第四話 夕餉

前回のあらすじ


頑ななお年寄りVS都会から来た好奇心旺盛な子供。






 未来が何とも言えない微妙な顔で、何やらにぎやかなほうへと歩いていくと、そこには予想通りというべきかなんというべきか、村の若い男女に囲まれた、すらりと背の高いとんがり帽子が見えた。

 百七十ちょっとの紙月は、男性でも百六十くらいが平均の帝国では、結構長身の部類なのである。おまけに雪が積もっているのに厚底ブーツ(ヒールではないから大丈夫という理屈)だし。


「ああ……やっぱり」

「お、未来! ごめんごめん、ちょっと通してね。おーい未来」

「あれ誰?」

「シヅキさんの連れ?」

「えっ子持ち……!?」

「えっ……ち……!?」

「おう、これ俺の連れな」

「えーと、あー……どうも?」


 紙月にわしわしと頭をなでられながら、未来は軽く手を振ってみた。

 若者たちの反応としては、かわいー、と、うらやましー、が大体半々くらいだった。

 かわいいとはなんだ、と未来の中の男の子は思ったりもするが、うらやましがられると妙な優越感は出てくる。


「じゃあ、悪いけどそういうことだから、これで。あんがとねー」

「えー」

「また話聞かせてくださいよー」

「おうおう、またがあったらなー」


 紙月が適当に手を振ると、名残惜しみながらも若者たちは素直に散っていった。

 なにか怪しげな魔術で集めたんじゃなかろうかと疑うくらい、気持ち悪いくらい素直な解散であった。

 まあ彼らも珍しいもの見たさで集まったはいいけれど、それぞれに仕事もあるし言うほど暇でもないというのが本当のところだろうが。


 先ほどまで楽しそうに話していた余韻などまるで残さずさっぱりとした顔で、紙月は未来の荷物を一部もってやり、迎賓館への道をたどり始めた。空いた手を自然に取られるので、未来も手を引かれる形でそれに続く。

 そういうとこだよなあ、そういうとこだよ紙月、とは思いながらも口にはしない。


 代わりに口にしたのは、すねたようなあきれたような響きであった。


「よくまあ、あんなに仲良くなれたね」

「なあに、そんなに難しいことじゃねえよ。笑って、話しかけて、共感して、さ」

「ふむん?」


 紙月は自分の手柄を誇るように、上機嫌で語って見せた。


 まず、世間知らずのお嬢さんが雪に困っているふりをして見せる。これはまあ大体事実なのでそんなに難しくもない。実際、雪道を都会派なブーツで歩くのは難儀する。

 気のいい若者が、まあ下心はあるかもしれないが、寄ってくるので釣り上げる。ああ、ありがとう、本当に困ってたんだ、君はいい人なんだね、すごく助かったよ、本当にありがとう、もしよかったら村の案内をしてくれると嬉しいんだけど、もちろんお礼もするし、なんて具合に。

 そうして声高におしゃべりしながらちょっと歩いていると、見かけたほかの若者が気になってちょっかいをかけてくる。よそ者の紙月一人だったら、話しかけづらいものもあっただろうけど、何しろ村の仲間が一緒に歩いているのだから、声もかけやすい。もちろん、これも釣り上げる。


 そうしたら程よいところで足を止めて、ちょいちょい若者たちをくすぐるようなことを交えながら楽しくおしゃべりしていると、閉塞した村の生活に退屈した若者たちが集まってくる。友達の友達が話しているものだから、と比較的話に入ってきやすいから、これも釣り上げる。

 客層によって話題は変えるが、今回は年齢層がある程度まとまっていたので、俺も先輩にあれこれ言われて困っているんだよねみたいな話題を呼び水に、村の年寄りへの不満などをうまく引き出して悪口で盛り上がっていく。


「ええ? 陰口で盛り上がってたってこと?」

「まあ、いいことじゃないかもしれんが、でもこれ盛り上がるんだよなあ」


 悪口というのは共感を得やすい。同じ境遇にあるのならば同情がわいてくるし、同じ相手への不満や陰口であれば、あんなことがあったこんなことがあったと話も弾む。そうやって連帯感が生まれると、共感は信頼感へと発展し、ちょっと突っ込んだ話でもしやすくなる。なにしろ共犯というのは、強いつながりなのだ。


「これは俺が大学でネズミ講の勧誘に来たやつから得たやり方でな。友達とかにこのからみかたされると断りづらい。それに、高そうな服着たひととか、顔のいいひとが言うだけで、根拠もないのになんでか信じそうになったりする」

「うーわ、うわっ、紙月、自分の顔がいいの自覚してるよね」

「ふーははは、せっかくハイエルフになっちまったんだしな。使えるもんは使うさ。なあに、別に悪いことしてるわけじゃあねえしな。俺は情報が聞き出せる。連中も気持ちよくおしゃべりして楽しめる。ウィンウィンだ」

「うーん、この悪女」

「悪女言うな」


 怪しげな魔術よりもよっぽど邪悪な手法な気もするが、あまり気にしてはいけないのだろう。

 多少いかがわしかろうが、それできっちり情報は得てきているのだから、おじいちゃんたちとだらだらおしゃべりして土産をもらって帰された未来より効率はいい。


「まあ、あんまり核心的なことはわからんかったけど、いろいろためにはなったぜ」

「ふむん?」

氷精晶グラツィクリスタロは冬にしか採れないわけだが、採れる場所ってのもある程度決まってるらしい。キノコとか、山菜みたいにな。だからその場所ってのはお宝のありかってわけで、村の連中でも、知っているのは一部だけなんだとさ」

「まあ、そっか。どこでも採れるんなら、誰かが勝手に採っちゃうもんね」

「うん。それで、氷精晶グラツィクリスタロ採りは、村の中でも、選ばれたやつしかできないんだと。冬の間に山に入っていいのはそいつらだけで、出入りはかなり厳しく見張られてるらしい」

「さっきの人の中にも、いたの?」

「いるにはいたが、落としきれなかったな。場所も、採り方も、だんまりだ。もらしちまったら二度と山に入れてもらえないらしくてな」


 二人きりで、時間さえあったらなあ、などと残念そうにぼやく紙月だったが、未来としてはそんな機会がなくてよかったと胸をなでおろすばかりである。いや実際、二人きりになったらどう落とすつもりだったのかは気になるところであるが。あくまでも、後学のために。


 迎賓館にたどり着き、部屋に荷物を置いたころには、日もすっかり暮れてしまった。

 第二村、第三村はもっと山奥にあり、同じ村内といえどもかなり歩かなければならない。雪かきも最低限だというから、第一村内のようにのんきに歩いて回れるわけではないのだろう。

 得てきた情報を交換し、いろいろと話し合ってもみたが、いまから向かうのは危ないだろうというのは、部屋でのほほんと読書などしていた案内人のウールソも述べるところであった。

 なによりポルティーニョが食事の支度ができたと顔を出したので、否応なしに今日は休むこととなった。

 暖かな食事を楽しんだ後に、寒い屋外になど出たいわけもない。


 食事は、想像していたよりもずっと豪勢で、ずっとうまそうだった。


「おお……!?」

「すっごいねえ……!」

「フムン、これは馳走ですなあ」

「なんだか村の人たちが、シヅキさんとミライ君にって。あたしも張り切っちゃいました」


 雪国の山村、それも容赦なく積もった雪国ともなれば、食材は保存食だろうし、料理も煮物や粥の類でもあれば上等だろうか。そのような考えがあっさりと吹き飛んでしまうような料理がテーブルに所狭しと並べられていた。

 村人たちも、冬の間のとっておきとでもいうべきものを、一つや二つは隠し持っているのである。

 そのささやかな村人のへそくりを、あくまでも当人たちの善意と好意と下心から放出させるのだから、紙月が悪女と言われても仕方のない話である。


 大きなフライパンでケーキのように焼き上げ、切り分けられているのは漬物卵焼ペクリタ・オムレートだ。油で炒めたたくさんの具を鶏卵でとじたものというか、スパニッシュオムレツのような具入りの卵焼きのようなものだ。

 特徴的なのはその具で、鮮やかな赤色を呈しているのは赤蕪ルジャ・ラーポという赤いカブの漬物なのだという。

 この赤蕪ルジャ・ラーポは中身は白いが皮はどぎついくらいに真っ赤で、煮物などにすると煮汁が真っ赤になってしまうほどだ。しかしこれを漬物にするとその赤さが中身にきれいにしみ込んで、鮮やかな色合いになるのだった。


 油をたっぷりと吸った食いごたえのある卵に包まれて、しゃきじゃくとした歯ごたえがうれしい。それに卵の淡白な味わいが、漬物の塩気をきれいに包み込んでバランスが良い。若干の酸味もあるので、油はたっぷりだが、重すぎるということがない。


 また、育ち盛りの未来が大いに喜んだのは、厚切りの牛タンの焼き物であった。

 しかもただ焼いているのではなく、濃厚な味がしっかりとつけられているのである。

 これは、半地下で飼育されている盲目の牛の舌を、胡桃味噌ヌクソ・パースト葡萄酒ヴィーノの酒粕を合わせた特性の酒粕味噌に漬け込んだものだった。こうすることでしっかりとした味がつくだけでなく、驚くほど肉質が柔らかくなるのだった。


 汁物としては、川栄螺リヴェラ・トゥルボ胡桃味噌ヌクソ・パーストで煮たものが供された。料理としてはとてもシンプルで、ごろりごろりとした大き目の巻貝だけが具だったが、これが実にいい出汁を加えていた。

 サザエのようにごつごつした貝殻に細いフォークを差し込み、ぐるりと中身を引き出すのだが、この身もまたこりこりぎゅむぎゅむと顎に心地よい。


 未来が大いに喜んで食べる一方で、ハイエルフという精霊よりの種族ゆえか小食である紙月が喜んだのは、酒とつまみであった。


 秘蔵の一本を譲り受けたというそれは、未来がカンドーより聞かされた氷葡萄酒グラツィ・ヴィーノである。上等なガラス製のグラスに注がれた、とろりとした金色こんじきの液体は、まず香りだけで人を魅惑した。

 まるで新鮮な果実を思わせる鮮烈でさわやかな香り。口に含めば、芳醇な甘みがとろりと広がり、スパイシーで青々とした優雅な香りが鼻に抜けていく。

 それは驚くほどの甘さである。ただ甘ったるいというのではなく、すっきりとして飲みやすく、心地よい酩酊が速やかにめぐりゆく。


 これにあてがわれたつまみは、チーズだった。それもただのチーズではない。ただものではないチーズである。酔いどれ乾酪エブリアフロマージョと呼ばれるそれは、石のように固いチーズを葡萄酒ヴィーノの搾りかすに漬け込んだものなのだという。

 葡萄酒ヴィーノの搾りかすというのは、皮や種のことだが、あまりきつく搾ると雑味も出るので、名前のわりに存外に汁気もあるし、果実も残る。そして果汁と一緒に発酵もさせるから、アルコールも含む。

 この酒粕に漬け込まれたチーズは、葡萄酒ヴィーノの香りと旨味をたっぷり吸いこんで、しっとり柔らかく芳醇な味わいに生まれ変わるのである。

 そのひと切れだけでも酔っぱらってしまいそうなチーズを肴に、極上の氷葡萄酒グラツィ・ヴィーノをするすると飲むのだから、紙月のこぼすため息も、自然艶めいてくるというものだった。


 未来はよく食べ、紙月はよく飲み、そしてウールソはよく食べて飲み、すっかり心地よくなった。


「いやあ、あたしもこんなにいいものを、こんなにたくさん一度に扱うなんてはじめてです」

「あ、やっぱり贅沢なんだ」

「そりゃもう! シヅキさんに貢物だとか、子どもにはいいモノ食べさせろとか、これってとっても意外ですよ。普通のお客さんなら、もっと雑にあしらわれちゃうんですから」

「フムン、感謝しないとね」

「まったくだ。こんなにいい酒を飲ませてくれるんなら、もう少しサービスしてやるんだったな」

「紙月、ほんとそういうとこだよ……」


 こんなにいい食材を頂戴してしまい、しかもまだ余っているという。ポルティーニョと彼女の父にも食べてくれるように申し出ると、少女はいたく感激してにっこりと笑った。


「ええっ、いいんですか!? こんなごちそう、めったに食べられませんよ!」

「俺たちだけじゃあ……いや、このふたりで食い切るかもしれねえけど、ま、宿代もかねてね」


 踊りだしそうなほどに喜ぶ姿は、年相応の少女である。

 しかし彼女も十四で、帝国では成人として認められている年齢である。

 体つきもまだあどけなさは残るものの、子どもから抜け出し始めており、こうして一人前の仕事もこなして見せる。


「ポルティーニョさんは迎賓館の管理してるみたいだけど……お客さん来ないときはどうしてるんですか?」

「ええ? そうですねえ、まあ普通ですよ。管理って言っても、これでたっぷりお賃金が出るってわけでもないですし、普通に村で働いてますよ。畑の世話したり、牛や豚の面倒見たり。よそに手伝いに行ったりもしますし、うちに手伝いに来てもらったりもします」

「ふむん、村での生活ってのはいまいち想像できねえけど……親父さんはなにしてるんだい?」

「おとん、あっ、えっと、父も色々ですね。あ、でもあたしみたいに雑用っていうわけじゃなくて、色々任されてるんです。お山の見回りだったり、害獣を狩ったり、伐採の予定を立てたり」


 ポルティーニョの父、アンドレオは、紙月たちをこの迎賓館に案内してくれた男である。

 本人は自分をよそ者だというが、外部の客を迎える迎賓館を任せられたり、村長直々に用向きを伝えられたりと、村の中でもそれなりに立場があるというか、信頼されている男ではあるようだった。


「今の時期なんかは、氷精晶グラツィクリスタロ採りだって任されてますし、そうそう、雪崩起こしも」

「雪崩起こし?」


 聞きなれない言葉に、一行は首を傾げた。

 言葉の通りであれば、雪崩を、あえて起こすのだろうか。

 それはまた物騒というか、危険なように思われた。

 しかしポルティーニョはこともなげにそうだとうなずいて見せた。


「ブランフロ村は、とても雪崩が多いんです。雪の具合だとか、斜面の具合だとか、そういういろんな条件が重なってるんだそうで。大きな雪崩が起きたら、ここらはともかく、第三村あたりはすっかり飲み込まれてしまうかもしれません。だから、そうならないように、雪が積もる前に、小さな雪崩を起こしておくんです」

「なるほど、力をため込む前に、ちょっとずつ放出させておくんだね」

「突然だから危ないんであって、計画的に起こせば怖くないってことか」

「そうです。でも、うまく雪崩が起こせそうで、被害が出なさそうな時期とか、場所を見極めるのは難しいんです。雪崩の起こし方もそうです。下手に手を出したら、自分が巻き込まれちゃいますから」


 毎年同じような場所で起きるのは確かなのだが、それでも毎年雪の状態というものは違うのだそうだった。雪の湿り気や積もり具合、気圧や木々の生え方、生き物の暮らしさえも微妙にかかわってくるのだという。

 どうしても防ぎきれない雪崩を抑えるために、防風林ならぬ防雪林として馬栗ヒポカシュターノも多く植林されており、雪崩への対策は村の一大事であるようだった。


馬栗ヒポカシュターノの植林も、父がはじめたんです。雪崩で家がつぶれた人たちのことを知って、うまく雪崩をそらすように、木を植えていこうって。馬栗ヒポカシュターノなら、すぐに育つし、丈夫ですし、実もとれる。それに育てば木材にもなりますから」


 アンドレオがどこでそのような知識を得て、どのようにして実地での感覚をつかんだものかは、村の誰も知らなかった。しかし彼の植えた馬栗ヒポカシュターノはすくすくと伸び、村の誰もが期待していなかった中、見事に雪崩をそらして見せたのだという。


 男は流れ者であった。

 どこから来たかも、なんの流れをくむのかもわからぬ放浪者であった。

 馬栗ヒポカシュターノの実を拾い集めていたポルティーニョの母が山中で彼を見つけ、ほとんど拾われるようにして村にやってきたのだそうだった。


 アンドレオは言葉少なく、何事も話したがらなかったが、それでも彼がを追われるようにして旅立ち、そしてもう二度と帰ることはできないのだということはわかった。

 そして、それで十分だった。

 ブランフロ村はよそ者を嫌う、孤立した閉鎖的な村だが、どこへも行く当てのない、帰るところのないものは、その仲間であった。


 村は男を受け入れ、男は村のためによく働いた。

 あるいは、自分を拾い上げた妻のために。そしてやがて生れ落ちる娘のために。


「おかんは、まああたしがずっとちっちゃいころに死んじゃったみたいで、よく知らないんですけど、でもあたしはおかんに似てるみたいです。そうですよね、おとんがあんなだんまりなんですから、おかんがおしゃべりじゃなけりゃああたしは誰に似たんだって話ですよ」


 確かに、言われなかったら血縁とは思わなかったかもしれない、と紙月は少し思った。

 まあでもちょっと面影があるかも、と未来は思う。ちょっとだけ。


「あ、悪い人じゃないんですよ、顔怖いけど」

「怖いよなあ」

「おじいちゃんたちもたいがい顔怖かったけど」

「年取るとみんな顔怖くなるんですかねえ。まあでも、ほんと、悪い人じゃないですよ。身内びいきかもしれないけど。そりゃあ、ほんと顔は怖いですし、不器用ですし、ぶっきらぼうですし、騒がしいの嫌いでいつも一人でいますけど。でも、すごい人なんです。ほんとですよ」

「ポルティーニョさんは、お父さんが大好きなんですね」


 未来がしみじみとそういうと、少女はにっこりと笑ってうなずいた。


「あたし、ほんとはいつか、おとんの仕事を手伝いたいんです。でも、氷精晶グラツィクリスタロ採りは山の中に深く入るし、危ないからって、選ばれた人かいけないんです」

「そうそう、それ。その話、さっきもしててな。俺たちも見に行きたいんだけど」

「うーん、難しいと思います。シヅキさんがいくらお金持ちでも、氷精晶グラツィクリスタロは貴重な収入源なので、よその人には見せられないんです」


 氷葡萄酒グラツィ・ヴィーノをなめながら、軽く話を振ってみた紙月だったが、ここでも答えは変わらなかった。氷精晶グラツィクリスタロ採りに選ばれたものは口が堅いし、そうでないものは本当に何も知らないのだ。

 まあそうでなくてもぽっと出のよそ者にほいほい話すようなことではないのだろうが。なにしろ特産もまだない山奥の寒村の、唯一の輸出品だ。


「そういえば、よそ者と言えば、例のはなんなんだい?」

「ああ、そういえば。観光ってわけでもないだろうし」


 お客さんというのは、紙月の軽妙な営業スマイルをばっさり切り捨ててそそくさと去って行ってしまった謎の人物である。フードをすっぽりかぶって顔まで隠した、どこに出しても恥ずかしくない不審人物である。


「さあ、よくはわからないんですけど、悪い人ではない、かもです。ご飯も残さないし、部屋もきれいに使ってくれますし」

「うーん、判断基準」

「それに、父の古い知り合いみたいなんです。でも村の人も知らないみたいだから、多分その、父のから来たんじゃないかって、みんな噂してました」

「噂、ねえ」


 娯楽のない閉鎖環境の中で湧いた噂だから、信憑性は低そうだが、しかし理屈としてはそうなるのだろう。少なくとも、村に来る前に知り合った何者かということになる。

 しかし村の人間と交流するでもないどころか、ほとんど口も利かないし、顔も見せないので、ますます怪しい。手間がかからないという意味でポルティーニョは高く評価しているようだが。


「ただ、前におとんと喧嘩してたみたいで」

「喧嘩?」

「ええ、はい、夜中に目が覚めちゃって、用を足しに行ったら、おとんの部屋からなんだか言い争うような声がしたんです。盗み聞きするのもはしたないし、二人ともおっかない声だったんですぐ離れたんですけど、なんだか、おとんに何か求めてて、おとんはそれを断ってるみたいでしたね」


 ミステリであればその後どちらかが被害者か容疑者になってそうな話であるが、こちらもあまり情報ははっきりせず、ただただ謎が深まるばかりであった。

 こうなるともう、いくら話を重ねてみたところで、答えは見えてきそうにない。

 それになにより、口当たりのいい酒をするする飲んでいた紙月が、いつのまにやら酔いつぶれていたために、どちらにせよ話はここで終わりだった。


「うむ、飲みやすいが強い酒でしたからな、致し方なし。拙僧が部屋まで運び申そう」

「あ、いえ、大丈夫です。僕が運ぶので」

「フムン? しかし……」

「僕の相棒ですから」

「ははあ……いや、いや、野暮なことを申し上げた。許されよ」


 ほら紙月またタコみたいにぐにゃんぐにゃんになって、なんよぉ俺は酔っないぞぉう、酔っぱらいはみんなそういうんだからほら暴れないで、言い合う声が食堂から離れていく。

 小さな体でしっかりと相棒を抱き上げたその背中を、武僧ウールソはひげをしごきながら見送った。


「男の子ですなあ」







用語解説


漬物卵焼ペクリタ・オムレート(peklita omleto)

 漬物を炒めて調味し、たっぷりの溶き卵でとじ、フライパンでじっくり焼き上げたもの。

 漬物の種類や、調味料、また上に何を振りかけるかなど、ご家庭ごとに一家言あるようだ。

 なお、西部では鶏卵と言えば大嘴鶏ココチェヴァーロの卵だが、北部では大嘴鶏ココチェヴァーロは一般的ではなく、小さな、というか普通のサイズのいわゆる鶏の卵が使用されている。


赤蕪ルジャ・ラーポ(ruĝa rapo)

 アカカブ。カブの仲間。

 皮は真っ赤だが中身は白い。

 色鮮やかであるため祝い事の料理にも用いられるほか、普段から保存食の漬物にも広く用いられる。


胡桃味噌ヌクソ・パースト(nukso pasto)

 胡桃を砕いて練り、塩などを加えて発酵させた食品・調味料。甘味とコクがあり、脂質も豊富で北国では重要なエネルギー源でもある。



川栄螺リヴェラ・トゥルボ(rivera turbo)

 カワサザエ。川や沼沢地で採れる巻貝の総称。

 実際にはサザエでもなんでもなく、田螺マルチャ・ヘリコ(marĉa heliko)つまりタニシなどをこのように呼んでいるだけである。

 しかもこの晩に供された巻貝はそのタニシですらなく、髭林檎貝バルバポマ・ヘリコ(barba poma heliko)というジャンボタニシめいた全然別の巻貝であった。


酔いどれ乾酪エブリアフロマージョ(ebria fromaĝo)

 葡萄酒ヴィーノの搾りかすである皮や種に漬け込んだ乾酪フロマージョ

 葡萄酒ヴィーノを作る際にこの搾りかすも一緒に発酵しているため、漬け込まれたチーズももれなく酒精を含む。

 この工程でかたいチーズは柔らかくなり、葡萄の甘くさわやかな香りや甘さがしみこむのだとか。

 産地以外だとお高い。

 そして葡萄酒ヴィーノ乾酪フロマージョ生産を同時にやっている産地でないとやってないし、そういう土地でも必ずしもやってるわけではない。


・豚

 なおこのふたりはまだこの世界の豚を目撃したことがない。

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