第一章 梅の花しょっぱい匂いで紅色です(フワ)
学校から駅まで続く大通りを、二つ入った路地の細道。
わたしはこの路地を歩くのが好きだ。
少しだけ遠回りになるけれど、学校から駅まで、この路地を歩いて帰る。
古い住宅街。小さな庭。玄関先に並べられた鉢植えたち。
木造のアパート。誰かのおさがりの三輪車。
ブランコのある公園。パンジーが植えられたレンガ作りの花壇。
いろんな匂いがするんだ。
夕飯の焼き魚のホッケがこんがりと焼ける匂いは、焦げ茶色。
お味噌汁の中でクツクツと煮立っている茄子とあさぎの匂いは、紫色とあさぎ色。
さっきちょっと降った雨の匂いは、土の匂いに似てる。色は黄土色。そう、この色はタケノコの色。
いろんな匂いが楽しめる。
路地の匂い。
瓦屋根の古い木の家からは、昔の箪笥の匂いがしてる。箪笥の奥にしまった着物の匂い。着物の匂いは暗い緑色。モスグリーン。
匂いは色だ。
匂いが色になる。
わたしの鼻腔から入った匂いが、わたしの目の奥で色になる。
それが楽しい。
それが楽しくて、私は路地を歩く。
だって、大通りは埃と排気ガスの匂いがいっぱい。
埃は砂の色。灰色。
自動車の排気ガスは真っ黒。まっくろくろすけの、黒。
だからわたしは遠回りする。
この路地。
わたしはこの路地が好き。
あ。
それから、わたしがこの路地が好きな理由。
もう一つの理由。
来た。
後ろから。
優弥。
「よっ」
声を掛けられる前に、わたしは振り向く。
「なーんだ、わかっちゃった? 驚かそうと思ったのにな」
残念そうに優弥が言う。
松本優弥。
我が校、尋常学園曙高校の、野球部のエース。練習が終わったんだ。
「わからない訳ないじゃん」
わたしは優弥を見上げる。
長身の優弥。参ったなっていう顔をして、にっこりと笑う。頬に小さな笑くぼができる。
「だよな。真姫に近寄ったら匂いでわかっちゃうもんな」
そうだよ、優弥。匂いでわかっちゃう。
優弥の匂いはね、お日さまの匂いに似てるの。よく晴れた日に洗濯物を干すでしょう? よーく洗った洗濯物がお日さまに照らされて、ほかほかに乾くでしょう? 午後にそれを取り込むでしょう? その時の匂い。嗅いだことある? すっごくいい匂いなの。幸せの匂いなの。すっごくうれしいの。わかる?
あなたはね、そういう匂いがするの。そういう匂いがする人なの。
色はね、お日さまの色。澄んだ色。黄色。透き通った透明な黄色。そうね。気持ちのいい朝にフライパンの中でホクホクにできあがっている目玉焼きみたいな。幸せな黄色。
「チア、終わったの?」
優弥が聞く。
そう。わたしはチアリーディング部。今日はさっきまで体育館で練習してたの。
「うん。あのね、優弥」
「わかる」
「へ? 何が?」
「わかるよ。言わなくても」
「何がわかるの?」
「真姫が今から言うこと」
「え? 何?」
「匂いでしょう?」
「そうそうそう。当たり。何の匂いだと思う?」
「ズバリ言うよ」
「うん。言ってみて」
「梅!」
力強く言う優弥。
はははははは。残念。外れ。優弥の匂いのことを言おうと思ったのに。
でもいい。梅。梅ね。梅が匂ってるよね。確かに。梅の季節だもん。いい匂い。
わたしは瓦屋根の家の玄関先に小さな梅の木を発見して、白く咲いた花の近くで両方の手のひらを合わせて、そこに梅の匂いを閉じ込める。そして優弥の鼻先に持って行く。
ねえ優弥、これ嗅いでみて。
梅の匂い。
梅の匂いってさ、しょっぱい匂いなの。
わかる?
色はね、紅。鮮やかな紅色なの。
わかる?
優弥が微笑む。
唇の端が右上がりに曲がって、えくぼができる。
細い目が弧を描いて、更に細くなる。
透き通った黄色の微笑み。
目玉焼きの微笑み。
太陽の微笑み。
素敵。
大好き。
その時だった。
キャン。
路地を遮っている車道があって、その向こう側から鳴き声がした。
子犬?
向こう側に子犬がいた。どこから来たんだろう。
鼻がクンクンと動くのがわかった。道路の向こう側から、わたしの手のひらの匂いを嗅いだんだ。梅の匂い。鼻が動いたと思ったら飛び出していた。子犬が。道路の向こう側から。
こっちに来る。
危ない。車が来てる。横から車が来てる。
考えなかった。考える前に、わたしも飛び出していた。
救わなければ。子犬を。この子はわたしに向かって飛び出してきた。匂いを嗅ごうと思ったんだ。一目散に駆けてくる。わたしに向かって駆けてくる。止めなければ。車に轢かれてしまう。そう思った。
でも、間に合いそうもない。
あっと思う間もなく、走ってきた車が横から急接近した。
車がぶつかる。わたしにぶつかる。
ああ。だめだ。もう避けられない。
ぶつかるのは確実だった。
そこから、スローモーションのようになった。時間が止まったみたいだった。
優弥。
わたしは優弥のことを思った。
優弥。
大好きだ。優弥。
わたしたちはまだ恋人じゃない。でも、恋人になると誓った。誓ったんだ。
優弥は甲子園に行く。わたしはチアで優弥を応援する。スタンドから。
ああ。甲子園。甲子園の歓声が聴こえてくる。試合開始のサイレンが鳴る。優弥が第一球を投げる。相手のバッターがそれを見送る。ストライク。優弥。すごい。甲子園。優弥が連れて行ってくれる、甲子園。
そして甲子園が終わったら、優弥の野球が終わったら、わたしのチアが終わったら、わたしたちは恋人になる。そう誓った。優弥。わたしの優弥。信じてる。優弥は勝つ。絶対に勝ってくれる。
ドン。
ようやく衝撃がやってきた。
その白い車を運転しているお年寄りと目が合った。目を丸くしてる。驚いてる。
ああ。おじいさん。ごめんね。子犬が飛び出して来ちゃったの。どこの子かしら。わからない。でも、わたしの匂いに引き寄せられて来ちゃったの。この子犬に罪は無いの。ごめんなさい。
真っ白になった。
目の前が真っ白。
わたしは。
わたしの身体は。
どうなったんだろうか。
遠くに声が聴こえている。誰かが叫んでいる。救急車、と言っている。
どうなったのか。何があったのかわからない。
衝撃だった。
私は。
跳ね飛ばされたのか。車に。
不思議と痛くはなかった。
ただ衝撃だった。
すごい衝撃だった。
ワンちゃんはどうなったんだろう。
走り出てきたあの子犬。
あの子が救われたらいいんだけど。
ああ。
お日さまの匂いがする。
優弥。
優弥の匂いだ。
優弥が来てくれたんだ。
優弥が抱いてくれてるんだ。わたしを。
包まれる。
安心する。
ああ。
優弥。
お日さまの匂い。
優弥。
* * *
はてさて。
ハローハロー。
あーあーあー。
あー。
えと。
吾輩。
吾輩であります。
吾輩は犬であります。
名前があります。
名前を、ケンケンと申します。
いきなりの登場で面食らった読者の方もいらっしゃると思うのでありますが。
この度、大変僭越ではございますが。吾輩、この犬畜生のケンケンが、この物語の語り部を仰せつかりました。
先ほど出て参りました松本優弥という男子高校生。彼が吾輩のご主人であります。
吾輩は松本家の飼い犬。デカい犬。全長は尻尾まで入れると一メートル五十センチと少し。体重は三十五キロ少々。学名をカニス・ルパス・ファミリアリス。通名をゴールデン・レトリバーという、イギリス原産の白っぽい金髪の長い毛のデカい犬。年齢は当年とって十二歳。大型犬の十二歳というのは人間で言えばとうに百歳を越えております吾輩でございますが。まだまだ元気。毎日お散歩。ご主人とお散歩。それが吾輩、老犬のケンケンであります。
はてさて。
この物語の主役でございますが。
主役は女性でございまして、先ほど絶命を致しました女子高生、真姫さんであります。
神田真姫(かんだまき)。それが彼女の名前です。
その真姫さんでありますが。
つい先ほど、息絶えてしまいました。交通事故ですね。飛び出してきた子犬を救おうとして。吾輩のご主人、優弥さんの目の前で。打ち所が悪かったんでしょう。息絶えてしまいました。優弥さんに抱かれて。優弥さんの腕の中で。優弥さんの匂いを嗅ぎながら。優弥さんの匂いに包まれて。
ちなみに、この時路地から飛び出して来た子犬、白と黒と茶色のブチの雌のヨークシャー・テリアちゃんですが、その子犬は救われました。車がぶつかったのは真姫さんで、そのお陰で結果的に子犬は傷一つ追うことなく救われたのです。子犬を救いたかった真姫さんからしてみれば、よかったと安堵したことでありましょう。
そうして、真姫さんは息絶えたのです。息絶えたのは大好きな優弥さんの腕の中でした。二人はまだ恋人の関係にはありませんでした。でも、恋人を誓い合った仲でした。その未来の恋人、大好きな優弥さんの腕の中で息絶えるなんて、真姫さんはもしかするとある意味、幸せだったのかも知れませんね。うん。そうかも知れない。
それで、普通の物語や映画だったら、ここでエンドマークが出て、泣かせるバラード調の主題歌が流れてきて、終わりになるところですよね。涙々のエンドロール。感動のフィナーレ。たぶん。普通の物語だったら。
でもですね。
でも、この物語は違うんです。
ここからなんです。ここから始まるのが、この物語。
はてさて。どうなりますことやら。
それではおのおの方、開幕でございますよ。
『匂わせ女ユーレー奇譚』、始まり始まりであります。
* * *
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