第十話 霜の巨人
前回のあらすじ
出たな犯人!
えっ、違うの……?
「あんたが……
「私が? この私が? 愚かさも極まった愚問だな!」
戸惑ったような紙月の問いかけに、ウルカヌスは大きくかぶりを振った。
そしてわかりやすく説明してやると言わんばかりに、雪道を進みながら口を開いた。
「貴様ら木偶どもはまだわかっておらんようだな。単なる燃料の引火程度に考えている。情報素結晶体は常に微小な記述論的事象変異を引き起こしている、いわば事象の揺らぎそのものだ。形而下における物理構成体としての結晶構造そのものが揺らぎを最小限のものとしているが、それはわずかな働きかけによって事象変異を引き起こす不安定なものにすぎん。というよりもあえてそのような不安定な構造をとることで事象変異現象の発生を平易化しているとしか思えん。あの忌々しいクソ神性どもが。確かにこれの存在によって記述論的事象変異現象への理解とその操作技術の発展は著しいものであったが、それもこれも奴らの持つ異常な現実尺度に我らの現実尺度を馴致させる布石であったと思うとはなはだ不快だ。現実性濃度の希釈を免れたことは幸いだったが、引き換えに有象無象共の現実尺度と肩を並べる羽目になるとは全く忌々しい。何の話だったか。そうそう情報素結晶体はつまり安全なものでも安定的なものでもないということだ。もちろん入念な対策を講じた上であれば何ら問題なく利用できる資源に過ぎないが、この村の連中はその知識も経験もなくただただ無為に無作為に」
「長い長い長い、無駄に長い」
「なんだと貴様、フルヤリ・シヅキ、貴様のそういうところだぞ。講義で少しわからないところがあるとすぐにそういう態度をとる生徒もいるが、」
「あー、っと、すみません。『先生』。いまは現場が動いていますので、現場レベルでわかる範囲まで落としてもらえると助かります」
「フムン? うむ。そっちの大鎧はまだ礼儀がわかっているようだな。よろしい。講義はまた次回にしてやろう」
紙月の茶化しにウルカヌスはさらに盛り上がりそうになったが、学校の先生みたいだな、と感じた未来がとっさに軌道修正を試みると、一応メートルを下げてくれた。
一行はぞろぞろとなんだか奇妙な集団となって山をのぼりながら、全くの異文化から来た男の講義に耳を傾けた。
未来はわからないところはわからないなりに何かしら重要な話であることを感じていたし、紙月もまぜっかえしはするが一応内容自体はちゃんと聞いている。武僧ウールソは意味深にひげをしごいたが、おそらく内容が理解できていないのではないかと思われた。
「情報素結晶体……ここでは貴様らの言う
ウルカヌスはかぶりを振り、三度仕切りなおした。
「単純に『冷たい空気』を出しているのではなく、『冷たい』『寒い』という情報を発しているのだよ、これは。プログラム・コード……を貴様らは失伝しているのだったな。そうだな、発注書のようなものだ。『寒さ』をこれくらいくれと書き込まれた発注書なのだ。刺激を加えることは、商店に発注することだ」
例えばここに一〇の『寒さ』の情報が書き込まれた
これは放置しておくとわずかに『寒さ』を漏らすが、あまりにも微々たるものなので無視してもいい。
ここに魔力などの刺激を加えると、
これがウルカヌスの言う記述論的事象変異現象であり、
さて、一つ一つは一〇とか二〇とかの『寒さ』しか持っていない
この状態で一つが励起状態、つまり『寒さ』の情報を放出し始めると、すぐ隣の
そうしてすべての
「するとどうなる?」
「あー、すごく寒くなるんじゃないか? それもずっと」
「基本はそうだが、及第点はやれんな」
「点が辛いなおい」
「うーん……情報が多すぎて、『寒さ』がラグる?」
「ラグる? ……ああ、
「世界が『バグる』……てこと?」
未来が思い出していたのは、《エンズビル・オンライン》で盛大なラグが発生して、あらゆる動作処理ががっくがくになったときのことだった。「エフェクト切っとけよ」と言った後に紙月が大量の魔法を同時に発動させ始めたのだ。
圧倒的な物量攻撃も恐ろしいけれど、敵も味方もプレイヤー・キャラクターだけでなくパソコン本体に盛大にダメージが入るという恐ろしい攻撃だった。ギルド戦で動けなくなった敵プレイヤーに罵詈雑言を吐かれたのが懐かしい。その罵詈雑言さえラグりにラグっていた。
ギルド《
さすがに回数を経るごとに運営も改善を続けていって、最後のほうなどはほとんどラグなど起きないレベルになっていたが、それでも最盛期などは、「やつらにチゲ鍋を食わせてやろうぜ」が合言葉になっていたほどだ。ギルド戦とかよりサーバー落とすのが半分目的化していたから、よくBANされなかったものだ。
そんな実体験から、
ラグるのではなく、世界のバグ。
ウルカヌスは言った。おそらく計算上の数字と現実の物理法則がかみ合わなくなるのだと。
「単純に一つの
「あ、絶対零度ってやつか?」
「そうだ。原子が持つエネルギーゼロの状態。実際には零点振動があるが……まあざっくりいえばすべてが静止する状態だ。これ以上は冷えることができない。だが
「……ごめんなさい、ちょっとよくわかんないです」
「そうだ。わからないのだ。五点やろう」
「なに言ってんだ?」
「フルヤリ・シヅキ、十点減点」
「おいィ!?」
「わからんものはわからんのだ。物理的に考えても、量子力学的に考えても、そもそもそれ以下の温度などはない。それ以上『寒く』はならない。しかし過去の記述論的事象変異現象の研究では、その肝心かなめの物理法則自体が書き換えられる可能性が示唆されている」
そもそもが、
絶対零度は摂氏マイナス二七三・一五度であるという基準さえも、魔法の力によって書き換えられてしまうかもしれない。そしてそうなってしまった時のことは、既存の物理学からは導き出すことができないのだ。
つまり、端的に言って、何が起こるのかわからないのである。
「あるいは絶対零度を突き抜けたマイナスの温度……負温度ではないぞ……のような概念が生まれるかもしれんし、数字ではなく『寒さ』の概念の上位となる『概念』が生まれるかもしれん。最悪、未知の神性が生れ落ちてもおかしくはないのだ」
「そんなわけのわからねえことになったらどうしようもなくなるし……そうならなくったって、最低でも絶対零度のバカげた空間がここら一帯を包んじまうってのか?」
「推定貯蔵量からの試算ではな」
簡易的な計器しかないので現実性濃度勾配からざっくりと判断したものであって、はっきりとした計算ができたわけではないが、それでも予想される最低限度の被害でさえ、この村は滅んでしまうだろうとウルカヌスは言った。
それは錬三の予想ややんごとなきお方とやらの恐れよりも、はるかに深刻な被害だ。
「そんな非道が許されるわけがなかろう!」
「んんん……! もっともだが、もっともなんだが、それあんたが言うか!?」
「事態の深刻さを理解している私だからこそいうのだ。こんな辺鄙な村でそんな異常現象が起こったところで、苦しむのは無辜の民だけではないか。帝国の流通や経済に影響を与えるにしても、これでは被害が大きすぎるし、どうやって回復しようというのだ。貴様ら木偶は罪人の子孫だが、救いを持たぬ哀れな子羊でもある」
「なんか腹立つ物言いだな」
紙月は反射的にそう言い返しつつも、しかしウルカヌスの理性的な性質を理解し始めていた。
会うたびに喧嘩腰になるので腰を据えて話をしたことはなかったが、この男は物事を考えて進める人種なのだ。聖王国のテロリストが暗躍しているという話は聞き、その被害も知ったつもりになっていたが、ウルカヌスが実際にかかわっていたと確認が取れているのは海賊騒ぎだけで、あとは具体的に被害が出たというわけでもない。
「通商破壊は軍の肝いりであった。西大陸との交易を分断して疲弊させ、帝都の注意を南部に集中させて本国への警戒を緩めさせる、そういうな。私が試験運用を成功させていれば潜水艦は増産され、長期的な経済攻撃、そしてやがては海と陸からの挟撃的侵攻という絵図だったのだが……」
「俺たちに阻止されちまったってわけだ」
「忌々しいことにな。……だが、あれでさえも、いたずらに市民を殺して回るのが目的ではなかった。武装の有無や航路を確認し、警告砲撃で軽くひと当てして撤退を促しもした。だが……」
「だが?」
「なぜか知らんが連中やたらと好戦的でな……奴らにとっては正体不明の海の怪物だぞ? なぜ
ウルカヌスは気落ちしたように「戦闘は専門ではないのだ」などとぼやいたが、案外それが真相だったのかもしれない。
恐るべき技術と戦闘力を誇る潜水艦だったが、それを操るのはど素人であり、戦術も戦略もないまま当初の任務を達成するべく奮闘し、予想外の事態には対処しきれず……。
双方にとって、なんとも言えず報われない話である。
「とにかく、私は無為に被害を広げたいわけではない。それが必要であるならば容赦はせんが、戦略的にも戦術的にもこんなことに何の意味もないはずだ。聖王国の悲願は国土回復であり、恨みつらみからの虐殺などではない」
きっぱりと断言するその声音に、一切の後ろめたさは感じられなかった。
なにかしら狂信的な響きもないように思えた。ただ知性的で、理性的な、極めて常識人めいた
紙月はなんだか思っていたようなのとは違ったとでも言いたげな、なんとも気まずげな顔で未来を見上げた。未来のほうでも、兜で顔は見えないが、似たような気持ちで紙月を見下ろす。
ウルカヌスは噓を言っていない。二人はそう判断した。
そして、だからこそ困った。
あまり聞こえのいい話ではないが、すでに前科のあるウルカヌスが犯人であるというのが一番わかりやすく、そして筋の通った話ではあるのだ。何ならあとくされもない。
というか理性的な常識人に見えるが、前提としてそもそも二国間は戦争状態にあり、この男は敵国の破壊工作員であり、その理性も知性も戦時体制下でのそれであり、今後も帝国に仇なす気が大いにあるような危険要素なのである。
紙月たちとしても気持ちよく戦闘に入って、コテンパンにして追い払って、はいこれで解決、というのが、理想的な結末ではあった。
だがそうはならなかった。
そうはならなかったのである。
「う、うーん……でも、あなたが犯人でないなら、誰が、」
『俺だよ』
では誰が、に対する答えは、次の瞬間に
一行の進む先を遮るように、雪の上に重々しい音を響かせて着地したものがあった。
どおん、と、まるで目の前で爆発が起きたような轟音と衝撃だった。
それは艶のない黒い金属で構成されていた。
のっぺりとした色味はそれの輪郭をわかりづらくしていたが、それでも全体的には角ばっている。
傾斜のついた箱型の胴体から、一対の太く重厚な二本脚が伸びて全体を支えていた。
胴体の側面からは幾分細く見える脚、というよりは、おそらく構造的に腕に当たる部位が二対四本伸びて、上体を起こすように雪に突き立っている。
後背には背嚢めいて装甲コンテナを背負っており、そこには古の時代にこの地を追いやられた聖王国の紋章が確かに見て取れる。
うずくまる異形の巨人にも見えるし、身構えた六肢の獣のようにも見える。
それがなんであるか、紙月たちには咄嗟にはわからなかった。
ベテランの冒険屋であるウールソにしても、判断しかねた。
だが、それでも彼らの記憶にはそれと類似するものがあった。
それは巨大な機械人形だった。
古代聖王国時代の遺跡にしばしば見受けられる、鋼鉄の守り人だった。
二千年のはるかな時代に与えられた命令を、いまなお忠実に守り続ける番人だった。
それは古き伝説だった──
──否。
似てはいる。
同じ枠組みには入る。
しかしそれは、二千年前に失われた遺失技術を、正当に受け継いできた者たちが、順当に磨き上げ続けてきた一つの結果だった。
血統は同じかもしれない。系統は連なるかもしれない。
しかし、その血は、技は、さらに濃く、強く、練り上げられていた。
それはいかなる命も許されない極寒の極北において、それでもなお抗い続けようとした一つの到達点であった。
金属さえも凍る外気に耐える耐寒メタクロモリ鋼の特殊複合装甲板。
超長期間の無補給単独行動を実現する記述論的高効率有機転換炉。
常に吹雪にさらされる中で全周を認識する複合サイマティック・ソナー群。
それら高度な技術到達点によって構成された、極限寒冷地仕様の多脚武装
略称を
そのMAEVの巨大な頭部に亀裂が入り、割れた。
いや、内側から複雑で分厚い構造の昇降ハッチが開かれ、一人の男が顔を出したのだ。
背はあまり高くない。だが骨は太く、肉は厚い。
見下ろす目には温度というものが感じられず、表情にはわずかの揺らぎもない。
武骨で、寡黙で、娘に
「テロリストの正体は俺だ」
「アンドレオさん!?」
「ど、どういうこと!?」
奇妙に近未来的なパイロット・スーツに身を包んだアンドレオは、ウルカヌスを、そして紙月たちを順に見下ろして、一つ頷いた。
「俺は聖王国の工作員だ。その男よりもはるか以前から、この地に潜み機会をうかがっていた、というわけだ」
「そんな! だって、娘さん、ポルティーニョさんだって!」
「あれはよく役立ってくれた。あれの母親ともども、俺が村に馴染むにはちょうどよかった」
あまりにも冷たく感情の薄い返答に、未来は絶句した。
確かに寡黙で愛想のない男だったが、実の娘への情は確かなものだと思っていたのだ。
「おいおい、勘弁してくれ……あの
「そうか。俺にはできた娘だ。おかげで俺も楽ができた」
娘が語る父の姿は、ただの幻想だったのか。娘の情が、目を曇らせていたのか。
村のものも、アンドレオを頼り、慕っていた。人付き合いの悪さは認められながらも、それを許されていた。その能力だけでなく、村の一員として信頼されていたからこそ。
それをすべて裏切って、男はここにいた。
「やめろ、アンドリュー。やめるんだ。いまならばまだ間に合う」
「アンドレオだ。すまないが、お役には立てそうにないな」
「…………本当にそれでいいのだな」
「ああ。これでいい。これがいい。俺はこの時をずっと待っていた」
「貴様が何を考えているかはわからんが、ウィザードの意地にかけて、貴様を止めるぞ」
ごう、とウルカヌスの体から熱気が沸き立った。
魔術として形になる前の、ただまとっているだけの魔力が、すでにして熱と勢いとを孕んでいた。
吹きすさぶ風と冷気の中で、隣に立つ紙月が思わず額に汗を流すほどの熱量が瞬時に生成されていた。
ウルカヌスとて、なにも呑気にハイキング気分で登山してきたわけではない。アンドレオの行動を察して後を追い始めた時から、準備はすでに整えていたのだ。
臨戦態勢のウルカヌスを見下ろして、アンドレオはけだるげに首筋をなでた。
「俺はコミックの悪役じゃない。来るのがわかっていて何もせずに待ち構えていると思ったのか? 三十五分前にすでに起動済みだ」
「…………は?」
「分散保管していた
MAEVのコクピットに潜り込むアンドレオ。そして奇妙な駆動音とともに振動を始める後背部の装甲コンテナ。
──みしり、と。
空気の凍る音がした。
途端、いままで抑えていた
「ぐっ……! 野郎、《
その暴風に吹き飛ばれそうになりながらも、とっさに手を伸ばした未来につかまれ、こらえる紙月。
そして最速の魔法、まさしく光の速さで放たれる熱光線によって攻撃を試みたが、光はMAEVに到達する前に奇妙に屈折し、散乱し、あらぬ方向へと飛んでいく。
いままでどんな強敵さえも両断してきた必殺の一撃は、届きさえもしなかったのである。
なにか、薄ら青い
「な、なんだ!?」
「まさか、空気そのものが凍り付いているというのか!?
ウルカヌスの驚愕をよそに、MAEVを中心にさらに冷気は強くなっていく。
MAEVの装甲を覆うように、大気中のわずかな水分だけでなく、空気そのものが凍り付いて青ざめた氷塊が肥大化していく。
凶悪な低気圧に誘われた上昇気流が激しく吹き上げ、荒れ狂う地吹雪の中で、それはのっそりと立ち上がった。
くろがねの機械巨人を芯として、凍り付いた空気を装甲とする霜の巨人が、一行を見下ろしていた。
用語解説
・「やつらにチゲ鍋を食わせてやろうぜ」
《エンズビル・オンライン》の開発運営が韓国系であったため、メンテなどが長引くとそれは「チゲ鍋を食っているからだ」とジョークが出回っていた。
ここでは自分たちでサーバーを落として、運営がゆっくりチゲ鍋を食えるくらい長いメンテにしてやろうという民度の低い煽り文句。
・絶対零度
摂氏マイナス二三七・一五度とされる、あらゆる分子、原子の運動が停止するとされる温度。温度というものが原子の運動量によって生じるという理屈から考えると、原子が止まっているよりも冷たい、寒いということはあり得ない。
・聖王国の紋章
聖王国の古代遺跡などにもしばしばみられる紋章。
救世主を意味するとされる赤い魚に、人々を支え導くための松葉杖を組み合わせたものとされる。
その周囲には「聖ジョンの恩寵による第六清教徒改革派開拓移民船団」と英語で書かれている。
・空気の氷
空気はいくつかの気体の混合物で、温度が下がれば液体、固体に相を変えていく。
窒素はマイナス二一〇度、二酸化炭素はマイナス五六・六度、酸素はマイナス二一八・四度。青い固体が見えているあたり、酸素が凍る温度まで気温が低下していたのだと思われる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます