じいちゃんか。イガグリ頭。懐かしい。笑ってる。手招きしてる。

 これは。写メを撮らねば。そう思って制服のスカートのポケットに手を入れる。

 無い。

 スマホが無い。

 やばい。忘れてきちゃった。わたしのスマホ。

 まずい。スマホが無いと。超まずい。

 写メも撮れないし、優弥にメッセできない。優弥にメッセできないと、優弥を心配させてしまう。

 「降ります」

 降りるしかないではないか。

 「降ります。忘れ物したんです」

 大声で言ってみた。でも反応はない。ていうか、よくよく見ると運転席に運転手がいない。ていうか、運転席が無い。これではバスが止まる筈がないではないか。わたしは立ち上がった。止めてください。このバスを。降ります。わたしは降ります。

 「ダメよ。降りたりしたら。ダメ」

 後ろのおばあさんがわたしに言った。

 「バスを降りたら、天国に行けなくなってしまうわよ」

 天国?

 天国になんか行かない。

 優弥と連絡が取れないなら。

 天国になんか行かない。


 客席の最後尾まで行くと、そこに扉があった。大昔のバスみたいな、木でできた古めかしい観音開きの扉だった。わたしはそれを開けた。思い切り開けた。途端に、ブワッと外の風が吹き込んできた。まだ冬だった時の匂い。雪になる前の。湿り気を含んだ。冷気。鼻の奥に冷たい匂いが吹き込んだ。その向こうにデッキがあった。昔の機関車の貨車みたいに。そしてその向こうに、白くて長い尻尾が付いていた。犬の尻尾か。犬バスの。

 わたしはデッキまで出て、手すりにつかまった。客席からは誰も追ってこなかった。あの後ろの席のおばあさんも。声もかからない。皆天国にいる親族や友人との再会に忙しいのだろう。外はゴウゴウとすさまじい風が吹いており、下界は灰色の雲で覆われ、何も見えなかった。

 え。

 どうしよう。

 わたし。

 飛び降りるの?

 ここから?

 躊躇した。

 戸惑った。

 もしもしかるべき係員がこのバスに乗っていたとしたら、やめなさいと注意して止めるべきではないか。女子高生が飛び降りるかもしれないのだ。危険ではないか。

 ガコン。

 その時だった。

 大きな振動。

 バスが上下に揺れた。

 手が。

 わたしの手が。

 手すりから離れて。

 あっという間だった。

 落ちた。

 わたしは落ちた。

 バスから落ちた。

 尻尾が消えていく。

 雲の間に消えていく。

 犬バス。

 犬バスの尻尾。


 スカイダイビングというのは、やったことがない。テレビでしか見たことがない。だけど、まさにこれがスカイダイビングだった。

 雲を抜けると夜景が見えてきた。わたしは落ちていた。落ちていたのだが、怖くはなかった。不思議だ。セーラー服姿のまま。スカート姿のまま。落下。寒空を。確かに最初寒かった。でも、それも慣れてくる。慣れてくるとあんまし寒くない。寒さを感じない。不思議だ。

 そうして、しばらく落ちた。一直線に落ちた。下に向かって。夜景が大きくなっていった。眼下で。で、しばらく落ちていると、慣れてきた。落ちるのに。不思議だ。

 そして途中で気が付く。落ちている途中で。あら。わたしったら。飛べるんじゃん。わたし。空飛べるんじゃん。

 そこでイメージが変わる。これはスカイダイビングではない。飛んでるんだ。空を。天使みたいに。そう。わたしは空を飛んでいる。天使みたいに。スカイダイビングじゃない。天使。天使だ。天使の飛翔。


 * * *


 はてさて。

 吾輩、ケンケンであります。

 真姫さん、飛び降りてしまいました。犬バスを。

 よかったんでしょうか。

 いや、これはきっとよくなかったんだと思うんです。

 天使の飛翔とか本人言ってますけども。

 よくないと思います。

 何がよくないのか。

 はてさて。

 それはまた、第三章にて。


 * * *

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